第7話 頑固です
「あの子は頑固よ」
ロキエルの言葉が、静まり返ったウィルヘルムの執務室に小さく反響した。
そこは、煌びやかな装飾で彩られた『ミラージュ・エルドラド』の一角にあるとは思えないほど、殺風景な空間だった。必要最低限の家具だけが置かれた部屋で、唯一存在感を放っているのは、この部屋の主である、ウィルヘルムの机を埋め尽くした書状の山だ。各地の権力者や商会から届いたそれらには、「緋龍」討伐の祝辞に紛れ、その希少素材を掠め取ろうとする強欲な下心が、インクの跡から隠しようもなく、透けて見えるようだった。
「あの子は、こと料理に関して、一度言い出したら最後よ。絶対に曲げないわ」ロキエルは、質素ながらも座り心地の良さそうな椅子に深く背を預け、大きなため息をついた。
「……それで。あいつは緋龍の素材はいらないと言うのか?」ウィルヘルムは、眉間に深い皺を刻んだまま、羽根ペンを置いた。
あいつ――マリの並外れた実力は認めているが、その浮世離れした価値観には、智謀を謳われたウィルヘルムでさえ翻弄され続けている。
「ええ。解体に時間がかかりすぎたのもあって、私たちがご馳走になった頬肉以上の価値のあるものは、あの子の中にはなかったみたい。肝臓の傷んでいないところだけを器用に切り取って、『レバーペースト、美味しいかな?』なんて言い残して、鼻歌まじりに帰っていったわ」
「おい、あいつを一人で放り出したのか!」ウィルヘルムが泡を食って、ロキエルを睨みつける。
「リーチェが付いてるわよ。そもそもウィルが、私を呼びつけたんじゃない」
「……なら、いい」
「チェッ」と、ロキエルがウィルヘルムの言葉に、唇を尖らせ小さく舌を鳴らす。リーチェの実力は誰よりも認めている。たとえ何が起ころうと、リーチェならばマリに指一本触れさせないだろう。だからこそ、ウィルヘルムにまで『彼女なら安心だ』という顔をされると、なんだか面白くない。複雑な心境が漏れ出た舌打ちだった。
ロキエルの報告を聞いたウィルヘルムは、力なく天を仰いだ。、
「レバーペーストだと……。あいつは、あの貴重な緋龍を、鱗一枚で家が建つほどの価値があることを理解せずに、単なる『珍味』としか見ていないのか? 料理人に限らず、たとえ腐りかけていようとも、頭の先から尻尾まで血眼になって欲しがるはずだというのに」
「それがマリなのよ。希少価値なんて、あの子には無意味。目の前にある最高の素材から『今作りたい味』を引き出すこと。あの子にとっては、それがすべて。『緋龍の肉は、美味しくない』って、断定しちゃったみたい。あの子は何も言わないけれど、試食会でのリーチェの言葉も引っ掛かっているんじゃないかな」
「では、残されたあの大量の肉はどうするつもりだ。総料理長からは、肉に粉砕された骨片が食い込み、除去のために細かく切り刻まざるを得なかったらしい。断面が増えた分、傷みが早まるのは避けられないそうだ。塩漬けにしても干し肉にしても、吐き気を催すほどの獣臭がし始めたと報告を受けている。放置すれば街じゅう腐敗臭で悩まされることになるぞ」現実的な処理の問題に頭を抱えるウィルヘルム。
すると、部屋の隅で書類の束を抱えて目を通していたハンスが、腹を鳴らしながら割り込んできた。
「え~、あの肉もう食べられないのかよ。あんなに美味かったのに、もったいねぇなあ!」
「馬鹿を言わない。普通、精肉したら冷暗所で五日間ほど保管して熟成させるけれど、あの緋龍の肉は、血が肉に回っているせいもあって、もの凄く劣化が早いのよ。今、この瞬間も、鮮度は落ち続けているわ」
「俺達が食べたみたいな燻製にすれば、少しは保つんじゃないか?」食い意地の張ったハンスの提案に、ロキエルは冷ややかではあるが、どこか誇らしそうな笑みを浮かべた。
「あの特殊な肉質を処理できるのは、マリの技術と、私の…‥そう、私の手助けがあってこそよ!」あえて言わせてもらえれば、ロキエルは決して嘘は言っていない……真実とは言い難いが。
「万が一にも食中毒なんて起こしてみなさい。その瞬間に『ミラージュ・エルドラド』が築き上げた名声は、地の底まで墜ちるわ」
再び訪れた沈黙の中で、ウィルヘルムは机の上の書状に目を落とした。そこには「緋龍の肉を一口でもいいから献上してほしい」という、欲にまみれた王族からの親書が混ざっている。
「食卓外交の切り札にと、思っていたが」
「燻製肉は、もう無いし。レバーペーストは、私のお楽しみだから、譲ってあげないわよ」
「図々しい。なぜそれが自分のものになると思っているんだ。そもそもレバーペーストは好みが分かれるから、外交の席に出すのは、難しいな。……俺は大好きだがな」
「私も!すごく楽しみなの」
「……なんか、お前ら、微妙に論点がズレていないか?」ハンスが呆れて、突っ込んだ。
ウィルヘルムは、深い溜息をつくと、重い腰を上げ、腹立ち紛れに親書をズタズタに破り裂くと、誰に向かって言うでもなく、独りごちる。
「世界が喉から手が出るほど欲しがる究極の素材を、一顧だにしないで放り投げた……料理人か」




