08.悪魔ジェット②
前髪がすっきりしたおかげで少し眩しく感じる。
けれど、それ以上に見やすいし、髪の毛が鬱陶しくもない。長年前髪を伸ばして来たので落ち着かない気持ちもあるが、作業をするにあたって手元が見やすいのは快適だった。
ページを捲って、イヌの修復方法を調べる。このイヌのぬいぐるみは手足が取れかけている。糸一本で繋がっている状態なのでそこを繋げば良さそうだ。
針と糸は指定されているので、本に記載のある通りの針と糸を用意した。
「そういや、この本って文字読めねぇ人間はどうすんの?」
ジェットがアインに顔を向けて話しかける。二人に見られっぱなしで緊張するなぁと思っていたので、少しだけホッとした。
「この本は読み書きができない人間にも読めるように魔法がかかってますよ」
「へぇ。至れり尽くせりじゃん」
「まぁここで仕事をする以外に屋敷に奉公に来てくれる人間に勉強を教えたりしてましたし……屋敷を出ていく頃には最低限の読み書きと礼儀作法ができるようになっています」
チクチクとイヌのぬいぐるみを縫いながら「そうなんだ」と思った。
道理ですらすらと読めるはずだ。ルーナは一応読み書きはできるが、完璧というわけではない。
ここで住み込みで働けば本人はお金が貰えて読み書きも教えて貰えて、村には謝礼も支払われる。人間側には何の損もないように思えるが、一体どうしてその習慣がなくなってしまったのだろう。村ではこの屋敷との交流の話は一切なく、「昔、あの屋敷には恐ろしい吸血鬼が住んでいて、夜な夜な人間の血を求めて村を襲っていた」という話だけが残っていたのだ。
やはり、二百年前の戦争が原因なのだろうか。
だが、ルーナは二百年前に一体何があったのかを知らない。
「……それでブラッドヴァール家に何の旨味があるんだ?」
ジェットが訝しげに問う。確かに吸血鬼がわざわざ人間を雇い入れる理由はよくわからない。
ちらりとアインを見ると、「これだから素人は……」とでも言わんばかりにゆるゆると首を振り、両手を上下させていた。
「ブラッドヴァール家の皆様は慈悲深く、思慮深い方々ばかりなのです。高貴なる吸血鬼の中でも、人間との共生共存を掲げ、無駄な争いを好まれません。言うなれば、ノブレス・オブリージュの精神からの行いです」
「……無駄な争いを好かねぇってのは確かに。……けど、慈悲深く思慮深い、ねぇ……」
ジェットが「ぷっ」と吹き出していた。それを見たアインが怒った様子で、ジェットの腕をぽかぽか叩き出す。
「イェレミアスさまはそれはもう慈悲深く思慮深い方です!!!」
「なんでそこでレミが出てくるんだよ。俺は何も言ってないだろ? てか、そうやって反応するってことはお前もあいつがちょっと短気で抜けてるって思ってるってこと?」
「キィィィィィィ!」
恐らくアインはさっきよりも強めに叩いているのだろうが──ぬいぐるみである。可愛らしい光景にしか見えなかった。
静かに作業だけをするつもりだったのにぷるぷると肩が震えてしまう。あと少しで犬の右手(右前足)をつけおわりそうなところだった。手元が震えてしまい、一度止めるしかなくなった。
「……っふ、……ふふっ……!」
耐えきれずに笑ってしまう。
「はっ」とルーナの様子に気付いたアインが慌てて手を止める。ジェットは口元に笑みを浮かべているだけだ。
「す、すみませんっ……! アインが、可愛くて……!」
「うぐ、情けないところを見せてしまいました……この悪魔ふぜ──」
次の瞬間、すっと空気が冷たく、重くなった。
「口の聞き方に気を付けな」
ジェットの声が低くなり、アインが言い終わらぬうちにジェットがアインの頭を鷲掴みにした。
ぬいぐるみだからか頭が少し潰れる。アインはばたばたと暴れていたが、突然その動きが止まってしまった。まるで溺れている最中に息ができなくなったみたいに。
突然のことに驚き、ひどく慌ててしまった。
ルーナは手を離してもらおうと裁縫を放りだしてジェットの腕にすがりつく。
「や、やめて、ください──! アインが……っ」
「……ん? ああ、力入れすぎた」
ジェットは何事もなかったかのように手を離した。
アインはぽすんと作業台の上に転がる。さっきまで動き回っていたのにピクリとも動かなかった。
まさか、と青褪めたところで、アインがむくっと起き上がる。アインはふるふると頭を振ってから、すすすっとジェットから距離を取った。
アインが起き上がったのを見てホッとしたところで、ジェットの腕を掴みっぱなしだったのに気付き、慌てて手を離した。
「……し、失礼しました」
そう言って小さく頭を下げる。ジェットはルーナを一瞥し、アインに視線を向ける。
「アイン。お前が俺を悪魔ふぜいって見下すのは勝手だけど──お前の言動はレミに免じて許してやってるだけだってわかってる? レミ本人ならともかく、お前が俺を見下せると思ってんの?」
「も、申し訳ございません。使い魔ごときが、……大変、失礼を……」
静かに謝罪をするアイン。
空気が重く感じる。さっきまでの和やかな雰囲気はどこへ行ったのだろうか。
ジェットは自分が格下だと思っている相手に下に見られるのが嫌なのだとわかった。絶対に口にすることはないだろうが、「悪魔ごとき」とか「悪魔ふぜい」だなんて言ってはいけないのだ。
ジェットが手を伸ばしてアインの頭をぽふぽふと撫でる。アインは顔を上げない。
「いいぜ、許してやる。お前の軽口は嫌いじゃねぇからな。……けど、立場は弁えろよ」
「は、はい。肝に銘じます」
「じゃあ、この話はもう終わり。──ルーナ、できた?」
不意に名前を呼ばれてびくっと肩が跳ねた。
口調は変わらず、声のトーンも一定で、ルディとは違って感情が全くわからない。悪魔というのはこういうものなのだろうか。
おずおずと顔を上げてジェットを見ると、金の目が楽しげにこちらを見つめている。
まだ右手を取り付けただけで、できたと言える状態ではない。
「何? ……ああ、怖かった?」
「ル、ルーナ、すみません。ワタクシのせいで……ああ、右手がくっついたところですね。あと三か所です、頑張ってください」
けろっとしたジェット、ちょっと慌てているアイン。妙な雰囲気になってしまった。
正直、ジェットがいなくなってくれた方が精神衛生上いいのだが、恐ろしくてそんなことは言えない。
おどおどしているとジェットの手が伸びてきて、ルーナの頭の上に乗っかった。
「怖がらせたな。ルーナには何もしないから安心して」
「……はい」
掠れたような声しか出ない。
ジェットの手が優しくルーナの頭を撫でてくるが、落ち着けるわけがなかった。
そっと上目遣いにジェットを見ると、何だか困った顔をしている。その表情はどこか人間臭くてぽかんとしてしまった。こんな顔もするんだ、という驚きである。
「何、その顔」
「い、いえ……すみませんっ……」
「てかお前、最初に生贄でーすって元気に来た時の勢いはどこ行ったんだよ」
最初に屋敷にやってきたことを持ち出され、急激に恥ずかしくなってしまった。
確かに最初に来た時は自暴自棄になっていたから、あんな言動ができたのだ。今となってはあの時の気持ちにはなれそうにない。血を吸われて終わりだと思っていたのに、なんだかんだで一晩泊ってしまい、何事もなく生きている。
何も言えずに縮こまっていると、ジェットがルーナをじっと見つめたまま口を開いた。
「……死ぬ気だったから?」
こくりと頷く。結局生きているので、「死ぬ気だった」という言葉が馬鹿馬鹿しく思えた。
「ふーん? まぁラッキーとでも思っておけばいいじゃね?」
「で、でも、行く宛もないので……」
「屋敷にいればいいじゃん。レミはああ言ってたけど、アインはルーナがいた方がいいんだろ?」
あっさりと言うジェット。ルディとほぼ同じノリだ。屋敷の主であるレミは「帰れ」と言っていたのに、こんなノリでいいのだろうか。
話を振られたアインはその場でビックリしている。
「へっ?! は、はい、仲間たちの修復のこともありますし、いてくれると助かります。……イェレミアスさまも屋敷が正常な状態に戻るのであれば気にしないと思いますし……」
アインの言葉に少し気持ちが和らいだ。なら、使い魔たちの修復が終わるまでなら居候させてもらっても良いのかもしれない。
命を捨てるつもりで来たのに、結局なんだかんだで生きたいのだと思い、自嘲気味に笑ってしまった。