第2話 絶望の食材、究極の一皿
目の前の肉塊を、マリは凝視していた。
ホテル『ミラージュ・エルドラド』内、レストラン『ジーズ』の厨房での事である。
マリが端緒を開いた解体だ。それなのに、マリは理不尽にも、嫌悪感に追われるようにして、その場を去った。
死体なら、まだよかった。そこにあるのは命の残滓、いわば『過去』だ。完全に切り分けられた肉塊であれば、それはご馳走の素という『未来』であり、愛でることさえできる。だが、その中間にある『現在』が耐えられない。個体がバラバラの肉へと切り刻まれていく過程は、マリにとって生理的な拒絶そのものだった。
一つの生命が、ただの物質へと堕ちていく境界線。その冷ややかな変質が、たまらなく恐ろしい。それは単なる猟奇的な光景への拒絶ではなく、『命の消失』に対する根源的な恐怖だった。一つの意志を持っていた存在が、ただの物体へと強制的に置き換えられていく残酷な変化。断たれる骨、潰れる内臓。脳裏にこびりつく緋龍の無残な姿が、逃げるマリの背に冷たく、まとわり付く。
「さあ、マリ。何か手伝うことはあるかい」ロキエルがマリの肩に手を置く。マリには手のひらから伝わる温もりが、沁み入るように心地よかった。
(弱っているマリを救うのは、いつだって私の役目さ)ロキエルは考えるより先に拳が出るような熱い気性の持ち主だが、その実、マリのわずかな陰りも見逃さない、繊細な心遣いができる女性だった。
マリの背筋が伸び、うつむき加減だった顔を跳ね上げて、ロキエルを見据える。
「ロキ!食材庫から、ケイヒをありったけもってきて!」
「お、おう……っ!」自分が火をつけた変化だというのに、ロキエルはマリの気迫に圧倒され、逃げるように食材庫へ向かった。しかし走りながら、ロキエルはふと不安になる。――(そもそも、ケイヒってなんだ?)
食材庫の管理人さんを、笑顔で丸め込んだのか、あるいは鬼の形相で黙らせたのか。何はともあれ、無事に『謎の茶色い皮』を、大量に手に入れたロキエルが厨房に戻ると、マリが調理台の前に立ち、難しい顔をしていた。何やら円柱状の器具が置いてある。
「ロキ!どこ行ってたの。これ、庭に運んで」マリはいつだって理不尽だ。
しかし、料理に関することで言い返せば、マリの怒りに油を注ぐ羽目になることを、ロキエルは痛いほど知っていた。
「マリ、ケイヒを持ってきたぞ。……で、それは何だ?」
「くんせいき」
「燻製……器、か?」
「そー」
「それで、どうなる」
「おいしくなる!」
不毛なやり取りを切り上げ、ロキエルは燻製器を中庭へ運び出した。マリは手慣れた手つきで緋龍の頬肉を並べ、桂皮を無造作に鷲づかみ、力強く砕いて火を起こした。
マリが試みているのは、高温で一気に焼き上げるような単純な調理ではなかった。
マリは緋龍の肉を「不味い」と断定していた。飛翔のための胸筋、巨体を支える大腿筋――発達しすぎた筋肉は鋼のように硬い。さらに、体内で火を生成するためか、硫黄の臭いが鼻を突き、雑食ゆえの獣臭も酷かった。血抜きも不適切で、ただ焼くだけでは、どんな技巧を凝らそうと食えたものではないだろう。
そこでマリが選んだのは、低温の煙でじっくりと加熱し、脂を融かし、桂皮の甘く刺激的な香りを芯まで浸透させる「低温燻製」だった。五十度前後の温度を維持し続けることで、タンパク質の変容を促し、肉質を驚くほど柔らかく仕上げ、旨味を完全に閉じ込める。だが、その調理法は、神経をすり減らすような繊細な温度調整と、膨大な時間を要する。高価な桂皮を惜しみなく使うため費用も嵩むが、立ち込める芳香はその対価に相応しいものだった。
緻密な温度管理を行うマリと、その指示に必死で食らいつくロキエル。二人の執念が、今、最悪の食材に劇的な変化を呼び起こそうとしていた。
「……かわった」マリが呟いた。
マリの言う通り、煙の色が、白から飴色に変わった。円柱状の燻製器の隙間から漏れ出す煙は、先ほどまでの荒々しい硫黄臭を完全に封じ込め、桂皮の甘い香りを漂わせていた。
「ロキ、火、はんぶん」
「わ、分かった! 任せろ!」
かなり雑な指示だが、ロキエルは先程から完璧にマリの意図を汲み取り、的確に作業を進めていた。ロキエルは額の汗を拭い、精密機械を扱うような手つきで空気孔を調整する。直情的な彼女が、これほどまでに繊細な作業に没頭しているのは、ひとえにマリの瞳に宿った光を信じているからだ。
緋龍の肉。それは、つい先ほどまで凄惨な「死」の象徴だった。しかし、低温の煙に抱かれ、時間をかけて変質していくその塊は、今や全く別の価値へと昇華されようとしていた。
熾火の予熱で最後の仕上げが終了する。
「……あける」マリが静かに告げ、燻製器の蓋を外した。
立ち上る濃密な芳香。ロキエルは思わず息を呑んだ。そこにあったのは、もはや凄惨な緋色の肉塊ではなかった。桂皮の油分を吸い込み、深みのある琥珀色に輝く、宝石のような『食の結晶』だった。
「なあ、マリ、コレ……さっきまでのあの肉と同じものか?」ロキエルは驚きのあまり、目を見開いた。
「うん」マリは、さも当然のように返す。
マリはナイフを取り、薄く、紙のように繊細にその肉を削ぎ出した。一切れの肉が、皿の上で震えている。
「はい、ロキ、ごくろーさま」マリはそれをロキエルの口元へと運んだ。ロキエルがその一切れを口に含んだ瞬間、頬が緩む。
舌の上でとろけるような肉の旨味、脂の甘み。鼻に抜けるのは、高貴な桂皮の余韻と、龍という強大な生命が持っていた野生の力強さ。嫌悪すべきだったはずの「過去」が、至高の「現在」として口の中で暴れまわり、胃の腑に落ちていく。
「……美味い。マリは……天才だよ」
ロキエルの手のひらが、マリの頭に置かれる。心からの賞賛。それを受け、マリは、消え入りそうな微笑を浮かべた。
『ミラージュ・エルドラド』の夜は更けていく。
彼女の手にあるのは、もはや無惨な死体ではない。魂を震わせる一皿。
人々を熱狂の渦へと叩き落とす、『未来』そのものだった。




