31.屋根の上の喧嘩
自分がジェットに抱き着いていることに気付き、焦ってジェットから離れようとする。が、屋根から落ちることを懸念したジェットがルーナの腕を引いた。折角離れたのに、またジェットの腕の中に逆戻りである。
それを見たルディが一層怒った顔をし、ジェットが鼻で笑った。
「お前まだ戻れてねーの?」
「なんか変なことしたでしょ! てゆーか、なんか話ちがくない?! なんでそんなに仲良くしてるの?!」
ルディは人間の姿でありながら、屋根の上を軽々と歩いてくる。ちょっとした風など物ともしない。
「だーかーらー、お前が変なこと言うからだろ」
「言ってないよ。本当のことだったじゃん、全部」
何やらジェットとルディが口喧嘩を始めてしまった。獣の姿であれば唸り声のでも上げてそうな剣幕のルディに対し、ジェットはどこまでも飄々としている。
正直、喧嘩をしている二人の間にいるのは落ち着かないので部屋に戻りたい。
けれど、簡単に言い出せる状況でもなかった。
屋根の上で足場も良いとは言えず、ジェットがいなかったら簡単に足を踏み外しそうだからだ。
「さっきのでお前に感じてた違和感がようやくわかった。……ルディお前、ルーナのことは従順なおもちゃ程度にしか見てないだろ。ルーナ自身のことはちっとも見てない」
ジェットの指摘にルディが目を細める。
その視線が冷ややかで、思わず俯いてしまった。別にルーナに向けられていたわけじゃないのに。
「……だから何?」
否定も肯定もせず、そっけなく返すルディ。
一瞬でも「そんなことない」と言うのを期待した自分がいて、ものすごく恥ずかしかった。
知らず知らずのうちにルーナは周囲に期待してしまっていたのだ。ルディのこともジェットのことも見たくなくて、俯いて足元を見つめる。
「別に。──ただ、お前がそのつもりなら、俺は俺で好きにさせてもらうってだけ」
「は~? ねえ、最初とぜんっぜん話が違うんだけど! ジェットはルーナには興味なさそうだったじゃん!」
「最初の話だろ。今は違ってたっておかしくねぇじゃん。お前がこいつ自身に興味ないなら問題ないだろ?」
苛立ったルディのセリフを尽くいなしていくジェット。
話の内容が全くわからないが、内容自体はルーナに関係しているようだったので流石に居心地が悪い。まるで自分のことで喧嘩をしているみたいだ。何故、こんなことになっているのかわからない。
確かに今朝のルディはちょっと怖かったし、さっきのジェットのセリフは嬉しかったけれど──。
だからと言って二人が喧嘩を始めるのは全く望んでいない。
最初、屋敷に訪れた時、ジェットとルディ、そしてレミが気の置けない仲なのがぼんやり伝わってきて、それにある種の憧れや羨ましさを感じていたというのに。
足元が、手が、唇が震える。恐る恐る顔を上げ、ルディとジェットの顔を見た。
「……あ、あの、やめ、て、くださ」
勇気を振り絞って言うが途中でルディに冷たく睨まれてしまった。ぎくりと肩が震え、喉が引き攣る。
「ルーナは関係ないから黙ってて」
冷たく言われてしまい、それ以上言葉を発するのが困難になった。これまで聞いたことがないくらいにルディの声は冷たかった。
自分のことを話しているのに関係ないというのも釈然としない。
しかし、これ以上割り込む勇気はなかった。
再度俯いてしまったところでジェットがルーナの頭をぽんぽんと撫でる。そっとジェットの顔を見上げると、ルーナのことを見ずにルディへと視線を向けていた。
「自分の思い通りにならないとすぐ不機嫌になる……ガキだよなぁ、お前」
「年齢でしか見下せないの? ガキな僕よりも弱いのに」
「吠えてろ。クソ獣」
余裕があったはずのジェットの空気が少し変わる。肌がヒリついた。
一体どうしてこんなことになっているのかわからず、ルーナはひたすら混乱していた。
ルディのことを怖がったのがよくなかった? 思わずジェットに抱き着いてしまったのがよくなかった?
「こんな短時間しか僕を人間の姿にできないくせにさぁ」
ルディは明らかにジェットを挑発している。ルディが顎を少し持ち上げてせせら笑ったところで、その姿がぶわっとブレてルーナがよく知っている魔獣の姿になった。
しかし、普段よりずっと大きい。見上げるほどに大きくなっており、ルーナはその姿に硬直してしまう。
爪が食い込んで、ミシッと屋根が軋んだ。牙も爪もいつもより大きく鋭い。
ジェットがルディの姿を見ておかしそうに笑った。
「すぐ戻れるようにしてやってんだよ。──手加減されてることにも気付けねぇのか、バーカ」
ジェットはジェットで分かりやすくルディを小馬鹿にしている。
本当にどうしてこんなことになっているのかわからない。この場から逃げ出したくても屋根の上にいるためどうにもならない。
とにかく下ろして欲しいと言おうとジェットの腕を掴むが、何故かジェットはルーナの腕を振りほどいてしまった。ふらついて、立っているのもやっとだった。
「ちょっと待ってろ」
「いや、ま、待ってろって……! ジェット──!」
言うが早いか、ジェットはルーナを置いてルディの方に向かってしまう。
こんなところに置いていかないで欲しい──!
と思って手を伸ばすが、ジェットには届かなかった。
立ってられないので、その場にゆっくりとしゃがみ込んだ。ルディが普段よりも大きくなっているせいで、ちょっとした動きで屋根が揺れてしまう。
屋根にしがみつくように両膝、両手をつくが、風もあって安定しない。
「クソガキ。久々に相手してやるよ」
「ガキとか獣とかさぁ、油断してた~って後で言い訳しないでよね?」
不安定なルーナのことなど置いて、ジェットとルディは二人の世界に入ってしまった。どうやら本格的に喧嘩をする気らしい。
口喧嘩を聞いている時も非常にそわそわして落ち着かなかったが、更に落ち着かない展開である。どうして急に二人が喧嘩を始めたのかわからないし、ルーナが原因だとしたらやり切れない。
屋根の上で対峙する二人を見つめ、すうっと息を吸い込む。
「ルディ! ジェット! お願いだからやめて! 喧嘩しないで!!」
こんなに大声を出すのは初めてというくらいの大声で叫んだ。
二人がルーナの存在を思い出したように視線を向けた。
良かった、やめてくれるかも──と思った瞬間。
びゅう。と、ひときわ強く風が吹いた。
高い山の更に高い位置にある屋敷の屋根の上。
それまでも安定しなかったのに、その風で完全にバランスを崩してしまった。
「……あ」
屋根の上を転がり、そのまま風に煽られて落ちていく。
それがやけにスローモーションで眼前に広がる空と太陽だけを眺めていた。
空と太陽には不釣り合いな蝙蝠が一匹飛んでいる。
(高いところから落ちて死ぬのは──予想してなかったなぁ……)
もっと別の死に方だと思っていたのだ。
屋敷に来た時に考えていたのは吸血鬼に殺される。
もしくは、ルーナの目的を知ったジェットかルディに殺されるだろうと考えていた。
まさかこんな風に事故のように命を落とすことになるなんて思わなかった。けれど、ある意味では平和な死に方かも、と思ってしまった。
地面に落ちたら痛いのか、一瞬のことで痛みなど感じないのか。
スローモーションの世界の中で呑気なことを考える。
屋根から転がり落ち、空中に放り出され──不意に、ルーナの体が宙に浮いた。
「え……?」
まるで何かに包まれているような感覚。けれど周りには何も無い。強いて言うなら、空気にでも包まれているようだった。
ジェットかルディが何かしてくれたのかと思い、屋根の上にいる二人を見るが、どうやらそうではないらしい。二人とも「しまった!」と言わんばかりの表情でルーナを見下ろしているからだ。
ルーナの体はふわふわと宙に浮いたまま、ゆっくりと移動していく。
どこへ行くのかと思えば、何故か屋敷の壁に近付いて行った。
「え、え、え!? ぶ、ぶつか──!?」
ぎゅうっと目を閉じて壁に激突する衝撃に備えたが、ルーナが覚悟していた衝撃はなかった。
目を白黒させているとすうっと壁をすり抜けていく。何が起きたかわからずに呆然とし、すり抜けた先にある部屋の中をふわふわと浮いて移動していった。
その部屋は薄暗く、分厚いカーテンがきっちりと閉められていた。
この部屋は見覚えがある。
一番最初に訪れた部屋──レミの部屋だ。
きょろきょろと周囲を見回すと窓からの光は決して差し込まないだろう場所に大きなベッドがあった。そのベッドの上に人影──恐らくレミがまるで倒れ込んだようにうつ伏せになっており、右手だけを持ち上げている。
よくよく見ればその右手の動きに合わせてルーナの体は宙を移動していた。
中央にあるソファの上までルーナの体が移動すると、まるで力尽きたようにレミの手がぱたりと倒れる。それと同時にルーナの体はソファの上にすとんっと落ちたのだった。
「……ルーナ。ジェットとルディのバカに、巻き込んで……すまない」
疲労感の滲む声に焦る。慌ててソファから立ち上がった。




