67.越えてはいけない、越えられない線
ルーナを見送った後でレミも自室に戻る。それを追うようにしてトレーズがお茶を運んでいき、更にジェットとルディもレミの後を追っていった。
トレーズはレミの部屋にお茶を置いて退室したため、部屋には三人きりになる。
普段ルーナに勉強を教える時に座っているソファに腰かけ、レミがお茶の入ったカップを手に取りつつ小さくため息をついた。
「今日は楽しかったけど、なんかスッキリしないところがあるな~……」
「途中で邪魔が入ったからな」
「そうそう、あのガキむかつく~」
ルディがソファにだらしなく座り込み、足をバタバタさせている。それを見たジェットが同じソファに座りたくないとでも思ったのかひじ掛けに腰を下ろしていた。
テーブルの周りにはソファが二つ、向かい合うように設置されている。
片方にはレミが一人で広々と使っていた。
「つーか、あのガキがルーナに気付いたのが不思議なんだよな。屋敷に来た時の貧相でボロボロな状態が村でのデフォだったわけだろ? アレと今のルーナは普通結びつかねぇだろ」
「……それだけルーナのことを見ていた、ということなんだろう」
レミが呆れと僅かな苛立ち交じりに呟いた。
それを聞いたルディがソファに置いてあるクッションを両手で掴んだかと思えば、ソファの上でごろごろと転がりだした。クッションをぎゅうぎゅうと潰しながら。
「そういうのもムカつくーーー!! あー! やっぱり殺せばよかったーーー!!」
「やめろ馬鹿」
苛立ちをクッションにぶつけるルディの頭をジェットが軽く叩いている。
「……ルディ、簡単に殺すとか壊すとか言うな。相手は人間なんだ、それを忘れるな」
「別に簡単に言ってるわけじゃないし、ルーナには確認したじゃん」
「そういう問題じゃない。あとジェット、お前もだぞ」
矛先が向いたジェットは一瞬驚いた後、ふっと笑って肩を竦めた。
ルーナに言っていた「村を焼いてやろうか」というセリフはレミも知っていたのだ。この屋敷がある敷地内でレミに隠し事は簡単にできるものではないし、それはジェットだって承知の上だろう。
ルディが口を取らせてレミをジトーっと見つめる。
「そうは言っても、レミだっていい気分しなかったでしょ?」
問われたレミは気取った様子でお茶を飲んでいる。一口飲み、カップをソーサーに下ろしたところでルディを見つめ返した。
「まぁ、楽しい気分じゃなかったのは確かだ」
「でしょ~? じゃあ、別に八つ当たりくらいしてもよくない?」
「良いわけがないだろう……」
綿毛のように軽いルディの言葉に対して、レミは呆れてため息をつくばかりだ。ジェットは特に口を挟まずに成り行きを見守っている。
レミはソーサーごとテーブルに置き、ルディを静かに見つめる。
「たかが人間一人のために、私情で壊そうとしたり燃やそうとするのが良くないと言っている。……見つかったら厄介な話になるに決まってるだろう」
「そこはブラッドヴァールの威光でどうになるんじゃないの~?」
「なるわけがない。最悪ブラッドヴァールが敵になるんだから勘弁してくれ。ただでさえ悪いオレの立ち位置が更に悪くなる」
気難しい顔をして腕組みをするレミを前に、ジェットとルディが顔を見合わせた。ジェットが意味ありげにレミを見て、ルディが少し考え込んだ。
「放蕩息子」
「自分勝手で困る、一族としての自覚が足らない……あと、えーっとなんだっけ??」
「こんな風に育てた覚えはない、だろ」
レミの眉間に更に皺が刻まれ、口の端が不機嫌そうにひくついた。その隙間から、吸血鬼らしい鋭い牙が僅かに覗く。
言いたい放題のジェットとルディは呑気な様子だ。
「うるさい。どうしてそんなことを覚えてるんだ」
苛立ちを込めて言うと、二人とも軽く笑って肩を竦めた。
「いや、あんだけボロクソに言われてるお前も珍しかったからな。言ってる方も頭おかしかったけど」
「ほんとほんと~。吸血鬼って陰湿? 性格悪い? よね。レミのおばーちゃんはさっぱりしてたけど、お父さんとお母さんが最悪。僕はもう会いたくないな」
実両親ながら散々な言われようだ。だが、すっきりもしていた。
そう、レミは両親と反りが合わないので一族のいるナイトハルトに行かず、祖母であるフリーデリーケが使っていたこの屋敷に身を寄せているのだ。フリーデリーケ自身も息子、つまりはレミの父親と相性が悪く、同じ国にいながらも別々の屋敷で暮らしている。そして、レミのことを案じたフリーデリーケがこの屋敷をくれた、という流れだ。
馬鹿馬鹿しい話だろうが、レミにとってはうんざりする柵だった。
ジェットもルディもそんな背景を知る一方で、それらを詳しく聞こうとはしない。自分に関係がないからだ。
「でもそっか~。なんかやらかしてもレミんちが味方してくれるわけじゃないのか~……」
「当たり前だ。正当な理由ならともかく、人間一人のために動いたことが知られれば非難されるに決まっている。悪魔なんてもっとその傾向が強いじゃないか」
同意を得ようとジェットを見ると、ジェットは何とも言えない顔をして笑みを浮かべた。
「『契約』なら割と何でもするけどな。『契約』でもないのに人間一人のために何かすることは滅多にない。たまーに人間に入れ込んだアホがやらかすけど」
──人間に入れ込んだアホ。つまり、人間に恋をしてしまった悪魔のことを指しているのだろう。
吸血鬼や魔獣が人間と恋愛関係になる話はままあるが、悪魔と人間という組み合わせはかなりレアである。多くの悪魔は人間を見下しているので恋愛対象として見ることがそもそもない。その上、彼らに恋愛感情というものがあるのかどうかすら謎なのだ。悪魔の中には恋愛感情を馬鹿にする者も少なくない。
だからこそ、人間に入れ込む悪魔は同族から下に見られる。
ジェットもそういった同族を下に見る側だったはずだ。
「お前はそのアホを馬鹿にする方だろう?」
「……まぁな」
答えるまでに間があったのが気になり、眉を潜めてジェットを見る。ジェットは薄く笑っているだけでそれ以上何も言わなかった。
「じゃあ、こっそりやるしかないか~。一人ずつ喰い殺していこうかな……」
「そういう問題じゃないと何度言えば──」
「あ!」
駄々をこねる子どものような態度だったルディが何かに気付く。
クッションを投げ捨て、ソファから飛び降りた。そのまま部屋の窓に走って近付いていく。
「ルーナが外に出てる! なんで?!」
「は?」
「もう寝てるはずだろ?」
「でも、ほらー! なんか庭にいるよ!」
窓に張り付くルディが「あそこあそこ!」と指差す。
レミとジェットも一緒になって窓から庭園を見下ろした。
綺麗になり、以前の姿を取り戻しつつある庭園──屋敷から出てきたルーナが歩いているのが見えた。買ったばかりのコートを身にまとい、トピアリーの間を縫って歩き、足を止めて空を見上げている。
空には月が二つ、ぽっかりと浮かんでいるだけだ。冬だから空気が澄んでいて星もよく見える。
「何やってるんだろう~? 病気になるよって言ってこようかな!」
そう言うとルディが窓を開け放った。冷たい空気が流れ込んでくる。
空気の冷たさに目を細めている間にルディは窓からベランダに、ベランダから庭園へと降りていった。嬉しそうにルーナの元に駆けて行く様子を眺めて、小さく息をつく。
「……好きにすればいいとは思っているが、いざ目の当たりにすると複雑な気分だな」
「妹を取られるのが複雑?」
「違う。どうしたらルディを幸せにしてやれるか、と考えている」
ルディがルーナを構う様子は微笑ましい。それはそれでいいと思っている。
しかし、魔獣と人間の壁について考えるのだ。
本当にこうして傍観していていいのかと。
ぼんやりと庭園で会話をしている二人を眺めていると、頭をこつんと叩かれた。見れば、ジェットがおかしそうに笑っている。
「お前も好きにしたらいいのに」
「……してるだろう」
「そう見えねぇんだよな。……俺も行ってくる。お前も来いよ」
言うだけ言ってジェットが姿を消し、次の瞬間にはルーナの背後に立っていた。
三人の様子を少し眺める。
ルーナと一緒にいる二人は楽しそうだ。
その空間だけ切り取って、どこかに大切に閉じ込めてしまいたいくらいに。




