50.ナイショの話①
翌朝。目を覚ますと、ルディの姿が消えていた。
普段は鳥の囀りで一緒に目を覚ますはずなのに、もういないのだ。ルディが寝ていた場所に触れてみるとまだ微かに温かい。どうやら少し前にルーナに気付かれないように起きて出ていってしまったようだ。
ルディにも色々あるのだろうと思いながら起き上がり、ぐーっと腕を突き上げた。ベッドから降り、窓を開け放って空気の入れ替えを行う。
冷たい空気が流れ込んできた。冬の気配が近付いている。
しかし、不思議と屋敷の中では寒暖差を感じなかった。
村で暮らしていた時は隙間風に悩まされていたのに、吸血鬼の建てた屋敷なすごいなと思いながら着替えをして厨房に向かった。
寒暖差がないのは屋敷の中だけで、厨房から行ける裏庭にある井戸の水は当然冷たい。浴室はジェットがアレコレして水をお湯に変えてくれたり、温風が出る不思議な魔石を用意してくれたが、流石に井戸までは手を付けてない。
井戸水を汲み上げて顔を洗う。
「……冷たい……!」
「浴室でやればいいのに」
「うひゃあっ!?」
ジェットが目の前に立っていた。水でびしょ濡れの顔を覗き込まれ、驚いてしまう。
相変わらずの神出鬼没だ。
「はい、タオル」
「……ありがとうございます」
ジェットが脇に置いておいたタオルを手渡してくれる。普段服にかからないように注意しながら洗っているのに今日はジェットのお陰で少し濡れてしまった。少々恨みがましい気持ちになりながらも、礼を言ってタオルを受け取る。乾いたタオルで顔を拭いた。
「なんで毎朝こっちで顔洗うんだ?」
「……冷たい水の方がすっきりしますし、……それに厨房と浴室って反対方向じゃないですか」
「ふーん。こっちもあの魔石いる?」
「大丈夫です。……井戸の水が凍りついたら、お願いするかも知れません、が……」
そこまで言って、思わずタオルに顔を埋めてしまった。
──お願い?
提案に対して「お願いします」と同意することはあったが、自分から何かを願い出ることはなかった。そんなことが自然と口から出てしまう程度には心が大分解れ、ジェットに気を許しているということだ。
そんな自分が急激に恥ずかしくなってきてしまった。
「何だよその反応。自分で言っといて」
「……何でもないです。すみません、お願いするかもだなんて……」
「あ? 別にいいって、それくらい。村焼きまでならやってやるって」
「む、村は焼かなくていいです」
までなら、とはどういうことだろう。村焼きまでという基準がそもそもわからない上に、それより軽いお願いなんていくらでもある。あまり考えないようにしようと自分に言い聞かせた。
ジェットの手が頭に触れ、まだ結ってない髪の毛に指を通していく。
「髪やってやるから、こっち来い」
「……ありがとうございます」
誘われるがまま、厨房に入っていく。食事に使っているテーブルにつき、手鏡を用意したところでジェットが髪の毛に触れた。
普段と同じように前髪を編み込みに──していくかと思いきや、何だかいつもと違う。「あれ? あれ?」と思っている間に、長い前髪とサイドの髪の毛がゆるめに編み込まれていき、最終的に後ろにまとめられてしまった。
編み込みとハーフアップの合せ技なのだが、何をされたのかルーナにはよくわからない。
「え、え?! いつもと違うんですけど……!」
「今日はこれの気分」
「気分って……」
「俺の」
ジェットにやってもらっている手前、文句などは言えない。ジェットの気分で髪型が変わるのもしょうがない。
鏡に後ろが映るように顔を動かしたところで、いつも使っているリボンが髪の毛をまとめるために使われているのが見えた。
こんな髪型は初めてだが、昨日に引き続き可愛い髪型なのは間違いない。
ただ、落ち着かないのだ。
「うう……可愛すぎませんか……?」
「可愛くちゃダメなのかよ。いいと思うけど」
言いながら、ジェットが髪の毛を弄ぶ。出来に満足しているのか、楽しそうだ。
「……これまで周りの目に萎縮して生きてたからそういう反応なのかもしれねぇけど、ここにはお前が気にしてる『周りの目』なんてねぇんだからな。それどころか、余程アホなことしない限りは肯定されるし許される環境なんだよ。昨日だって可愛いって褒められただろ?」
確かにそうだ。
ルディもアインもトレーズも、みんなルーナを褒めてくれる。こちらが恐縮して、たまに恐怖を感じるくらいに。それが当たり前になってしまうことへの恐怖はあるが、嬉しいことには変わりがない。
「……余程アホなことって」
「さあ? でも、これまで通りやってればお前が否定されることはねぇんだから、もうちょい自信持ちな」
「が、んばり、ます……」
難しいことをサラッと言われ、困りながら言葉を絞り出した。鏡を持ってもう一度自分の髪型を確認してから、「そういえば」と思ったことを口にする。
「ジェット、これ……編み込みが得意なんですか?」
「え」
「……ぁ。これまでも昨日も今日も、必ず編み込みをいれるので、そう思っただけで……」
ジェットの手が止まったのを見て、慌てて理由を添える。
普段とはちょっと違う、素に近いような反応だったのでルーナの方が内心驚いてしまった。
ジェットは少し考えてから自分で編んだ編み込みをそうっと撫で、何かを思い出すように目を細めた。
「得意なのと、手癖だな」
「て、手癖……?」
「編み込みばっかりやらされてたんだよ」
やらされてた──。とは、どういうことなのか。
ルーナから見たジェットは飄々としていて掴みどころがなく、他者の命令を聞くようには思えない。そんなジェットが「やらされてた」と言うなんて、余程の事情があったのではないだろうか。
どうしても好奇心が疼いてしまった。
「やらされてた、って……?」
おずおずとジェットを振り返って聞いてみる。目が合うと、ジェットが微かに表情を顰めた。「しまった」と思ったのが伝わってきて笑いそうになる。
だが、ここで笑いでもしたら絶対にジェットが不機嫌になるだろう。
ぐっと奥歯を噛み締めて表情を崩さないようにした。
「……気になる?」
しかし、予想に反してジェットが意味ありげな笑みを浮かべる。たった数秒の間に切り替えてしまったようだ。
「気になるから、聞きました」
「ふーん、あっそ。……昔、お前よりもチビの面倒見てたことがあるんだよ」
「お、教えてくれるの!?」
まさか教えてくれるとは思わず、素っ頓狂な声を上げてしまった。話し始めたジェットの顔をまじまじと見つめる。ジェットはジェットでルーナの反応が意外だったらしく、毒気を抜かれたようにルーナを見つめ返していた。
知らず知らずのうちにルーナは笑みを浮かべていた。教えてくれることへの嬉しさが滲み出してしまったのだ。
だが、ジェットはルーナの表情が気に入らなかったらしい。
すっと目を細め、髪に触れていた手を離してしまった。
「話す気が失せた」
「えっ! そ、そんな……なんでジェットが上手なのか知りたかったのに……」
無意識とは言え、笑ってしまったことを後悔する。真面目な顔をして頷いていればよかったのだ。
がっくりと肩を落としてしゅんとすれば、ジェットがその様子をしげしげと観察する。たまにジェットはこういう視線を向けてくるのが落ち着かない。文句を言える立場ではないので黙っているけど。
「そんなに知りたいんだ?」
「……だ、だって気になりますもん……」
口を尖らせるとジェットが満足げに笑った。多分、ルーナが困るのを見て楽しんでいるのだろう。
「じゃあ、教えてやるよ。つっても、さっき言ってた通り、お前よりチビな人間の面倒見てた時にあーしろこーしろって髪型の注文を受けてただけ。そいつ、編み込みが好きだったんだよ」
思わぬ(?)真相だった。しかし、同時に疑問も湧く。
ジェットに視線を固定したまま、ゆっくりと口を開いた。
「……ジェットが、私よりも小さな女の子の、言うことを……聞いていた……?」
誰の言うことも聞きそうにないジェットが? という疑問。
ルーナの感じた疑問は正しくジェットに伝わっているようで、彼は目を細めて口元に薄っすらと笑みを浮かべる。だが、何か企んでそうな思惑を感じさせる一方で、何かを懐かしんでいるような雰囲気があった。




