第19話 ほ〜ら、やっぱり!
夜の森に銀閃が走る。
ラビは隠し持った短剣を引き抜き、地を這うような低姿勢から流れるような動作で、ケリュネイアの死角へと滑り込んだ。狙いは前肢だった。
確かな手応えがあった。硬質な皮を裂き、強靭な腱を断つ感触が、刃を通じて掌にまで響く。激情に身を任せているようでいて、その判断は極めて冷静だった。初めて相対する霊獣を前にしても、その所作に微塵の迷いもない。積み上げられた経験則か、あるいは実戦を超越した野生の直感か。
有蹄動物の脅威は、後肢の蹴りと角の突きにある。背後に立てば砕かれ、正面に立てば貫かれる。ならば、その前肢を無力化することこそが、この狩猟の最適解であった。
四肢で地を掴むことで保たれる大型獣の均衡は、たった一本の腱が爆ぜただけで瓦解する。「ドサリ」と鈍い音を立てて崩れ落ちた巨体。後ろ足をバタつかせ、立ち上がろうともがけばもがくほど、残された前足を軸に虚しく円を描いて空回りし、自らの自由を削り取っていく。
そもそも、ラビに『仕留める』意思などなかった。致命傷を狙うなら首筋を裂くのが定跡だが、あの巨角を掻い潜り、一撃で急所を穿つ保証はない。まずは、逃げられぬよう足止めが先決だと判断したのだった。
(後は、お姉様方に――)死地に身を置きながらも、ラビは不敵に口角を上げた。
彼女はロキエルやリーチェの真の実力を知らない。しかし、二人が放つ圧倒的な『強者』の気配に、全幅の信頼を寄せていた。
……いや、彼女には別の思惑もあった。(これで『理不尽大帝マリ』に『肉を傷つけた!』って、怒られなくて済むよね。何より、復讐に燃えるリーチェ姉様に『私の獲物を横取りしたわね!』なんて思われたら……考えただけで恐いですぅ。うん、ロキ姉様は、絶対に庇ってくれないね。きっと、知らんぷりして遠くを見るんだ。それに組合長への贈り物に丁度いいし、皮に傷をつけたくないわよね。あ、角でもいいか。それぐらい分けてくれるよね? 私、頑張ったんだから!)
――と、その時。ラビの思考の間隙を縫うように、視界の端に鈍色の光が煌めいた。ケリュネイアの後肢、その真鍮の蹄が目前に迫る。
――刹那。軽い衝撃とともに、『ふわり』とラビの体が宙を舞う。ロキエルがラビの前に割って入って、抱き上げたのだ。
激しい肉体の衝突音と、立ち込める血の匂い。蹄を身を挺して阻むロキエル。何処からともなく、飛散した鮮血が、ロキエルの腕の中に収まったラビの視界を、鮮烈な赤に染め上げる。自分を庇ったロキエルから溢れたものか、あるいはケリュネイアが流す血か。ラビの思考が追いつく間もなく、凄まじい衝撃波が鼓膜を叩く。音速を超えたリーチェの矢が、空気を爆ぜさせたのだ。
風切音を置き去りにした矢は、ラビが前肢を封じ、均衡を失ったケリュネイアの眉間へと吸い込まれた。霊獣の誇り高き咆哮は、物理的な破壊力を伴った風圧によって、その喉の奥で掻き消される。巨体が地に伏し、地響きが森の木々を震わせた。
「怪我はないか?……ラビ」
低く、けれど確かな熱を帯びた声。重力を無視したような身のこなしで、ラビを救い出したロキエルは、腕の中の少女に外傷が無いことを確認すると、小さく、本当に小さく安堵の吐息を漏らした。ロキエルは無言のまま、視線をケリュネイアへと戻す。彼女の肩口からは、蹄がかすめたのであろう傷口から、血が溢れていた。だが、苦痛に歪むことのない、その瞳に宿る光は、まさに『強者』の証であった。
その背後では、リーチェが二の矢を番え弓を引き絞ったまま、冷徹な殺気を秘めた眼差しで、ケリュネイアを見据えている。ロキエルがラビを地へ降ろし、横たわるケリュネイアへと歩み寄った。
「……リーチェ、もういい」ロキエルの呼びかけに、リーチェはわずかに顎を引き、番えていた矢を腰に佩いた矢筒へと戻した。それと同時に、張り詰めていた肩の力が抜け、大きな溜息がこぼれる。すると、リーチェは靴音を荒々しく響かせ、ラビのもとへと詰め寄った。
「く、苦しいです、リーチェ姉様……っ!」いきなり胸ぐらを掴み上げられ、ラビが悲鳴を上げる。
「アンタねぇ! 何を勝手な真似してるの! 私の矢が信じられないって言うの!?」
「そ、そんなことないですぅ! それよりロキ姉様のお怪我が!」
「あんなかすり傷、唾でも塗っておけば治るわよ。それとも何? アンタが死んで、私たちが一生後悔すれば満足だったわけ!?」リーチェは怒声を響かせ、胸ぐらを掴む手に力がこもる。しかし、ラビは、リーチェの瞳に光るものを見て、抗う様子もみせず、ただ、されるがままでいた。
ロキエルは一人、ケリュネイアの傍らに座り込んでいた。揉める二人を嗜めるでもなく、消えゆく霊獣の命を見つめるように、ぼんやりと静かな時の中にいた。
まさにラビが予想していた通りの展開だと思っていたら、ふと、最も肝心なことを思い出す。
「リーチェ姉様!そんなことより早く血抜きをしないと『理不尽大帝マリ』の怒りを買います!」
「うわぁ!」「ひえぃ!」大慌てで飛び跳ねる、ロキエルとリーチェ。
「何してるのラビ!早く血抜きをしないと!」
「え!私がですか?無理ですぅ~」
「言い出しっぺは、ラビでしょ、さあ早く!」
月明かりの下、崩れ落ちた霊獣を前にした三人の影。血の匂いが混じる森で、ラビの悲壮な声が響き渡る。
「理不尽ですぅ~!」




