86.涙と嵐の後に①
ルディの涙も人間のものと変わらずにしょっぱい。
けれど、そんなのは気にならなかった。ぼろぼろと零れ続ける涙を掬い取っていく。
そんなことをずっと続けていると、不意にルディが「ふ」と笑うような呼気を零した。何かと思ってルディの顔を覗き込むと、何故か涙を流しながら笑みを浮かべている。
「ルディ……?」
何がおかしいのだろうかと首を傾げて、じっと見つめるとルディが自分の手で涙を拭っていった。
「ご、ごめん。誰かが涙を拭ってくれるなんて思ってなかったし、なんか……すごく甘やかしてもらってるなって思って……なんか、さっきまで悲しくて苦しくて辛いだけだったんだけど、ちょっと余裕が出てきたみたい……」
ルディの言葉を聞いて心からホッとした。そう言ってもらえるならルーナがここにいた意味はあったのだ。
その安堵がルディにも伝わったのか、照れくさそうに笑っていた。
「ルーナがいてくれてよかった」
「本当? そうだったら、嬉しい……」
そう言ってルディの体を再度ぎゅっと抱きしめた。頭を抱えるようにして、よしよしと後ろ頭を優しく撫でる。ルディが気持ちよさそうに目を細めて、ルーナの胸に顔を埋める。
しばらくそうしたところで、ルディがゆっくりと顔を上げた。
目は赤くなっているし涙の跡が痛々しいけれど、涙は流れていない。頬をそっと撫でてみた。
「涙……止まってるね」
「え? あ、あれ? 本当だ……いつの間に……」
「私が食べちゃったからかな?」
「そうかも。あ、ルーナも泣いてたけど大丈夫? 僕が泣かせちゃったようなものだけど……」
ふ。とルディが笑ってから、ルーナの頬を撫で返した。ルーナが泣いたのは少しの時間だけだったので、涙はすっかり引いている。頬も乾いており、目が少し赤いくらいだろう。
ルディが涙の痕跡を探すように頬に触れていた。
自分のことなんていいのに、と思っているとルディが顔を近付けてくる。
「えっ、え!? な、なに?」
「あ、ごめん。別にキスするわけじゃないよ。……ルーナの涙もしょっぱいのかなって気になって」
硬直した。いざ自分の涙が舐められると思ったら心底驚いてしまったのだ。
そして、今更になって自分はなんて大胆なことをしてしまったのだろうと急激に恥ずかしくなってくる。ルディを慰めたい一心だったけれど、よくよく考えればすごいことをしてしまった。
今だって当たり前のように抱き合ったり抱き締めたりしていたことに対して軽くパニックになる。
しかし。
ふと、左手薬指の指輪が目に入った。
村を出て屋敷に来て、今日に至るまで一度たりとも外してない。
指輪を見た瞬間、ぞわっと鳥肌が立ってしまった。
そして、余計なことを考えないように首を振る。
「っだ、大丈夫。今は私よりルディのことだよ。……まだ、悲しい?」
そうっとルディを押し返して、顔を覗き込む。間違っても顔を舐められたりしないように。
ルディは少し考えこみ、それから自分の胸を軽く押さえた。
「涙は止まったけど、まだすごく悲しい。胸に大きな穴が開いてるみたいな気分……ルーナもそうだった?」
「そう、だね。喪失感っていうのかな、そういうのがすごかった……」
「……喪失感」
ぽつりと呟くルディ。ルディの意識が自身のことに向いたので別の意味でほっとした。
ルディは胸を押さえたまま窓の外へと顔を向ける。
外は変わらずに雨が降り続いている。窓ガラスを雨が伝う様子はまるで空が泣いているようだった。
「……涙は止まったけど、雨が止まないんだよね……」
ルーナも一緒になって窓の外を見る。
雷と風はいくらかマシになったが、時折光ったり、風が強く吹いたりしていた。ルディの悲しみがいくらか落ち着いたおかげで天候も、さっきよりはマシという程度になっている。しかし、ルーナの記憶する限りこんなに激しい風雨はなかった。雷だって、こんなにも轟いたことはない。
どのくらい時間が経ったのか不明だが、村はパニックになっているのだろうなとぼんやり考える。あまり胸は痛まなかった。
村の墓地にある両親の墓だけが心配だった。
「なんていうか、雨が降り出してからずっとだるいんだよね。魔力が垂れ流しになってる感じがする」
「それって……」
「うん、この天気がこのまま続いたら……まずいと思う。僕の魔力が尽きて止まるのか、魔力の代わりに僕の生命力が吸い取られて僕が死んで止まるのか……ちょっとわかんないな……」
言いながら、ルディは自分の掌を見つめた。
ルディ自身でさえわからないのだ。過去のレミが判断に迷っても仕方がない。
「ルーナ、ちょっと手を握っててもらっていい?」
そう言ってルディが自分の両手をルーナに差し出した。
「う、うん、もちろん。……これでいい?」
「ありがとう」
ルディが差し出した右手と左手を、それぞれ握りしめる。
礼を述べた後、ルディはゆっくりと目を閉じた。
眉を寄せて難しい顔をしている。何か捜すような、探るような──そんな表情だ。
余計なことはしない方が良さそうな雰囲気だったので口をぎゅっと引き結び、静かにしていた。
雨音と風の音、そして雷鳴が遠く近く響き続ける。薄暗い世界に二人だけ取り残されたような妙な感覚があった。
「ん? ……んんん~~~???」
ルディが困惑した様子で首を傾げる。目は閉じたまま、難しい問題でも解いているようだ。
そう言えば、今日は朝からずっと人間の姿でいる。いつもは魔獣の姿でいることが多いし、人間の姿でいる方が大変そうな雰囲気があったが──それは今は関係ないのだろうか。
悩み続けるルディを眺め、そっと手を揺らした。
「あの、ルディ?」
「……あ。なぁに?」
ぱち。と、ルディが目を開けてルーナを見る。
たった数分のことに思えたのに、それだけで疲れているようだ。
「その、人間の姿のままでいいの? 私にはよくわからないけど、魔獣の姿の方がよかったり、しない?」
「えっ。……あ。そっか、そうかも」
そう言うと人間の姿から魔獣の姿に戻る。さっきまで握っていた人間の手は、鋭い爪のある前足に変わっていた。
人間と違って前足を預けたままの体勢は辛いらしく、ソファの上に前足を下ろしていた。
ソファの上に座り直してから、再度目を閉じるルディ。尻尾がふわりと揺れて、耳がピクピクと動く。何かを感じ取ろうとしているようだ。その様子をじっと見守った。
さっきとは違い、困惑した表情でも難しい問題を問いている雰囲気ではない。
確実に何かを感じ取っているようだった。
「……あ。わかったかも」
ルディが目を閉じたまま呟く。
そして、窓の方へと顔を向けて、何かを呼びかけるようにか細く鳴いた。ルーナも釣られてそちらを見ると風が弱まっていった。
「ねえ、ルーナ。風、弱くなってない?」
「な、なって、る……!」
「なるほど、こうすると風が……えっと、じゃあ、今度は──」
ルディがもう一度鳴く。狼や犬の遠吠えのようでもあり、呪文のようにも聞こえた。
「雨、弱まってない?」
「弱まって、る……! すごい、すごいよ、ルディ!!」
確かに雨が弱まっている。さっきまで結構な降りっぷりだったのに。
この世の終わりみたいに周辺を真っ暗にしていた黒く厚い雲も徐々に晴れていく。雷はいつの間にか止んでいた。
雲の隙間から晴れ間が覗き、嵐の終わりを告げているようだった。
どうやら昼頃らしく、雲の向こうは明るい。
ルディがゆっくりと目を開けて、緊張を解くように長く息を吐きだす。そして、その場にへにゃりと崩れてしまった。
「ル、ルディ!?」
「ご、ごめん。すっごい気を使って……疲れちゃった……こんな風に魔力使ったの初めてだよ~……」
力尽きたのかと思って驚いたが、ただ疲れただけのようだ。ルーナの方も緊張が解け、両手をついてへなへなと力抜けていった。
だが、頑張ったのはルディだ。
両親を失った悲しみを乗り越え、意図せず引き起こしてしまった嵐を止めた。
のろのろと手を伸ばしてルディの頭をそっと撫でる。
「ルディ、お疲れ様」
「……えへへ」
「……ねえ、大丈夫? 辛かったり、苦しくない?」
撫でながら問いかけると、綺麗なグリーンの瞳がルーナを見る。
そして照れくさそうに笑った。
「うん、大丈夫。ルーナがいてくれたから」
「……よかった、力になれて」
表情を綻ばせると、ルディが目を細めた。二人で密やかに笑い合うのだった。
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