30.好きなものだけ
自信満々に「よくしてるよな?」と言われて、村にいた頃のルーナであれば何の躊躇いもなく笑顔を作って「もちろんです」と答えていた。肯定以外の返答をしようものなら怒られるのが常だったからだ。
しかし、今ジェットに問われると、何となく「もちろんです」と答えづらい心境になっていた。
「……ジ、ジェットは……」
「俺は?」
「……。……い、いじわるなので……」
ふいっと顔を背け、ごにょごにょと言う。
ジェットの気まぐれで手を離されでもしたら無事では済まない状況なのに、どうしてこんなことを言う気になったのだろう。
自分でも不思議である。
朝驚いて転びそうになった時に助けてくれたり、下手くそだの暇つぶしだの言いながら髪を結ってくれたり──少なくとも現時点でジェットがルーナに危害を加える気はないように思えた。
「言うじゃん。けど、さっきみたいに助けてやったり、髪やってやったり……優しいところもあるだろ?」
「それは……はい。あり、ます」
「ありがとうは?」
「……ありがとう、ございます」
明らかに言わされている感があって釈然としないものの、不思議と嫌な気持ちにならない。
ジェットへの恐怖心は消えてない。相変わらずちょっと怖くて掴みどころのない相手だと思っている。それはそれとして話しやすさ、言いやすさのようなものがあるのだ。
彼に抱く恐怖は村で感じていたものと同種であるのに、村との違いとは何だろうと不思議に思ってしまった。
そんな気持ちが滲み出ていたのか、ジェットがおかしそうに笑う。
「なんだよ、その顔」
自分の中にあるものをうまく言語化できずにまごついてしまう。
ルーナが何か言おうとしているのに気付いているからか、ジェットは以前みたいに急かしたりしなかった。ゆっくりと深呼吸をしてから自分を落ち着け、心の中にある言葉を一つずつ掬い上げ、それを言葉にしていく。
「ジェットは不思議だな、って思ってたんです。何考えてるのかわからなくて怖いのに……なんか、こう、変な安心感があって……」
「言うようになってきたな、お前も。いい傾向。まぁ、今のところお前に何かしようだなんて思ってねぇからじゃね?」
「……今のところ……」
そのうち何かする気なのかという意味にもなるので、思わず反芻してしまった。
ジェットはそれを否定する気はないらしく、ただ笑っている。それが嫌な感じではなかったので気にならなかった。
「そのうち何かするかもな。けど、今はしない」
「何を、する気なんですか……?」
怖いもの見たさで聞いてみれば、ジェットは目を細めてぐっとルーナに顔を近付けた。内緒話をするように耳に唇を近付け、小さな声で囁く。
「秘密に決まってんだろ。その時になってからのお楽しみってやつ」
こうやって言われると楽しみになってしまうから不思議だ。ルーナにとって良いことである保証なんてどこにもないのに。
それまでルーナを抱いて屋根の上にふわふわと浮いていたジェットだが、すーっと屋根の上に着地をした。ジェットが着地した部分は天辺のようで、その部分だけ人が歩けそうな幅がある。
屋根から庭を見下ろすとその高さに目眩を起こしそうだった。
戸惑うルーナをよそにジェットがゆっくりと屋根の上にルーナを下ろす。
「え、ちょ……こ、こわい、んですが……!」
「大丈夫だって。落ちてもちゃんと助けてやるから。ほら、捕まってていいから立ってみろ」
「……は、はい」
ジェットの腕にしがみつき、両足できちんと立つ。
さっき抱えられていた時と比べると風などを直に感じることができた。
風が強いし、恐怖で足がふらつく。しかし、立っていられないほどではない。
「い、いきなりいなくならないでくださいね……?」
「ちゃんといるって」
今しがみついているジェットが不意に消えたら絶対にルーナは屋根を転がり落ちる。ジェットをじっと見つめて念を押せば、おかしそうに笑った。
ルーナにしてみれば死活問題なのにジェットは気楽だ。悪魔ならこれくらいの高さなんてどうってことなくても、人間のルーナからすると楽しんでいられる高さではない。
ジェットはそんなルーナの様子を楽しんでいるようだった。
「や、やっぱり意地悪……!」
「反応が面白いっていうか新鮮なんだよ、ルーナは。初々しいとも言うけど」
「こんなに高いところ、初めてですもん……!」
「そりゃそうか。お前、魔法使えないもんな」
そう言えばと思い出したように言うジェット。空を飛ぶ魔法は聞いたことくらいはあるが、あるだけだ。ルーナはそもそも魔法なんて使えないし、村の誰かが使っているところを見た覚えもない。
ジェットが遠い目をして、景色を眺める。
何を見ているんだろうと視線の先を追いかけてみるが、先には山々と空があるだけだった。
「……よわよわな上に、魔法も使えなくて……本当に何もないんだな、お前」
分かりきったことをしみじみと言われ、それがルーナにぐさりと刺さった。ひゅう、と風が吹き抜けていく。
しがみついていた手が少しだけ緩んでしまう。
そんなことは、誰よりもルーナ自身がよく理解している。何もない自分のことを。
「……ご、ごめんなさい」
「は? なんで謝るんだよ」
俯いて謝罪の言葉を口にすると、上から怪訝そうな声が降ってきた。
ジェットがどんな表情をしているのか確認する勇気もなく、俯いたまま唇を震わせる。
「……その、何もなくて、ごめんなさい」
「それ、謝ること?」
「……村では、ずっとそうやって言われてて……何もない、空っぽな人間だって……そのことをいつも、謝らなきゃいけなくて……」
──何もできない穀潰しなんだから。
──本当に何もないのね。
──何もできないんだな、役立たず。
そんな言葉ばかりを浴びせらてきた。祖父母に、或いは他の村人たちに。
両親がいた頃は無条件に褒められてきたが、なんて褒められてきたのか思い出せないくらいに何もできない役立たずの穀潰しと言われ続けてきた。そして、何もないことを周囲に謝り続けてきたのだ。そのせいでルーナはずっと縮こまって生きてきたし、せめて荷物にならないようにと必死にやってきたが、褒められたり礼を言われたりすることは一度もなかった。そんな価値すらない人間なんだと思い知らされてきた。
ジェットのため息が聞こえてきて、びくっと体が震えてしまった。
「あのなぁ、俺を人間と一緒にするなよ」
呆れた声がルーナに届く。
人間と一緒にしたわけじゃない。ただ、『何もないこと』を謝ったのだ。謝ったところでどうにもならないとわかっていても、どうしても謝らずにはいられなかった。
何も言えないままでいると、ルーナが掴んでいない方の手が伸びてきてルーナの頬を軽く突いた。
驚いて思わず顔を上げてしまうと、ジェットが笑っていた。
「何もなくて空っぽなら、これからいくらでも好きなものだけを詰め込めば良いじゃん」
「……え?」
「まぁ、ルーナに好きなものがねぇなら、俺の好きなものを詰め込むけど」
何を言っているのかわからず、ぽかんとしてしまった。ジェットの楽しそうな顔を馬鹿みたいに見つめる。
役立たずで何もなくて、空っぽのルーナ。
死ぬまでずっとそのままだと思っていた。
何もなくて空っぽなら、好きなものだけを──。そんな風に言われたのは初めてで、考えつきもしなかった。
「……ジェットの好きなもの、って……何、ですか……?」
「ん? 秘密」
「また秘密……」
もう一度ジェットの腕にしがみつく。ちょっと口を尖らせると、ジェットが面白がって頬を突いてきた。
「簡単に教えたらつまんねぇだろ。ちょっとずつ教えてやるよ」
「本当に?」
「うん、本当」
金の目を細めて笑うジェット。
どこまでが本当か嘘かはわからない。仮にこれが嘘でも、心の中に希望が芽生える。
ぐわーっと胸の中に何かが込み上げてきて、気が付いたらジェットに抱きついてしまっていた。ジェットは一瞬だけ驚き、すぐにルーナの体を抱き留める。そして、ルーナの小さな体をぎゅっと抱き締めた。
悪魔だからか体温らしい体温がないのに、何故かひどく落ち着く。
ジェットの腕の中にいるルーナは、彼が薄暗く企むような笑みを浮かべてるなんて気付きもしなかった。
そんな時。
屋根ががたがたと音を立てた。
「ちょっとおぉ!??!!」
ルディの声が聞こえてきて、慌てて顔を上げて辺りを見回す。
人間の姿のままのルディが屋根によじ登ってきていた。怒った顔をしてジェットを睨んでいる。
その視線にはゾクリとするものがあり、ルーナは硬直してしまった。




