68.四人の夜を月が見ていた①
レミに言われた通り、風呂に入ってすぐ眠ろうとしたのだが──。
全く眠れなかった。
買い物が楽しかったことと。マチアスに会って驚き、恐怖を覚えたこと。食事中の会話のこと。
色々なことが頭の中をぐるぐると回ってしまって、瞼を閉じても全く眠気がやってこないのだ。何度も寝返りを打つ羽目になり、それでも眠れなくて読みかけの本を読もうとしたのだが、どうしても今日のことが思い浮かんで読書に集中できなかった。
仕方なくベッドから出る。
散歩でもしようかと窓際に立ち、周囲を見回した。
空を見上げると月が綺麗に浮かんでおり、どうせなら月がよく見えるところを探そうと考えた。室内は寒さを感じないものの、外に出れば寒いだろうと思って今日買ったばかりのコートをクロゼットから取り出す。
「……可愛いし、綺麗……これ、私が着ていいんだ……」
色は柔らかなベージュで、首周りと袖、裾部分に白いもこもこがついている。厚みがあって裏地ももこもこしている。どこからどう見ても暖かそうだ。
そうっと袖に手を通して羽織り、前のボタンを一つずつ留めていく。
これは試着していないものの、あの店主が選んでくれたのだから問題はないだろう。自分自身を見下ろして、ちょっと照れくさし気分になった。
同時に「本当にこれを自分が着ていいのか……」という不安にも襲われたが、そのあたりのことは散々ジェットやルディに言われている。厚意は受け取らなければと自分に言い聞かせた。
そっと部屋を出て、厨房の裏口から裏庭へ、ぐるりと回って屋敷正面にある庭園に出る。
外は身震いをしてしまう程度には寒かった。コートを着てきて正解である。
荒れ果てていた庭園はすっかり綺麗になっていた。雑草や正体不明の瓦礫などは撤去され、花壇やトピアリーなどはきちんと整えられいる。以前は歩くのにも苦労する絵レベルだったが、今では暗くても花壇と道の区別がつく。
そんな庭園をゆっくりと歩きだした。
花壇やトピアリーの間を縫い、夜空に浮かぶ月を眺める。
「綺麗……こんな風に月を見ることなんかなかったな……」
手を擦り合わせながら夜空をぼんやりと見上げた。
二つの月はつかず離れずの距離で浮かんでおり、片方は暖かな黄色、片方は冷たく薄淡い青色である。
この間、レミからこの月の神話について教えてもらった。
レムス王国では『双子月』と呼ばれており、元々双子の女神様で、王国内の夜を見守っているのだと伝えられている。それはルーナも知っており、だから「夜も女神様たちが見ているから悪いことをすると見つかるのよ」と母親から教えられていた。
一方で二つの月を『対立するもの』と伝えている国があるとか、片方の月が隠れる現象を『悪いことが起こる前兆』と伝えている宗教があるとか、国や宗教によって捉え方が全く違うのだとレミから教えられて脳みそがショートした。
それを見た三人はおかしそうに笑い、更にはジェットとルディが色んな伝承を教えてくるものだから余計に混乱した。そこでその日の勉強はストップし、『月』について自分なりに調べることになっている。これはルーナ自ら言いだしたことだった。
ルーナのいた場所は、レムス王国のド田舎で、それ以外の世界を知らない。
勉強をしていくごとに「世界は広い」と思い知らされた。
一方で、今日偶然マチアスに遭遇してしまうくらいには狭いところにいる。
「……うーん」
「ルーナっ!」
世界の広さと狭さについて考えが及んだところで、明るく弾んだ声が飛び込んでくる。驚いて声のした方を向くと、ルディがニコニコ笑顔で立っていた。夜だというのに太陽みたいな笑顔だ。
驚いて声も出せずにいると、ルディが首を傾げる。
「ルーナ? どうかした?」
「……突然現れるから、驚いただけ。考え事してたし……」
「えへへ。窓からルーナが見えたから、つい。でも、考え事って何?」
ルディはやけに嬉しそうで、彼が嬉しそうだとルーナも嬉しくなってしまう。自然と笑みが浮かんだ。
「月のことを、ちょっと」
「月?」
「月って綺麗だなって思ったの。だから、外で見たくて出てきて……それで、この間ルディたちに月のことを色々教えてもらったなぁって思い出してたんだ」
釣られてルディが月を見上げる。
相手がルディだからか、思いのほか敬語なしでもするする話せた。ルディも敬語じゃないことに満足げだ。
ルーナも月を見上げて、二人で一緒に月を見上げることになった。
「月のこと、図書室で色々調べてみたけど……やっぱり双子の女神様の話がしっくりくるし、綺麗だなって……」
「いいと思うよ~。僕もその考え好きだし」
聞けば、ルディの故郷では月についての見解は特になかったそうだ。季節と時間、方角がわかるもの程度で、これといった神話は存在してなかったらしい。というのも、故郷での『神話』自体がルディの一族を指すそうでその他の神話はメジャーではなかったということだ。
流石にその話を聞いた時はかなり驚き、どういうことなのかを根掘り葉掘り聞いてしまった。
要約するとルディは故郷での『守り神』として敬われていたということだ。
二百年前の戦争で故郷ごとなくなってしまったけれど。
「月を見たいなら屋根の上じゃね?」
「うひゃっ?!」
今後は背後で突然ジェットの声がしたので、驚いて飛び上がってしまう。慌てて振り返ると、ジェットがしてやったりとでも言いたげな顔で立っていた。本当に意地悪だ。いや、もうこれは性格が悪いと言っても差し支えないのではないか。
ジェットはどうしてこうもルーナを驚かせるのだろうか。
折角月を見ていい気分だったのに、水をさされてしまった。
感情が表情に出ていたのか、ジェットがルーナの額を軽く小突く。
「何だよ、その顔」
「……ジェットはいつも意地悪だなって思っただけ、……」
です。と、付け加える寸前に思いとどまった。敬語で話して一番うるさいのは間違いなくジェットだからだ。
「お前の反応が面白いのが悪いな」
「それってジェットの勝手じゃん。責任転嫁だよ、ルーナのことを苛めないでよね~」
「苛めてねぇって。これまでで一番可愛がってるだろ?」
瞬間、ルーナもルディも顔を見合わせる。そして、揃ってジト目でジェットを睨んでしまった。
二人の反応が予想外だったのか、ジェットが驚いている。
「……なんだよ、その反応」
「ジェットって本当にジェットだな~って思っただけ。最近特にそう思うよ」
「なんだそりゃ」
「ルーナの言う通り、意地悪だよ。しかもルーナ限定で変な感じ」
ルディがやれやれとため息をついた。彼のそんな態度も珍しくて、少し笑ってしまいそうになる。
ただ、ジェットはルディの態度にムカッとしたらしく、足に軽く蹴りを入れていた。
「ちょっとぉ、何すんの~?」
「なんかウザかったから?」
しれっと言うジェット。彼に何を言っても無駄だというのは理解しているが、不思議と何か言っておかなければ気が済まなかった。
「……ジェットって歪んでる、よね」
ぼそりと口にするとジェットとルディ、二人の視線が刺さる。まさかルーナからそんな発言が飛び出すとは思わなかったと言わんばかりだ。
ジェットの手がルーナに向かって伸びる。
またデコピン──。
と覚悟していたが、その手は第三者の介入で止められていた。
「ジェットを歪んでいるとルーナに言ったのはオレだ。人間から見た悪魔なんて歪みの局地なんだから別におかしくないだろう?」
いつの間にかレミがいて、ジェットの手首を掴んで笑っている。
ジェットは「お前さぁ」と呆れており、その様子は年齢差が逆に見えておかしかった。ジェットがレミの手を振り払い、小さくため息をつく。
レミが夜空を見上げる。
「だが、月を見るなら屋根の上というのは最もだ。──折角だ、月見と洒落込もう」
そう言うとレミがルーナに向かって優しく微笑む。
彼の微笑みに意味不明な発熱を感じつつ、こくりと控えめに頷くのだった。




