22
舞を見送って自転車置き場に戻ったら、いつの間にか空はどんよりとした雲に覆われ、露出した肌に霧雨が冷たく当たった。
天気の急な変化は珍しくないことだが、自転車通学の俺にはとにかく迷惑な話だ。霧雨くらい大したことはないと侮ってはいけない。家に帰る頃にはワイシャツもズボンもしっとりと濡れて、肌に張り付いてくるから気持ちが悪い。
しかも太平洋に面しているT市はこういう曇天の日が圧倒的に多かった。そして一年を通して気温は低めだ。雪が少ないというのがウリの一つだったが、最近は温暖化のせいか、それも大きな声では言えなくなってきている。
この街はパッとしない、というのが俺の印象だ。
生まれ育った街だから勿論愛着はあるのだけど、将来ずっとこの地に住み続けたいとまでは思わない。もともと俺自身、こだわりの薄い性格だからそう思うのかもしれないけど……。
霧雨にうんざりしながら帰宅すると、玄関を開けただけで夕飯のいい香りがした。
母が大声で歌を歌っている。確か今、母が大いにはまっているドラマの主題歌だ。少し音程が外れているのに全然気にしないところがこの人らしい。
「ただいま。ずいぶんご機嫌だね」
「はるちゃん、お帰り。あらー! 雨? びしょ濡れじゃない」
母は俺の姿を一瞥してすぐに洗面所からタオルを持ってきた。
「霧雨だけど結構濡れた」
「今週テストでしょ? 風邪なんか引いたら大変!」
そういえば一学期の期末考査が今週の半ばから始まる。テスト期間中は学校が早く終わるからいい。
――でもあのくそ真面目な舞のことだから、さっさと帰っちゃうんだろうな……。
タオルで頭をゴシゴシと拭きながら自分の部屋に向かった。時計を見ると17時少し前。舞はまだ電車に乗っている時間だ。
現在帰宅部の俺だけど、実は一年生の頃、バドミントン部に所属していたことがある。でも部長と反りが合わないのでやめた。腰痛にも悩まされたし、自分が一番上手いと思っている部長には腰痛以上に悩まされたので、バドミントン部には何の未練もない。
でも、こんな早い時間に帰宅すると健全な高校生がこれでいいのか、とも思う。
とは言っても、今、部活動を始めてしまうと舞を駅まで送っていけなくなるので、それは困る。何しろ下校時の約一時間が舞とまともに会話できる唯一の時間なのだ。
――どうして隣の席なのにわざとよそよそしくして、帰りも他人に見られないようこそこそしないといけないんだ?
制服を脱いで着替えを済ませると、ベッドの上に仰向けに倒れこんだ。
考えることと言えば、当然だが舞のことばかりだ。
今日一日を振り返って「あーあ」と独り言をつぶやく。
まともに会話できる唯一の時間に、あんな八つ当たりをしてしまったことは後悔しているが、それでもやはり舞の態度には納得が行かなかった。
――それに舞は俺のこと……どう思ってるんだ?
本当のことを言えば、そればかり気になって仕方がない。
ケータイを持つことを親が反対しているなら仕方がないと諦めもつくが、それ以前に舞自身が積極的でないのはどういうことなんだろう。俺とは連絡を取りたくないのか、と不貞腐れたくもなる。
舞の気持ちを尊重したいという物分かりのいい自分と、舞を俺の思うとおりにしたいというわがままな自分が、心の中で二手に分かれて対立していた。
どちらかというと普段はわがままな自分が優勢だ。
なのに、最後は絶対に物分かりのいい自分が勝つ。
結局俺は見栄っ張りなんだと思う。嫌われたくない。そしていいところを見せたい。
それが突然あんなふうに舞を問い詰めたり、いきなりわかったようなことを言ったりした原因なんだろう。
――カッコ悪すぎ。全然余裕ない……。
昔、サヤカさんと付き合っていた頃はここまで切迫した気持ちにはならなかったな、と天井をぼんやりと眺める。そう考えるとあれは恋愛のうちには入らないのかもしれない。
自分自身にガッカリしながら大きなため息をついた。
そこにケータイが鳴る。メールを着信した音だ。
俺は飛び起きて机の上のケータイを手に取り、逸る気持ちを抑えてメールを開く。
> 今日はいろいろとごめんなさい。これからもどうぞ宜しくお願いします。
……舞。
なんだ、このよそよそしい硬い文章は?
メールを読んだ俺は瞬時にツッこんだ。
――あー、ダメだ!
一度ケータイをベッドの上に放り投げて髪の毛をぐちゃぐちゃと掻き回す。
深呼吸をして気を落ち着けると、またケータイを手に取って画面を凝視した。
短い文章を何度も読み直し、これが舞なんだ、と自分に言い聞かせる。彼女の頑丈な垣根は、一部を破壊したくらいではすぐに修復されてしまうらしい。
それにいきなり馴れ馴れしいメールが来たら、それはそれで驚いて引くかもしれない、と自分自身をものすごい勢いで慰めた。
――とりあえず返信しよう。
この際、俺だけでもテンション上げていかないと、二人の関係はすぐに行き詰まりそうだ。
> メールありがとう。もしかして帰ってすぐに書いてくれた?
一応机の上の時計を見て確認するが、たぶん間違いない。しかも疑問形で終わる文章でさりげなく返信を要求しておく。
送信ボタンを押すと自然と口に笑みが浮かんだ。そしてまた机の上にケータイを戻し、ベッドに寝転がる。
天井を見上げた瞬間、ケータイが鳴った。
――返信、早すぎ!
と、思いながら慌てて飛び起き、ケータイをつかむと急いでメールを開く。操作する時間すらもどかしい。
そして新着メールを見た俺は一瞬頭の中がパニックになった。
――なんだ、これ?
差出人を確認して、浮かれていた気分がいきなりしぼむ。
――菅原か……。何の用?
同じクラスでサッカー部の菅原からのメールだった。ヤツは一部の女子に絶大な人気がある。確かに顔は甘いマスクと言えるし、サッカーをやっていて一見爽やかそうに見えるのがモテる理由だと思われる。
仕方なく本文を読んだ。読む前から嫌な予感がしたが、最後まで読み終わる頃には身体の中にムカムカと不快感が充満していた。
内容はいたってシンプルなもので、テスト期間が終わった後、男女三人ずつで遊ぼう、という誘いのメールだった。
それだけなら吐き気がするほど不愉快な気分にはならないのだが、文章中にとある女子の名前を見つけた途端、俺の心拍数がぐんとあがり、血流は音を立てんばかりの勢いで脳になだれ込む。
――メアリー……。
冗談じゃない。誰があんなヤツと遊ぶっていうんだ?
フンと忌々しく思いながら鼻息を荒くした。そして返信ボタンを押す。
――行きたくないから行かない。他の男誘えば?
はい、終了。
送信されたことを確認して大きく息を吐いた。
そもそも菅原はメアリー率いる女子グループに狙っている女がいて、最初は俺をダシにグループ交際を装って爽やかに接近しようというわけだ。魂胆が見え見えで呆れてしまう。
グループで遊ぶのはいいが、そこに恋愛感情が混ざると絶対に面倒なことになる。いい思いをするヤツがいれば、必ず誰かが貧乏くじを引くはめになるのだ。現代に生きる者にとって、全員の平等な幸せを実現することは何よりも難しい命題の一つと言えるだろう。
俺は菅原のために貧乏くじを引いてやるほど、ヤツに友情を感じてはいない。それに時間がもったいない。ヤツらと遊ぶくらいなら何とかして舞と一緒に過ごしたい。
カレンダーを見てテスト期間が早く終わればいいのに、とため息をついた。
またケータイが鳴る。今度こそ舞からであってほしい。祈るような気持ちでメールを開く。
> 私の態度で怒らせてしまったのかなと気になっていたので、早く謝りたかっただけです。でも、まだどうしたらいいのかよくわからなくて、また嫌な気持ちにさせてしまうかもしれません。だから宜しくお願いします、ということで……。
――ぶっ!
舞のメールを読んでいるうちに、俺の顔はふにゃふにゃに緩んだ。
さっきまでのムカムカはどこかに吹き飛んで、心の中にはお花畑が広がっていく。蝶がひらひらと舞う姿すら見えるから、俺の脳はもうイカれてるかもしれない。
――そっか。気にしてたんだ。
何故、舞が俺のことを気にかけていたとわかったくらいでこんなに嬉しいのか、自分自身でもよくわからないが、とにかく胸の中は幸せな気持ちで満たされた。
同時にホッとする。実はかなり不安になっていたのだ。
もう一度、今度は舞の声を想像してメールを読んでみる。
文章も舞らしさが出てて、気に入った。やっぱり舞は他の女子とは一味違うな、と思う。ちょっとばかり過大評価かもしれないけど、好きな人のことになるとどこまでも褒めちぎれそうな勢いだ。
十分に鑑賞したところで返信を打つ。
> こっちこそごめん。でもこういう性格なので舞も早く慣れて。じゃまた明日ね。
本当はもっとメールでのやり取りを続けたいけど、舞には舞の時間があるだろうと思い、こっちから切り上げた。
しかし、ノートパソコンは持っているのにケータイはナシって、どういうことなんだ?
舞の家の基準がよくわからない。
両親にちゃんと相談すれば買ってもらえるんじゃないのか、と余計なお節介だが思ってしまう。
……というか、俺の心の中では舞にケータイを持って欲しいと思う気持ちがエスカレートしていた。だって、メールもいいけどやっぱり声を聞きたいし。
階下から母親が呼ぶ声がした。夕飯のようだ。
部屋を出る前にカレンダーを再度眺め、テストが終わったら絶対に舞とデートしよう、と浮かれた頭であれこれと計画を練り始めた。
翌朝、登校して席に着くなり田中が俺の前の席に座り込んだ。妙に思い詰めた顔つきで、俺の顔を真剣な目つきで見つめてくる。
田中には悪いが、男に見つめられても全然嬉しくない。むしろ暑苦しい。
どうしたのかと思いながら眉をひそめると、田中はようやく意を決したように口を開いた。
「清水、なんで断った?」
「は?」
「昨日、菅原からメール行っただろ?」
「着たけど、そりゃ当然断るだろ」
そう言うと、田中は俺を恨めしそうに睨んだ。
「まぁ……お前はそうかもしれないけど」
やっと俺から視線を外して大げさにため息をつく。それからチラッと舞を見て、また俺を凝視した。
ちなみに舞は文庫本を開き、小説を読んでいるふりをしているが、俺たちの会話を盗み聞きしていることは間違いない。
「ぶっちゃけ、この際誰でもいい。俺は女子と遊びたい」
「ゴホッ、ゲホッ……」
突然舞が咳込んだ。俺たちに背を向けて肩を震わせている。だが俺には、笑いをこらえて苦しんでいる姿にしか見えない。
田中のあまりにも正直過ぎる本音の吐露に、俺も思わず苦笑した。
「お前は行けばいいじゃん」
「ダメだ。清水が来るって言わないと女子も来ない」
田中はまるでこの世の終わりが訪れたかのような絶望的な声を出した。
「他のヤツを誘えよ」
「他のヤツじゃダメなんだよ! とにかくお前が来ないと意味がないんだ」
「俺は行かない」
そう言って舞を見ると、表情を強張らせて本を見つめていた。心の中で心配すんな、と呼び掛けてみるが、残念ながら俺にテレパシーはない。
それにしても、いきなりこんなやっかいなことを吹っかけてきた菅原が憎かった。
「じゃあさ……」
背を丸めた田中は小声で言った。
「とりあえずお前も参加ってことにしておいて、当日他のヤツ連れて行くっていう案は?」
「ドタキャンか」
「だって、そうでもしないとお前抜きじゃこの計画、絶対フェイドアウトする……」
「そうまでして遊びたいか?」
「お前にはわからんだろうが、俺は女の子と遊ぶチャンスなんて滅多にないんだ。これを逃すと次はいつになることか……」
舞が顔を不自然に窓のほうへ捻る。たぶん笑いを噛み殺しているんだろう。
――ありがとう、田中。お前のおかげで舞が深刻にならずに済んでいるよ。
やはり持つべきものは少しおバカな親友だな、と再確認し、俺は田中の腕を叩いた。
「わかった。そこまで言うならドタキャン計画に乗ってやるよ。でも、俺は絶対行かないからな」
「助かるよ、清水! いや、清水様! 愛してる」
「キモッ!」
田中は細い目を更に細くして茶目っ気たっぷりの笑顔を見せたかと思うと、投げキッスの動作をして軽い足取りで去った。
それを見送ると深呼吸をして少しだけ舞のほうに肩を寄せた。
「ねぇ、心配した?」
囁くような声で訊く。舞がチラッとこっちを見た。
「何を?」
――うわぁ……、冷たい声。
俺の心は一気に震え上がった。テンションは急降下する。
舞は……怒ってる?
「他の女子と遊んでもいいの?」
「私には関係ないことですから」
――……関係……ない?
レンチか何かで思い切り頭を殴られたような感覚が俺を襲った。目の前がくらくらする。
舞の顔をまともに見ることができない。
これ以上彼女に冷たい態度を取られると俺はどうなってしまうのか、自分でも自信がない。そういう危機的な状況だと脳のどこかが警告を発していた。
「そっか。そうだったね。……なんか、俺、一人で勝手に勘違いしてたみたい」
酷く冷めた声が、遠くで聞こえる。自分が発した声とは思えないほどだ。
胸中は煮えくり返るような興奮と、凍土のような冷静さの両方が不思議と同居して、目の前に差し出されたものを瞬時にズタズタにしてしまいそうな残酷な気持ちが俺を支配していた。
舞を見ないように机に肘をついて頭を乗せる。
――つーか、なんでこうなる……。素直じゃないのにも程があるだろ。
口を尖らせたまま目を瞑った。自分では気が長いほうだと思っていたが、今日の俺はダメだ。もしかすると本性は短気だったのかもしれない。
しばらくそのままの姿勢で苛立つ心を宥めていると、隣からか細い声が聞こえてきた。
「……だって、嫌だって言ったら……わがままになっちゃうもん」
ズキッと、心臓に矢が刺さったような痛みが走る。でもそれは甘くて痺れそうな痛みだった。
思わず俺は胸に手を当て、隣に向かって心の中で叫ぶ。
――舞、先にそれを言ってくれ!
姿勢を正して改めて舞を横目で見ると、肩をすぼめてかわいそうなくらい小さくなっていた。さっきの冷たい言葉はたぶん舞なりに精一杯虚勢を張っていたのだろう。
――ヤッベー! マジでかわいいんだけど。
たぶん周囲に人がいなければ舞を抱き締めていたと思う。むしろ抱き締めただけで済んだら奇跡かもしれない。
俺はまた少し舞のほうへにじり寄った。
「嫌だって思ったんだ?」
わざとゆっくり言う。
舞は完全に顔を伏せて答えない。思わず笑みがこぼれる。これは絶対YESだな。
「嬉しいな。でも俺は好きな人の嫌がることはしたくない」
ようやく舞が顔を上げてこちらを見た。俺の言葉を確かめるような視線だ。
更に「それに俺は……」と続けようとしたところ、担任がやって来て慌しく朝の会が始まってしまった。
まぁ、言いたかったことは伝わったと思う。だから満足して今日も一日、舞とはできる限りよそよそしくして過ごした。
その日の午後最初の授業は体育だった。体育は男女それぞれ担当の先生が違う。勿論、授業も別々に行われる。マットや鉄棒などの器械体操系の授業だと体育館を一緒に使うこともあるが、今は男子が屋外のトラック競技で、女子は体育館でバレーボールをやっていた。
女子が体育館の更衣室へ移動してしまうと、教室内は男子専用更衣室になる。女子がいる前で堂々と着替え始めるヤツもいるが、俺は最低でも下だけは女子がいなくなってから着替えることにしていた。
ちょうどシャツを脱いだとき、既に着替え終わっていた菅原が近づいてきた。
ヤツの顔を見て俺はハッとした。
昨日「行かない」とメールしたきり、菅原とはまだ話をしていなかったのだ。田中に頼まれたドタキャン計画に乗るということは、つまり「やっぱり行く」と前言を翻さなければならない。
菅原に先んじようと口を開きかけたが、ヤツのほうが一瞬早かった。
「清水さぁ、彼女できた?」
「えっ?」
先を越された上、意外な第一声に言葉を失う。
俺の動揺を見逃さなかった菅原は、何かを納得したように「へぇ」と言いながら、隣の舞の机に半分だけ腰掛けた。
――そこに腰掛けるなっ!
垂れている目尻を更に下げてニヤける菅原に、俺はあからさまに嫌そうな顔をした。まぁ、コイツは俺の彼女が舞だということまでは気がつかないだろう。
それにしても、菅原の態度はいつでも俺の神経を逆撫でする。たぶん徹底的に気が合わないのだろう。合わない者同士が無理に仲良くしようとしても、どうせ上手く行かないのだ。だから菅原とつるむ気は毛頭ない。
「じゃあ、彼女連れて来いよ」
ニヤけたまま菅原は簡単に言った。俺は唖然とする。
「はぁ? 何のために?」
「いいじゃん。人数多いほうが楽しいし、みんなに紹介しろよ」
「嫌だね」
俺は下をジャージに履き替えながら突っ撥ねた。なぜ俺の彼女をみんなに紹介しなくてはならないのか、意味がわからない。
「なんだよ、秘密かよ。お前、しばらく彼女いなかったじゃん。今度はどんなかわいい子か、すげー気になるんだけど」
「悪いけど、めちゃくちゃかわいいよ」
「じゃあ、連れて来いって」
「嫌だ」
「……お前、ホントは彼女なんていないんじゃね? だから嫌だとか言うんだろ」
菅原は挑発するような視線をよこした。
――ダメだ。こんなヤツ、まともに相手にしたら……
しかし、次に俺の口から滑り出た言葉は俺の想いとはまるで正反対のものだった。
「うるせぇ。連れて行けばいいんだろ!? お前らの前でイチャイチャしてやるから覚悟してろよ!」
言ってからしまったと思ったが、もう遅い。
菅原が勝ち誇ったように隣でニヤリと笑った。