Grim Reaper - friend
窓の外は暗く沈み、白い雪が音もなく落ちていた。
「柏木さ」
教室を出ようとした柏木秀樹は、クラスメイトに呼び止められた。
「もうすぐ期末試験だけど、勉強してるか?」
隣の席の春日部だった。親しい間柄ではないが、席が近いこともあって、雑談くらいはする関係だ。友達と呼べる人間は、クラスにも学校にもいない。
「少しはね」
曖昧に答えた。本当は、授業中に教科書を眺めるくらいだ。家に帰って勉強するほど、熱心な学生生活を送っていない。学校の勉強は、それくらいでなんとかなる。
「そっか。お前、頭いいもんな」
秀樹は下を向いた。他人と向かい合うのは苦手だった。話すのが嫌いなのではなく、他人の顔を見ていられない。人の顔が怖い。
「俺もお前くらい頭がよければな」
春日部はため息を吐いて、頭を垂れた。
「ちょっと、あんたたち」
二人の会話を耳にした柴田が割り込んできた。春日部の前の席の女子生徒だった。
「ウジウジ勉強の話なんかしてないでさ。スポーツでもしたら? 辛気くさいわよ」
彼女はスポーツバックを手にしていた。これから部活なのだろう。
「そんなこと言ってもよ。再来週から期末だぜ。部活ばっかりやってられねえだろ」
春日部は野球部に所属していたが、すでに引退していた。あと数ヶ月で、高校も三年生になる。勉学に重心を置くのも当然だった。
「男なら、すっぱり諦めなさい!」
柴田は春日部の肩を叩いて、教室を出ていった。
「諦めちゃダメだろ」
春日部は微妙な笑いで、秀樹に同意を求めた。
「諦めか」
顔を上げた秀樹の目に、幻が映っていた。春日部の顔に浮かび上がった幻は、目をこすっても消えない。長い針と短い針が円の軌跡をなぞる時計だ。
他人の顔に時計が見えると気づいたのは、物心ついてからだった。害はない。だが、見ていたくはなかった。時が刻まれる光景は、どうしてか不安をかき立てるのだ。
幻が見えてしまうことは、諦めるべきだろうか。消えることなく見え続けるものが、幻であるはずがないとわかっていても。諦めて受け入れるしかないのか。
「おい、諦めるなよ」
春日部は何を言っているんだという顔をした。
「まだ、高二の冬だぞ。諦めんな。早すぎるぞ」
「そうだね」
秀樹の心の中は、春日部にはわからないだろう。理解されることも、決してない。
「そうだ。柏木、俺に数学教えてくれないか」
「え」
秀樹は事の成り行きに戸惑った。自分が教える?
「頭がいい奴は、教えるのもうまいはずだろ。人助けだと思ってさ」
「僕が? 無理だよ」
秀樹は首を振った。どうしたらいいか、まったくわからなかった。
「そんなこと言わずにさ」
教科書を読めば、いいのではないか。例題のとおりやれば、答えはすぐに出るはずだ。誰かに教えてもらう必要はない。
「友達だろ」
「友達?」
秀樹の心は過敏に反応した。
「あ? 友達……だよな?」
春日部は驚いた顔をしていた。
「あ、うん」
秀樹は春日部の浅黒い顔を見た。友達と言ってくれた相手をあらためて見た。彼の顔には、時計の針が時を刻んでいた。長針と短針が追いかけっこをしていた。
「数学だけでいいからさ」
「わかったよ」
「よし、やった。じゃあ、早速頼む」
春日部が席に座って教科書を広げた。秀樹も腰を下ろした。
友達。
そんなふうに呼ばれたのは、いつ以来だろう。中学か、小学校かもしれない。
物心ついてから、他人との距離はどうしても離れていた。顔を見れば、時計の動きが目に入ってしまう。だから、見ない。顔を見ない人間は、ただ、いるだけの存在だった。友達になろうという子供はいなかった。
秀樹は雪景色を映す窓を見た。自分の顔が映っていた。見慣れた顔には、時計の針がなかった。春日部にも、柴田にもあるのに、自分にはなかった。
「聞いているか、柏木」
「ごめん」
ぼうっとしていたようだ。秀樹は自分の教科書を取り出して、春日部と同じページを開いた。重要なところはマーカーで印がついていた。ぎこちなく、説明を始めた。
「お前、もうちょっと教えるのがうまいと思ったんだけどな」
春日部は傘を揺らした。雪の固まりが滑り落ちた。
「勉強ができるのと、教えるのとは違うんだな」
「ごめん」
釈然としないまま謝った。春日部の理解力が乏しいのではないか、とは言えなかった。友達には、言わないでおくべきだろう。
「まあ、いいよ。明日にはもっとうまくなってるだろうしさ」
何か違うような気もしたが、口には出さなかった。
「あれ?」
体育館のほうで、大声が聞こえた。
「何かあったのか」
雪を踏みしめて歩き出した春日部の後ろを、秀樹は慎重についていった。
「どうした」
体育館を覗くと、バレーボール部が部活動をしていた。コートの中で何人かが集まっている。
「保健室、行ってくる!」
ジャージ姿の女子生徒が体育館を飛び出していった。
「誰か倒れている」
秀樹が言うと、春日部は靴を脱ぎ捨てた。秀樹も冷たい床を踏んだ。
「柴田?」
足首を押さえて痛みをこらえているのは、クラスメイトの柴田だった。
「あわわ、どうしよう」
バレー部の顧問があわてふためいていた。。
他のバレー部員が「大丈夫?」「痛くない?」と泣きそうな顔で話しかけているが、柴田はぼろぼろと涙を流して呻いていた。
「先生、救急車!」
春日部が怒鳴り、柴田に駆け寄った。運動部に所属していただけに、一目で怪我の状態がわかったようだ。
「救急車? そんな大ごと? 保健室じゃだめかな」
四十すぎの男が小さな声で呟いた。
「電話する」
秀樹は携帯電話を開いた。
「おい、柴田! 気合い入れて我慢しろ!」
春日部が大声で怒鳴っていた。彼女の足首が嫌な方向に曲がっていた。
数日振りに学校に出てきた柴田は、松葉杖をついていた。明るかった表情が消え失せていた。
秀樹は、普段は他人に目を向けないようにしていたが、クラスメイトの変化はさすがに気になった。彼女は、終始下を向いていた。いつもの秀樹のようだった。
「柴田さん、次の大会は出られないらしいよ」
「優勝確実だったんでしょ」
教室の隅の会話が聞こえた。バレー部の中心として、部活動に励んでいた柴田の存在はかなり大きかったようだ。柴田を欠いたバレー部は、一回戦突破も難しいらしい。
柴田はギプスで固められた足を投げ出し、ふさぎ込んでいる様子だった。完治まで一ヶ月はかかるとのことだった。実質、最後の大会に出られないことになる。部活をやっていない秀樹から見ても、悔しいだろうということはわかった。
授業が始まっても、柴田は静かだった。顔をあげたのは、下校時に女友達が一緒に帰ろうと近づいて来たときだけだった。
その顔も、どこか無理しているようだった。
「あ」
「どうした、柏木」
春日部が教科書から顔をあげた。授業が終わっても、復習していたようだ。実は努力家なのかもしれない。
「なんでもない」
柴田の横顔から目を逸らした。時計の針がおかしかった。針の動きが異常に遅かったのだ。今まで、そんな現象を目にしたことはなかった。みんながみんな、同じ時を刻むはずの時計がずれることなどあるのだろうか。
まさか。
秀樹は自分にはない時計の針を撫でた。
機械式の時計では、電池が切れかかると動きが遅れる。そして――止まる。
人間の電池とは何か。命ではないのか。
「お前、顔色悪いぞ」
動悸が激しかった。
駅を出た柴田の後を、秀樹と春日部はついていった。
「ストーカーだな」
春日部の冗談交じりの発言も、秀樹には届かなかった。
「ごめん、少し黙って」
「お、おう」
切迫した秀樹の声に、春日部は押し黙った。普段からは想像できないほど、真剣で他を寄せ付けない表情だった。
秀樹は耳を澄ました。
一秒、一秒、刻まれる秒針の音。それは、春日部から聞こえる。歩いている通行人から聞こえる。そして、それに遅れるようにして、ゆっくりと間隔をあけた音が、柴田から聞こえた。
雪はやんでいた。足元の雪はうっすらと積もり、足跡を残していた。柴田の小さな足跡と松葉杖の跡を踏みしめた。
「おい、あいつの家、あっちじゃないぞ」
春日部が小さく言った。秀樹はちらりと春日部の顔を見た。一瞬目があったが、二人ともすぐに逸らした。
高台の公園に向かった。急な階段を一段ずつ上っていった。後を追う二人は、上を見ないように下を向いていた。
「どうしたんだ」
春日部は階段の残りを急ぎ足で上った。姿が見えなくなるのが怖かったのだ。秀樹も同じだった。ただ、秒針の音が聞こえていただけ、マシだったのかもしれない。いや、聞こえていたからこそ、不安が強くなった。だから、階段を上りきると、ためらわず声を掛けた。
「柴田さん」
深い雪面をかき分け、秀樹は近づいていった。春日部も遅れずに続いた。
「なに」
驚いた顔をして欲しかった。ストーカーとでも言って欲しかった。だが、彼女の表情は極端に色が薄かった。
「足は、治るよ。ここまで上ってこれたんだ。すぐに良くなる」
秀樹は少し視線を下げたまま顔だけを向けた。
「おう、そうだぜ。諦めなければ、大会に間に合うかもしれないぜ」
春日部も励ました。
「ありがと。でも、もうだめなの。最後の試合だったのに、怪我しちゃった」
みんなに申し訳ない。これしか取り柄がないのに、足を引っ張ってしまった。
「死んでどうするの?」
秀樹の顔が上がった。人間の顔があった。見たくない時計が見えた。風が吹いて雪の粉が舞った。
「死ぬ?」
春日部は、突拍子もない単語を聞いて、驚いていた。
「自殺はだめだ」
自分を殺す。自分で自分の時間を止めることだ。
「あ、自殺?」
春日部は柴田の顔を見た。下を向いていた。秀樹を振り返った。前を見ていた。
「マジか」
「来ないで」
慌てて駆け寄ろうとした春日部は転倒し、雪に埋もれた。
「バカヤロウ、自殺なんかしたら、殴るぞ」
「どうしても死にたいなら、止めないよ」
秀樹の冷たい言葉に、柴田の顔が上がった。春日部の目が睨み付けた。
「僕が殺してあげるよ」
飛び起きた春日部の拳が、秀樹の頬を殴った。
「てめえ、何言ってやがる! 殺すとか、そんなこと言うな!」
「自殺は……だめなんだ。だから、僕が、殺す」
二発目の拳が秀樹を黙らせた。
「ちょっと、やめてよ!」
柴田が松葉杖で春日部を叩いた。コートが雪まみれだった。一度転んでいた。
「あんたたち、なんなの。……いたた」
呆れた表情で、柴田はへたり込んだ。足を酷使したため、痛みがぶり返していた。
「おい、大丈夫か」
「柏木のほうが酷いよ。やだ、血が出てる」
柴田はハンカチを取りだした。
「僕は大丈夫」
秀樹はじっと柴田の顔を見た。そして、いくらかほっとした。音も確かだった。一秒の刻みが戻っていた。
「柴田さん、死ぬ気が失せた?」
「え?」
柴田は目を見開いた。春日部も柴田の顔を見た。
「お前、わざと?」
自分の殻に閉じこもってしまった柴田の注意を引くため、無神経なことを言ったのか。それを聞いた春日部を怒らせ、殴らせた。彼女の気を逸らすには十分な出来事だった。
秀樹は下を向いていた。
「頭がいいヤツの考えることってのは」
春日部は嘆息して、秀樹に手を差し出した。
「柴田、もう死ぬなんて言うなよ。これ以上殴ったら、こいつ死んじまうから」
「言わないよ」
柴田はかすかに笑った。男同士の暑苦しい喧嘩なんて見たくもなかった。怪我人が出るのは嫌だった。
「柏木も無茶だぜ。まともにくらいやがって」
「殴られるとは思わなかった」
頬がずきずき痛んだ。口の中に血の味が広がっていた。
「策士、策に溺れるだな」
「そんな科白、春日部らしくない」
二人の会話を聞きながら、秀樹は胸をなで下ろした。人を殺さなくてすんだ。秀樹は策でも何でもなく、柴田が自殺をやめないのなら、本当に殺そうと考えていた。
説得できる自信はなかった。できないのなら、せめて自殺を食い止めたかった。
自殺をすれば、地獄に堕ちる。
そう言われている。人が不幸になるのは、避けたかった。だから、殺せばいい。自分が殺せば、自殺ではなくなる。
人間を殺す方法は知っていた。殺したこともある。
あと何人殺しても同じだ。
「帰ろうぜ」
春日部が明るい声を上げた。
「下りること、考えてなかった。春日部、おんぶして」
「ええっ!?」
顔を赤らめた春日部の肩に、柴田は手を掛けた。彼の狼狽は知らない。
もう、大丈夫のようだ。死神の出番はなくなった。
秀樹は唇についた血を拭った。
秒針の音がふたつだけ重なっていた。