エモいという言葉について
「エモい」という言葉は、便利だ。
夕暮れの教室を見ても使える。昔よく聴いていた曲を久しぶりに耳にしても使える。古い写真にも、夏祭りの帰り道にも、何年ぶりかに会った友人にも使える。
便利すぎるせいか、ときどき批判される。何でも「エモい」で済ませてしまう。語彙が足りない。ちゃんと自分の感情を言葉にしたほうがいい。
たしかに、それは間違っていない。「エモい」と感じたものを丁寧に分解してみれば、そこにはきっと、懐かしさがあり、寂しさがあり、美しさがあり、切なさがあり、もう戻れない時間への喪失感がある。ならば、それらを正確に言葉にしたほうがいいようにも思える。
けれど、少し妙なことがある。
「これは悲しく、美しく、懐かしく、失われていく時間への寂しさを感じさせる」
そう百文字近く使って説明するより、
「……エモい」
たった四文字のほうが、場合によっては多くのものを伝えてしまう。
なぜだろう。
おそらく、「エモい」という言葉そのものには、それほど多くの意味は入っていない。むしろ逆だ。意味が足りない。
足りないからこそ、聞いた人間が自分の中にあるものを使って、その空白を埋める。夕焼けを見て誰かが「エモい」と言ったとき、聞いた側は自分の知っている夕暮れを思い出すかもしれない。
部活帰りの校庭。
祖父母の家から帰る車の中。
好きだった人と歩いた道。
もう取り壊された小学校。
名前すら覚えていない誰かと遊んだ夏休み。
話している人間が、そのどれを想像していたのかは分からない。それでも、なぜか「分かる」と思える。
考えてみれば、不思議なことだ。
二人の人間が同じ「エモい」という言葉を使っていても、その胸の中にある感情が同じだという保証はどこにもない。それなのに、会話は成立する。むしろ完全に説明しないからこそ、成立しているのかもしれない。
言葉というものは、本来そういうものなのだろうか。
私たちは普段、言葉によって自分の考えていることを他人へ渡しているつもりでいる。けれど本当に渡しているのだろうか。
たとえば「海」という言葉を聞く。ある人は真夏の青い海を思い浮かべる。ある人は冬の灰色の海を思い浮かべる。ある人は家族旅行を思い出す。ある人は溺れかけた記憶を思い出す。
同じ二文字を聞いているのに、頭の中に現れるものはまるで違う。
つまり言葉は、ものそのものを相手へ渡しているわけではない。言葉とは、おそらく指差しに近い。
「このあたりにあるものを思い浮かべてください」
そう他人の記憶へ向かって指を差している。そして「エモい」は、その性質が極端に強い言葉なのだと思う。
悲しい、嬉しい、懐かしい。そう言えば、感情の種類はかなり限定される。しかし「エモい」は限定しない。悲しいかもしれない。嬉しいかもしれない。懐かしいかもしれない。全部かもしれない。
その曖昧さが、欠点であると同時に力でもある。
言葉が少ないのに、受け取るものは多い。普通に考えれば奇妙な話だ。情報を増やせば、伝わるものも増えるはずなのだから。
ところが感情については、必ずしもそうならない。説明すればするほど、こぼれ落ちてしまうものがある。
夕暮れを見たときの感覚を、
太陽光が大気中を長く通過することで短波長の光が散乱し、赤や橙の光が目に届いている。
と説明することはできる。それは正しい。
けれど、その説明のどこにも、放課後の寂しさはない。昔好きだった人を思い出す理由もない。今日という一日が二度と戻ってこないという、妙な感覚もない。
正しい説明と、本物は違う。
ここには一つ、大きな問題がある。
もし世界に存在するもののすべてを言葉にできるのなら、十分に長い説明を書けば、人間の経験は完全に再現できるはずだ。
美しい景色も。
恋も。
喪失も。
幸福も。
死への恐怖も。
けれど、どうもそうではない。
どれだけ詳しく説明されても、初恋そのものを経験したことにはならない。コーヒーの味を一万文字で説明されても、一口飲んだことにはならない。誰かを失う悲しみについて何冊読んでも、その人を失った人間とまったく同じ場所には立てない。
世界には、言葉によって知ることのできるものと、経験によってしか知ることのできないものがある。そしておそらく、「エモい」と呼ばれているものは、その境界にある。
言葉にしたい。でも、完全には言葉にならない。
だから人間は、とりあえずそこへ名前を付けた。
「エモい」。
そう考えると、この言葉はずいぶん奇妙だ。
何も説明していないようでいて、
「私は今、簡単には説明できない何かを感じている」
ということだけは、非常に正確に伝えている。
もしかすると、それがこの言葉の本当の意味なのかもしれない。
「エモい」とは感情の名前ではない。
感情が言葉からあふれている状態の名前なのだ。
だから、「エモい」を言語化しようとすることには矛盾がある。言語化できないからこそエモいものを、言語化しようとしている。
けれど、その矛盾は悪いものではない。むしろ文学も、音楽も、絵画も、ずっと同じことをしてきたのではないだろうか。
完全には伝えられないものを、それでも伝えようとする。言葉にならない感情へ、できるだけ近い言葉を置いてみる。届かないと分かっていながら手を伸ばす。
小説を書くという行為だって、おそらくそうだ。
作者の頭の中にある景色を、読者へそのまま渡すことはできない。できるのは文章を置くことだけだ。そこから先は、読者自身の記憶や経験が世界を完成させる。
ならば、名文とはすべてを説明する文章ではないのかもしれない。
読者の中にあるものを、うまく呼び起こす文章なのだ。
百の言葉で一つの感情を説明することもできる。けれど、たった一つの言葉が、百の感情を呼び起こすこともある。「エモい」は、その小さな証明なのかもしれない。
そしてもしそうなら、少し怖くて、少し面白い結論になる。
私たちは言葉によって世界を理解していると思っている。けれど本当は、言葉で世界そのものを捕まえているわけではない。言葉を手がかりに、自分の中に世界を作り直しているだけなのかもしれない。
ならば、人間は同じ世界を見ているのだろうか。
たぶん、完全には見ていない。それぞれが少しずつ違う世界を見ている。
それでも「綺麗だな」と言えば、
「綺麗だね」と返ってくる。
「エモいな」と言えば、
「分かる」と返ってくる。
本当は何を分かっているのか、お互いに確かめることすらできない。それでも人間は、分かり合えたと思う。
もしかすると、人間同士が理解し合うというのは、完全に同じものを見ることではないのだろう。
違うものを見ながら、
「たぶん、あなたにも何かあるんだろう」
と信じることなのかもしれない。
そう考えると、「エモい」という言葉が少しだけ好きになる。
曖昧で、雑で、便利で。どうしようもなく不完全な言葉。
けれど、その不完全さの向こう側にあるものを、私たちはなぜか分かった気になれる。
そして案外、世界で一番大切なものというのは、
そういう「完全には言葉にならないもの」の中に隠れているのかもしれない。




