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第18話 ラビ覚醒


「ラビ、止まって」


 先頭を行くロキエルが足を止め、振り返りざまに優しく、ラビの肩を抑え込んだ。


「いい? ここからは声を潜めて」

「……ひゃ、ひゃい」

喉を鳴らして緊張に強張るラビを余所に、


「ほら、あそこよ」ロキエルが指さした先――そこには、霊獣の名にふさわしい、天を突くような黄金の角を持つ巨鹿が、悠然と歩を進める後ろ姿があった。


「黄金の……鹿?」ラビが目を見開く。思わず漏れそうになった悲鳴を、両手で口を覆って必死に堪えた。


「霊獣ケリュネイアよ」 隣のリーチェが応じる。隠そうとしても隠しきれない殺気が、その声に昏く滲んでいた。


「リーチェ姉様、殺気がだだ漏れです……怖すぎます」


「……伝説ではね、矢よりも速く駆けるそうよ。冗談じゃないわ、私の矢が追いつかないなんて。必ず前回の雪辱を果たしてやるわ」

 

剥き出しの闘志に引き気味のラビだったが、自分の鼻を突く異臭に、半べそで抗議した。

「……あ、あの。ちょっと待ってください。あの鹿を仕留めるために、私の顔にこの『くちゃい』のを塗りたくったんですか?」

「そうよ」リーチェは視線すら向けず、事もなげに言い放つ。


「私、気配を消すのは得意なのに!?」

「でも、匂いまでは消せないでしょ?」ロキエルが困ったような、それでいて楽しそうな苦笑いを浮かべた。


「……あ、それから念のために断っておくけど」 釘を刺すような声に、場が引き締まる。


「私達の目的は、あの、霊獣ケリュネイアなのよ。『マリの理不尽なお願いを叶える』とは言ったけど、一言も『お菓子の材料』を探すなんて言ってないから。……私たちが探しに来たのは、『黄金の雫』の香りをねじ伏せるための、極上の料理の材料よ」

「え、えええっ? 私、てっきりお菓子作りのお手伝いかと……」

「物事には順番があるの。ラビだって例の『黄金の雫』の件は聞いていたはずでしょ?」

「それはそうですけど……。はっ! だったら今更ですけど、聞かせてください!」


 ラビは自分の顔を指さし、身を乗り出してロキエルに詰め寄った。

「匂いを消すために『くちゃい』のを塗りたくるのは、百歩譲って理解できます。でも、どうして『顔』なんですか!?」

「確かに……」隣でリーチェが深く頷く。彼女がロキエルに向ける視線からは、光が完全に消えていた。(でも、きっとロキの出自に関係あるんだろうな)――そんな推測が頭をよぎったが、リーチェはそれを口にはしなかった。


 だが、当のロキエルはどこ吹く風で、涼しい顔して答える。


「うーん。その方が、気分が上がるでしょ?」

「上がるわけないですよ! むしろ地の底まで下が――んうぐっ!?」正論で反論しようとしたラビの口を、ロキエルの手が物理的に塞いで、茂みに勢いよく押し倒した。

「ラビ、頭を上げないで」

 リーチェもロキエルに倣って、茂みの中に身を投げ出す。


「んぐ、んんっ!?」

 口を塞がれたまま、(ちょっと、何するんですかロキ姉様……!)ラビは必死に抗議の視線を送った。しかし、漏れ出るのは情けないくぐもった声だけ。


 ロキエルが氷のように冷徹な視線を向けると、ラビは「――っ!」と声にならない悲鳴を上げ、恐怖に身を竦ませた。ラビが観念したのを見計らい、ロキエルはようやく手を離す。そして、ラビの顔に塗られた『くちゃい』で汚れた掌を、しれっとした顔で彼女の服で拭い去った。


 その一部始終を冷めた目で見ていたリーチェは、(ロキもマリちゃんに負けず劣らず理不尽よね……)と重いため息をつき、視線を森の奥へと逸らした。


「……っ!?」直後、リーチェの表情が強張る。彼女はロキエルの肩を強く掴むと、前方の一点を指さした。

「ラビ、いよいよ本番よ」ロキエルが耳元で低く囁く。


(むっきー! あいつのせいで私がこんな目に!)怒りに火がついたラビの敵意が、物理的な圧となって膨れ上がっていく。

(ちょっとラビ、抑えて! ケリュネイアに気づかれるわ!)慌てふためく二人。しかし、次の瞬間――。


 ゆっくりと立ち上がったラビから、猛烈な敵意が一瞬で霧散した。それどころか、彼女の気配そのものが夜の闇に溶け込み、完全に消失したのだ。


(な、何なの……この子?)唖然として視線を交わすロキエルとリーチェ。


 二人が次にラビの姿を捉えたのは、月明かりの逆光の中に忽然と現れた「黒い影」――感情の一切を削ぎ落とした、ラビの背中だった。


 視線の先、『風止まりの窪地』には、月光を浴びて神々しく輝く黄金の角を持つ鹿――ケリュネイアが佇んでいる。伝説の霊獣ですら、背後に忍び寄る『死神』に気づいていない。

 

 ロキエルたちが息を呑んだのは、ラビが至近距離まで肉薄したこと以上に、背中越しでもはっきりと分かる。その変貌ぶりに対してだった。つい先ほどまで、屈辱で頬を膨らませていた少女の姿はどこにもなかった。


 ラビの瞳は、波一つ立たない深い淵のように静まり返っていた。怒りは消えたのではない。極限まで圧縮され心の奥底へと仕舞い込まれたのだ。


(……怖い。何なの、あの子)リーチェが身震いする。


 それは標的を捕捉した精密な殺戮兵器の如き、冷徹な静寂。泥だらけの服を纏いながらも、その立ち姿は霊獣の神々しささえ塗りつぶす、圧倒的な存在だった。


 ケリュネイアがようやくその瞳にラビを映し、驚愕に瞳孔を見開く。

 

 だが、遅い。


 「逃がさない」鈴の鳴るような、しかし心を凍らせるほど冷ややかな声が、夜の森に響き渡った。

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