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HAPPY CLOVER  作者: 北館由麻
学園祭に恋して
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 考えてみれば、クラスメイトから相談を受けるなんて初めてのことだった。


 しかもそれが恋愛に関する相談で、なんていうか、えっと、大人? …そう、大人な悩みで、私のお子様な脳みそは、まずその事態を把握することから困難をきわめた。




「それが……来ないんだよね」


 図書室の隅っこまで行って、高梨さんはため息混じりにそのセリフを口にした。


「来ない? ……えっと、何のことでしょう?」


 今思えば、このときの私は何もわかっていなかった。


 高梨さんは息を吸い込んで、それから泣きそうな顔をした。


「アレが、来ないの。毎月来る、アレ……」


「…………!」


 ――毎月のアレと言えば、あの非常に不愉快な一週間のこと!?


 私は目をパチパチさせながら高梨さんを見ていた。


 彼女は沈痛な面持ちで深い深いため息をついて、それからゆっくり瞬きをした。その様子があまりにも艶っぽくて、何だか高梨さんが大人の女性に見えた。


「私ね、始まったときからものすごく規則正しかったんだ。今まで28日から30日の間で、ピッタリ正確だったの。それがもう35日目。……って言っても、実は前回いつ始まったか、ちょっと自信がないんだけど」


「それじゃあ、もしかしたらまだ30日経ってないかもしれないんじゃ?」


「……いや、いくらなんでも30日は過ぎてると思う。どうしよう、こんなこと初めてで、親には言えないし……」


 それはそうだろう。私なんか些細なことでも親に言い出すのをためらってしまう。もし「生理が来ない」なんて言った日には天地がひっくり返るかもしれない。


 ――あれ? でも……。


「あの、お腹が痛いとか、前兆みたいなものはないんですか?」


「うーん。それがお腹は痛いような気がするんだけど、なんかね、気になって調べたら、もし失敗していてもアレが来る前みたいな腹痛がある人もいるって」


 ――し、失敗!?


 こういうとき、どういう顔をすればいいのか。世間知らずの私は真顔で考え込んだ。


 つまり、高梨さんと彼氏である堀内くんの関係は、私と清水くんとは違う……という理解でいいのだろうか。


「あ、あの……ごめんなさい。私、そういうこと、よくわからなくて……」


 言いながら無力感に襲われるが、正直なところ私には高梨さんがどういう状況にいるのか、そしてどういう心情なのか、想像すらできないような立場だった。


 それでも高梨さんは少し微笑んで首を横に振った。


「私のほうこそ、いきなりごめん。困るよね、こんなこと言われても」


「いいえ!」


 私は必死に否定した。高梨さんが本気で悩み、困っていることはよくわかる。だけどその悩みが真剣で深刻なぶん、いい加減なことは言えない。


 高梨さんのため息が聞こえてきた。


「いや、こういうとき清水くんは頼りになりそうな気がする。私ね、堀内のことはすごく好きなんだけど、いまいち信用できないというか……」


 ――こ、こういうとき……って、どういう……!?


 ドキドキしながら高梨さんの言葉を脳内で反芻はんすうしていると、突然私の脳裏に疑問がわいた。


「あれ、前に聞いた高梨さんの好きなタイプって『マッチョ系』で『熊みたいに身体の大きい人』じゃなかった?」


「ああ、あれね」


 高梨さんはクスッと笑った。その笑顔も儚くて、私の胸がズキッと痛んだ。


「うん。まぁ、マッチョも嫌いじゃないよ。でも……照れ隠しだったかも。けど、高橋さんも同じでしょ」


「え、あっ……えーっと」


「清水くんみたいな人は苦手、ってウソだもん」


 そうだ。そんなことを高梨さんに訊かれて、勢いで肯定してしまったのだ。でも苦手というのはあながちウソでもない。


「苦手だなと思う気持ちは今もどこかにありますよ。私には理解できないことばかりだし」


「でもね、清水くんはすごく高橋さんのことを考えていると思う。堀内も、もうちょっと……いや、アイツはあれで精一杯なのかなって思うから、あんまり高望みはしちゃいけないんだよね、きっと」


 最後はほとんど独り言だった。自分に言い聞かせるように、高梨さんは頷きながら堀内くんへの想いを吐露していた。


 ――なんか……本当に大人だな。


 清水くんがどんなふうに私のことを考えてくれているのかなんて、今まで考えたこともなかった。高梨さんは堀内くんのことを客観的に分析して、それでも彼を許しているのだからすごい。少し感動してしまった。


 私は高梨さんと話をしたこの数分間に、「付き合う」ということの意味を根底から問いただされているような気分になってしまった。


 


 そして翌日の私はとてつもなく重大な任務を遂行するため、ガチガチに緊張していた。


 隣の席の清水くんは、そんな私の顔を時折覗き込んできては「大丈夫?」というように目で問う。そのたびに私は隣をキッと睨み返し、自分の心に「絶対にやってやるぞ!」と発破をかけた。


 とにかくあんな高梨さんを放っておくわけにはいかない。


 授業中、こっそり堀内くんを盗み見る。何度見ても頼りがいを感じにくい外見だ。あれで制服の下が筋肉質だったらびっくりだなと思う。でも明らかに薄い胸板からはその可能性は低いと簡単に予想された。


 堀内くんの隣では、高梨さんが今日も青白い顔をしていた。悩みを私に打ち明けたことで少しでも心が軽くなっていたらいいのだけど、実際は何の慰めにもなっていなかっただろう。


 私がほんのちょっとでも高梨さんの気持ちを理解してあげられたらよかったのに。


 でも昨日の私はただ驚いていただけ。未知の世界は想像することすら難しい。




 ――やはり綾香先生に助言を求めよう。もうそれしかない!




 こういうことは経験者に聞くのが一番いいに決まっている。……って、勝手に綾香先生を経験者と決めつけるのはどうかと思うけど、私よりは恋愛経験は豊富に違いない。


 昼休み、いつもはのんびり食べる母の手作り弁当を味わう暇もなく胃に詰め込んだ。


 ――いざ、出陣!


 気合を入れて立ち上がる。清水くんはパンを買いに行ったのか、教室内に姿が見当たらなかった。


 教育実習生の控室は家庭科室と聞いていた。目指す家庭科室は1階。学食の隣だ。私ははやる心を必死に抑え、階段を駆け下りた。


 家庭科室のドアは全開だった。私は何気なくチラッと覗きながら通り過ぎる。


 ――あれ、綾香先生らしき人影が見えないぞ?


 もしかして学食で食べているのだろうか。私は廊下の端まで行って、また引き返してきた。


 そこに突然綾香先生が出現した。


 階段を軽やかに下りてきたようだ。そして一度家庭科室に入り、すぐにまた廊下に出てきた。


 ――ちょっと待ってください! どこへ行くんですか!?


 当然のことだけど、私の心の叫びは聞こえるはずもなく、無情にも綾香先生は私に背を向けて学食のほうへ進んで行った。


「あ、あれー!?」


 学食の前で気の抜けた綾香先生の声がする。


 私は廊下の途中で立ち止まった。可憐な容姿に似合わないポーズをした先生に釘付けになってしまったのだ。


「え、なんで開かないの!?」


 学食のドアが開かないらしい。綾香先生は腕を広げてドアに張り付くような姿勢で「フン!」と力を込めた。見ている私まで手に汗を握る光景だ。


 しかし強情なドアはびくともしなかった。




「先生、何やってんの?」




 男子の声で綾香先生は振り向いた。そして親しげに微笑む。私の心がドキンと跳ねた。


「ドアが開かないの。なんで?」


「こっちは開かないんだよ」


 ガラガラと音を立てて反対側のドアがいとも簡単に開く。


 そしてドアを開けた男子は「どうぞ」とばかりに手のひらを上に向けて先生を中へ促した。流れるような優美でうやうやしい動作に私は思わず見入ってしまう。


「うわー! ありがとう。初めて知ったよ」


「……ていうか、先生、お昼は学食で食べるの?」


「違う。お弁当持ってきたんだけど箸が入ってなかったんだー! だから割り箸もらいに来ちゃった」


「へぇ。つーか、先生の『よっこらしょ』みたいな格好、見たくないけど」


「じゃあもっと早く教えてよ」


「そんな無茶言わないでよ。俺も今、通りかかったんだし」


 私は廊下に点在する凸型の柱の影に身を隠していた。だけど気になってチラチラと首を伸ばして学食前の様子を探る。


「ありがとう、清水くん」


「どういたしまして。授業頑張って」


 綾香先生が嬉しそうに笑ったのが柱の影からでもよく見えた。そして清水くんの足音が階段のほうへ消える。


 私は綾香先生が家庭科室へ戻ってくる前に回れ右をして、とぼとぼと廊下を進んだ。これからお弁当を食べる先生の邪魔はできない。それにあんな光景を見た直後に、いくらクラスメイトの話とはいえ恋愛相談なんかできそうになかった。


 急に胃の辺りがムカムカしてきた。弁当を急いで食べたのが敗因か。


 普段、人通りが少ないほうの階段をゆっくり上がった。教室に戻るのも気が重い。


 なんだろう、この惨めな気持ち。


 高梨さんが泣きながらトイレに駆け込んできたのも、今ならわかる気がする。


 だって、私も泣きたいような気分の一歩手前だったから――。






 それにしてもどうして二人はあんなに仲が良くみえるのだろう。


 午後の授業中、私の目は先生と黒板を往復しているが、頭の中にはこの命題が居座っていて、先生の話はまるで耳に入ってこなかった。


 ――私の知る限り、清水くんと綾香先生は今回が初対面なのに……。


 もしかしたら以前から知り合いなのではないかと、まず疑ってみる。しかし昨日の昼休み、清水くんは綾香先生のことを突き放した感じで語っていたから、きっと違う。


 ――ということは、綾香先生といきなり仲良しになっちゃったってこと!?


 この案はできれば捨ててしまいたいけど、どうもこの線が濃厚だ。私は弁当を早食いしたせいか胸焼けを覚えて、机に突っ伏したいのをギリギリのところでこらえていた。


 ――嫌だな。ムカムカする。


 胸焼けの原因が弁当ではないことくらい、本当はわかっている。でもそれを認めるわけにはいかない。認めたら負けてしまうような気がするから。


 ――負ける? 何に?


 それがよくわからなかった。


 綾香先生には最初から何もかも負けているのだ。張り合ったところで勝てるわけがない。彼女は私のような凡人とは違う特別な人なのだ。


 ――だけど……。


 私の腹の中でむくっと何かが起き上がった。


 ――私は清水くんの彼女だよ? 誰が何を言おうとこれが事実。どうして私が惨めにならなきゃいけないの?


 確かにそれは事実なのだが、二人が親しげに話す光景が私の心に致命的な敗北感を植えつけたのも事実だった。


 しばらく思考を停止させた。ぼんやり黒板を眺めてみる。




 事実は二つ――。




 私と清水くんは付き合っているということ。これは現在進行形。


 もう一つは、清水くんと綾香先生は出会ったばかりなのに、二人の間には誰も入り込めそうにない親密さがあるということ。




 つまり私は清水くんと綾香先生の仲のよさに激しく嫉妬しているのだろう。認めたくはないが、さすがの私も、もやもやとムカムカとズーンの三重奏には耐えがたくなってきた。


 ――きっと綾香先生はさっきの会話なんか何とも思っていないよ。


 そして隣の清水くんもそうだ。彼にとってあんな出来事は取るに足らないこと。


 意識しているのは、柱の影から覗き見していた私だけ。


 しかし一度湧き出てきた醜い気持ちは、心の中にのさばっていて消える気配はない。


 昨日の高梨さんもこんな気持ちだったのだろうか。いや、たぶんもっと辛かったよね。堀内くんはそれをどう思っているんだろう?


 何気なく清水くんの顔を見る。


 彼は私が板書をノートに書き写さないことを訝しんでいるようだ。私は慌ててシャープペンシルを握った。でもノートに一生懸命書写することが無意味に思える。勉強なんか毎日の生活では何の役にも立たない気さえしてくる。


 ――それは違うよ。


 私の脳内に冷静な声が響く。


 ――だけど教科書は恋愛のことなんか何にも教えてくれないでしょ。


 反対側から大声で反論が巻き起こった。


 すると私の中の冷静な人格が沈黙してしまったようだ。


 やっぱり真面目に勉強なんかしたところで、日々の生活力には直結しないんじゃないだろうか。つまり時間の無駄。




 ――ねぇ、高橋舞。本当にそれでいいと思う?




 ため息が漏れた。


 一生懸命勉強したところで、対人関係を上手くこなせるようになるわけじゃない。それでもなぜか勉強はしたほうがいいような気がする。


 ――そりゃ、できないよりはできたほうがいい。


 消極的な意見だけど、そこで私の脳内は落ち着いたようだ。なんかこう、冷静な人格の上から目線に負けたような気もするけど、気分はそれほど悪くない。


 板書を急いで書き写しながら、私は決心した。




 ――放課後、もう一度綾香先生のところに行こう!




 私の憧れの大学に通っているくらい人だから、彼女は何かを乗り越えて行ったのだと思う。田中くん情報によると、綾香先生も恋愛面ではいろいろと苦労しているようだし。


 それに二人の仲をぐずぐずと嫉妬している自分自身がとても嫌だった。「二人の仲」なんて大げさに考えること自体がバカバカしいのに、何が何でもそこに執着してしまう私がいる。


 ――これも恋の成せるわざ? ……にしては、陰湿で嫌な感情だな。


 よく恋を「甘酸っぱい」なんて言うけど、私の胸の内側は全然「甘」くなくて、ただ「酸っぱい」だけ。こんな状態で勉強に身が入るわけがない。




 ――よし、綾香先生に突撃して、もやもやムカムカズーン三重奏を吹っ飛ばしてもらおう!




 ものすごく他力本願な考えではあるけれども、そう考えただけでも少しすっきりするから不思議だ。


 綾香先生はきっと普通の人とは違う。そんな自分勝手な思い込みもあった。だってあの美人オーラは絶対タダモノではないですから!


 脳はフル活動していたにもかかわらず、先生の話はほとんど頭に入らないまま、この日の授業は終了した。






 家庭科室のドアは常に開放されているらしい。


 私は思い切ってその戸口に立った。


 室内では教育実習生たちが歓談したり、日誌に向き合っていたり、それぞれがのびのびと実習に取り組んでいる様子が窺える。職員室に比べるとここは格段に居心地がよさそうだ。


 そして室内を見渡していた私の目に、女子生徒の人だかりが飛び込んできた。


「わっ、もしかしてあれ、タニーのファンの女子たち?」


「タニーって! 酒井さん、面白すぎ!」


「ていうか、この状況に軽くジェラシー。いや、この場合どちらに嫉妬しているのかよくわかんないけど」


「ん? ……ってことは酒井さかいさん、谷口たにぐち先生みたいなイケメンが好きなの?」


「うーん、わからん。カッコいいのは認めるけど。でもやっぱり生徒にモッテモテなのが許せないっていうか。それを言うならアンタもだ、アヤピー」


 私の背後でそんな会話が繰り広げられ、振り返ることもできないでいると、ポンと肩を叩かれた。家庭科室の入り口で直立不動の私に、綾香先生は「高橋さん、だよね?」と声を掛けてきた。


「は、はい!」


 綾香先生の隣には、真面目を絵に描いたような地味な装いの教育実習生の姿があった。見た感じ、綾香先生より少し年上のような印象を受ける。


 しかし、酒井先生と言ったか。この人……まるで私の数年後のようだ。髪型もちょっと似ているし、何よりメガネ! この服装でこの髪型でこのメガネは、正直に言って全然イケてない。


 ――と、自分を棚に上げて「イケてない」とか偉そうなことを言っている場合じゃなかった。


 地味なくせに辛口な酒井先生は綾香先生に「モッテモテ」と一言だけ言い残して自席に向かう。


 綾香先生は酒井先生の背中を苦笑しながら見送ると、「どうしたの?」と私の顔を覗きこんできた。美人が目の前にいるというだけで私の心臓はドキドキする。緊張しながら覚悟を決めて言った。


「あの、ちょっとご相談したいことが」


「いいよ。……誰もいないところのほうがいいかな?」


 先生は私の様子から敏感に何かを察知したらしい。返事をしないうちに「こっちに来て」と家庭科準備室と書かれたドアのほうへ歩き出した。


 準備室には比較的新型のミシンが数台置いてあった。他には埃をかぶった古いトルソーが立ちはだかっていたり、色あせた型紙が無造作に広げられていたり……。


 この無法地帯を目の当たりにして綾香先生は一瞬その美しい顔を歪めたが、すぐに気を取り直して部屋の奥まで進んで行った。私もその後をついて行く。


「まぁ、あまり綺麗なところじゃないけど、内緒話にはもってこいの部屋だね」


「……そうですね」


 綾香先生は窓に背中を預けて腕組みをした。それが私には「どこからでもかかってこい」の合図に見える。


「あの、実はいろいろお聞きしたいことがあって」


 ニッコリと微笑みながらうんうんと首を縦に振る先生の顔を見て、私は何から話すべきかと慌てた。


 そして結局、こんなことを言ってしまったのだ。




「先生。私、勉強する意味がわからなくなってしまいました」




 綾香先生は目を大きく開き、それからまたうんうんと頷いた。


「そういうこと、あるよね」


 ――え、あるんですか!?


 たぶん私は驚いた表情をしてしまったのだろう。先生はクスッと笑う。


「でも意味とか考え出すと大変だよ。本当は何も考えないでとにかく必死に勉強するのが、受験には有効だと思う」


「はぁ……」


「だけどやっぱり考えたくなるんだよね。『勉強する意味は?』『生きている意味は?』『私があの人を好きなことに何の意味が?』とか、ね」


 私の喉がゴクリと鳴った。


「先生もそんなことを考えるんですか?」


「まぁね。私、結構理屈っぽいんだ」


「はぁ」


 どう反応すればいいのかよくわからないが、先生は私の戸惑いなどお見通しという顔で続けた。


「まぁ、人間ってヤツは考えるから厄介なんだよね。でも考えることが人間の特技でもある。だとしたら、考えることで気がつきたいってことじゃないかな」


「気がつく、ですか」


「そう。たとえば私は英語を教えているけど、文法を覚えても会話の段階で『えっと、関係代名詞が何だっけ?』なんて考えていたら話にならないでしょ」


 ――確かに。


「『じゃ、文法なんか覚えなくてもいいや』ってなると、そこでおしまい。だけど『英語と日本語は文法が全然似ていないけど、どうしてなんだろう』と考えてみたらどうかな。世界が広がらない?」


「そうですね」


「それを全ての物事に応用してみたらどうかな、って思うんだけど」


「でも、恋愛のことになるといくら考えても何もわかりません。相手の気持ちなんか想像してもわからないし」


 いきなり恋愛に話を持っていく自分に驚きながら、先生の目を見つめた。笑われるかな、と思ったけど、綾香先生は真剣な表情をしている。


「高橋さん。あなたはもう大事なことに気がついている」


「……え?」


「相手のことがわからないんでしょ?」


「はい」


「それが他人と付き合うってこと。ホント、わけわかんないよね、彼氏とか」




 ――えええええ!?




 わけがわからないのは先生の答えだと思ってしまった私は、出来の悪い生徒なのだろうか。


「付き合うということは、彼氏が意味不明だと気がつくこと……だと?」


「うーん、ちょっと違う」


「え?」


「他人は自分じゃないでしょ。だから考えてもわからなくて当然。でもそれに気がつかない人もいる」


 ――いや、だから、私も他人のことをわかるとは思ってないけど……。


「人は無意識に自分の意見が絶対正しくて我こそが常識の塊だと信じている。でもそうじゃないって立ちはだかるのが他人。問題はその他人の存在を、自分自身が認められるかどうかってこと」


 私は思わず考え込んでしまった。これは思ったよりややこしいことになってきた。


 この問答は非常にためになるけれども、今日の私に課せられた任務はもっと具体的な話だったはずだ。そうか、最初の質問が漠然としすぎていたのがいけなかったんだ。


 こんな哲学的な話をしていたら、いつまで経ってもあの話題に到達しない気がする。それに綾香先生も決して暇ではないはず。




 ――ダメだ! 逃げるな、私!


 ――いや、逃げているわけではないけど、えっと、「他人」がなんだって?


 ――あああ、まずい。なんて切り出せばいいの!?




 脳内は見事にパニック状態だった。焦った私は最終兵器、単刀直入作戦を発動した。


「先生。時間がないので、もっと具体的な相談をしてもいいですか?」


「いいよ」


 ――よし!


 意気込んで、大きく息を吸った。


「えっと、仮にクラスメイト同士で付き合っていて、それがその……アレが来ないというような状況になった場合、ど、どうしたら……」


 さすがに途中から綾香先生の顔つきが変わる。


「……高橋さんが、じゃないよね?」


 慌てて頷くと、先生は少しホッとしたようだが、すぐにまた表情を曇らせた。


「じゃあ、友達の話?」


「あの、えっと、まぁ、その……」


「何日くらい経ってるの?」


「確か5日くらいです」


「そっか」


 先生は沈痛な顔で目を閉じ、天井を仰いだ。それから急に私の顔を真正面から見つめるとニッコリと笑って見せる。




「10日」




「え?」


「大丈夫。10日で生理が来るわ。心配することはないと言ってあげて」


「……はい」


 このときのことは一生忘れないだろう。


 夕陽を背にした綾香先生の言葉はまるで神託のごとく、どこにも疑問を挟む余地はなかった。私は雷に打たれたような感覚だった。しばらく全身はおろか脳の細胞にいたるまで痺れていたのだ。


 その言葉を大切に胸にしまいこみ、学校祭の準備に戻る私を綾香先生は優しい眼差しで見送ってくれた。

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