第5話 追跡
「……なんで、私が」
リーチェのぼやきは、夜の森に力なく吸い込まれていった。
「ねえロキ。この油灯、さっきから鼻の奥に刺さるみたいに臭いんだけど。一体何を混ぜたのよ」
「文句を言わない。野兎の獣脂よ。それも、わざと内臓の脂を混ぜて煮出したやつね」
「蜜蝋とかじゃ駄目なの? もっと、こう、花の香りがするような、乙女に優しいやつ……」
「蜜蝋は明るくて良いけれど、そんな異質な香りは『獲物』を遠ざけるわ。この吐き気を催すような獣臭さが、今の私たちには最高の隠れ蓑なの」
先行するロキエルが、巨木の根元でぴたりと足を止めた。ざらついた樹皮には、夜目にも鮮やかな黄金色の毛が数本、風に震えている。ロキエルが、そっと手を伸ばす。
「――間違いないわ」
その確信めいた物言いに、それまで『獲物』の実在を疑っていたリーチェが息を呑む。
「『獲物』の……毛なの?」
「ええ。体を擦りつけた跡よ。縄張りを誇示するためのマーキングね」
「どうしてそう言い切れるの? 痒かったから擦りつけたとかじゃないの?」
「痒みを取るなら、もっと強く擦りつけて、毛が多く残るはずよ。それに、ほら、足元を見て」
ロキエルが指差した先には、腐葉土を深く抉った跡があった。
「後ろ足の跡よ。重心が踵に寄って、楕円状に深く沈み込んでいる。前肢を浮かせて立ち上がり、自分を大きく、強く見せようとした証拠。土の湿り具合から見て、そんなに時間は経っていないわね」
「マーキングって、普通はお小水でするもんじゃないの?」
「したくない時だってあるわよ、獣にだって。――おっと」
ふと、ロキエルが地面に転がっていた黒い塊を素手で拾い上げた。あろうことか、それを鼻先へ引き寄せ、深く息を吸い込む。
「あ、『それ』……! まさか!?」
「腐敗した果実に似た刺激臭ね」
「嘘でしょ、そんなの素手で……信じられない!」
リーチェは口元を両手で押さえ、絶句した。鼻をつく獣脂の臭いだけでも限界だというのに、目の前の『相棒』は平然と『獲物の落とし物』を分析している。
ロキエルは眉ひとつ動かさず、指先でその塊を押し潰した。
「未消化の種子と、わずかな繊維質。それに……この緑の鱗粉。この個体、かなり食性が偏っているわね。期待通りだわ」
「そんなことまで分かるの……?」
「ええ。そして、この臭いの強さと粘りけ。排泄されてからまだ幾らも経っていない。私たちが獣脂を纏っていなかったら、今頃はこちらが『餌』になっていたでしょうね」
「そんな物騒な警告より、今は、ロキエルの指先が問題でしょ」リーチェはこびりついた『それ』から逃げるように後ずさった。が、遅い。ロキエルの手がしなやかに伸びる。
「あ! ちょっと、乙女に何するのよ。いやん!?」
ロキエルは、手にしていた残骸を躊躇なくリーチェの頬になすりつけた。ねっとりとした生温かい感触と、野生を煮詰めたような悪臭が、リーチェの白い肌に広がっていく。
「動かないで。匂いを上書きするのよ。高価な石鹸の残り香なんて漂わせていたら……さあ、自分でも塗りなさい。首筋と、耳の後ろあたりに」
「嘘でしょ……最悪!」
リーチェの絶望的な叫びも、ロキエルの氷のように冷徹な瞳の前では無力だった。
「さっきから文句ばかり言っているけれど、原因はリーチェにあるのよ。マリを焚きつけてあんな無謀な注文をするから、二人で泥まみれになる羽目になったのよ。分かってる?」
「分かんない!」
「分かれ!」
ロキエルはリーチェに取り合わず、再び屈み込んだ。腐葉土ごと『それ』をかき集めると、顔を歪めて、そこへ唾を吐きかける。吐き出された唾液には、鮮烈な一筋の赤が混じっているのを、リーチェは見逃さなかった。ロキエルが自ら唇を噛み切り、その血を混ぜたのだ。ロキエルは血の混じった泥を捏ね合わせると、未開の部族が施す戦化粧のごとく、己の顔へと塗りたくった。
「ねぇ、ロキ。『血』なんか混ぜたら、匂いが魔獣を呼び寄せない?」
「相手が肉食獣なら敏感に反応するけどね。狙いは肉に臭みのない草食獣だから、多少は問題無いわ」
しばらく慎重に辺りを探索しながら進むと、闇夜に淡く緑色に光る夜光茸やこうたけの群生地が広がっていた。
「ほら、リーチェ。間違いないわ」
「何がよ……?」
「茸の噛み跡」
ロキエルは無造作に地面に這いつくばって頬をつけ、幻想的な緑の光を放つ茸をじっくりと凝視した。瞳の奥には、小さな緑の火が灯ったように夜光茸が映り込んでいる。
「この食痕、上顎に歯がない特有の構造によるものね。上顎の歯茎で押さえつけて、下顎の切歯だけで表面を執拗に削り取った断面だわ。通常の獣のように豪快に引きちぎるのではなく、まるで毒見をするように慎重に……それでいて、大量に食べている。それだけでも『獲物』の正体が異様だと分かるわ」
立ち上がったロキエルは、周囲の闇に視線を投げた。リーチェはごくりと唾を飲み込む。
「この噛み跡の瑞々しさからすると、まだそれほど遠くへは行っていないはずよ。……ねえ、準備はいい? 私たちの追っている『獲物』は、もう、すぐそこよ」
黄金色の毛、巨大な立ち姿の痕跡、そして異常な食性。リーチェは、自分が今追っているものが、ただの獣ではないことを嫌というほど理解させられた。腰に佩いた矢筒に手を添える。矢羽根の感触が、彼女の乱れた息を整えてくれた。彼女の瞳に光が宿り、低く、しかし、力のこもった声でロキエルに問い質した。
「ねぇ、ロキ」
「なあに?」
「このキノコ……美味しいかな?」
「…………?」リーチェの問いに、腕を組んで仁王立ちになって考え込むロキエル。その表情は真剣そのものだ。
あまりにも場違いな会話を交わしていることに、気付く様子もない二人だった。




