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幽黙の愛

作者: 闇男

序章

僕の母は料理が上手だった。

特に弁当作りは近所でも評判で、小学校のクラスメイトたちからもよく羨ましがられた。肉巻きおにぎり、卵焼き、ハンバーグ、そして季節の野菜を使った彩り豊かなおかず。母の弁当箱を開けるたびに、クラスメイトたちからは歓声が上がった。

「すごいね、健太くんのお母さん」

「うちのお母さんも見習ってほしいな」

「いいなぁ、こんな弁当」

そんな言葉を聞くたびに、僕は少し照れながらも誇らしい気持ちになった。でも、心の片隅で何かが引っかかっていた。母の弁当への執着は、時に異常なほどだったからだ。

「健太、残さず全部食べたの?」

毎日、学校から帰ると母は必ず同じ質問をした。その目は笑っているようで、どこか冷たかった。

「全部食べたよ」

そう答えるのが決まりだった。たとえ本当は食べきれなかったとしても、そう答えるしかなかった。一度だけ正直に「今日はちょっと量が多くて...」と言ったことがある。その時の母の表情は今でも忘れられない。まるで氷の仮面を被ったようになり、その夜から三日間、母は僕に一切言葉を掛けなかった。

四日目の朝、母は何事もなかったかのように朝食を用意し、いつもより豪華な弁当を作ってくれた。でも、その目は笑っていなかった。

「今日のは全部食べられるよね?」

それは質問ではなく、命令だった。

僕は十歳の時、初めて気づいた。母の料理には愛情だけでなく、もっと重いものが込められていることに。

そして中学二年生になった今、僕はようやく理解した。母の弁当に仕込まれた「愛情」の正体を。

第一章

中学に入学してからも、母の弁当は変わらず僕の自慢だった。むしろ母の技術は年々上がっていき、キャラクター弁当やデコ弁など、SNSに投稿しても「いいね」がもらえるような凝った弁当を作るようになっていた。

「健太くんのお母さん、プロ並みだね」

「インスタ映えするじゃん」

「うちの母ちゃんなんて、冷凍食品ばっかりだよ」

そんな声を聞くたびに、母は嬉しそうに微笑んでいた。僕は毎朝、母が作る弁当の写真を撮り、母のインスタグラムアカウントに送っていた。もはや儀式のようなものだった。

ある日、同級生の山田が僕の弁当を見て驚いた顔をした。

「なあ、健太。お前の弁当、ホントに毎日食べてるの?」

「当たり前じゃん。なんで?」

「いや、なんか量が多すぎるなって思って。俺だったら絶対食べきれないよ」

確かに母の弁当は量が多かった。でも、残すことは許されない。たとえ気持ち悪くなっても、吐きそうになっても、全部食べなければならない。それが母との約束だった。

「大丈夫、運動部だからたくさん食べるんだ」

そう答えて、話題を変えた。でも山田の言葉は、僕の中で何かを揺さぶった。

その日の夜、母は台所で明日の弁当の下準備をしていた。僕は勇気を出して言った。

「ねえ、お母さん。弁当のおかず、ちょっと減らしてもらえないかな。最近、量が多くて...」

母の手が止まった。背中が強張る。

「健太は今、成長期なのよ。しっかり食べないと」

「うん、でも...」

母が振り向いた。笑顔だった。でも、その目は笑っていなかった。

「健太はお母さんの料理が嫌いになったの?」

「そんなことないよ! お母さんの料理は世界一だよ。ただ、量が...」

「お母さんはね、健太のことを思って毎日早起きして作ってるのよ。わかる?」

母の声は優しかったが、その言葉には鋭い棘があった。僕は諦めた。

「ごめん、お母さん。気にしないで。明日も楽しみにしてるよ」

その夜から、僕は少しずつ弁当を捨て始めた。教室を出て、誰もいないトイレの個室で、弁当箱の半分ほどを便器に流した。罪悪感はあったが、これ以上食べ続けることはできなかった。母の弁当を全部食べると、いつも気持ち悪くなった。

これが僕と母の小さな戦いの始まりだった。

第二章

「健太、最近元気がないわね」

母の言葉に、僕は顔を上げた。朝食の味噌汁を半分ほど残していた。

「ちょっと疲れてるだけだよ」

「部活が忙しいのね。だからこそ、しっかり食べなきゃ」

母の目がじっと僕を見つめていた。何かを探るような鋭い視線。僕は慌てて味噌汁を飲み干した。

「今日のお弁当は特別よ。健太の好きなハンバーグをたくさん入れたわ」

「ありがとう、楽しみにしてるよ」

そう言いながら、僕は心の中で計算していた。今日はどのくらい捨てればいいか。

学校に着くと、クラスメイトの鈴木が僕に近づいてきた。

「なあ、健太。最近トイレでなにしてるの?」

僕の心臓が跳ねた。

「何のことだよ」

「ほら、昼休みにいつもトイレで何か捨ててるって噂になってるんだよ」

冷や汗が背中を伝った。誰かに見られていたのか。

「気のせいだよ。そんなことしてないって」

鈴木は首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。でも、この会話は僕をさらに追い詰めた。学校で捨てるのはもう危険だ。

その日の弁当時間、僕はいつものように弁当箱を開けた。母の言葉通り、ミニハンバーグが六個も入っていた。他にも卵焼き、唐揚げ、ブロッコリーのおかか和え、さつまいもの甘煮...とにかく詰め込まれていた。

僕はそれを見て、ふと思った。

これは愛情なのか?それとも...

「健太、今日の弁当すごいな!」

隣の席の田中が覗き込んできた。

「うん、母さん張り切っちゃって」

「いいよな、母ちゃん料理上手で」

「まあね」

会話をしながら、僕はハンバーグを一つ口に入れた。いつもの母の味。肉汁が口の中に広がる。確かに美味しかった。でも、これを全部食べるなんて無理だった。

その日は部活が休みだったので、放課後に遠回りして帰ることにした。人気のない公園に寄り、弁当箱を開けた。残りのハンバーグ四つと、その他のおかずの半分を木の根元に埋めた。土を被せ、枯れ葉で隠した。

「ごめんね、お母さん」

心の中でそう呟いた。

家に帰ると、母が玄関で待っていた。いつもなら台所にいるはずの時間だ。

「おかえり、健太」

「ただいま...」

母の表情が読めなかった。

「今日のお弁当、美味しかった?」

「うん、すごく。特にハンバーグが最高だったよ」

嘘をつくのが上手くなった自分が怖かった。

「全部食べた?」

「もちろん」

母はにっこりと笑った。その笑顔が怖かった。

「嘘はいけないわ、健太」

僕の血の気が引いた。

「お母さんは全部知ってるのよ」

僕は言葉を失った。母は続けた。

「山岡先生から電話があったの。最近健太が給食を残すようになったって」

少し安堵した。学校での話だったのか。

「ごめん、お母さん。最近食欲がなくて...」

「健太、お母さんの料理は嫌いなの?」

「違うよ!ただ...」

「お母さんはね、健太のために一生懸命作ってるのよ。わかる?」

母の目に涙が浮かんでいた。僕は罪悪感で胸が締め付けられた。

「ごめん、お母さん。明日からはちゃんと食べるよ」

母はそっと僕を抱きしめた。

「約束ね」

母の腕の中で、僕は小さくうなずいた。でも心の中では、明日からどうしようと焦っていた。

第三章

それから一週間、僕は必死で母の弁当を完食するようになった。吐きそうになりながらも、全てを胃に押し込んだ。帰宅後はいつも気持ち悪くなり、布団の中で腹痛に耐えた。

体重は増え始め、クラスメイトからも「太った?」と言われるようになった。体育の授業も辛くなり、すぐに息が上がるようになった。

ある日、保健室で体重測定があった。

「西村君、二ヶ月で5キロも増えてるわね。何か生活習慣が変わった?」

養護教諭の佐々木先生が心配そうに尋ねた。

「特に...」

「部活は?」

「バスケ部です」

「運動量が減ったわけじゃないのね。食生活は?」

「いつも通りです」

嘘をついた。佐々木先生は少し考え込んだ。

「お母さんの料理、おいしいの?」

唐突な質問に、僕は戸惑った。

「え?まあ...はい、すごく」

「お弁当も作ってくれる?」

「はい、毎日」

「どんな感じ?」

「えっと...色々入ってます。おかずがたくさんで...」

佐々木先生はじっと僕の顔を見つめていた。

「西村君、無理して食べてない?」

その言葉に、僕の目に涙が溢れた。

放課後、母が学校に呼び出された。僕は職員室の外で待っていた。中からは母と佐々木先生の声が聞こえた。

「息子さんの体重増加が気になるんです。食生活を見直した方が...」

「うちの子のことは私が一番わかっています」

母の声は冷たかった。

「もちろんですが、成長期の食事バランスは大切で...」

「健太は私の料理が好きなんです。それだけです」

会話は平行線をたどり、結局何も解決しないまま終わった。母は無言で僕を連れて帰った。

家に着くと、母は台所に立ち、包丁を手に取った。

「健太、お母さんの料理は好きでしょ?」

「うん...」

「じゃあ、なぜ先生たちに変なことを言ったの?」

「言ってない...」

「嘘はいけないわ」

母の包丁が野菜を切る音が、普段より大きく聞こえた。

「健太はお母さんの気持ちがわからないのね」

「わかるよ、お母さん。だから...」

「本当にわかってる?」

母が振り向いた。その目は涙で濡れていた。

「お母さんはね、健太のことだけを考えて生きてきたのよ。お父さんが出て行ってからずっと...」

父の話題が出ると、いつも母の様子が変わった。父は僕が五歳の時に家を出て行った。理由は知らない。母はそれ以来、父の話を一切しなくなった。

「お母さんは健太に強くなってほしいの。世の中は甘くないのよ」

「うん...」

「だから、お母さんの愛情をしっかり受け止めて」

母は夕食の準備に戻った。その背中を見ながら、僕は思った。

これは本当に愛情なのだろうか。

その夜、僕は決心した。もう逃げられない。母の「愛情」と向き合うしかない。

第四章

翌朝、母はいつも以上に豪華な弁当を作っていた。

「今日はね、特別よ。健太の好きなものばかり入れたわ」

弁当箱を受け取りながら、僕は覚悟を決めた。

「ありがとう、お母さん」

学校に着くと、僕は保健室に向かった。佐々木先生は驚いた顔で僕を迎えた。

「西村君、どうしたの?」

「先生、お願いがあります」

僕は弁当箱を開けた。中には色とりどりのおかずが隙間なく詰め込まれていた。

「これ、全部食べなきゃいけないんです」

佐々木先生は弁当を見つめ、そして僕の顔を見た。

「毎日、これだけ?」

「はい...」

「無理して食べなくていいのよ」

「でも、お母さんが...」

佐々木先生は深く息を吐いた。

「西村君、これは少し...」

言葉を選んでいるようだった。

「異常だと思う?」

僕が代わりに言った。佐々木先生は小さくうなずいた。

「お母さん、健太君のことをとても愛してるのね」

「はい...」

「でも、それが少し行き過ぎてるかもしれない」

僕は黙ってうなずいた。

「今日は私と一緒に食べましょう。少しずつでいいの」

その日、僕は佐々木先生と弁当を分け合った。初めて母の弁当を「適量」で食べた気がした。

放課後、佐々木先生は僕に言った。

「お母さんとゆっくり話し合ってみたら?お母さんも、きっと健太君のことを思ってのことだから」

僕は不安だったが、うなずいた。

家に帰ると、母はいつものように「お弁当、全部食べた?」と聞いた。

僕は心臓が早鐘を打つのを感じながら、勇気を出して言った。

「お母さん、弁当のこと、話したいんだ」

母の表情が固まった。

「佐々木先生と分けて食べたんだ。だって...多すぎて一人じゃ食べきれないよ」

母の目に怒りが浮かんだ。

「あの先生が余計なことを...」

「お母さん、聞いて!」僕は声を上げた。「僕はお母さんの料理が大好きだよ。世界一だと思ってる。でも、量が多すぎるんだ」

「健太...」

「お母さんの愛情はすごくうれしい。でも、こんなに食べられないよ...」

母は黙って立ち尽くしていた。

「お母さん、僕はお母さんの愛情が怖いよ」

その言葉で、母の表情が崩れた。涙が頬を伝った。

「健太...お母さんは...」

言葉にならない声で母はつぶやいた。

「お母さんは健太を失いたくないの」

「失わないよ。僕はここにいるよ」

「でも、あの人みたいに出て行くかもしれない...」

あの人—父のことだ。

「出て行かないよ。だから...」

母はゆっくりと床に膝をついた。肩を震わせて泣いていた。

「お母さん...」

僕は母の肩に手を置いた。

「健太...ごめんなさい...」

その日、初めて母と本当の話をした。父のこと、母の不安、そして僕の気持ち。

翌朝、母が作った弁当は、適量だった。おかずの種類は多かったが、一人で食べられる量だった。

「健太、今日のは...大丈夫かな?」

不安そうな母の顔を見て、僕は笑顔で答えた。

「うん、ちょうどいいよ。ありがとう、お母さん」

母の目に涙が浮かんだ。でも、今度は悲しみの涙ではなかった。

「いってらっしゃい」

「いってきます」

学校への道を歩きながら、僕は少し軽くなった気がした。

しかし、これで終わりではなかった。

第五章

それから二週間、母の弁当は適量になった。僕は再び完食できるようになり、少しずつ体重も元に戻り始めた。母も少しずつ明るさを取り戻していた。

ある日の夕食時、母が言った。

「健太、お母さん、カウンセリングに通い始めたの」

「カウンセリング?」

「うん、佐々木先生に紹介してもらったの」

驚いた。母が自分から助けを求めるなんて。

「それがね、少しずつ自分のことがわかってきたの」

母は少し恥ずかしそうに笑った。

「お母さんはね、健太に拒絶されるのが怖かったの。だから、食べ物で繋ぎとめようとしてたのかもしれない」

「お母さん...」

「でも、それは健太を傷つけることだったのね」

母の目は真っ直ぐ僕を見ていた。

「これからは健太の気持ちも大切にするから...だから...」

「うん、わかってるよ、お母さん」

その晩、久しぶりに心から安心して眠れた気がした。

しかし、真夜中に目が覚めた。喉が渇いて、水を飲みに行こうと思った。廊下に出ると、台所から物音がした。

「お母さん...?」

返事はなかった。そっと台所を覗くと、母が何かをしていた。背中越しには見えなかったが、何かを包丁で細かく刻んでいるようだった。

「お母さん、こんな夜中に何してるの?」

母が振り向いた。その表情は...普段の母ではなかった。目は虚ろで、頬は涙で濡れていた。

「健太...起きちゃったの」

「何作ってるの?」

「明日のお弁当よ」

「こんな夜中に?」

母は包丁を置いた。その手が震えていた。

「健太、お母さんね、頑張ってるの。でもね...」

母の視線が落ちた。僕はゆっくり近づいて、母の作業台を見た。そこには...

きれいに並べられた錠剤があった。

「お母さん、これ...」

「健太を失いたくないの」

母の声は震えていた。

「特別な愛情よ...」

僕は恐怖で固まった。母の「愛情」の正体を、今、目の当たりにしていた。

「お母さん、それは...」

「安心して、健太。お母さんの愛情は、いつも健太の中にあるのよ」

母の笑顔が怖かった。

その時、僕は理解した。母の弁当に仕込まれていた「異物」。僕の体調不良、突然の眠気、時々感じる現実感の喪失。全ては母の「愛情」だったのだ。

「お母さん...」

僕の声が震えた。

「健太、もう大丈夫。お母さんはいつも健太と一緒にいるから...」

母の手が僕の頬に触れた。冷たかった。

「健太は、お母さんから離れないわよね?」

その夜、僕は決断した。もう誰にも言えない秘密を抱えながら、母と向き合うことを。

翌朝、母は笑顔で弁当を渡してくれた。

「今日のは特別よ。お母さんの愛情がたっぷり入ってるわ」

僕はその弁当を受け取り、笑顔で答えた。

「ありがとう、お母さん。大切に食べるよ」

学校への道すがら、僕は決心した。このまま母の「愛情」を受け入れ続けるわけにはいかない。でも、母を失うこともできない。

その日から、僕の新たな戦いが始まった。母の「愛情」から自分を守りながら、同時に母自身も救わなければならない戦い。

そして僕は、母の弁当に仕込まれた「異物」を見抜く目を持つようになった。あの特別な日から、僕は少しずつ強くなっていった。

もう誰にも頼れない。この秘密は、僕だけのものだから。

終章

それから一年が経った。

僕は中学三年生になり、受験勉強に追われる日々を送っていた。母はまだカウンセリングに通っていて、少しずつ変わっていった。

弁当は相変わらず母が作ってくれていたが、もはや「異物」が混入することはなくなった。僕は毎朝、こっそりと弁当の中身をチェックするという習慣を続けていた。最初の頃は、時々怪しい粉や、砕かれた錠剤の跡を見つけることもあった。そんな時は、誰にも気づかれないように弁当を捨て、パンを買って済ませた。

母は気づいていたかもしれないが、何も言わなかった。ただ、悲しそうな目で僕を見つめることがあった。

そんなある日、担任の先生から呼び出された。

「西村君、進路のことだけど...」

僕は黙ってうなずいた。

「君、地元の高校ではなく、寮のある高校を志望してるんだね」

「はい...」

「理由を聞いてもいいかな?」

僕は少し考えてから答えた。

「新しい環境で、自分の力で生きてみたいんです」

先生は僕の顔をじっと見つめた。

「お母さんは了承してるの?」

「...まだです」

「そうか...」

先生は何か言いたげだったが、それ以上は何も聞かなかった。

その夜、僕は母に話すことにした。

「お母さん、進路のことで話があるんだ」

「何かしら?」

「僕、寮のある高校を受験したいと思ってる」

母の表情が凍りついた。

「どういうこと...?」

「新しい環境で、いろんなことを学びたいんだ」

「でも...」

「お母さんから離れたいわけじゃないよ。ただ、自立したいんだ」

母の目から涙がこぼれた。

「健太は...お母さんから逃げたいの?」

「違うよ。お母さんの子供として、強くなりたいんだ」

母は黙ってうつむいた。

「考えておくわ...」

それから一週間、母は考え込んでいた。ある日、母が僕の部屋をノックした。

「健太、いい?」

「うん」

母は僕のベッドの端に腰かけた。

「健太の気持ち、わかったわ」

「お母さん...」

「お母さん、健太を信じることにしたの」

母の目には決意の色があった。

「ありがとう、お母さん」

「でも、一つだけ約束して」

「なに?」

「定期的に帰ってきて、お母さんの料理を食べに来てね」

僕は笑顔で答えた。

「もちろん。お母さんの料理は世界一だもん」

母の笑顔は、久しぶりに心から明るいものだった。

それから受験勉強に打ち込み、僕は志望校に合格した。

引っ越しの日、母は最後の弁当を作ってくれた。

「健太、これが最後のお弁当よ。寮に着いてから食べてね」

「うん、ありがとう」

母は僕を強く抱きしめた。

「お母さん、頑張るから」

「健太も頑張ってね」

寮に着いて、一人になった部屋で僕は母の弁当を開けた。中には適量のおかずと、一枚の手紙が入っていた。

『健太へ

お母さんの愛情は、もう弁当の中には入れないわ。

これからは健太の心の中にだけ、そっと置いておくから。

いつでも帰っておいで。

お母さんはいつでも待ってるから。

愛しているわ。

お母さんより』

その夜、僕は久しぶりに泣いた。

それから三年が経った。僕は大学生になり、一人暮らしを始めた。時々母の家に帰ると、母は笑顔で迎えてくれる。もう、あの頃の異常な「愛情」はない。

僕は時々、母の作った弁当を思い出す。愛情と恐怖が混ざり合った、あの複雑な味を。

母の「愛情」は、確かに狂気だった。でも、その根底にあったのは、ただ一つ。僕を失いたくないという、純粋な思い。

僕はそれを理解している。だからこそ、母を許すことができた。

今では、母と僕は適切な距離を保ちながら、健全な関係を築いている。僕が自立したことで、母も自分の人生を取り戻すことができた。

弁当に仕込まれた「異物」は、僕たちの関係を壊すものではなく、むしろ新たな関係を築くきっかけになった。

僕は今でも、食べ物には慎重だ。誰かから何かを受け取るとき、つい中身を確認してしまう癖がある。それは、あの日々の名残だ。

でも、それもまた僕の一部。母との記憶とともに生きていく。

今日も僕は自分で弁当を作る。適量で、栄養バランスの取れた弁当だ。

時々、同僚に「上手だね」と言われると、僕は少し照れながら答える。

「母親譲りなんだ」

幽黙の愛を知った僕だからこそ、真の愛情がわかる。

それは決して縛るものではなく、自由にするもの。

母は今、本当の意味で僕を愛している。

そして僕もまた、本当の意味で母を愛している。

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