第20話 お呼びだ、急げ!
レストラン『ジーズ』の厨房前。
厨房と客席を分かつカウンター――通称『デシャップ』に肘をつき、ロキエルは中を覗き込んでいる。その背には、ラビが、ぴったりと張り付いていた。
二人の視線の先には、まな板を前に立ち尽くすマリの姿がある。手元の巨大な肉塊を、じっと凝視していた。
「……何か、お怒りではないでしょうか?」ラビが消え入りそうな囁き声で尋ねた。
「いや。厨房にいるときは、いつもあんなものよ」ロキエルは慣れた様子で肩をすくめる。
「ひっ! い、いつも、ですか……?」ラビの指先が、ロキエルの服をぎゅっと掴んで離さない。
「別に怒ってるわけじゃないの。――悩んでいるだけ」
「悩んでいる?」
問い返すラビの視線の先で、マリが肉の脂身を指先でなぞって、わずかに眉根を寄せた。
「どうすれば、この素材を最高に輝かせられるか。……神経を研ぎ澄ませているのよ」ロキエルの言葉は軽やかだが、その声音には、マリの異様なまでの集中力に対する敬意が宿っていた。
「初めてお会いした時から、可憐だけれども、言いしれぬ存在感のある女の子だとは思っていましたけど……」
一心不乱に食材と対峙するマリの横顔に、ラビは適切な言葉を探して視線を彷徨わせる。
「厨房に立つあの姿……なんて表現すればいいのか。あの、肌を刺すような、逃げ場のない感じは……?」
「――狂気?」唸るラビの耳元で、ロキエルが短く、言った。その言葉がストンと腑に落ちたのだろう、ラビは大きく目を見開いた。
「あ……! それです、それ!」
直後、マリがふっと、吐息を漏らした。ゆっくりと包丁が握り直される。厨房に、肉を断つ「……ト、ン」という、重くも澄んだ音が響いた。
ラビの背筋にゾクリと怖気が走る。
「狂気、ですか……。確かに、そうかもしれません」
切り出した肉の断面を、冷徹に、かつ愛おしげに確かめるマリの指先。ラビはもう、毒気に当てられたように、その美しくも恐ろしい横顔から目が離せなくなっていた。
「ケリュネイアの『お肉』気に入ってくれたのでしょうか?」
「ああ、間違いないわ。気に入らなければ、あの子は一瞥もくれないもの」
「そうですよね。『霊獣ケリュネイア』の希少な『お肉』ですもんね」
「あ、希少で高価な食材だからといっても、あの子にとっては何の価値もないわよ。そこらに生えてる雑草だって、宝物のように扱うわ。あの子が興味を持つのは、その素材の持つ魅力だけね」
突然、マリが勢いよく動きだした。肉塊から表面の脂身を削ぎ落とすと、厚手のフライパンへ入れて火に掛ける。じりじりと溶け出した脂の中へ、叩いたニンニクとローズマリーの生葉を入れた。芳醇な刺激と清涼感のある香りが混ざり合い、厨房に一気に食欲をそそる芳香が立ち込める。さらにマリはタイムの小枝を掴み取り、無造作にセージの葉を数枚投げ入れた。脂の熱で香草が縮れ、香りの層がさらに厚く、深く重なっていく。パチパチとはぜる油の音と、立ち上る芳香の奔流。マリの指先は、肉塊を美食へと変える儀式に没頭していた。
香りが最高潮に達したところでそれらを引き上げ、代わって『土台』の整った油の上へ、塩を振った主役の肉を静かに置いた。表面が焼き固められる小気味よい音とともに、肉が焼かれる香気が、ハーブの清涼感のある香りに負けじと一気に噴き出した。マリの手にはさらなる熱がこもる。スプーンですくい上げた熱い油を何度も肉に浴びせる『アロゼ』という調理技法だ。その仕草は正確で、澱みがない。フライパンを軽くゆすりながら、肉の焼ける音が一旦収まると、肉を裏返す。
肉の両面が程よく狐色に染まると、マリはフライパンの余分な脂を切り、火力を絞って一塊のバターを滑り込ませた。バターは熱い脂と交わった瞬間に激しく泡立ち、ナッツのような香ばしい『ブール・ノワゼット』の香りを放ち始める。マリはその泡を肉の表面にまとわせるように、流れるような手さばきでアロゼを繰り返す。ハーブの精油と肉汁、そしてバターが渾然一体となり、厨房はもはや暴力的なまでの、重層的な芳香が渦巻いていた。
「辛抱たまりませんっ!」鼻を直撃する香りに誘われ、ラビが厨房の敷居をまたごうとした――その時。
「――ぐへっ!」喉の奥が詰まったような声を上げたラビの体が、宙で止まった。いつの間に現れたのか、一切の気配を悟らせず、リーチェが背後から無造作にその襟首を掴み上げていたのだ。
「マリちゃんに怒られるわよ。調理中に邪魔をすれば、どうなるか分かってる?」
「まったくだ。だが、呼ばれた瞬間に馳せ参じなければ、それもまたお叱りの対象になってしまうけどね」ロキエルが、困ったような笑みを浮かべて肩をすくめた。
「……よし」
マリは短く呟くと、焼き上がった肉を網バットへと移した。だが、すぐには切り分けない。清潔な亜麻布を掴み取ると、焼き上がったばかりの肉塊に、ふわりと被せた。火照った肉を優しく包み込み、蒸気を適度に逃がしながら、焼き上げた時間と同じだけの休息『レスティング』を肉に与える。肉の中で激しく沸き立っていた肉汁が、細胞のひとつひとつにゆっくりと還っていく静かな時間。
その傍らで、マリはフライパンに残った旨味の結晶に、ブランデーを少量注ぎ入れた。木べらで底をこそげ落としてソースを作る『デグラッセ』という調理法だ。液体が煮詰まり、とろりと濃褐色の艶やかなソースへと変わっていく。
――科学の視点から見ても、その判断は正解だった。肉の中心温度が五十度を超えるとタンパク質の変性が始まり、生肉特有の粘りは、歯切れの良い弾力へと変わる。だが、六十五度を超えれば組織の収縮が急激に進み、肉汁を吐き出してパサついてしまうのだ。マリは、その絶妙な境界線を、経験に裏打ちされた感覚だけで見極めてみせた。
「ラビ!」マリが叫んだ。




