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第9話 レバーペースト

「あれ、どうした。二人だけか」ウィルヘルムが声をかけた。


 レストラン『ジーズ』のバーカウンターでは、銀のキャンドルスタンドが柔らかな光を投げかけ、棚のボトルをぼんやりと照らしている。


 カウンターの中にはリーチェが立ち、客席側ではハンスがグラスを手にして喉を鳴らしていた。

「お、お疲れ。交渉は上手くいったのか?」ハンスの問いに、ウィルヘルムは、

「まあ、これからだ」と、短く応じ、空いている椅子へ歩み寄る。


 その背後からひょいと顔を覗かせたロキエルが、力なく、疲れ切った声を上げた。「……何食べてるの。私にも、ちょうだい」ロキエルはふらふらとした足取りでカウンターへ歩み寄った。精神的に疲れきって虚ろだったその瞳が、ハンスの前の皿を捉えた瞬間、期待にわずかな光を宿す。


「あぁ、これか。マリに試食を頼まれてな」ハンスがフォークの先で、空になった皿を無造作に指した。

 

「そうよ。マリちゃん、たっての希望なの」リーチェも手元の作業を止めずに、事もなげに頷く。


 ロキエルは身を乗り出し、皿に残ったわずかな痕跡――脂が光る染みと、パンの欠片を凝視した。

「わ、私のレバーペースト……!」あと一歩、到着が早ければ。あと一欠片、残っていてくれれば。 そんな後悔が顔を出し、ロキエルは信じられないものを見たという顔で、石のように固まった。


「別にお前のじゃないだろ」ウィルヘルムの冷ややかな指摘も、今のロキエルには届かない。


「だって、だってマリが昨日から仕込んでいたの知ってるしー! それを糧に、今日のしんどい交渉も頑張ったんだからっ!」


(お前に「しんどい」要素なんてあったのか?)ウィルヘルムは大人である。余計な口は挟まない。


 涙目で抗議するロキエルを余所に、リーチェは手際よくグラスを磨きながら微笑んだ。

「マリちゃんの感心なところよね。自分の料理に絶対的な自信があるのに、決して独りよがりにならない。こうしてみんなの意見を聞いて、柔軟に調整する……あの姿勢は、私も見習わなくちゃ」


「ああ、全くだぜ」ハンスが最後の一欠片を口に放り込み、行儀悪く指を舐めた。

「パンにたっぷり塗ってから出すか、客の好みに任せるか。添えるバゲットの枚数はどうするか、あいつは真剣に悩んでたぜ。……で、結論。これは酒が止まらなくなる」


「そうね。独特の味わいだけど、強めのお酒なら何にでも合うから不思議よね」

「あぁ、高級な銘柄より、酒精のきつい安酒の方が合うな」

 ハンスが愉快そうに笑うと、ウィルヘルムが呆れたように口を挟んだ。


「おい。それは『緋龍』のレバーだってこと、忘れていないか?」


「そうなのよ。そこが驚きで」リーチェが磨き終えたグラスを光にかざす。

「むしろ普通のレバーより癖がなくて、あっさりしているくらい。マリちゃんの技術なのか、緋龍の特性なのか……本当に底が知れないわね」

 

 磨き上げられたグラス越しに、ロキエルの恨めしそうな視線が突き刺さる。リーチェはくすりと笑うと、カウンターの下から長方形の陶器と網カゴを取り出した。コトッ、と、心地よい重みを感じさせる音を立てて置かれたのは、たっぷりとペーストの詰まったテリーヌ型だ。続いて、薄切りのパンが入った網カゴが並べられる。

 

「はい、お疲れ様。ロキとウィルの分はちゃんと取ってあるから。ほら、手を拭いてからにしてね」


「わぁっ! リーチェ、大好きー!」先程までの涙目はどこへやら、ロキエルは、ぱっと目を輝かせた。

「くんくん……この匂い、ニンニク?」

「ええ。マリちゃんが『ガーリックトーストとバゲットで食べ比べをして』って」

リーチェが手際よくレバーペーストを小皿に取り分ける。


「アイツが、そう言うのなら、心して食べ比べてみないとな」と、ウィルヘルムは両方のパンを取って、慎重にレバーペーストを塗り始める。


 リーチェも自分の分のパンをちゃっかりキープしていた。


「ニンニクはいらないだろ」不意に、ウィルヘルムが銀のスプーンを置いて断じた。


「私も、いらないかな。マリちゃんのレバーペーストの風味が、なんだか濁ってしまう気がするの」リーチェが同意するように小さく頷いた。手元のパンには、表面が見えなくなるほどたっぷりとペーストが塗られている。


「私はこのニンニクの辛味が、丁度良いアクセントになると思うけれど」ロキエルは香ばしく焼き上げられたガーリックトーストを手に取ると、リーチェに負けじとペーストを塗り重ねていく。


「はぁ……分かってないな、ウィルもリーチェも。逆だよ、逆。ニンニクを最高に美味しく食べるために、このレバーペーストがあるんだよ」溜息をつき、天を仰いだのはハンスだ。味音痴にも困ったもんだと言わんばかりの口ぶりに、ウィルヘルムが冷ややかな視線を向けた。


「……なら、マリに頼んでニンニクを丸ごと焼いてもらえ」


「無茶言うなよ。そこは程度の問題だろうが」ハンスが苦笑いして肩をすくめたが、ウィルヘルムは納得がいかない様子で皿の上のパンを指さし、不満そうに眉を寄せた。


「そもそもだ。一度美味しく焼かれたパンを、わざわざガーリックトーストとして二度も焼く。時間と燃料の無駄だ、不経済極まりないだろう」


「うわっ!ケチくさ」ハンスが漏らした本音に、ウィルヘルムは悪びれる様子もなく、事も無げに口元を緩めた。


「そうだ。そうやって俺は、この都市を発展させてきたのさ」あまりに堂々としたその物言いに、カウンターには一瞬の沈黙が訪れた。


「あぁ、そうだな。その通りだ。俺たちは、ただ、あんたに従ってきただけさ。そして……これからもな」


 ハンスが静かに、淡々と語った直後、誰からともなく温かな笑い声が夜のレストランに広がっていった。



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