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HAPPY CLOVER  作者: 北館由麻
夏休みの魔物
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28

 人生にはいくつかの衝撃的瞬間がある。


 私のまだそれほど長いとも言えない人生の中にも既にいくつか、忘れたくても忘れられない瞬間というのはあって、折に触れて思い出し、その衝撃を胸に刻みつけてきた。


 それにしても、だ。


 目の中にレンズを入れてしまうという、無茶苦茶な視力矯正方法を編み出したのは一体誰なんだろう。確かに眼鏡はフレームがずれるし、視界全部をカバーしてくれないから不便な部分もある。でもコンタクトレンズに比べればはるかに眼球そのものには優しい道具だ。


 私は今、このふにゃふにゃのレンズを人差し指に乗せ、鏡の前で躊躇していた。


 隣では母が心配そうに私の横顔を見つめている。早くやらなければと思うが、やはり目の中にモノを入れるのが怖い。ものすごく怖いのだ。


 私がためらっているのを見かねたのか、優しそうな若い女性店員が装着してくれることになった。


 彼女は手馴れたもので、私の目の下をグッと押し下げ、あっという間にレンズを眼球に貼り付けた。その素早さに私は感動する。


 コンタクトレンズ入りの両目で自分の顔をまじまじと見つめた。当然だが店内は明るく光に満ち溢れた空間だ。それなのに鏡の前には更にライトがついている。


 ――わ、私って、こんな顔だった!?


 勿論、毎日自分の顔は鏡で見ているのだが、ここまで肌のきめがはっきりと見えるのは久しぶりだった。裸眼だと鏡に激突するくらい近づかないと、肌の表面なんか見えないのだ。


「ずいぶん明るい感じになったわ」


 一緒に鏡を覗き込む母の顔も嬉しそうで、私もわがままを言ってよかったと思う。


 その後、コンタクトレンズを装用したままケータイを買いに行った。清水くんと一緒に見に行ったあのYデンキだ。


 優柔不断な私なのでしばらく迷い、結局清水くんがかわいいと言ったピンクのケータイに決める。私にピンクは似合わないのはよくわかっているが、他のどれもがピンと来なかったのだ。


 ついにコンタクトレンズとケータイの同時デビューを果たし、私はずいぶん普通の女子高生に近づいた気がしていた。


「どう? 眼鏡より楽でしょ」


 T市の駅前通りを歩きながら母が話しかけてきた。


「うん」


 眼鏡とは違って視界を遮るものがないのが、逆に不安なくらいだ。


 しかし、私の胸中にはもっと別の、深刻な不安が渦巻いている。




「でも、さっきからみんなが私を見ている気がして……なんか怖い!」




 実はコンタクトレンズ店を出てから、すれ違う人全員と目が合う気がして、自分の顔に何かついているのではないかと心配になっていた。


「ずいぶん自意識過剰なのね。大丈夫、誰もアンタを見てない」


 母はまともに取り合ってくれなかったが、私は急に全世界の注目を浴びてしまったかのような錯覚さえ起こしている。タレントの皆さんはさぞかし大変な毎日だろうな、と勘違いもいいところの同情さえするほどに。


 ――眼鏡が合っていなかったのか。


 まだバカにしたように笑っている母の隣で、私は突然クリアになった世界を新鮮に思いながら眺めた。


 ――だから、一番後ろの席になって黒板が見えなかったんだ。


 先生の字が小さいのではなく、私の目が悪くなっていたのだ。それで清水くんに板書を読んでもらうようになって、それで……。


 席替えをしてから起こった様々な事件を思い出しながら、これから始まる夏休みを小学生みたいな無邪気さで待ち焦がれていた。









 




 一学期の期末考査は散々な結果だったため、それは通知表にも反映されていた。


 高校二年の最初からいきなり躓いてしまいショックは大きいけれども、逆に追い込まれたことで私の全身にはやる気がみなぎっている。


 予備校に通うのも、密かにわくわくしていた。


 よく「勉強が好きな人間はいない」みたいなことを言う先生がいるが、それはちょっと違うと思う。そういうときに使う「勉強」はたぶん嫌々やらなければならない「勉強」で、本来の勉強は嫌々やるものではないはずだ。


 しかし今学校で学んでいることの中には、どうやっても興味がわかないものもある。興味のあることだけ勉強できたら、嫌々やるなんてことはなくなって、成績もどんどんよくなるのではないか?


 ――とはいえ、やっぱり「興味のあることだけ」っていうのはよくないのかな。


 私は膝の上の鞄から、そっと夏期講習のテキストを取り出した。数学と表紙に大きく書いてある。それを見ただけで「うっ」と何かが喉に詰まるような感覚に襲われた。


 パラパラとめくってみると、不安な気持ちがどんどん広がっていく。


 しかも不安なのは講義を理解できるかということだけじゃない。なんと、数学は二人別々の講座を受講するのだ。


 ――はぁ……。


 予備校に誘ってくれたのは嬉しかったけど、これは全く計算外だった。いや、考えてみれば当然だ。私と清水くんではレベルが違う。数学はそれが顕著だから仕方のないことなのだ。


 電車が乗り換え駅に到着し、ホームを移動する。


 私の住む小さな田舎町は鉄道路線の分岐点で、昔は鉄道の町として栄えていた。なぜ今は栄えていないのかというと、エネルギー資源需要が石炭から石油に取って代わったことが一番の原因らしい。


 炭鉱から石炭を各地に運ぶため、昔は長い貨物列車が踏み切りを塞いでいたそうだが、今は貨物列車を見かけることが稀なくらいだ。


 私自身はその「昔」のことは知らない。


 ただ昔の名残でこの小さな駅に特急列車が停まり、意外と交通の便がいい。県内最大のS市にも近いのだ。これがちょっとした自慢だったりする。


 ホームに立っていると、T市始発の電車がやって来て、たくさんの乗客が降りた。ほとんどがS市への快速列車へ乗り換える人だ。


「舞!」


 突然狭いホームは多くの人でごった返し、焦ってキョロキョロする私を清水くんが先に見つけてくれた。


「こんなところで眼鏡もしないで突っ立っていたら、俺を見つけられるわけないって!」


 清水くんは非難するような声を出す。


 私は黙って彼の顔を見つめた。


「……何?」


 業を煮やしたのか、清水くんは怪訝な顔で私に問いかける。


「見えてるよ」


「はい?」


「よく見えてます。清水くんの顔も、向こう側のホームにある看板の文字も……」


 途端に目の前の彼は驚いた顔で私を見下ろした。


「それって、もしかしてコンタクト?」


「正確に言うなら、一日で使い捨てるコンタクトレンズを装用しています」


 清水くんの驚き顔が、納得顔に変わり、「へぇ」という感嘆が漏れた。


「じゃあもう眼鏡はかけないの?」


「そういうわけじゃないけど」


 それはまだ迷っていることだった。


 予備校に通う間は眼鏡をやめてみようと思っているのだけど、学校にもコンタクトで通う勇気が実はまだない。眼鏡の自分は居心地がいいのだ。コンタクトはとても楽だけど、どうも気持ちが落ち着かない。


 清水くんは私の横に並んだ。Tシャツとジーンズ姿なのだが、制服以外の私服は見慣れないこともあってちょっとドキッとした。


「俺は最近、眼鏡の舞がいいなって思ってた」


「え!?」


 さすがに私は驚いた。


「どこが?」


「うーん、説明はできない」


 隣で清水くんは首を傾げていた。


 コンタクトレンズ姿を褒めてもらえなかった私は、こっそり口を尖らせる。同時に喜んでもらえると思って、ウキウキしていた自分がバカみたいで恥ずかしくなった。


「そうですか」


 肩を落として背を小さく丸めた。やはり、自分に似合わないことはすべきじゃない。悲しい気持ちのまま、ホームに滑り込んできた快速列車に乗り込んだ。






 初めて予備校の中に足を踏み入れた私は、見るもの見るもの全てが新鮮で、しばらく目を見開いたままだった。レンズが乾いてしまい、慌てて瞬きすると目が痛む。


 教室の前で清水くんと別れた。


 さっきの「眼鏡の舞がいい」発言で、私は自然に彼を避けるような態度を取ってしまっていた。


 だけどいざ一人になると心細い気持ちが胸を占め、すっかり反省モードになる。


「隣、いい?」


 急にテーブルの上にドサッと鞄が置かれた。見ると隣に眼鏡をかけた背の低い男子がいた。


「は、はい」


 周りを見ると、もうほとんどの席が埋まっている。座席数に余裕がないらしく、その男子は仕方なく私の隣に決めた、という感じだった。


 彼が席に座って落ち着いた頃に数学の講師がやって来た。ちょっと神経質そうな細身の先生だったが、話し始めると急に印象が変わる。学校の先生とは一味違う話し方に、私はどんどん引き込まれていった。






 学校の授業とは違い、一講座は90分と長い。にもかかわらず、講師の巧みな話術であっという間の90分だった。


 予備校は問題の解き方をメインに授業が進む。しかも講師の話が面白い。そして受講生は皆真剣だ。


 私には何もかもが刺激的で、とにかく一生懸命先生の話を聞き、ノートを取った。


 終わった途端、受講生はみんな出口へと殺到する。私はのろのろとテキストや筆記道具を鞄にしまい、教室を後にした。


 キョロキョロしながら玄関に向かうが清水くんの姿が見当たらない。


 仕方がないのでとりあえずトイレで用を済ませて、もう一度玄関のほうへと戻ろうとした。


「ねぇねぇ、一緒にご飯食べに行かなーい?」


 近くで、甘ったるい鼻にかかった声がした。トイレは人通りの少ない廊下の先にあるので、廊下の話し声が反響してよく聞こえるのだろう。


「いや、連れがいるから無理」


 返事を聞いて私は思わず立ち止まった。




 ――清水くん!?




 背中に氷が滑り込んだかのように心の中がヒヤッとした。


「えー友達? ユウも一緒に行きたーい」


「彼女と一緒だから無理」


 胸焼けを起こしそうな猫なで声に心の中がムカムカしたが、清水くんのそっけない声が聞こえた途端、私の顔にひそかな笑みが浮かんだ。


 ――彼女!


 この優越感は半端じゃない。それは私のことだ、と叫びたいほどだが、ここは我慢してこっそり廊下を窺った。




 ――な、なんじゃ! あの女!!




 目に飛び込んできたのは、清水くんの後ろ姿とその腕に巻きついたミニスカートの女子。


 隙間なくぴったりとくっついた二人の影はすぐに廊下を曲がって見えなくなった。


 私は慌てて廊下を走る。


 ロビーの手前で速度を落とし、深呼吸してゆっくり歩き出した。


「舞、こっち」


 清水くんが軽く手を上げて私を呼んだ。周りの視線が自分に集まっている気がして、緊張しながら彼の元へ近づいた。彼の隣にはミニスカートの女子が済ました顔で立っている。


 私はその女子を見ないようにしていたが、彼女はわざわざ一歩前に出てきて私の視界に無理矢理入ってきた。


「はるくんの彼女?」


 正確な発音は「かのじょお〜?」と尻上がりに伸ばす。とても私には真似できない話し方だ。


 仕方なくミニスカートの女子に向き合った。メイクを施した目元がキラキラと輝いて見え、私とは正反対の、いかにもおしゃれを頑張っている女の子だ。


「はるくんって、こういう子が好きなんだ?」


 上から下までじろじろと遠慮なく私を見回すと、彼女はふぅとため息をついた。


「なんかがっかり〜」


「お前、もうどっか行け。じゃあな」


「いやぁん! ユウ、一人になっちゃうー。どうしたらいいのー?」


 清水くんはそれに答えず私の腕を掴んでユウに背を向けた。


 が、すぐに立ち止まる。私は目を上げて「あっ!」と短く叫んだ。




「舞の彼氏?」




 スラリと背が高い男の人が玄関の前に立ちはだかっている。目鼻立ちの整った顔で、とりわけ男性にしては目が大きい。


「諒一兄ちゃん」


 私がそう呼びかけると、私の従兄である高橋諒一たかはしりょういちは口元に笑みを浮かべた。


 清水くんは驚いて立ちすくんだままだ。


 諒一兄ちゃんは清水くんをじっと見つめて、またフッと笑う。




「なんかがっかり」




 ――ちょ、ちょっと、いきなり……どういうこと!?




 動揺した私は、諒一兄ちゃんと清水くんを見比べるために、カッと見開いた眼球を三往復させた。


「そっちこそ、誰?」


 清水くんの声はとげとげしい。なんだかわからないけどマズい展開になっている。


「あ、あのね、こちらは、えっと……」


 慌てて説明しようとする私の頭上にポンと優しく大きな手が置かれた。


「舞の従兄の高橋諒一です。よろしく」


「清水暖人です」


 よろしくとは言わないあたり、清水くんは絶対「よろしくしてもらう気はない」と思っているだろう、などとどうでもいいことを一瞬考えてしまって、プッと笑いたくなる。


 しかし笑う暇はなかった。


「舞が予備校の夏期講習を受けるって聞いたから、お昼一緒に食べようかなと思って来たんだけど、友達が一緒だったんだね」


 ――今、「友達」をめっちゃ強調したよね?


 心の中で密かに突っ込むのとほぼ同時に清水くんが口を開いた。




「友達じゃなくて、舞は俺の彼女ですから」




 ――うわあぁぁぁ!


 ――「俺の彼女」って……。


 ――ひぇーーー!!




 チラッと隣に立つ清水くんの顔を見てみると、いつもより眼光が鋭く、頬はこれまで見たこともないくらいに緊張していた。途端に私の浮ついた心はぴしゃりと凹まされる。


「どっちでもいいよ」


 諒一兄ちゃんは余裕の空気を漂わせて私たちに背を向けた。


「お昼、おごるよ。二人とも、ついて来て」


 ――え、え、えええええ!?


 私と清水くんの反応など気にせず、さっさと玄関を出て行く諒一兄ちゃんの背中を茫然と見つめる。「二人とも」ということは、私と清水くんと諒一兄ちゃんでお昼ご飯を食べるわけ?


 ――ひぃ!


 最初から険悪としか言いようのない雰囲気なのに、まともにご飯なんか食べられるのだろうか。胸がドキドキして背中に嫌な汗をかいていた。


 腕を引っ張られて我に返る。清水くんはしかめ面のまま諒一兄ちゃんの後を追った。私も引き摺られるように玄関を出た。


 何気なく後ろを振り返ると、ミニスカートのユウがあっけに取られたのか、だらしなく口をポカンと開けてさっきと同じ場所に佇んでいた。

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