第6話 ケリュネイア
梢の隙間から零れ落ちた月明かりが、ロキエルの横顔を白銀に縁取った。
先ほど『それ』で戦化粧を施したその容貌は、もはや人の領域を超え、森の精霊のように映る。
(――綺麗)日頃の嫉妬心などどこかへ消え去り、リーチェがその姿に心を奪われた、その時だった。
「――――っ!」ロキエルが喉の奥で鋭く息を呑み、目を見開く。
「リーチェ、これよ」声を潜め、ロキエルが指し示したのは地面の痕跡だった。
「……なによ」リーチェは高鳴る鼓動を悟られぬよう、わざと突き放すような声を絞り出した。
「見て。この蹄の返し、それに泥の跳ね方。歩幅が急に広がっているわ。ここで軸足を変えて、一気に踏み切ったのよ。……間違いない、寝ぐらが近いわ」
「どうしてそう言い切れるの?」
「だって、美味しいもの食べて、お腹いっぱいになった帰り道だもの。家が近くなったら、誰だって急いで帰って、ゆっくりしたいじゃない」
「……なんだか、急に説得力がなくなったわね」リーチェは力なく肩を落とした。先ほどまでの神秘的な空気は、きれいさっぱり霧散してしまう。とわいえ、彼女にとって(まぁ、分からなくもないけど)否定しきれないのも、また事実であった。
ロキエルはリーチェの落胆など歯牙にも掛けず、前方の闇を見据えた。
「リーチェ、油灯を消して。光は月明かりだけで十分。獲物はすぐそこ、『風止まりの窪地』にいるわ」と、囁く。
「……ねえ、ロキ。『獲物』は本当に、ただの獣じゃないのよね?」震える手で灯芯を揉み消すと、リーチェは消え入りそうな声で尋ねた。
ロキエルは答えず、ただ口角をわずかに上げた。静かに短剣の柄に添えられた手が、何よりも雄弁な回答だった。
慎重に何歩か進んだ時だった。
「伏せて」ロキエルが囁きと同時に、強靭な指がリーチェの肩を掴み、問答無用で茂みの中へと組み伏せた。リーチェの頬に塗られた『それ』が、湿った土と混じり合ってヌルリと伸びる。
「――っ」鼻を刺す強烈な発酵臭。獣特有の重苦しい脂の匂い。頭がくらむような悪臭に包まれていると、不思議なことに、自分自身の輪郭が森の闇に溶け、景色の一部に書き換えられていくような錯覚に陥った。
カサリ、と枯れ葉の擦れる音がした。耳元で、その音を聞いたリーチェの心臓が跳ね上がる。ロキエルが手を伸ばし指し示す先。
そこに佇んでいたのは、一頭の鹿――神獣ケリュネイア。
その姿は、リーチェの知る鹿とはあまりにかけ離れていた。枝分かれした巨大な角は、月明かりを照り返し、黄金のごとく輝き、四つの蹄は真鍮の鈍い輝きを放つ。そして何より、首筋から背にかけて、淡い緑の燐光がオーロラのように揺らめいていた。夜光茸の胞子が纏わりついているのか、あるいは内側から神性が溢れ出しているのか。
「…………」リーチェは息をすることを忘れた。『それ』を塗られた屈辱も、鼻を突く悪臭も、すべては意識の彼方へ。それほどまでに、眼前の光景は神々しかった。
ふと、ケリュネイアが長い鼻面を空に向ける。ひくひくと鼻孔が動く。
(バレる。絶対にバレるって。こんなに近くにいるんだもの!)リーチェの心臓が早鐘を打つ。しかし、ケリュネイアの視線は彼女たちが潜む茂みを素通りした。ケリュネイアにとって、そこから漂うのは、先ほど自らが残していった『縄張りの匂い』に過ぎなかったのだ。
ロキエルが、音もなくリーチェの肩を掴んだ。
我に返ったリーチェは、無意識のうちに腰の矢筒へ手を伸ばし、短弓に矢を番える。弦が軋む音すらさせない、肉体に染み付いた熟練の動作。彼女の瞳から揺らぎが消え、獲物への敬意と、それ以上の冷徹な狩人の光が宿る。
(逃がさないわよ。神の使いだか、何だか知らないけれど、私にとっては、今のあんたは、ただの『美味しいお肉』よ。ねえ、そうでしょう……マリちゃん!)
(リーチェ。今よ)唇の動きだけで、ロキエルから伝えられた、最後の一押し。黄金の神獣が、何かに気づいたように耳をぴくりと動かした、その瞬間だった。
リーチェはおもむろに立ち上がり、弦を限界まで引き絞った。その姿に、先ほどまでの情けない悲鳴の面影はない。月明かりに浮かび上がる白と、泥にまみれた黒。その強烈な明暗が、彼女の美しさを神秘的なまでに研ぎ澄ませていた。
(私、負けてないわよね)仰ぎ見るロキエルが拳を握る。美醜の優越は、さておいて。
最強を謳われるロキエルが、リーチェを連れ出した理由の一つ。リーチェの家系が代々受け継いできた、限界を超越する『精密狙撃』の技術だ。ましてや、この間合い。万に一つの失敗もありえないとロキエルは確信していた。
しかし、実戦に『絶対』などないことを、ロキエルは誰よりも骨身に沁みて知っている。短剣を抜き放ち、低く構えた。
放たれた矢は、空気を切り裂く風切り音さえ置き去りにし、ケリュネイアの眉間へと吸い込まれていく。
「捕らえた!」「美味しいお肉!」どちらの叫びだったか。
だが、矢の先端が黄金の体毛に触れようとした刹那、獣の体が陽炎のように揺らいだ。
「……!?」リーチェの、ロキエルの目が、驚愕に見開かれる。必中のタイミング。回避も防御も不可能な距離。それにもかかわらず、矢はケリュネイアの首筋をわずかに掠め、背後の巨木に深々と突き刺さった。
ケリュネイアが、ゆっくりと首を巡らせる。その瞳には怒りも恐れもなく、ただ底知れない静寂だけが宿っていた。
「ロキ、あれ……!」「あぁ、やはり一筋縄ではいかないか」
ロキエルはリーチェを庇うように躍り出た。が、遅い。ケリュネイアが大きく跳躍し、瞬時に視界から消え去る。
「逃げられた?」「……そのようね」
二人は精根尽き果てたように、その場に座り込んだ。




