第8話 不敬罪!
「……なんで、私が」
白馬を駆るロキエルのぼやきは、風にさらわれ、背後へと消えていった。
白亜の建物が整然と並ぶ街並みの中で、異彩を放つ、古色蒼然とした重厚な木造建築があった。この街の経済を司る心臓部、商業組合である。馬を降りたロキエルの隣では、風雪に晒され歳月に磨かれた看板を見上げ、ウィルヘルムが静かに佇んでいた。
今回の訪問は、討伐した『緋龍』の素材を巡るものだ。連日殺到する問い合わせに業を煮やした組合長から『是非に』と、招待状が届いた際、その利害の重要性を察したウィルヘルムは、自ら赴くことを決めたのである。
重厚な扉の先、ロキエルが足を踏み入れた内部は、行き交う人々の「熱気」と、それとは対照的な「冷徹」が同居する奇妙な空間だった。そこは単なる事務作業の場ではない。吹き抜けの天井にまで届く書棚には、あらゆる取り扱い品目の生産量や価格相場、各種の契約書が整然と収められている。一階の広間では、揃いの制服を身につけた書記官たちが絶え間なく羽ペンを走らせ、その規則的な音は、まるで巨大な時計の歯車が回っているかのような錯覚を、ロキエルに抱かせた。
しかし、ロキエルにとって、決して居心地の良い場所ではなかった。なにしろ、この都市の統治者であるウィルヘルムを遥かに凌ぐ有名人である彼女には、多少の気遣いこそ混じってはいるものの、好奇に満ちた詮索の視線が絶えず注がれるからだ。
案内を待たずに向かった最奥の執務室。その扉の前で、組合長は待ち構えていた。眩いばかりの美女ではあるが、その佇まいはまさに肉食獣。これほどまでに「待ち構えていた」という表現が似つかわしい人物もいないだろう。
「わざわざ、お越しいただきまして、ありがとうございます。さあ、こちらにおかけ下さい」組合長は入室した二人を丁重に迎い入れた。 室内には華美な調度品などなく、ただ、ひたすらに機能美のみが追求されていた。こうした実利的な姿勢こそ、ウィルヘルムが組合長に信頼を置く理由の一つだった。
ウィルヘルムは勧められるまま革椅子に深く腰を下ろし、組合長も対面に座る。ロキエルはウィルヘルムの斜め後ろ、いつでも動ける位置に控えた。
「ロキエル様もどうぞ、おかけになって」組合長の静かな、しかし有無を言わせぬ響きに気圧され、ロキエルは落ち着かない様子でちょこんと椅子に腰を下ろす。
三人が席に着くのを合図にしたかのように、給仕服の少女が静かに入室してきた。一見、どこにでもいる年若い給仕に見える。しかし、茶を淹れるその所作に一切の揺らぎはなく、足音さえも絨毯に吸い込まれて消える。少女がウィルヘルムの背後に回った瞬間、ロキエルの背筋に冷たいものが走った。少女が放つ静かな殺気を、本能が捉えたのだ。
花のような茶の香りが部屋を満たす中、少女は丁寧に一礼し、――ロキエルと対角の位置、組合長の斜め後ろに、影となって溶け込んだ。
三人の間に置かれたサイドテーブルの上のティーカップが脇に寄せられ、代わりに分厚い書類の束が置かれる。素材の買い取りを熱望する嘆願書だ。緋龍という稀代の素材を求め、各地の商業組合から、豪商、高名な薬師、果ては怪しげな錬金術師に至るまで。それは人の欲望を具現化した紙の束だった。
この大量の紙束を精査し、一握りの有益な案のみを冷徹に選別したのが、目の前の組合長だった。ウィルヘルムが「狡猾」という評価を最大級の賛辞として贈る人物。彼女にとって、緋龍の神秘性や世間の幻想など、鼻で笑うべき対象に過ぎない。椅子に座る女の瞳に宿るのは、一切の虚飾を排した実利主義の光。伝説の素材を単なる「商品」として淡々と捌こうとする辣腕家だ。
(……苦手なのよね)これから始まる厄介な交渉を予感したのか、単に組合長という人物が苦手なのか。おそらく両方なのだろう、ロキエルは密かにため息をついた。
「結論から言わせていただければ――総てを買い取らせていただきたいのです」組合長はそう切り出すと、十数枚に絞り込まれた書類の束を差し出してきた。ウィルヘルムがそれを受け取ろうと、手を伸ばすと、二人の指先がかすかに触れ合う。その刹那、ロキエルの瞳には、二人の間に激しい火花が散ったように見えた。それは物理的な現象ではない。互いの譲れない領分と、隠し持った思惑がぶつかり合ったことで生じた、目に見えない「火花」だ。表面的なビジネスライクな態度の裏に、他人には踏み込ませない二人だけの、濃密な繋がりがあることをロキエルは直感した。
「あと、これを。ご依頼を受けておりました……例のものです」
組合長が差し出した、使い古された革袋を、中身を確認することなく、ウィルヘルムは無造作にポケットへねじ込む。
(何だろう?)ロキエルは疑問を抱いたが、とてもではないが、問いかけられるような雰囲気ではなかった。
長い沈黙が室内の空気を重く塗り潰していく。時折、ウィルヘルムが紙を手繰る微かな摩擦音だけが耳を刺す。
異様な緊迫感に、(そんなことあるわけない)と自分に言い聞かせながらも、ロキエルはそっと、隠し持った短剣の柄に手を添えた。
「……ふむ。何から何まで、お見通しか。総てを買い取ってもらうのは良しとして、確認したいことがある。この書類は持ち帰らせてもらうぞ」
ウィルヘルムは席を立ちかけ、ふと腰を浮かせた状態で動きを止めた。
「あと一つ、大事なことがある。明日にでも再訪したいが、予定はあるか?」
「殿下のご用命なら、いつ、いかなるときでも」
ウィルヘルムは今度はしっかりと立ち上がった。
「ご足労いただき、感謝いたします」組合長も急いで立ち上がり、右手を差し出した。ウィルヘルムはその手を、押しいただくように優しく両手で包み込む。
(あ! そういえば『殿下』って言葉、久々に聞いた気がする)場の緊張感などどこへやら。
失礼極まりないロキエルであった。




