第3話 『黄金の雫』と、ただの『石ころ』
「それで、ロキエル。お前だけで、これを食べてしまった……と?」
「いや、その……私が食べたのは、もっと小さかったというか……」語尾が消え入りそうな、ロキエルの声だった。
(だって、だって緋龍の討伐は大変だったし、マリの手伝いだってしたし、これぐらいの役得があったって……)喉まで出かかった反論を、というか、言い訳を、どうにかぐっと飲み込んだ。
油灯がぽつりと闇を照らす、静まり返った深夜のレストラン『ジーズ』その片隅で、試食会という名の反省会が続いていた。出席者はロキエルを含めて5名。ウイルヘルムに、その護衛官のハンス。『ミラージュ・エルドラド』総料理長のダビィ。そしてジーズの給仕長を務めるリーチェだ。
薄切りにされた『緋龍の低温燻製肉』が盛られていた皿は、すでに空になっていた。皆から責められ、ロキエルが今にも泣きそうな顔で縮こまっていた、その時だった。
「は~い、おかわり、どっちゃり!」マリが湯気の立ち昇る大皿をワゴンに載せて現れた。重苦しい沈黙に包まれていた店内に、食欲をそそる香りが一気に広がる。
「きゅるりん♪」ロキエルのお腹が悲鳴を上げた。あまりにも気まずい。気まずすぎる。
「はあ、もうよい。冷めないうちに頂こう……ん、マリ、これはまた違う料理なのか!?」ロキエルの『悲鳴』に呆れて溜息をついたウイルヘルムが、皿を見て目を見開く。
「ロキ、せつめー」
「うむ、分かった。マリ曰く――『燻製肉を薄切りにしたものは前菜向きなので、厚切りにして軽く炭火で炙り、一品料理にしてみた。どちらが良いか試してほしい』とのことだ」
マリが取り分けた皿の上では、厚切りにされた『緋龍の低温燻製肉』が炭火で熱せられ、脂がパチパチと音を立てていた。桂皮の芳醇な香りと、肉本来の力強い香りが混ざり合い、重層的な芳香を漂わせている。テーブルを囲む全員が、肉を見つめて静まり返る。
「ゴクリ」誰かが喉を鳴らす音が響いた。いや、全員が同時に生唾を飲み込んだのだ。皆が争うように手元のナイフとフォークを手に取った。さあ、肉に刃を入れんとした、その時――。
「お待ち下さい!」リーチェの声が、鋭く、そしてどこか震えて響いた。
「結論は既に出ております。これはもはや、我々が良し悪しを批評するなど愚の骨頂。判断できる水準を遥かに超えた、正に最高峰の逸品。……問題は、この一皿に合わせるべき『お酒』です。赤ワインなどという安直な選択で、果たしてこの熱量に太刀打ちできるでしょうか?」
手に持ったフォークとナイフが止まり、一同の視線がリーチェに集まる。
「赤ワインが安直だと言うのか……? リーチェ、この力強い燻香と肉の旨味に、フルボディの赤ワインを合わせる以上の正解があると言うのか?」ウイルヘルムが眉をひそめて問い返すと、リーチェは眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせ、静かに、しかし断固とした口調で続けた。
「通常の獣肉であれば、それが正解でしょう。しかし、これは『緋龍』の、お肉です。炭火で炙られ活性化した旨味と脂は、口に含み、噛み締めた瞬間に熱を帯び、鼻に抜ける香りは神聖さすら感じさせる。これに凡庸なワインをぶつければ、お酒が肉に負けて死んでしまいます」
「じゃあ、何が良いっていうんだよ、リーチェ」ハンスが空腹をこらえるように、そわそわと尋ねる。しかし、その声音には、非難の色は微塵もない。むしろ、どんな答えを出すのかと、期待に胸を膨らましているように聞こえる。
「……蒸留酒。それも、極限まで熟成を重ね、円熟味を帯びた『黄金の雫』しかありません。この肉の旨味と脂の甘味、桂皮の香りに立ち向かえるのは、重厚な蒸留酒だけ……」リーチェは話を終わらせずに席を立ち、バーカウンターから、古びた酒瓶を持ち出した。
「……実に理に適った、興味深い試みだ。だが、獣肉には赤ワインという固定観念を打ち破るのは、並大抵のことではないぞ」総料理長のダビィが低く唸る。
「おい、リーチェ。『黄金の雫』って。金貨何十枚もする超高級酒だろ」ハンスは動揺を隠せない。
「ふんす!」リーチェは鼻を鳴らして笑い飛ばすと、昂然と言い放つ。
「この『お料理』の前では、金貨なんて、ただの石ころ―――そう『石ころ』です! いま何よりも大切なのは、この『お料理』の持つ力を最大限に引き出すために、いかなる労力も惜しまないことです!」
「ねぇ、ロキ。リーチェちょっと、こわい」マリは、リーチェの迫力に恐れをなして、ロキエルの後ろに隠れて、こっそり耳打ちする。
「大丈夫よ、マリ」ロキエルに、優しく頭を撫でてもらって、マリはちょっと嬉しそう。
リーチェはうやうやしく、全員のクリスタルグラスに、とろりと黄金に輝く液体を注いで回った。
「トックン、トックン」心地よい音が響き、華やかな果実香が辺りを覆う。
「……?」ロキエルとハンスが、同時に無言で首を傾げた。明らかにリーチェのグラスの酒量が多い。しかし、リーチェが怖くて文句が言えなかった。
「さあ……まずは肉を一口。溢れ出す生命力を味わい、その余韻が消えぬうちに、この『黄金の雫』を喉へと迎え入れて下さい、お肉とお酒の熱量が喉元で爆ぜる、その瞬間を、ぜひ味わって頂きたい」
一同は、もはや言葉を失っていた。
「……そこまで言うのなら、試さぬわけにはいくまいな」ウイルヘルムが、意を決したようにナイフを握りしめる。
5人の手元から、銀色の光が煌めいた。




