日常
———1976年。
ロンドン。少し前に建てられたマンションの一室。
埃っぽい曇り空の下、道端にうずくまる男がいる。少し離れた場所では、年齢の分からない子供が手を見るともなく差し出していた。
その光景を、あまり清潔とは言えないベランダからぼんやり眺めながら、タバコの煙で喉を潤す。
「ひどい時代だな」
タバコを揺らし、そう思うだろ、と言うように振り返って、彼に声をかける。
狭い部屋だ。七、八畳ほど。窓際にベッド、その反対側に一人用の机と椅子。クローゼットは壁際に押し込まれている。
タバコを燻らせたまま、ゆっくりと彼に近づく。
彼は立たない。
椅子に座ったまま、掠れた呼吸音だけが部屋に残る。副流煙が鼻をくすぐる。
肺に残った煙を吐き出し、灰皿にタバコを押し付ける。
「可哀想に。君はもうタバコを吸えない」
いつも使っている椅子を彼の正面に運び、腰を下ろす。新しいタバコを咥え、火をつける。
「別に、僕が一日に何十本も吸うようになったのは、時代のせいじゃない」
一口吸い、壁の染みから、彼へと視線を移す。
「もちろん、君のせいでもない」
ため息と共に煙を吐き出し、彼から目線を逸らす。
「そうだな、匂い、だ。」
いつの間にか満杯になった灰皿に、吸い殻をかき分ける様にタバコを押し付ける。灰皿から少し灰がこぼれ落ち、部屋に溜まっている埃の一部に混じった。
「今は別に何も思わないが。」
言葉に被せる様にタバコを咥える。部屋の匂いを確認する様に息を吸う。タバコの匂いがする。
少し上半身を起こし、机にあるラジオを付ける。付けても流れるのは暗い話題だけ。それを噛み締める様に椅子に体を預け、目を瞑る。
「君は路上で野垂れ死なずにすむ。」
何も無い空間に話すように呟く。ラジオからノイズ混じりの声が流れる。どの事件も同じ様なことばかり、早口で捲し立てる様に。
そんな事とは相対して、ここは時間がゆっくり流れる。タバコを深く味わい、煙の流れを目でなぞる。
ふと、時計の針の音が耳に入り、視線を移す。
時計から伸びる影が濃く長くなっているのが目に入った。手先もかなり冷えている。縮こまった体を伸ばす様に椅子から立ち上がり、先程よりノイズが酷くなっているラジオを止めた。
途端に、時計の針の音、昼間より増えた車の走行音が聞こえてきた。時計を眺めていると、自分の瞬きが遅い事に気づいた。
無くなった体温を戻そうと、ベッドへ潜り込む。
軋む音が止み、舞っていた埃も無くなった。
目を開けると、朝日で色合いの変わったカーテンが目に入った。
タバコの匂いが鼻に付き、ゆっくりと上体を起こす。タバコの箱に手を伸ばすと、昨日まで居なかった蝿が止まっていた。




