95.ジェットとレミ②
レミはたっぷり十秒は頭を下げ続け、ため息とともに顔を上げた。
──吸血鬼と言えば。
気位が高い偏屈な種族という印象だった。自らを高位の存在だと言って憚らず、その不遜な態度ゆえに他種族との軋轢もそれなりに存在する。相手が人間であればその美しい容姿でもって大概はチャラになってしまうが。
そんな相手が悪魔に頭を下げるとは思わず、ジェットは軽くフリーズしてしまった。
フリーデリーケがあんな感じだったので、その孫はさぞかし我儘なのだろうと想像していたのだ。
「なんでお前が頭を下げるんだ……?」
「お祖母様の口車に乗って『契約』をしてしまったんだろう? 内容は詳しく教えてもらえなかったがそれくらいの想像はつく。身内が申し訳ない。……だが、オレもお祖母様の言うことは逆らえないので、暫くはよろしく頼む。どのみちお前の情報も百年か二百年も経てば消えるだろう。そうしたら、『契約』は終了で良い」
吸血鬼らしからぬ青年だった。青年と言うにはまだ少し幼さが残り、吸血鬼の中でもまだ若い方だろう。
不遜な物言いが見え隠れするものの、それ以上に妙な卑屈さが鼻についた。これまで様々な種族や、様々な境遇の相手を観察してきたからか、レミがどういった境遇に置かれているのかは何となく想像がつく。
しかし、それらを差し引いても彼が持つ魔力量は目を見張るものがあった。フリーデリーケには及ばないが、いずれその域に達し──長生きさえすれば彼女を遥かに凌ぐのは間違いない。
「……はー、なるほどなぁ。フリーデリーケが甘やかして心配するわけだ」
つかつかとレミに歩み寄り、ずいっと顔を寄せる。
戸惑うのをよそに人差し指で胸を小突いた。不意のことだったからか、レミが軽くふらつく。
「っ?!」
「相手の顔色を窺うのをやめろ」
「は……?」
「吸血鬼が悪魔の顔色を窺うなんて聞いたことねぇし、そんな気持ち悪ぃ吸血鬼は論外」
「だが、お前は自分の意思とは関係なく、『契約』させられたんじゃないのか?! いくら身内でもそんな──」
レミの言葉を遮るように大きく長いため息をついた。彼はむっと口を噤む。
「あいつはちゃんと必要な条件を提示して、俺がそれに納得しただけだ。気に入らなかったのは『契約』以外の部分だな」
「でも、それは」
「あのな、ブラッドヴァールの坊ちゃん? 世の中綺麗事ばかりじゃねぇんだよ。……って、なんで俺がお前にこんなこと言わなきゃなんねぇんだ……?」
ガシガシと後ろ頭を掻く。ただ一緒にいればいいだけだと思っていたのにとんだお子様だった。
一歩後ろに下がり、彼と距離を取る。
レミは何とも言えない顔をしていた。
公平と綺麗事が好きな理想論者。
平和な世の中ならそれで良かったかもしれないが、残念ながら種族問わず戦争の多い時代だ。彼にとっては歯痒いことが多いだろう。
「お前、殺すの嫌いだろ。どんな相手であろうと」
じっとレミを見て言えば、彼は不愉快そうに眉を寄せた。
「……好きな者がいるのか?」
「そういう話はしてねぇんだよ。──良いか、坊ちゃん。今はあちこち戦争真っ只中で、俺みたいな悪魔が多少悪さしても見過ごされる。
何が言いたいかって言うと、お前が身に降りかかる火の粉すら払わないんだったら俺が殺すしかないってこと。お前の代わりにな」
はっきりと告げる。レミは驚いたように目を見開いていた。
──剣となり盾となって、あの子の傍にいて欲しいの。
フリーデリーケが望んだのはその一点。つまりは護衛だ。
最初は意味がわからなかったが、本人を前にしてようやく理解ができた。殺しを厭うがゆえに、自分の身に危険が迫って相手を殺すしかない状況に陥っても躊躇う可能性が高い。何度か前科があって頭を抱えたフリーデリーケの苦肉の策なのだろう。身内や眷属などに護衛を命じなかった理由はよくわからないが、この調子だと一族の中でも異質な存在なのではないだろうか。
驚き、動揺しているレミが口を震わせた。
「どうしてお前がそんなことをする必要がある……?!」
「それがフリーデリーケとの『契約』だからな。殺したら魂が手に入るから悪い話じゃない」
「……お前は平気だと?」
「殺すのを躊躇う悪魔がどこにいるんだよ、坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめろ!」
レミが怒りを露わにした。
それを鼻で笑い、ふわりと宙に浮く。いつまでもこんなところにいる必要はないだろう。
「はいはい。とりあえず移動しようぜ、レミ」
「……チッ」
ジェットに気を遣っても無駄だと悟ったのか、レミが舌打ちをする。それを見て笑みを深めた。
戦争道具として使われ続けた悪魔と、温室育ちの吸血鬼。
それがジェットとレミの出会いで、長い付き合いの始まりだった。
◆ ◆ ◆
レミは過去のことを思い出していた。
まさかフリーデリーケが悪魔と『契約』してくるとは思わず、当時は心底驚いたものだ。
「レミ! 貴方にいいお友達を見つけてきたわ!」と突然報告してきて、指定された場所に行ってみれば悪魔がいたのだ。驚くのも無理はないし、口のうまいフリーデリーケが彼を丸め込んだのだと悟った。
悪魔であるジェットに気を遣うのは無駄だと早々に理解し、肩から力は抜けた。
フリーデリーケがジェットを選んだ理由はすぐにわかった。
とにかく彼は遠慮せずに物を言う。だが、それは決して考え無しの発言ではなく、相手やその場の雰囲気を読んでの発言なのだ。悔しかったが不思議なバランス感覚があり、吸血鬼、人間その他の種族に合わせた対応ができる器用な悪魔だった。何より相手を黙らせるだけの力がある。
レミにとって一番良かったのは、ジェットが普通の悪魔とは少し違うところだった。
種全体としての吸血鬼を腐し、人間などを見下しつつも、何だかんだ他種族に対する愛着みたいなものを感じる。一方で悪魔に対する微かな嫌悪を持ち合わせており──そこにシンパシーを感じた。
レミは吸血鬼という種族があまり好きではなかったし、一族に対する息苦しさも感じていたからだ。
「レミ」
「……うん?」
名を呼ばれ、少し遅れて返事をする。ジェットは何やら思案顔だ。
「お前、ルーナに本を与えてるだろ?」
「? そうだな。最近児童書以外も読めるようになってきたので選び甲斐がある」
「恋愛小説とか混ぜといて」
「は?」
「できれば異種族と人間のやつ」
呆然とした後、思わず額を押さえてしまった。言うに事欠いてそれか、と。
「……お前が選んで渡してやればいいだろう」
「俺はそういうの詳しくねぇし。お前から渡された方があいつだって読む気になるだろ」
レミがルーナに本を渡しているのは彼女の勉強の一環である。だから恋愛要素のある小説は渡していても、それがメインだったことはない。多少古い知識になるが社会問題などを取り扱った小説がメインだからだ。ただの歴史書などでは飽きると思っての選択だった。
単純な娯楽小説は選んでない。そういうものはルーナ自身が選べばいいと思っているからだ。
「勉強の妨げになるから却下だ」
「つまんねぇの。──ルディのためにも多少意識させてやろうと思ったのに。あとさ、」
「なんだ」
「その方がお前だって血が飲みやすくなるんじゃねぇの?」
一瞬驚いて、それから肩を落とした。まだそんなことを言っていたのかと。
「血のことは放っておいてくれ」
「ルーナの血の味、気にならねぇの?」
答えられなかった。
気にならないと言えば嘘になってしまうし、この場で気になるとも言いづらい。
恋をする人間の血には独特の甘みがあり、その味を好む吸血鬼は多い。レミも嫌いではなかった。
「……ルーナが食事を用意してくれているおかげでマシになっている。血まで取ろうとは思わないし、ルーナだって今更血を求められても困るだろう」
「本人が望めば飲む気はあるってこと?」
ジェットがいちいち答えづらい質問を投げてくるせいで会話のテンポが悪くなる。
レミはため息をついて首を振った。
「……もういいだろう。その話は」
「よくねぇから掘り返してんだよ。──まだ、あの時のことがトラウマで飲めねぇのかって」
「……頼むから放っておいてくれ」
顔を伏せて言う。まるで懇願するみたいな言い方になってしまった。
あの時の血の味をまた思い出してしまいそうになり、思わず口を覆う。口いっぱいに気持ち悪さが広がって、全身を蝕んでいく感覚が蘇ってきた。
「ワリ。まだ駄目だったんだな、……戻ろうぜ」
そう言ってジェットは背を向けた。
ジェットは、フリーデリーケとの『契約』なんていい加減破棄してもいいのに、ずっと一緒にいて、破棄の「は」の字も出さない。
『契約』した時の申し訳無さを思い出してしまい、それを振り払うように首を振るのだった。




