ヴィオラの愛でキャンバスを染めて
夕暮れ時の美術室
「リョウ、何描いてるの?」
「ダメダメ、ナイショ」
イーゼルの前から覗き込もうとしたミユキに、リョウは照れくさそうに両手を出す。
「怪しいなぁ」
ミユキが笑いながら訝しむ。
「課題の練習だよ」
「リョウ、やっぱり美大受けようって考えてるの?」
「え、うん…まだ迷ってる…」
リョウがうつむいた。迷いがあるリョウを察して、ミユキは努めて明るく振る舞った。
「ね、今私も終わったところなの。一緒に帰れそう?」
学校からの帰り道、進路についてとりとめもない話を、いつも交わしていた。
「ミユキの方は順調?」
「そうでもないよ、なかなか先生厳しいよ」
ミユキが笑いながら言う。
「山下先生かぁ。でも、山下先生といえば、ヴィオラ会では世界に名前が知られている人だもんなぁ。すごいよ、そんな人に教わるなんて」
リョウが感心した表情でミユキを見る。
ミユキは両親とも音楽家で、自身も幼い頃から音楽に触れて育った。その中でヴァイオリンを学び、途中からビオラを選んだミユキは、国内のコンクールで何度も優勝を重ねている。今では、音楽界で稀代の奏者として、将来を嘱望されている。
山下先生もまた、大学時代に欧州へ留学し、各国でヴィオラ奏者として活躍してきた経験がある。世界的な奏者としても知られ、現在はミユキが高校で専攻する音楽科の特任講師として、指導にあたっている。
十字路に来た。ここから二人は右と左に分かれる。
「じゃあね、リョウ。また明日」
二人は手を振った。
リョウの実家は診療所を営んでいる。丁度出てきた親子連れとリョウはすれ違った。
「ただいま」
「今日は遅かったのね。また課題?」
「そうだよ」
そう言うと、リョウは自室に入った。程なくして、ドアがノックされると妹が入ってきた。
「お兄ちゃん、ちょっと良い?」
リョウが頷く。
「お兄ちゃん、ほんとに美大受けるの?お父さんは、ゆくゆくはお兄ちゃんに継いでほしいと思っているみたいだけど」
「知ってるよ」
「でもお兄ちゃんが美大行くなら、私が医大受けようかと思う。良い?」
「お前がそれで良いなら、俺は構わないよ」
「私が良いかどうかじゃなくて…まぁいいや」
妹はため息をついて、部屋を出ていった。
翌日
ミユキは六時間目の授業を終え、片付けをしている。
山下先生が近づいてきた。
「このあと、放課後に話があるの、良い?会議室に来てくれるかしら」
「分かりました」
10分後、ミユキが会議室のドアを開ける。そこには山下先生と、ミユキの母がいた。
「お母さん!え、どうして…」
「驚かせてごめんなさいね。大切なお話なので、お母様もお呼びしたの」
山下先生が言う。
ミユキが母の隣に座ると、山下先生が机に書類を数枚置いた。
「昨年のクリスマスコンサート、覚えてる?」
それは、「東京アリーナ」という大きなホールで行われたもので、「銀河交響楽団」と一緒に、ミユキの所属する音楽科も演奏を行った。
「実は、あなたを招きたいという話なの」
「え…」
銀河交響楽団の名誉団長が学長を務める音楽大学に、ミユキを特待留学生として招きたいという強い意向が、山下先生に伝えられた。
「ドイツ…ですか」
ミユキは、絞り出すように声を出した。
「そう。ドイツのニュルブルク国際音楽大学。クルム学長が、あなたのヴィオラの才能に聴き惚れたって」
山下先生が笑顔で話し、音大のパンフレットを置く。だが、ミユキは戸惑いが隠せなかった。
「但し、条件もあるの。一つだけね」
ミユキが顔を上げる。
「年末の『日本コンクール』。ここで、準優勝以上の結果が出せたらということ」
「日本コンクールですか…」
ミユキは両手で顔を覆った。
「日本コンクール」は、日本国内のピアノ、弦楽器などの奏者が一同に集い、技術を競う、歴史あるものだった。
コンクールに出場できるだけでも名誉とされるが、さらに、それぞれの部門で優秀な成績を収めると、音大への推薦、特待生などの門が開かれる。
「あなたの腕なら、上位入賞は難くないと私は思っているの」
山下先生は、ミユキを見据えて言う。だがミユキは戸惑いを隠せない。
「まぁ無理もないわよね、突然の話だから」
山下先生は、母親の方へ向き直る。
「ミユキさんは、将来を嘱望される、本当に稀有な存在です。私としても、留学のための推薦入学を、ぜひ勧めたいと思っていた矢先でした」
母親は真剣な表情で、山本先生を見る。母親もまた幼い頃からピアノを学び、現在はピアノ教室を開いている。
ゆえに、ミユキのおかれた状況は、母親もよく理解していた。
山下先生は、優しく笑みを浮かべて言った。
「これは、ミユキさんのこれまでの努力と技術が、正しく評価された結果であると、私は思っています」
ミユキが会議室から出てきた。そこにリョウが通りかかる。
「ミユ…あれ…」
リョウはミユキに続いて、ミユキの母親が出てきたのを目にした。
二人が会議室にいる山下先生に向かって、頭を下げていた。
「あら、リョウ君」
ミユキの母親が、リョウに気づいた。リョウが頭を下げる。
ミユキとリョウは幼なじみで、親同士もよく知る仲だった。
「あ…俺、美術室行くとこで…」
空気を察したリョウは、そのままその場を離れた。
ミユキと母は、帰り道にカフェに立ち寄った。
「ミユキ、とても素晴らしいお話よ。私は、あなたにこのお話を受けて欲しい」
ミユキは両手でコーヒーカップをおさえたまま、うつむいている。ラテアートのうさぎがどんどん崩れていく。
「ねぇお母さん…今じゃなきゃ、駄目なのかな…」
「今を逃したら…」
母親が不安げな表情をし、話し出す。
「分かる、分かるよ。こんなチャンスは二度とない。嬉しくないわけないよ」
母親に被せるようにミユキは答えた。
「もしかして…リョウ君のこと…?」
母の問いに、ミユキが小さく頷く。
ミユキは幼い頃から音楽家として、高く評価され続けてきた。しかし、中学で出会ったリョウは、ミユキをクラスメイトとして、一人の女の子として接してくれた。
リョウは、ミユキが「ヴィオラ奏者」という鎧を脱げる、唯一の存在だったのだ。
ミユキは音楽、リョウは美術という違いはあれど、芸術を愛する者同士の感性で、心は通じ合っていた。そして、そんな二人が惹かれ合うのに、時間は要さなかった。
翌日、ミユキは学校の屋上にリョウを呼び出し、「日本コンクール」出場と、上位入賞すれば、特待生留学となる話を伝えた。
ミユキの顔に笑顔はなかった。二人の間にしばし、沈黙の時間が流れる。
沈黙を破ったのは、リョウだった。
「ミユキ…チャンスを逃すな」
ミユキは押し黙ったまま、うつむいている。
「ミユキの実力なら、これからもチャンスは掴めると思う。でも、ミユキだからこそ、チャンスの方からやってきたんだ」
ミユキが顔を上げ、リョウを見る。リョウは両手をポケットに入れ、ミユキに背を見せる。
「挑戦しろよ」
帰り道、リョウは自宅前までミユキを送った。ここまで二人は言葉を交わさない。
「私、どうして良いのか分からない…」
そう言うと、ミユキはリョウの胸で嗚咽した。
「お互い…全力を尽くそう。今は、それだけを考えよう、な」
リョウはハンカチをミユキに渡した。
「日本コンクール」の日は、リョウの大学入試の日でもあった。リョウもミユキも、同じ日に勝負をかける。
それからというもの、ミユキは一日の殆どをヴィオラの練習に費やした。平日は学校で、山下先生が付きっきりの指導をしている。
その日も音楽室に、ミユキと山下先生がいた。
「ちょっと止めて」
演奏を続けるミユキを、山下先生が止めた。
「いつものあなたじゃない」
「え?」
「あなたの世界になってないの。あなたの音が出てないわ」
ミユキは戸惑っていた。
「清らかで美しくて、湧き水のように澄んだ音色が、あなたの持ち味」
山下先生がミユキの正面から、肩に手をかける。
「聴く人が聴けば分かるのよ」
山下先生が微笑む。
「屋上に行きましょ」
山下先生は、手に持っていた紅茶のペットボトルをミユキに渡した。
「一息入れましょう」
柔らかな日差しが射し込んでいる。
「私もね、あったの」
山下先生は紅茶を一口飲んで、遠くを見ている。
「ヴァイオリンからヴィオラに変えた頃。『お前に向いてない!』って。その時師事していた先生から」
「山下先生がですか?」
「そうよ。何十回、いや、何百回かな。『技術と才能は違うんだ』ってね」
ミユキは驚いた目で山下先生を見る。
「そのうち、分からなくなっちゃった。私はヴィオラが好きなのか、ヴィオラが弾けるだけなのか」
山下先生がミユキに笑顔を向ける。
「『才能がない』とまで言われたのよ、ひどいでしょ。そう言われてからね、何かが変わったの。『向いてないなんて言わせない!』ってね」
「それで、山下先生はどうしたんですか」
「弾いてやったわ、先生の前で。そうしたら、『お前の音には、怒りが込められている。魂の音だ!』って。」
ミユキは固唾を飲んで、山下先生の話を聞いている。
「あなたも何かに迷っている。だったら、それを弾いてみたら良いわ。悲しみでも憂いでも良い。それが、あなたにだけしか弾けない、ヴィオラの音色」
[私にだけしか弾けない音色…]
「コンクールはね、正解を出す場所じゃないの。紡ぎ出す音色に、どれだけ人生を乗せられるか。人はね、そこに感動するの」
ミユキが力を込めてペットボトルを握った。
「迷いが駄目なんじゃないの。迷っているのに、それを否定している。迷いも不安も悲しみも、そして喜びも…全部あなただけのものなのよ」
「はい」
ミユキは小さな声で、しかし力強く返答した。
その後、ミユキは一人で音楽室へ戻った。置いてあったヴィオラを手に取り、しばしの間、目を閉じる。
ヴィオラを構えた。弓を持つ手が、わずかに震える。
「怖い…」
「自分の音を出すこと」が、これほどまでに怖いとは…ミユキにとって初めての感情だった。
浮かぶのは、屋上でのリョウの背中。
「挑戦しろよ」
その言葉が静かに蘇る。弓が、弦に触れた。
最初の一音は、かすかに揺れた。その揺れはやがて、溢れる感情へと変わっていく。
抑えきれない想いを、ミユキは音に乗せる。
不安、寂しさ、怖さ、全ての想いを弓に乗せ、音に変えた。
一曲を弾き終えたとき、ミユキは息が切れ、頬に涙が落ちていた。
音楽室のドアが開く。山下先生が入ってきた。
「それよ」
ゆっくりと拍手する。
「それが、あなたの音色」
その声は、どこか晴れやかだった。
一方、リョウも入試に向けて課題に取り組んでいた。
ミユキを後押しした以上、自分も逃げるわけにはいかない。自室に籠もり、イーゼルに乗せられたキャンバスを前にする。
筆を持つ手が、微動だにしない。
「何を表現したら…」
リョウは、ミユキが意を決して屋上で話した、あの時間を思い出していた。ミユキは人生の大勝負に出る。
描きたいもの…それは…分かっている。
でもそれを描いたら、もう戻れない気がしていた。筆を進めるのが怖かったのだ。
リョウの胸に、熱いものがこみ上げてきた。まるで水を得た魚のように、筆が一気に動き出す。
「俺は…俺の画で勝負する…」
決戦の日
ミユキは、東京都内にある巨大コンサートホールにいた。並み居る奏者が日本中からこの場所に集まる。
数多くのコンクールに出場してきたミユキも、今日はこれまでにない緊張感に包まれていた。
リョウは、大学のキャンパスに到着した。入試課題で使う画材の入った鞄を肩に掛け、校舎を見渡す。多くの受験生に紛れ、一歩一歩ゆっくりと校舎に向かい、歩みを進めた。
コンサートホールの幕が開く。司会の女性が挨拶し、一人目の奏者を紹介する。
ミユキは楽屋で、自分の番を待つ。他の奏者も一緒にいるが、誰一人として口を開かない。冷たく、緊張感のある空気が楽屋を支配している。
リョウは筆記試験を終え、実技試験のデッサンが始まっていた。「想像デッサン」というもので、「思い出」というテーマで自由に描くことになった。
これは夕方まで時間を要し、体力と集中力も多分に要求される、過酷なものだった。
多くの受験生が家族や風景を描く中、リョウがキャンバスに叩きつけたのは、ミユキと過ごした日々だった。
[俺にしか描けない画]
イーゼルの前から覗き込もうとしたミユキの瞳。照れくさくて隠した、描きかけのスケッチ。
「上手く描くことではない。想いを形にすることだ」
リョウの鉛筆が、コツコツと音を立てて走る。
「次の方、お願いします」
楽屋に女性スタッフが声をかけに来た。いよいよミユキの出番がきた。コンクールは佳境を迎え、ミユキが最後を締めくくる。
幾つもの照明に照らされたステージの中央へ、ミユキがゆっくり歩いていく。
盛大な拍手が聞こえる。足を止め、客席に向かい、深く一礼する。最前列に、両親と山下先生の姿が見えた。いつもならいるリョウの姿はそこにはない。
数千人の視線が矢のように突き刺さる。
[リョウ…今、あなたも戦ってるよね]
静寂がホールを支配する。
弓が弦に触れる。
[私だけの音色…]
ミユキが奏で始めたのは、バッハの「無伴奏チェロ組曲」を、ヴィオラ用に編曲したもの。
最初は、ゆっくりと、そして静かに雪が降り積もるような音色。だが、中盤に差し掛かるにつれ、厚く、深みを増した音色がホールを包んでいく。
それは「清らかで澄んだ音」という、これまでのミユキの殻を破る、剥き出しの感情が溢れていた。熱く、叫ぶような魂の揺らぎが込められている。
未来への不安、入賞すれば、離れ離れになるリョウへの想い、悲しみ、切なさ…全ての想いを全身で、全力で音色に変えた。それは、聴衆が思わず息を飲むほどだった。
そこにいたのは、天才奏者のミユキではなく、人生の全てをヴィオラで奏でた一人の女性だった。
そしてリョウもまた、手に握る鉛筆に力を入れた。ステージで戦うミユキを想い、魂を込めてキャンバスを染める。
「ミユキ、絶対に勝て」
勝てばミユキはドイツへ渡る。会いたい時に、もう会えない。寂しい、辛い…その切なさを鉛筆に乗せ、リョウはキャンバスに思いの丈をぶつけていく。それは、傍を通りかかった試験監督が、思わず足を止めてしまうほどだった。
「これが、今の俺にしか描けない絵なんだ」
ミユキは演奏を終え、弓を握る手を下におろした。一瞬の静寂の後、ホールは割れんばかりの拍手に加えて、スタンディングオベーションが起きた。
ミユキは深く頭を下げた。顔を上げると、再び拍手の音は大きくなっていた。
ステージの幕が降り、ミユキは舞台袖へと下がっていく。そこには、山下先生が立って拍手をしていた。
ミユキは何も言わず、山下先生の身体へ倒れ込むように抱きついた。
リョウもまた試験終了と同時に、鉛筆を置いた。魂が抜けた様に、椅子にへたり込んでしまった。もう、立ち上がる気力すら失われていた。
二人は全力で戦った。
時は過ぎて、三月。春の到来を予感させる暖かいある日、ミユキの自宅の前には、ミニバンのハイヤーが止まっていた。
家の中から運び出されたスーツケースを、運転手が車に載せる。
紺色のワンピースを着た女性が、家の中から出てきた。
「ミユキ!」
その声に、車に乗ろうとした女性が気づいた。
「リョウ!来てくれたの?」
声の主のところへ、ミユキが駆け寄った。
「行くんだね…身体に気をつけて」
リョウが静かに声をかける。
「うん…」
ミユキはうつむいている。しばしの時間が二人を包む。
「空は繋がってる。会いたくなったら…」
リョウが言う。
「いつでも来てね」
ミユキが必死に笑顔を作ってリョウに言う。これ以上話すと、声が出せなくなりそうだった。
「それ、俺のセリフ」
ミユキとリョウは、互いに見つめ合って笑った。
ハイヤーがリョウの前からゆっくり発進する。リョウは見えなくなるまで、ずっと手を振った。
二ヶ月後、ヴィオラを練習していたミユキの部屋のインターホンが鳴らされた。
ドアを開けると、長方形の大きな箱が届けられた。箱を開けると、中には板状のものが入っていた。
ミユキは不思議に思いながらそれを取り出し、包装紙を剥がす。キャンバスだ。
そしてそこには、楽しそうにヴィオラを弾く、ミユキの絵が描かれていた。
終




