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ことばの地図

作者: トミヤマ
掲載日:2026/02/20

プロローグ


 言葉というものは、不思議だと思う。


 毎日使っているのに、自分の言葉は意識しない。水中の魚が水を意識しないように。


 でもある日、誰かに言われる。


 「あなたの言葉、変だよ」と。


 そのとき初めて、自分がずっと何かを背負って歩いてきたのだと気づく。それは、遠くから運ばれた、目に見えない荷物のようなものだった。


 私の名前は黒田和美。これは、私とことばの話だ。



一. 訛りとの出会い


「黒田さんって、訛っとうよね」


 中学一年生の春、教室に差し込む四月の陽光がまだどこかよそよそしいあの季節に、その言葉は唐突にやってきた。


 声の主は隣の席の男子、田村という名前の少年。色白で前髪が少し目にかかる、それくらいしか特徴はない。


「え……」


 私は反応できなかった。突然話しかけられたことと、その内容で言葉が詰まったのだ。


「ほら、次の発表、黒田さん」


 教科書を開いて朗読する。周囲の視線が集中するのを感じたが、その意味はわからなかった。顔が熱くなり、今すぐ逃げ出したかった。


 席に戻ると、田村はまた言った。


「やっぱり訛っとう」


 言い返したい気持ちはあった。でも、声が出なかった。



 私は小学一年生の夏、父の転勤で関西から九州に越してきた。幼い私はそれを冒険のようにも、世界の終わりのようにも感じた。


 六年経ち、小学校で友達もでき、方言にも慣れた。もうすっかり『こちら』に馴染んだと思っていたのに。


 時々、先生やクラスメイトの言葉がわからないこともあった。そのときは、真美に聞いた。

 小学三年生からの親友で、くるくる巻き毛の快活な女の子。九州の言葉を自然に話す。


「シャアシイってどういう意味?」


「ああ、『うるさい』くらいかな」


「うち、訛っとるんかな?」


「そんなことないよ」


 真美はいつもそう言ってくれた。そのやさしさが嬉しく、少しだけ悲しかった。気にしないでくれるということは、聞こえているのかもしれない。



二.ピアノ


 中学二年生の秋、放課後に二人で小さな喫茶店に入った。橙色の光が差し込み、銀杏の葉がひらひらと落ちている。


「うち、小さい頃ピアノ習っとったんよ」


 真美が目を輝かせて言った。


「もう一回言って」


「……え?」


「ピアノ」


 確かに、私の発音は『ピ』にアクセントがあり、真美の発音は平坦だった。


「和美のは少し訛っとる。でも気にせんで良かよ。これまで生きてきた証みたいなもんやん」


 そうだろうか。

 でも私は『皆と同じ』でいたかった。こちらに馴染みたかった。六年経っても、まだ「よそ者」だと感じる何かがあった。



三.にほんじん


 社会人二年目、総務課に配属された私は、後輩の根本さんと給湯室で世間話をしていた。


「黒田さん、ウケる!」


「え、何が?」


「日本人の言い方! おかしすぎる!」


 根本さんの笑い声を聞きながら、私は「にほんじん」と言い直す。でも、やはり「に」が少し上がってしまう。


 幼い頃に覚えた発音は、簡単には抜けない。


 その夜、一人で残業しながら窓の外を見る。白い息を吐きながら、つぶやく。


「にほんじん」


 直らない。でも、もしかしたらそれでいいのかもしれない。



四.ことばの地図


 帰省した冬、久しぶりに真美に会った。結婚して遠くに住む彼女と駅前のファミレスで話す。


「覚えてる? 喫茶店でピアノの発音がおかしいって言われた話」


「覚えとうよ。和美、真剣な顔しとったけん」


「今でも直らんとよ」


「『にほんじん』?」


「そう」


「関西の人はね、そこにアクセント来るっちゃんね」


 真美はそっと言った。


「笑われたこともあるやろうけど、珍しかっただけやし、悪くないよ。和美のは生きてきた証みたいなもんやん」


 ファミレスを出て、冬の空気を吸いながら歩く。駅へ向かう道で小さく声に出す。


「ピアノ」


「にほんじん」


 直らない。でも、それでいい。

 これが私のことばの地図だから。



エピローグ


 何年か経って、私は地図を見るのが好きになった。日本地図に刻まれた方言の境界線をたどると、言葉が人の歩んできた道を映すことに気づく。


 私の「ピアノ」の発音には関西の地図がある。「にほんじん」の「に」のアクセントには、大阪で吸い込んだ空気がある。九州の言葉も、真美の声も、すべて私の一部だ。


 言葉は地図。どこから来て、どこを通り、誰と話し、誰に受け入れられたか──すべてが声となる。


「ピアノ」


「にほんじん」


 今日も「ピ」が上がる。

 でも、それでいい。


 今日も誰かと話しながら、私は自分の地図を少しずつ広げている。



──完──

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