第13話 花満開
組合長の影が揺れた。
それまで気配を断っていた給仕服姿の少女が、あからさまな敵意を剥き出しにしたのだ。
刹那、ロキエルとリーチェが即座に反応し、場に異様な緊張感が走る。泰然自若としていたハンスでさえ、鋭い眼光を放ち、腰をわずかに浮かせた。
だが、マリは違った。
口をモグモグさせながら、ティーカップに手を伸ばす。お茶を一口すすると、張り詰めた空気など、どこ吹く風と、首を捻って組合長を見上げて、事もなげに言った。
「でもねー、お茶が『黄金の雫』なの」
敵意も、迎撃の構えも、狂気的な威圧感さえも。マリが放ったあまりに無邪気で場違いな一言は、鋭く尖っていた空気を、霧散させてしまった。
「え……? いったい何の話なの?」毒気を抜かれたのは組合長も同じだった。突然出てきた酒銘に呆然とする彼女に対し、リーチェが困ったような、それでいて、誇らしげな苦笑いを浮かべて割って入る。
「組合長、実は……」リーチェが事の経緯を説明し始めると、組合長の顔色は傍目にも分かるほど赤らんだかと思えば、瞬く間に青白く変わっていった。組合長に呼応するように、背後の給仕服姿の少女が放っていた敵意も、みるみるうちに萎んでいき、彼女は再び組合長の影の中へと静かに溶け込んでいった。
組合長は『黄金の雫』を知っていた。いや、知っているどころか、自ら酒造元まで足を運び、心血を注いで買い付けてきた逸品だ。一方で、『緋龍の肉』に幻想など抱いてはいない。むしろ異臭のする下等な肉だという報告すら受けている。しかし、足繁く『ジーズ』に通うなかで、彼女はマリの驚嘆すべき腕前を嫌というほど思い知らされていた。また、リーチェとの酒談義を通じ、その知識量と味覚の鋭さにも絶対の信頼を置いていた。
そのマリが、『黄金の雫』の華麗な香りをねじ伏せる料理を、涼しい顔で創り出すという。そしてリーチェも、それを微塵も疑っていない。もしマリに依頼すれば、この希少な茶葉に見合う「価値の計り知れない菓子」が生まれるのではないか。
(商売人として、この機を逃す手はないわ!)組合長の瞳に炎が宿る。伊達や酔狂で組合長を名乗っていない――タフである。
「ねえ、マリ。リーチェ給仕長に約束したみたいに、このお茶の香りに負けないお菓子を作ってくれる? 作ってくれるよね~」 組合長は期待を込め、猫なで声でマリに頬を寄せた。
「やー!」返事は即答だった。あまりに元気よく、迷いのない拒絶。組合長は頬を寄せたまま、固まってしまった。
「えっ……!? な、なんで?」と、慌てふためく組合長。
「叱られちゃうから」マリはぷいと頬を膨らませ、真向かいのウィルヘルムをじっと見つめる。その様子は、単なるわがままというより、切実な危機感を抱いているようでもあった。
「誰に叱られるの?」
「う~ん。ひみつ」人差し指を口元に当てるマリ。だが、その視線は依然としてウィルヘルムに釘付けだ。――バレバレである。馬車のなかでの出来事が頭をよぎり、一同は視線を逸らして必死に笑いをこらえた。しかし、マリの正面で、極上の観劇でも楽しむかのように、椅子に深く背を預けていたウィルヘルムが、こらえきれず吹き出し、激しく手を打ち鳴らした。
「くっ、ははは! 傑作だ。組合長、マリを責めてやるな」ウィルヘルムは喉を鳴らして笑い、困惑する組合長へ、からかうような視線を向けた。
「俺がさっき、この子に余計な話を聞かせたせいだよ。……割れないガラスを作った職人の話をな」
「ああ……王様に『叱られちゃった』お話ね」もちろん組合長も、その職人が王によって処刑された逸話は知っている。彼女は苦笑混じりに話を合わせたが、ふと気づいて内心で戦慄した。
(ちょっと待って。それじゃあこの子は、既存の職人を廃業に追い込むような代物を作れると言っているの?)
「マリ、大丈夫だ。俺は優しいからな、そんなことで叱りはしないさ。それに、俺は甘いものには目がないんだ。美味しいお菓子を作ってくれないか?」
(『甘いものには』嘘をつけ!『甘いものにも』の間違いだ)誰が心の内で毒づいたかは、さておき。
「う~ん……マリ、お菓子作り、ちょっと自信ない」マリは気まずそうに視線を泳がせる。
(え!? 自己矛盾していないか? 菓子職人を廃業に追い込む心配をしながら、自信がないなんて)一同が首を傾げるなか、ロキエルだけはマリの瞳に宿る「陰り」に違和感を覚えていた。射抜くような視線で、その真意を探る。
(弱っているマリを救うのは、いつだって私の役目さ)すぐに、ロキエルが静かに席を立った。
春の日差しのような温かさを身に纏い、誰にも有無を言わせぬ足取りで、マリに歩み寄る。そして、組合長の腕から取り戻すようにマリを抱き上げると、慈しむような微笑みを向けて、静かに、だが、力強く言った。
「マリ、大丈夫よ。たとえ地の果てであろうと、海の底であろうと、私が最高の食材を届けてみせるわ」
マリは何一つ疑うことなく、春の日差しを浴びて満開になった花のような笑顔で、答える。
「わかったー!」




