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第21話 笑顔以外許しません!


「 ひぃやぁ~!」


 マリの呼びかけに応えるように、ラビの悲鳴が上がった。


 ロキエルとリーチェが、ラビの首根っこを掴んで厨房へと、雪崩れ込んだのだ。二人は補助椅子を引ったくるように引き寄せると、作業台の前、マリの正面にラビを乱暴に座らせた。逃げ道を塞ぐように左右に並び立つ二人。両側から、しっかりと肩を掴まれる。ラビはその肌を刺すような威圧感に身をすくませる。おまけに、目の前ではマリがナイフを手にして微笑んでいるではないか。


(これから何が始まるの?)と、ラビは生きた心地がしなかった。


 何のことはない。二人の視線は、焼き上がった肉塊に注がれており、マリは最後の仕上げに取り掛かろうとしているだけのことである。


 マリが手にしたナイフが、焼き上がった肉塊へと沈み込む。何の抵抗もなく、吸い込まれるように。


 ――現れたのは、香ばしく焼き締められた外側の質感とは対照的な、中心まで均一に火が通った、完璧なロゼ色の輝きを放っている。切り口から溢れ出そうとする肉汁が、真珠のような滴となって瑞々しく膨らんだ。


 マリは三切れほどの肉を皿に盛り、煮詰めたソースをひと筋、天から授けるように回しかけた。

「ほら、ラビ」

言い方は至極ぶっきらぼうだが、その声音には隠しきれない優しさが滲んでいた。いや、優しさというよりも、ラビがどんな反応をするのかという期待に、胸を膨らませている、と言ったほうが正しいかもしれない。


「……美味しい」ラビはフォークとナイフを手にして、一口、二口と食べ進めると、頬を押さえ、とろけそうな溜息を漏らす。


 その瞳から、知らず知らずのうちに一筋の涙がこぼれ落ちた。


 ラビは、これまで、誰かに悪意を向けられた記憶はない。だが同時に、誰かの瞳に『自分』という存在が等身大で映し出された実感もなかった。絶大な力を持つ彼女にとって、他者の視線は常に、遠巻きな畏怖に過ぎなかった。それはまるで、異なる種の生き物を眺めるような、絶望的なまでに隔絶された眼差しだった。


 組合長の愛情に、偽りがないことは確信している。組合長を守るための盾としての誇りもある。されど、護衛官として個を殺し、景色に溶け込んで生きてきた彼女は、『強者』という壁に隔てられた孤独の檻に繋がれていた。


(……ああ、私を、認めてくれたんだ)


 自分よりも遥かな高みに立つ二人が、彼女を化け物でも道具でもなく、対等な『戦友』として認めた上で、彼女を閉じ込めていた檻を、力任せに打ち砕いてくれた。


 さらには、その二人でさえ頭の上がらない『理不尽大帝マリ』が、慈しむような微笑みを湛え、最高の一皿を、真っ先に差し出してくれている。


 その事実が、極上の肉の味わいと共に、凍てついていた彼女の心を芯から融かしていった。


『貴女が勝利への道を切り開いた』という切実な肯定が、パズルの最後のピースのように、欠落していた自尊心にぴたりとはまる。肩に伝わる温もりを感じながら、ラビは今、初めて地面にしっかりと足をつけ、一人の人間としてこの世界に刻みこまれたような充足感に満たされていた。


 こぼれ落ちた涙は、高みで独り震えていた過去への決別。目の前の『ご褒美』は、新しく生まれ変わった自分への、最初の祝福。


 ラビの涙の意味は、ロキエルにも、リーチェにも、胸を締め付けられるほどに伝わっていた。同じ『強者』の道を歩んできた者だからこそ、その痛みが、そしてその解放の尊さがわかる。


 そして、誰よりも感受性が高く、料理という名の戦いに、日々身を投じるマリもまた、その沈黙の告白を深く、深く、受け止めていた。


 ──だが、しかし。お涙頂戴の湿っぽい空気など、マリが最も忌み嫌うものだ。ましてや食事の席では、笑顔でいることしか許容できない。すべてを察した上で、彼女はその感傷を土足で踏みにじる道を選んだ。いや、選んだと言うのは正確ではない。それはもはや、抗いようのない本能に近いものだった。


「鼻水たらしてたら、美味しい、わかんねーし!」手元にあった亜麻布を、ラビに投げつけて怒声を張り上げた。(あちゃあ!? マリちゃん、照れ隠しが雑すぎる!)(ふふっ、わかるわよ。マリったら照れちゃって)――バレバレである。


 けれど、その理不尽な怒声こそが、今のラビにはどんな言葉よりも温かく響くのだった。


「ふふっ」ラビは亜麻布で鼻を押さえながら、小さく吹き出してしまう。一人の人間として受け入れられた喜び。その幸福を噛み締めるように、ラビはフォークとナイフを握りしめ、二切れ目のお肉へと手を伸ばす。


──が。その手が肉に届くより早く、肩に添えられていた温もりが、熱を帯びる。


「ねぇ、ラビ。よく見て? お肉はあと二枚。私たちは三人」リーチェが皿を指す。先ほどまでの、慈愛に満ちた瞳とは打って変わって、狩猟者の光を帯びていた。


「そして、ここに、まだ味見をしていない二人がいるのよ。分かるわね?」ロキエルが言った。

「え、でも、まだお肉はイッパイありますよ?」

「ラビ。教えておいてあげるわ。マリならさらなる高みを目指し、これ以上の料理を創り出すでしょう。つまり今、ここにあるものと同じ一皿は、どんなにお願いしても、二度と作ってくれないわ」ロキエルが冷たく言い放つ。

「そう。要するに、この機会を逃すわけにはいかないの」リーチェが断固たる口調で告げた。

「えっ、あ、あの……!? ええっ!? ちょっと、待っ……!」ラビは、すがるようにマリを見つめるが、露骨に視線を逸らされた。


 さっきまで自分を認めてくれた『戦友』や『救世主』たちはどこへ行ったのか。ラビは涙とは別の意味で、目を潤ませる。畏怖される強者でも、孤独な護衛官でもない。目の前の一片を全力で守り、全力で奪い合う。そんな、あまりにも子供じみた、けれど愛おしい対等な日常。


(やっぱり、この人たちって……)ラビの顔には、この場所でしか見せることのない、瑞々しい笑顔が弾けていた。


「理不尽ですぅ!」

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