仮初め婚約者は悪役令嬢を演じ切る。契約報酬で世界を旅します! ……あの、求婚って何ですか?
「まあ、なんて愚かな方でしょう!」
扇をぴしゃりと突きつけられて、目の前の姫君が、びくりと肩を揺らした。
ティナは、そんな反応にも少しも動じず、高らかに言い放つ。
「殿下の隣は、このわたくしの席ですわ! 遠い国からのこのこと現れて、のんびりお茶を飲んでいれば手に入ると思っていらっしゃるの? 笑わせないでくださいませ!」
「……ひどい。わたくしは、ただご挨拶に伺っただけですのに」
姫君が、そっとハンカチで口元を押さえる。うつむいた肩が、小刻みに震えていた。
「あら、泣いたふり? お得意ですこと。そのドレス、いつの流行ですの? そんな格好で殿下の前に出られるなんて、見ているこちらが恥ずかしくなりますわ!」
周囲から、ひそひそと声が漏れる。
「なんてひどい……」
「あんなことを、公衆の面前で」
「ペルシエ嬢は、あんな方だったかしら」
同情の視線が、姫君に集まっていく。ティナは、扇を口元にあて、顎をほんの少し上げた。昨夜、鏡の前で百回練習した、冷たく見下ろす角度だ。
「おーっほっほっほ! ……ごほっ」
高笑いの途中で、少しむせた。
それでも、ティナは扇をぱちんと閉じ、ドレスの裾を翻して、堂々と背を向ける。
誰もが眉をひそめる中で、ティナだけが、胸の奥で、ぐっと拳を握っていた。
(ついに最後の仕上げが始まる! 必ず契約をやり遂げてみせるわ!)
* * *
十二年前。
いつも賑やかなペルシエ伯爵家の居間が、その夜だけは、珍しく静かだった。暖炉の前に父と母が並んで座り、その前の小さな椅子に、五歳のティナがちょこんと座っている。兄や姉たちは、先に寝かされていた。
「ティナ。今夜は、とても大事なお話をするよ。むずかしいところは、ゆっくり話すからね。わからなかったら、すぐに言いなさい」
「はい、おとうさま!」
父は一つ息を吸って、ティナの前に身をかがめた。
「これは、王様とうちとの『契約』……守らなければならない、大事な約束だ。父さんが、一つずつ話すからね」
父は、指を折りながら、ゆっくり話し始めた。
「一つ。ティナは、第二王子のラウル殿下の『仮のお嫁さん』になる。本当に結婚するわけじゃない。お仕事としての婚約者だ。それを、ティナが十八歳になるまで務める」
「二つ。時が来たら、ティナは、みんなの前で『悪いお嬢様』のふりをして、殿下とお別れする。みんなが『それなら仕方ない』と思うような、お芝居をするんだ」
「三つ。そうして、殿下は、隣の国のお姫様と結婚する。ティナのお仕事は、そのための道を作ることだ」
「四つ。この契約のことは、誰にも内緒。家族のあいだだけの秘密だよ」
難しい言葉は、母が横から、やさしく言い換えてくれた。
「そのかわり、王様は、うちの家をたくさん助けてくださる。お仕事のあいだは、お兄様やお姉様たちが、ちゃんと学校へ行けるようにね。そして、お芝居が上手に終わったら、約束のごほうびをいただけるの。ティナ、うちがあまり裕福でないことは、わかっている?」
「うん。おかあさまが、まいにち、おなべにお水をたしてるもの」
「あら。気づいていたの」
母が、ふふっと笑った。父が、少しだけ咳払いをする。
「これは、父さんたちが、ティナにお願いすることだ。でも、断ってもいいんだよ。断っても、誰も怒らない。ティナが嫌なら、父さんが別の方法を考える。……ティナが、自分で決めていい」
ティナは、ぱちぱちと瞬きをして、それから、むうっと考え込んだ。
暖炉の薪が、ぱちんと弾ける。
「おとうさま。ティナ、わるい子のふりをするんでしょう?」
「そうだね」
「わるい子は、おヨメさんに行けなくなるって、ダフネねえさまが言ってたの。ティナ、おしまいにしたら、おヨメさんに行けなくなるの?」
父と母が、そっと目を合わせた。少しの間のあと、母が、ティナの手を包む。
「……そうね。お芝居のあとは、いいお話が来にくくなるかもしれないわ」
「でもね、ティナ」
父が、言葉を選ぶように続けた。
「それは、お芝居をしてもしなくても、同じなんだ。お嫁さんに行くときは、お家からお金を持たせてあげるものでね。うちには、あまりないから」
父は、小さく息をついた。
「……不甲斐ない父さんで、すまないな」
母が、何も言わずに、父の腕にそっと手を添える。
「だから、あなたが無理に決めなくていいのよ。お芝居が終わっても、ティナはティナ。誰と結婚するかは、ティナが決めていいの」
「じゃあ、お芝居をしても、しなくても、おんなじ?」
「……そうだね」
「そっか! じゃあ、いいや!」
母が、ふっと吹き出した。父も、つられて口元をゆるめる。
「それより、もうひとつ聞いてもいい?」
ティナは、椅子から身を乗り出した。
「おしまいにしたら、外国には行っていいの?」
父と母は、顔を見合わせた。
「外国?」
「うん! ちょっと待っててね!」
ぴょん、と椅子から飛び降りると、ティナは自分の部屋へ駆けていき、すぐに一冊の絵本を抱えて戻ってきた。
兄や姉たちの手を渡ってきた、古い絵本だ。表紙は取れかけで、あちこちに手あかがつき、あるページの隅には、次兄グレンが描いたへたくそなドラゴンが居座っている。
ティナは、その真ん中あたりのページを、ばっと開いた。
青い海。その上の空を、銀色の魚たちが、きらきらと飛んでいる。
「ここ! 海の上をね、お魚がとぶの! ティナ、これが見たい。ほんとうにあるのか、じぶんの目でたしかめたいの。外国に行っていいなら、やる!」
父は、しばらく黙っていた。それから、静かに尋ねた。
「……それが、理由かい?」
「うん! だって、お魚がとぶのよ!」
「ティナ。お金のためじゃなくていいんだ。家のために、無理にうなずく必要はない」
「ちがうよ、おとうさま」
ティナは、まっすぐに父を見た。
「ティナ、お魚がみたいから、やるの。おうちがたすかるのは、そのおまけ!」
「おまけか」
父が、ふっと笑った。母は、笑いながら目元をぬぐっている。
「……わかった。外国へ行けるように、父さんが約束する。ティナが十八になったら、どこへでも行けるように。それまでに、父さんたちも、うんと立派になっておくよ」
「やったあ! 外国に行ったらね、おみやげ、いっぱいかってくるね! おにいさまにも、おねえさまにも、ぜんぶ!」
「楽しみにしているよ」
その夜、ティナは絵本を抱いたまま、ぐっすり眠った。
翌朝。玄関には、ティナの八人の兄と姉たちが勢ぞろいした。
「ティナ、ハンカチ持った? お弁当は? リボンは曲がってない?」
ダフネ姉さんが、ティナの頭からつま先まで、三度確認する。
「いつでも帰ってきていいからな」
「いじめられたら言えよ。騎士になる俺が、すぐ飛んでいく」
「薬草の本、貸してあげる。……あとで」
長兄ハロンも、グレンも、ニコラも、それぞれ少しずつ、目が赤い。レミとペトラは心配そうに見つめ、双子のロミとロナは、声をそろえて「いってらっしゃい!」と叫んだ。
「いってきます!」
ティナは元気よく手を振って、馬車に乗り込んだ。振り向くと、家族がずっと、手を振っていた。
寂しくない、と言えば嘘になる。けれど、ティナの胸の中は、期待で、はちきれそうだった。
* * *
王宮の勉強部屋は、天井が高くて、窓が大きくて、本棚がずらりと並んでいた。入った瞬間、ティナは「わあ!」と声を上げた。
先生の隣の席には、金色の髪の男の子が座っていた。第二王子ラウル、六歳。ティナより一つ年上のはずなのに、背もたれに体を預けて窓の外を眺め、ずいぶん退屈そうだ。
「はじめまして、ラウル殿下! ティナ・ペルシエです! かりの、およめさんの、ティナです!」
「……仮、を大声で言うな」
ラウルは、ちらりとティナを見て、すぐに目をそらした。
「どうせ君も、褒美目当てだろう。僕に取り入れば、家が助かる。……別に、責めやしないけど」
「とりいる? って、なんですか?」
「…………」
「あっ、先生! その地図、知らない国の名前がたくさん! これ、なんて読むんですか?」
ティナはもう、先生の机の上の地図に釘づけだった。ラウルは、その小さな背中を、黙って見ていた。
授業が始まると、先生が算術の問題を出した。ティナは、元気よく手を挙げて答え、そして、見事に間違えた。
ラウルが、横目でちらりと見る。普通なら、ここで赤くなって、うつむくところだ。
「あっ、まちがえた! いまのまちがい、おもしろいですね。どうして、こうなるんですか? 先生、もう一回!」
ティナは、目をきらきらさせている。
「…………間違えたのに、なんで嬉しそうなんだ」
「だって、まちがえた分だけ、わかることが増えるでしょう?」
ラウルは、口を開けたまま、何も言えなかった。
それから、毎日が過ぎていった。
ティナは、毎日、勉強部屋にやって来た。知らないことを見つけるたびに、「あれは何かしら」「これは、どうして?」と、目を輝かせてつぶやく。
その日は、窓の外の塔を見上げて、首をかしげていた。
「あの塔、鐘がいっぱいついてる……」
聞こえないふりをしていたラウルが、とうとう、ぶすっとした顔で口を開いた。
「……あれは、時計塔だ。鐘が十二個ある。夜明けと正午の鐘だけ、音が違う。それから、基礎の石は、百年前の王の……」
「ええっ、すごい! 殿下、ものしりですね! もっと教えてください!」
「……別に、このくらい、誰でも知ってる」
ラウルはそっぽを向いたが、教えるのは、やめなかった。
ある日のこと。授業のあとで、ラウルが、ぽつりと尋ねた。
「どうして、そんなに前向きなんだ?」
「まえむき?」
「君は、いずれ悪役にされて、捨てられる役なんだぞ。そのために、ここに通うんだ。それなのに、どうして毎日、そんなに楽しそうなんだ」
ティナは、きょとんとして、首をかしげた。
「毎日新しいことが知れて、毎日楽しいからです!」
それだけだった。
ラウルは、しばらく、返す言葉を探していた。
「……殿下は、楽しくないんですか?」
「楽しいことなんて、ない。僕の先は、もう決まっているから」
「へえ、そうなんですか!」
ティナは、少しも深刻にならずに頷いた。
「あっ、でも、今日のお昼のスープ、きのうより美味しかったですよ! ハーブの種類が増えてました! これも、あたらしい発見です!」
「…………スープ」
「はい! スープです!」
ラウルが、がくりと肩を落とす。その口元が、ほんの少しだけ、ゆるんだように見えた。
帰り際、ラウルは、ひどくぶっきらぼうに言った。
「……明日も、来るのか」
「はい! 毎日、来ます!」
「そうか」
馬車に揺られながら、ティナは思った。
(殿下、へんな顔をしていたわ。でも、教えるのがじょうずで、おもしろい方! 明日は、あの時計塔の鐘の音を、じっくり聞いてみよう)
* * *
ティナには、毎晩の楽しみがあった。夕食の席で、その日に学んだことを、家族に話すのだ。
両親と九人きょうだいで、十一人の食卓。いつも椅子の取り合いで、スープは奪い合いだ。
「今日はね、エスタリア語で『こんにちは』は『ボナ・ディア』、『ありがとう』は『グラツィ』なんだって!」
「ぼな……ぐらつぃ?」
ダフネが、スープの匙を止めた。長姉のダフネは、すでに父の小さな商いを手伝い、帳簿をつけ始めている。隣国の商人との取引で言葉が通じず、困っていたところだった。
「ティナ、それ、もっと教えて。紙に書いて。今すぐ」
数年後。ダフネが任された商会の倉庫には、エスタリア語の看板が並ぶようになった。
ニコラは、ティナが王宮の図書室で見つけた薬草図鑑を、辞書を片手に三日で読み切った。村で熱病がはやった年、彼女の薬が、何十人もの子どもを救った。
グレンは、ティナが話す地理の授業の「川と谷の話」に夢中になった。地形を読む力で、騎士団の入団試験を首席で通り、数年後には、最年少の小隊長になった。
ハロンは、水路の図面を引いた。領地の畑は、年を追うごとに、豊かになっていった。
もちろん、王家の優遇措置という追い風もあった。けれど、夜更けまでランプを灯し、帳簿に突っ伏し、薬草を育て、剣を振るい続けたのは、家族自身だ。ティナは、きっかけの種を、食卓に運んだだけだった。
それなのに、ティナは毎晩、こう言うのだ。
「みんな、すごい! ティナも、もっとおぼえてくる!」
兄も姉も、そんなティナに、そのたびに笑った。
「あんたのおかげで、うちは変わったのよ。……まあ、頑張ったのは、私たちだけどね」
ダフネが、ティナの頭をくしゃりと撫でた。
* * *
ラウルが七歳の春のこと。
ティナが、嬉しそうに、勉強部屋に駆け込んできた。
「ラウル殿下! ボナ・ディア! これ、エスタリア語ですよ! 王宮の先生に、教えていただいたんです!」
「……ふん。そのくらい、知っている」
ラウルは、そう答えた。嘘だった。
その夜、ラウルは、自室の本棚の奥から、埃をかぶった隣国語の辞書を引っ張り出した。自分から本を開くのは、生まれて初めてのことだった。
理由は、よく分からない。ただ、あの子が嬉しそうに話した言葉の「続き」を、あの子より先に、知っておきたかった。
翌朝。
「ボナ・ディア、ティナ。……それから、エスタリア語で『君の話は、おもしろい』は、こう言う」
ティナの目が、まんまるになった。
「ええっ! 殿下、すごい! もっと言えますか?」
「……まあ、少しなら」
胸の奥が、とくん、と変な音を立てた。
その日から、ラウルは、自分から先生に質問をするようになった。
十歳の秋。
勉強部屋に飾られた古い世界地図の前で、ティナが、南の海を指さした。
「いつか、ここに行くんです。空飛ぶ魚がいる海なんです!」
ラウルは、はっとして、指折り数えた。契約の期限まで、あと九年。九年後、ティナは、夢を叶えるために、この国を出ていく。
そこで初めて、気づいてしまった。自分が、あの笑顔を、毎日、待っていることに。
引き留める資格は、自分にはない。彼女の夢を、邪魔したくもない。それなら。
(僕が、彼女と一緒に、行ける人間になればいい)
その日のうちに、ラウルは先生に頼んだ。
「外交の講義を、増やしてください」
「殿下が、自ら? 国のために、お考えなのですか?」
「……行きたい場所が、できたので」
嘘では、なかった。
十四歳の夏。
国境の小さな村で、水の争いがあった。ソルヴァン側とエスタリア側の二つの村が、一本の用水路をめぐって、怒鳴り合っているのだ。見習いの外交官として派遣されたラウルは、両方の言葉を使って、双方の言い分を、順番に聞いた。
「この十日、水が来なくて、麦が枯れかけているんです」
「うちは、小さい子が熱を出して、洗い水もろくにないんだ」
どちらの言葉も、条文には、一行も載っていない。
ラウルは、夜を徹して地図を広げ、水を曜日ごとに交互に分ける案を作った。両村の長老は、渋い顔で頷いた。帰り際、ソルヴァン側の老婆が、ラウルの手を握った。
「王子様が来てくださって、ほんとうによかった」
帰りの馬車で、ラウルは、長いこと黙っていた。
これまでの勉強は、ティナの隣に行くための手段だった。けれど、握られた手のぬくもりは、いつまでも掌に残っていた。
(もっと、こういう仕事がしたい)
彼女の隣に立つためという理由は、変わらない。けれど、それだけではなくなっていた。
十六歳の冬。
王家が取り決めたとおり、ラウルは、エスタリアのルチア姫と、文通をしていた。最初は、礼儀正しい、あたりさわりのない手紙ばかりだった。
ある冬の日、届いた手紙には、こう書かれていた。
『殿下。ここだけの話として、うかがいます。あなたは、本当にこの縁談を、お望みですか』
ラウルは、ペンを持ったまま、しばらく動けなかった。やがて、静かに返事を書いた。
『いいえ。僕には、好きな人がいます』
数日後、返事が来た。
『よかった。私にも、大切な人がいます。……では、私たちは、どうして、まだこの約束を守ろうとしているのでしょう』
ラウルは、手紙を握りしめた。
父王は「約束は約束だ」と言う。ペルシエ家も、報酬は約束どおりにと、静かに待っている。エスタリアの王も、ルチアの意思を尊重すると言いつつ、契約を自分から破ろうとはしない。
誰もが誠実で、誰も悪くなかった。ただ、約束を守ろうとするあまり、今の誰の望みとも違う未来へ、全員で、まっすぐ歩いている。
(このままでは、ティナは、望んでもいない悪役を演じて、笑われて、旅立つことになる)
彼女が、そのことを楽しみにしていることも、ラウルは知っていた。
十八歳。ラウルは、執務室の机に、一枚の白い紙を広げた。
彼女の夢は、世界を旅することだ。それを諦めさせて、自分を選ばせるつもりは、さらさらない。
それに、ティナが自分を、恋愛の相手として見ていないことも、分かっている。十二年間、一番近くで見てきたのだ。分からないはずがない。
(愛してもらえるかどうかは、今の自分には決められない。けれど、隣にいるための道は、自分で作れる)
自分で学んだ言葉。自分で歩いた国境。自分で得た、交渉の力。
それらを全部使って、ティナの夢と、全員の望みを、同じ地図の上に並べてみせる。
その夜、ラウルの執務室の灯りは、朝まで消えなかった。
広げた世界地図に、行きたい場所を、一つずつ印にしていく。最後に、南の海。費用を計算しては、数字が合わずに書き直し、書き損じの紙が、足元に小さな山を作った。
窓の外が白んでくるころ、ラウルは、最後の一枚を綴じ終えて、ペンを置いた。
* * *
悪役令嬢の最後の大仕事、題して「第七幕」が始まってから、三か月。第一場の夜会は大成功で、ティナは、毎日が充実していた。
朝は、庭で高笑いの発声練習。昼は、扇の角度の確認。夜は、第七幕の台詞の暗唱。庭師のおじいさんが、毎朝帽子を取って拍手してくれるので、手応えは上々だ。
(ただ、あれは、悪役への恐怖ではなく、純粋な拍手に見えるのが課題ね)
手帳には、旅支度の欄も増えていた。裏表紙には、色あせたクレヨンで描いた小さな魚の絵と、「南の海」の文字。ティナは毎晩、それを眺めてから眠るのだ。日よけの帽子。ニコラ姉様に相談した船酔いの薬。南の海の地図。婚約破棄が成立すれば、約束の報酬が家族に渡り、ティナは自由になる。夢にまで見た旅が、すぐそこだ。
そんなある日、廊下で、ラウルに呼び止められた。
「ティナ。少し、時間をくれないか」
「はい、殿下! なんでしょう!」
「近いうちに、関係者を集めて話をしたい。君のご家族と、ルチア姫、それから陛下も。……大事な話なんだ」
ラウルの顔が、いつもより、少しだけこわばっている。手には、書類の束。
ティナは、ぱっと顔を輝かせた。
「最後の打ち合わせですのね! 承知しましたわ! 第七幕の台本は、完璧に仕上げてありますの!」
「……いや、そういう打ち合わせでは」
「大丈夫ですわ、殿下のお手を煩わせません。当日は、このわたくしにお任せくださいませ!」
ぐっと拳を握るティナ。ラウルは、何か言いかけて、口を閉じ、小さく息を吐いた。
「……ああ。よろしく頼む」
(殿下、緊張していらっしゃるのね。大丈夫、わたくしがついていますわ!)
ティナは、廊下を弾むように歩いていった。
* * *
その日、王宮の小会議室は、ぎゅうぎゅうだった。
国王陛下。ルチア姫。ラウル。そして、ペルシエ家の一同。両親とハロン、ダフネ、グレン、ニコラ、レミ、ペトラ、ロミとロナ、それにティナ。合計、十四人。椅子が足りず、グレンとレミが壁際に立った。
(本番の打ち合わせにしては、ずいぶん大がかりですわね)
ティナが首をかしげていると、ラウルが立ち上がった。
「まず、ペルシエ伯爵家の皆様に、お伝えしたいことがあります」
ラウルの声は、落ち着いていた。
「ティナ・ペルシエ嬢は、十二年間、一日も欠かさず、勉強部屋に通いました。この間、彼女が身につけた言語は四つ。そのほかに、薬草の知識、算術、地理、礼法。そのすべてを、彼女は家族と分かち合い、ペルシエ家は、国内有数の商会、騎士、薬草学者を擁する家となりました」
父が、目をぱちくりさせた。母が、そっとハンカチを取り出す。
「王家の優遇措置があったことは事実です。けれど、それを活かしたのは、ご一家自身の努力です。僕は、その事実を、契約の履行として、まず最初に記録に残したい」
しんと、部屋が静まり返った。
(わたくし、そんなにたいしたことは……)
ティナは、少しこそばゆくなって、背筋を正した。楽しいから続けただけだ。
「そのうえで、一つ、提案があります」
ラウルは、書面を一枚、机に置いた。
「契約は、当初の定めどおり、悪役令嬢としての婚約破棄による完遂を想定しています。ですが、円満な婚約解消でも、契約を完遂したものとして認める、という案を、ご検討いただきたい」
「円満に、解消でも?」
「はい。報酬と、ご一家への約束は、どちらの場合も、満額で守られます。どちらを選ぶかは、ティナ嬢とご家族に、お任せします」
部屋が、ざわついた。
口を開いたのは、ルチアだった。
「十二年前の約束が、今も必要とは限りませんわ」
ルチアは、凛とした声で言った。
「ですが、だからといって、一方的に変更するつもりはありません。皆さんのお考えも、うかがいたいのです。エスタリアも、こうして話し合う場が持てたことを、歓迎しておりますわ」
ルチアは、ティナに、にこりと微笑んだ。
国王陛下が、ごほんと咳払いをした。
「余は、約束を破りたくなかった。だが、約束を守るために、そなたたちの幸せを損なうなら、本末転倒だ」
陛下は、少しだけ、気まずそうに笑った。
「……約束を守ることばかり考えて、見直すという発想が、なかったのだ」
「あの、一つ、よろしいですか」
ティナは、きょとんとして、手を挙げた。
「それなら、最初から、みんなで相談すればよかったのでは?」
一瞬の沈黙のあと、あちこちで、咳払いがした。
陛下が、天井を見上げる。父が、頭をかく。ルチアは、扇で口元を隠して、肩を揺らしている。
「……そうなんだ」
ラウルが、苦笑した。
「誰も、最初の一言が、言えなかった」
そのとき、ダフネが、すっと手を挙げた。
「確認します。報酬は、円満な解消でも、同額ですか?」
「はい」
「書面で、お約束いただけますか?」
「用意してあります」
「利息は?」
「ダフネ」
父が、小声でたしなめた。ダフネは、真顔のまま、続ける。
「半分は、冗談です」
「もう半分は?」
ラウルが聞くと、ダフネは、にこっと笑った。
「検討してくださっても、いいですよ」
陛下が、吹き出した。
父が、居住まいを正した。
「約束された報酬を、いただけるのであれば、異存はありません。婚約破棄でも円満な婚約解消でも、契約が完遂されるなら、問題ありません」
「ええ。我が家は、形式にこだわりませんわ」
母が、にっこり頷く。ハロンも、グレンも、ニコラも、次々に頷いた。あっさりと、全員一致だった。
ラウルは、小さく息を吐いた。
「ティナ嬢は、どうでしょう」
「わたくしは、契約が完遂されて、旅に出られるなら、どちらでも構いませんわ!」
ティナは、即答した。それから、はっと、顔を曇らせた。
「……あの、でも、第七幕は……せっかく、扇の角度まで、百回練習しましたのに」
すると、ルチアが、そっと小声で言った。
「私も、台本を、全部暗記しましたのよ」
「ルチア様……!」
二人は、手を取り合って、しんみりした。周囲の大人たちは、笑いをこらえて、肩を震わせていた。
ひとしきり笑ったあと、ラウルが、静かに立ち上がった。
「……最後に、もう一つだけ。皆様の前で、お話しさせてください」
「まだ何かございますの?」
「契約とは、別の話です」
ティナは、不思議そうに首をかしげた。向かいの席で、ダフネの目が、きらりと光った気がした。
* * *
ラウルは、深く息を吸った。指先が、氷のように冷たい。国境の村で、怒鳴り合う男たちの間に入ったときでさえ、こんなことにはならなかったのに。
「ここからは、王子としての義務ではありません。僕個人の、わがままです」
陛下には事前に伝えてある。「好きにせよ」と、ひどく楽しそうに言われた。
「まず、資料をご覧ください」
徹夜で仕上げた冊子を配っていく。表紙には「旅程案および費用試算表」と、きっちりした字で書かれていた。
「資料?」
ティナが、目を丸くして冊子を受け取る。ペルシエ家の面々も、顔を見合わせながら、ぱらぱらとめくり始めた。
(求婚の言葉は、三日で四十七通り考えて、全部、捨てた)
彼女に響くのは、愛の言葉ではない。条件だ。ずっと一番近くで見てきたのだ。それくらいは、分かる。
「ティナ。君が、世界を旅したいことは、知っている。だから、それを諦めてほしいとは、思わない」
「ええ。旅には出ますわよ! 南の海へ!」
「……僕と、結婚してくれないか。そして、外交官として、一緒に世界を回ってほしい」
会議室が、しん、と静まった。
ハロンが、椅子ごと、後ろにずるりと滑った。ティナの母が、口に手を当てる。ダフネは、無言で、資料の二ページ目をめくった。
「…………結婚?」
ティナが、ぱちぱちと瞬きをした。数秒の間。それから、彼女は、すっと身を乗り出した。
「それは、どういう条件で?」
(食いついた!)
「まず、行ける場所だ」
全員が、資料の一ページ目を開く。
「外交官は、一般の旅人が入れない場所にも、入れる。東のオルダ連邦の王立天文台。西の群島の王宮植物園。そして、北のエルム大学の、写本庫」
「……写本庫」
ティナの声が、かすれた。
「君が十歳のとき、王宮の図書室で、古い写本を一冊、三日かけて書き写したことがあっただろう。閉館の鐘が鳴っても気づかなくて、僕が迎えに行った」
「……ありましたわね、そんなこと」
「エルム大学の写本庫には、同じ系統の写本が、百冊以上ある。閲覧の許可は、交渉次第で取れる。……取る」
ダフネが、小さく「効いてるわね」とつぶやく。
「珍しい動植物も、同じだ。雨上がりの庭で、君は、見たこともない虫の名前を調べるために、図鑑を三冊ひっくり返していた。あの図鑑にも載っていない生き物が、世界には、まだたくさんいる」
「……っ」
「そして、南の、ラグナ海」
ティナが、ばっと立ち上がった。椅子が、がたんと鳴る。
(知っている。君の手帳の裏表紙に、魚の絵と、その名前が書いてあることを)
「通訳は、つけない。現地の言葉は、君が自分で学べるように、各地に、最低でも一週間は滞在する。『これは、なんて読むんですか』と聞く時間を、たっぷり取る」
「それは、最高ですわ……!」
「次に、費用だ。移動も、宿泊も、護衛も、すべて公務の経費として、国が負担する」
「船賃も?」
「船賃も」
「港の宿代も?」
「宿代も」
ティナは、少し言いにくそうに、こほんと咳払いをした。
「実は、わたくし、貨物船の下働きとして、南へ渡るつもりでしたの」
「…………は?」
最初に叫んだのは、ティナの父だった。
「貨物船!?」
続いて、ハロンが、グレンが、ニコラが、ロミとロナまでが、いっせいに叫ぶ。ティナの母が、ふらりとよろめいて、レミとペトラに支えられた。
「甲板の掃除と、帆の繕いなら、港の水夫さんに習いましたわ!」
「誰が教えたんだ、そんなことを!」
ラウルの顔から、すうっと血の気が引いた。
「それは、却下だ。……いや、却下というか、提案を、改良させてくれ。僕の案のほうが、安全で、快適で、何度でも行ける」
「なるほど……」
ティナは、ふむふむと頷いた。ペルシエ家の面々が、どっと安堵の息をつく。
「結婚を前提にしているのは、理由がある。婚約者のままでは、公式随行の枠が取れない。配偶者であれば、全行程が公務扱いになり、費用も、入国の許可も、まとめて通る」
「制度としては、合理的ですね」
ダフネが、資料をめくりながら、真面目な顔で言った。ティナが「そうですの!」と目を輝かせる。
(嘘では、ない。ただし、動機の一割だ。残りの九割は)
その先は、考えないことにした。
「期間は?」
「年に、八か月から十か月。残りは、帰国して、報告と準備にあてる」
「家族とは、会えますの?」
「年に一度は、必ず帰国する。式典や、祝い事のときも、必ずだ」
「同行者は?」
「護衛が数名。それと、船は、僕も一緒だ」
「船酔いは、お強いのですか?」
「僕は、強い」
「……そうですの?」
「先月、特訓した」
ティナが、じっとラウルを見た。ラウルは、目をそらした。ルチアが、扇の陰で、肩を震わせている。
「それと、ルチア姫は、エスタリアに、女性にも開かれた学術院を作る計画をお持ちだ。旅先で集めた書物や知識は、そこにも送ることになる。君が好きなだけ、調べて、書き残せばいい」
「学術院……! それは、素敵ですわ!」
ルチアが、嬉しそうに微笑んだ。
ここまでは、完璧だ。ティナの目は、これ以上ないほど輝いている。ラウルは、資料の最後のページを開いた。
十二年間、ティナは、何かを見るたびに、必ず口にした。
『これ、ハロン兄様が好きそう』
『ダフネ姉様に、似合いそう』
『ロミ姉様とロナ姉様に、見せてあげたいな』
彼女の夢の真ん中には、いつも、家族がいる。だから、この条件は、最後に取っておいた。
「そして」
ラウルは、ペルシエ家の面々を、ゆっくりと見渡してから、言った。
「家族へのお土産も、経費で落ちます」
ティナの動きが、止まった。
ペルシエ家の面々も、止まった。
「…………もう一度、おっしゃってくださいませ」
「家族へのお土産も、経費で落ちる。ご両親と、君の兄上、姉上、全員分だ。外交上の贈答品、という名目で」
資料を見ていたダフネが、顔を上げた。
「『全員分』と、書いてありますね。三ページ目の、脚注に」
「ええ。脚注に」
ティナは、しばらく黙っていた。目が、遠くを見ている。頭の中で、お土産の山を、数えているようだった。
「…………ありですわね」
それから、ぱっと顔を上げる。
「お受けしますわ!」
「……え」
「写本庫に、ラグナ海に、家族へのお土産。こんな条件、断る理由がありませんわ! あ、でも、一つだけ条件を。旅の記録は、わたくしにも書かせてくださいませ!」
「も、もちろん」
「では、決まりですわね!」
あまりにあっさりと。ラウルのほうが、ついていけなかった。
すると、隣で、ティナの父が、小さく笑った。
「殿下。あの子は、昔から、ああなんです」
「……と、いいますと」
「見たいものがあると、迷わない。五歳のときも、そうでした」
父親の目は、少しだけ、潤んでいた。
「十二年前、あの子は『お魚が見たいからやる』と、自分で決めました。今日も、同じ顔をしています。……殿下は、よくあの子を、見てくださっている」
ラウルは、何も言えなかった。ただ、深く頭を下げた。
「条件で選ぶなんて、ティナらしいですわね」
ルチアが、楽しそうに拍手を送る。陛下が、ごほんと咳払いをして、立ち上がった。
「では、新しい契約書を作ろうか。……十二年前のものより、ずっと、明るい文面にしたいものだ」
「私が、三度、読みます」
ダフネが、すかさず言った。
ペルシエ家が、わあっと沸いた。ティナの母は、涙ぐみながら笑っている。ハロンは、まだ椅子から落ちたままだ。
ラウルは、そっと、胸に手を当てた。
(愛されたわけでは、ない)
彼女が選んだのは、旅の条件だ。自分ではない。
けれど、これで、彼女の隣にいる権利は、手に入れた。いつかきっと、振り向いてもらえる日が来るまで、この場所を、手放さなければいい。
「……まずは、隣にいられるだけで、十分だ」
小さく、つぶやいた。
「え? 何かおっしゃいました?」
ティナが、きょとんとして振り返る。
「いや。独り言だ」
ティナは首をかしげたが、すぐに資料に目を戻した。「ここの滞在日数、もう少し増やせませんの?」と、さっそく交渉を始めている。
ダフネが、ラウルの隣に来て、ぽん、と肩をたたいた。
「殿下。苦労しますよ」
「……覚悟の上だ」
ラウルは、苦笑して頷いた。
* * *
数か月後。ラグナ海。
朝焼けの海に、一隻の船が浮かんでいた。ティナは、甲板の手すりに身を乗り出して、水平線を見つめていた。
その瞬間だった。
海面が、ぱっと光った。
銀色の魚の群れが、波間から、一斉に飛び出したのだ。朝日を受けて、きらきらと光りながら、空を滑るように飛んでいく。何十、何百と、数えきれないほど。
「……あ」
声が、出なかった。
絵本の絵より、ずっと小さい。手のひらほどの大きさしか、ない。けれど、絵本のどんな絵よりも、ずっと、ずっと美しかった。
五歳の自分が、胸の中で、跳ねている。
「ティナ」
隣で、ラウルが、ぽかんと口を開けていた。
「あれが、君の見たかったものか」
「ええ! ええ、そうですわ! 本当に、飛びましたわ!」
ティナは、手すりをぎゅっと握りしめた。視界が、じんわりと、滲んでいく。
ふと、気づくと、ラウルが、魚ではなく、ティナの顔を見ていた。
「殿下。魚は、あちらですわよ?」
「……ああ。見ている」
ラウルは、慌てて視線を海に戻した。耳が、なぜか赤い。
(船酔いかしら?)
その夜、ティナは、船室の机で、手紙を書いた。
* * *
ひと月ほどあとの、ペルシエ家の食卓は、いつものとおり、にぎやかだった。
十一人分の椅子。奪い合いのスープ。中央には、今日届いたばかりの、一通の手紙が置かれている。
ハロンが、咳払いをして、読み上げる。
「『お父様、お母様、兄様、姉様へ。ティナは、ついに、空飛ぶ魚を見ました。絵本の絵よりも、ずっと小さくて、でも、ずっと綺麗でした。絵本の絵は、少しだけ嘘でしたけれど、本物は、それよりもずっと素敵でした。五歳のときの約束を、守ってくださって、ありがとうございます。わたくし、世界で一番、幸せです』」
食卓が、しんとした。
母が、そっとハンカチを目に当てる。父が、天井を仰いだ。
「……よかった。本当に、よかった」
「夢が叶ってよかったね! 頑張ったもんね!」
ロミとロナが、声をそろえて、泣き笑いをしている。
「続きがあるぞ。『追伸。殿下は、魚よりも、なぜかわたくしの顔ばかり見ていらっしゃいました。お船酔いでしょうか。少し心配です』」
「…………」
「…………」
食卓の全員が、無言で、顔を見合わせた。
ダフネが、こめかみを押さえた。
「……あの子、まだ気づいてないのね」
「殿下も、気の長いことだ」
グレンが、ぼそりと言った。
気を取り直して、ペトラが、身を乗り出す。
「さあ、結婚式の準備を進めましょう! ドレスの生地は、私が織るわ!」
「花束は、私が薬草園のお花で!」
ニコラが続く。
「ドレスを見たら、ティナ、驚くかなー」
「とびきりのお姫様にしなきゃ!」
みんなが、わあっと盛り上がった、そのときだった。
ばたん、と玄関の扉が開いて、配達人が、もう一通の手紙を、振りかざした。
「ペルシエ家に、急ぎの便です! ラグナ海から、二通目が!」
ダフネが、ひったくるように受け取り、封を切る。
「『追伸の追伸。次は、北の氷原で、オーロラを見に行きます。その後は、東の砂漠で星を見て、西の群島で花を見て、予定がぎっしり詰まっています! 帰国の予定は、まだ決まっていません。とっても楽しみです!』」
食卓の全員が、青ざめた。
来年の秋に決まった、結婚式。そのための、ドレス、花、料理、招待状。
ハロンが、震える声で言った。
「……結婚式の日、帰ってこられるよね!?」
十人分の叫びが、食卓に、響き渡った。
はるか海の向こうでは、ティナが、続きの手紙の書き出しに迷いながら、また空を渡っていく銀色の魚たちを、いつまでも見送っていた。
隣では、ラウルが、同じ空を見上げている。
二人の旅は、まだ始まったばかりだった。




