81.過去は過去として沈みゆく④
ため息が漏れた。それはジェットのものだったのか、自分のものだったのかわからない。
フィロもラケルも死んでしまった。
島の『守り神』らしく人間たちを守り、逃がすだけの時間を稼いだ。
一番大切な息子を独り残して。
致命的なのはジェットはもちろんレミにも大切な誰かを置いていく悲しみも、置き去りにされる悲しみも理解できないことだ。
「お父さん! お母さん!!」
フィロが亡くなった数分後、自分自身の役目を終えたルディが海岸を駆けてきた。その顔には焦りと絶望が広がっており、二人の気配が消えたことを察しているだろう。
そして、ルディが二頭の亡骸を前に呆然とする。
その綺麗なグリーンの瞳が歪んだかと思うと、ぼろぼろと涙が溢れだした。
「ね、ねえ……お、とうさんと、おかあさん、は……」
「……もう息はない。オレたちはお前のことを頼まれた」
取り乱すかと思いきや、ルディは呆然と涙を零すだけだった。
これまで平和で幸せで安寧とした日々だったため、両親の死が信じられないのかもしれない。傷だらけになって寄り添っている大きな魔獣二頭を、泣きながら見つめていた。
彼らが呼んだ風と雷は既に収まっており、雨だけがしとしとと振り続けている。
ジェットが二頭に向かって手を翳す。
「ジェット、後でいいだろう……?!」
「……え。な、にを、するの……?」
「あいつらの遺言。骨も残さず焼いてくれ、って」
怒り、戸惑い、そして冷静さが交錯する。
想定外の事態が起こる前に契約を履行したい考えはわかるが、何もルディの目の前で行う必要はないはずだ。案の定、ルディがジェットの前に立って、燃やすのを阻止しようとした。
「ねえ、やめて。やめてよ。お父さんとお母さんを燃やさないで……!」
「もう死んでんだよ。こんなところに置いといても腐るだけだぞ」
「せめてもうちょっと待ってよ……ッ!!!」
悲鳴にも似た声が空気を震わせる。
ルディの瞳から溢れる涙は止まることを知らないようだ。
雨に濡れた体を、更に涙で濡らしてジェットの前で激しく首を振った。
「お別れくらい、させてよぉっ……!」
涙まじりの悲痛な声だった。
そして、ルディの声と涙に呼応したかのように空が再び暗雲に包まれた。
桶をひっくり返したような雨が降り始め、びゅうびゅうと風が吹き、頭上では雷鳴が轟いた。フィロかラケルが咆哮とともに嵐を呼んだが、それに勝るとも劣らない勢いである。
異変に戸惑いを見せたジェットが空を見上げ、レミも続いて上を向いた。
「なんだよ、急に。……こいつが能力を使えるなんて聞いてない。ってか、ラケルは教えてないって言ってたよな?」
「……まさかとは思うが、感情がトリガーになって目覚めてしまったんじゃないか? ……だが、まずいな。このままだと島の全てが流されてしまうし、フィロとラケルの体も流されてしまう……」
暴風雨に雷。それらは凄まじい勢いで島を襲った。
先の戦いで無事だった木々が薙ぎ倒され、海が荒れて大きな波がうねる。竜巻すら発生し始めた。
先程の嵐はあくまでもガリダ軍を追い払うためのものだったが、今起きている嵐は違う。無差別に存在するもの全てを薙ぎ払っていく勢いだった。
嵐の範囲は徐々に広がっていく。このままでは人間たちが逃げていった小さな島が巻き込まれるのも時間の問題だろう。
「……ジェット。お前、これを止める術を知っているか?」
「知るわけねーだろ……てか、それがわかったら誰もこいつらを恐れてねぇよ。天候の影響を軽減できても、こいつらの能力がどうなってんのかってのは誰も解明できなかった。だから止め方なんか本人たちにしかわかんねぇよ」
レミは焦りを滲ませながら、泣き続けるルディの前に膝をつく。
ルディは雨の中でもわかるくらいに涙を絶え間なく流していた。どうしてこんなに涙が溢れるのかがわからないと言わんばかりの表情と、悲しみに満ちた瞳がレミを見つめる。その表情はどこまでも幼かった。
「ルディ、このままだと島が流されてしまう。お前の両親を弔うことすらできない。……この嵐を止めてくれ」
「で、できない。わかんない。……涙が止まらないのと同じで、止め方がわかんない……こ、こんなに泣いたことない……おとうさん、おかあさんが、きゅうにいなくなって……し、しんじゃって……くるしい、つらい……」
言い終わると、ルディがその場に倒れ込んでしまった。
慌てて名前を呼んで体を揺らすが反応はない。魔力を消耗し、意識が朦朧としているのが見て取れた。
天候を操るという能力にどれだけの魔力が必要とされるのかはわからない。このままルディを放置して魔力が枯渇して止まるのか、はたまたルディ自身の魔力を吸い尽くして死に至らしめるまで──つまりルディが死んでようやく止まるのか、判断がつかない。
前者だという確証はないため、とにかく無理やりにでも止めなければいけない。
「レミ、こいつの頭の中をリセットすれば多分止まる。つまり、記憶を全部消せばいい。それが確実だろ」
「ふざけるな! そんなことができるわけないだろう?!」
風雨に身を晒しながらジェットに対峙する。思ったよりもずっと怒りが出てしまった。
ジェットが呆れた視線を向けてくる。
「お前な、いい子ちゃんもいい加減にしとけよ。じゃあ、このままにしとくのか? ルディが死ぬまで止まらねぇのか、魔力切れ止まるのかなんてわかんねぇんだからな」
ジェットの言っていることは理解できる。何がトリガーになったのかはレミの想像でしかない。ならば、いっそ全ての記憶を消してしまった方が確実だ。この酷い嵐を引き起こすことになった両親の死も、家族との温かい思い出も全て忘れてしまえば、確実に止まる。
だが、それはあまりに残酷に思えた。
レミは考える。せめて、もっとマシな方法がないかと。
「……。感情、つまり悲しみがトリガーだというなら、その悲しみとそれに関わる記憶を改竄しよう。トリガーになった感情がなくなれば止まる可能性が高い。ジェット、できるか? フィロとの契約に含まれるかどうかはお前の判断に任せるが」
そう提案するとジェットが苛立ちを込めて息を吐き出した。苛立ちを隠しもしない表情と視線、それをレミに真っ直ぐに向けてくる。
「できるけどさ……てめぇの考えだって俺の言ってることと変わんねぇんだからな」
「わかっている。ルディからの恨み言はいくらでも聞こう」
「恨み言だけで済めばいいけどな」
言いながら、ジェットが倒れ込んだルディの傍らにしゃがみ込む。雨と涙に濡れた顔にそっと手を置いた。
手からぼうっと暗い光が広がり、ゆっくりとルディを包みこんだ。その暗い光は何かを取り込み、飲み込むような動きをすると、ジェットの手に戻っていく。
ルディの中にある悲しみという感情をジェットが取り込み、それにまつわる記憶を改竄したのだ。
苦しげだったルディの表情が和らぎ、すうと寝息が聞こえてきた。
もう一度空を見上げる。
荒れ放題だった空と海が、ゆっくりと落ち着いていく。
厚く黒い雲はまるで役目を忘れたようにぱっと散ってしまった。日が差し込み、島を照らす。元の通りの天気だった。
ジェットが何とも言えずに微妙な顔をしながらルディから手を退け、その手をぎゅっと握りしめた。は、と息を吐き出してから立ち上がり、今度はフィロとラケルの亡骸の傍に立った。
ルディが降らせた雨のお陰で血がすっかり洗い流されている。
「……燃やすぞ」
「ルディを起こした方がいいのか判断がつかない……」
気を失って眠るルディを見るが、ジェットが冷たく一瞥してきた。
「知らねぇよ。ルディが目を覚ますまでなんて待ってられねぇからな。いつ目を覚ますのかもわかんねぇんだから」
「……そうか。なら、少しだけ待っててくれ」
そう言ってレミは一度森の中に入った。ジェットが呆れた顔をしている。
森の中から風雨で散らずに耐えていた花をいくつか取ってきたのだ。その花をフィロとラケルの亡骸の間に置いた。
そして、目を閉じる。
二人の亡骸に祈りを捧げてから、彼らから離れた。
ぼっ。と、炎が上がる。
炎はフィロとラケルの遺体を包み込み、まるで溶かすようにその体を燃やしていった。煙も匂いもなく、そこにはただ炎だけがある。
こんな風に燃える炎を昔も見たなと思いながら、その炎を見つめていた。
やがてフィロの望み通り、骨すら燃やし尽くしたところで炎がどんどん小さくなっていった。
炎が消える代わりに、鈍い色をした魂が二つ出てきた。その魂はふわふわとジェットの前まで移動してきたかと思いきや、眠るルディの元へとゆっくりと下降していく。
ルディの頭、頬、体、足、尻尾の上で跳ねてから、もう一度ジェットの前に戻ってくる。ジェットが無言で掌を向けると二つの魂は大人しく掌の上に乗り、そのまますうっと吸い込まれていった。
ぐ。と、ジェットが魂が吸い込まれていった手を握りしめる。
「はい。終わり」
「……悪い。嫌な役目ばかり押し付けてしまって」
「何が?」
ジェットがレミを見ないままに鼻で笑う。彼にしては不格好な笑い方だった。




