03.魔獣ルディ
どれくらい膝を抱えて泣いていたのか──。
階段で蹲って泣いていたら、また「帰れ」と言われてしまうかもしれない。
とにかく屋敷を出なければと思い、顔を上げたところでどこからか視線を感じた。ぞ、と鳥肌が立つ。 吸血鬼に悪魔、そして魔獣が暮らしている屋敷だ。他に何かいてもおかしくはない。
ひょっとしたらここで何かに襲われるのでは──? そう考えてしまい、足が竦む。
今更になって、なんて場所に来てしまったんだろうと後悔が押し寄せてきた。
薄明かりの中、階下から何かが近付いて来る。
「ねぇねぇ~」
ルディだった。ルディは果物らしき物体を咥えて、ルーナのいる場所まで軽やかに駆け上がってくる。
そして、果物をルーナの横に置いた。
「これ食べれる? ……あれ? 泣いてる?」
ルーナが泣いていることに気付いたルディは不思議そうに首を傾げ、顔を覗き込んできた。しばらく不思議そうにルーナを見つめていたが、やがて何かに納得したようにルーナの隣に座り込んだ。前足を揃え、お行儀よくお座りをしているように見えた。
魔獣なのに表情がくるくると変わる上に、喜怒哀楽がよく分かる。まるで人懐こい飼い犬でも見ているようだ。
「わかった! 折角生贄として来たのに、血を飲んで貰えなくて悲しいんでしょ。僕もね~、昔『要らないから帰って』って言ったらすごく悲しそうな顔されたんだ。それと同じだよね、人間って不思議」
そういうわけではないのだが、自分のこれまでの境遇を嘆いていると思われるよりは良かった。肯定も否定もしないでいると、ルディはルーナに顔を寄せてきて、溢れる涙をペロっと舐め取った。
突然のことに驚いてしまい、涙が引っ込む。
頬を押さえてルディを見つめる。相変わらず人懐こそうに笑っていた。
「肌もカサついてる~……あ、それちゃんと食べてね、今は他に何もないから」
そう言ってルディは自分が持ってきた果物を前足でちょんちょんと突いた。
よく見れば林檎である。この地域では林檎がよく育つので、大昔はこのあたりに大規模な農園があったそうだ。しかし、いつからかその農園はなくなっている。その名残で山林でも自生しているをたまに見かけた。人の手が入らないので酸味が強いのが難点だ。
とはいえ、厚意で持ってきてくれたので断るわけにもいかなかった。
そっと林檎を手に取ると、ルディが嬉しそうにして尻尾を振る。
その姿に和みつつ、恐る恐る林檎を齧った。シャクっとした歯触りと瑞々しさがある林檎だった。
「……! あ、あれ? あんまり酸っぱく、ない……?」
「それねぇ、裏庭のすぐ近くに生えてたやつ。山にあるやつと比べて甘くて美味しいんだよ」
しかも普段ルーナが食べている林檎よりも数段美味しい。少し酸味が強いが、それはこの林檎の個性なのだと思えるくらいだった。
昼過ぎから歩きっぱなしでここまで来たので空腹だったのを思い出し、ガツガツと林檎を食べてしまう。祖父母の前でこんな食べ方をしようものなら「みっともない」「食い意地だけは一人前」などと無数に小言が浴びせられるが、今はルディがにこにこと眺めているだけだ。
こんな風に、誰かに笑って見守られながら物を食べるなんていつ以来だろう──。
両親はルーナが「おいしい!」とたくさん食べるのを微笑ましく見守っていてくれた。そんな記憶を思い出したら、また涙が溢れてきてしまった。
「あ、泣くほど美味しいんだ? じゃあ、明日も取ってきてあげるね~」
「……う、ん。おいしい、です……ありがとう、ございます……!」
ルディはさっきから見当違いのことしか言わないが、それが逆に心地よかった。自分の生まれや育ち、これまでの境遇を詮索されたくはない。両親が亡くなってからは良い思い出など一つもなくて、ずっと惨めだった。
芯の部分だけを残して食べ終えると、横からルディが顔を近付けて林檎の残骸をパクっと食べてしまった。
「えっ!」
「美味しそうだったからつい。それに捨てるとレミが怒るし……」
レミ──さっきの吸血鬼のことだ。確かに綺麗好きそうな雰囲気だった。まぁそれならこの屋敷の惨状は何なんだということになるが。
ルディが口の周りを舐めつつ話しかけてくる。
「キミ──……あー、えっと、名前は?」
「る、ルーナ……ルーナ・アディソン……」
「ルーナね。僕はルディ、よろしく」
「あ、はい……」
にこ! と言う音が聞こえてきそうな笑みだった。獣なのに、本当に表情がよく変わるし、感情が伝わってくる。
ルディは立ち上がって、トントントンとリズミカルに階段を降りていき、途中でルーナを振り返った。
「ルーナ、こっちおいで~。泊まっていきなよ、使える部屋に案内してあげるから」
泊まっていきなよ。という言葉を目を丸くする。
慌てて立ち上がって階段の手摺を握った。ところどころにランプがあるとは言え、足元は見づらい。
「で、でも……レミ、様は帰れと……」
「『どこへでも行けばいい』ってことは、ここでも良いんだよ。それにレミはこの屋敷のことはほぼ放置だから大丈夫大丈夫」
「……それは──……い、いえ、やっぱり……」
確かに「どこへでも行けばいい」とは言われたが、流石に勝手に屋敷の中に泊まり込んだら怒るのではないだろうか。もちろん、一晩でも泊まらせて貰えるならそれに越したことはない。もうすっかり夜で、この中を一人で歩いてどこかに行くには恐ろしすぎる。
ルーナの躊躇いや葛藤など気にした様子もなく、また察する気もないルディは更に階段を降りていく。
「こっちだよ、ルーナ」
レミは「帰れ」と言ったが、ルディは良いと言っているし──。
どうしようどうしよう、と葛藤が止まない。しかし、行く宛もないのは事実だ。
自然と足が進み、ルディの後を追いかけることになった。
ルディに案内されるがまま辿り着いたのは屋敷の一階にある部屋だった。似たような扉がいくつも並んでいるので恐らく同じ部屋がいくつも作られているのだろう。そのうち一番近い扉の前でルディが立ち止まった。
そして、器用に二本足で立ち上がり、前足を使ってドアノブを捻って扉を開ける。キィと軋んだ音を立てて扉が開いた。
「ここ、ここ。この部屋は確かちゃんと手入れされてるはずだよ~。……まぁレミの部屋ほどじゃないけどね」
おずおずとルディを追って部屋に入ってみる。
確かに廊下と比べて荒れてないし埃っぽくない。定期的な掃除はされている、という印象の部屋だ。しかも村で暮らしていたルーナの部屋よりも数倍広い。というか、ルーナは狭い屋根裏部屋を与えられて寝起きしていたので、こんなちゃんとした部屋は両親と住んでいた時以来だった。
ベッドやテーブルセット、クローゼット、鏡台まである。場違いな気がした。
「……つ、使って良いんですか……?」
「だってどうせ誰も使わないしね~。寝るだけなら十分でしょ?」
「十分どころじゃないですよ……!」
「良かった。じゃあ、今日はここで寝よ」
そう言ってルディはこれまた器用に扉を閉めていた。
室内は薄暗いが、窓からは月明かりが差し込んでいて寝るだけなら全く問題はない。本当にここを使って良いのだろうかと思いながらベッドに近づき、そっと布団を撫でてみる。カビてもないし、湿気てもいない。明らかに誰かが手入れをしている。
一体誰が──? と思ったところで、後ろからルディにお尻を持ち上げられ、布団の上に突っ込んでしまった。
「わぁっ?!」
「もう寝よ」
「え、あ、はい……」
ルディに言われ、靴だけ脱いでから布団の中に潜り込んだ。布団を引っ張って肩までしっかりかける。
近くに小川あるので朝になったらそこに行って──などと考えていると、ルディがベッドに上がってきた。そして布団の端を掴む左手を見て目を丸くしている。
「あれ? それ、結婚指輪? 結婚してるの?」
「ぁ、いえ、これはお守りだと言って渡されて……この指じゃないとちゃんとつけられなくて、それで……」
「なーんだ。あ、もうちょっと向こう寄って。落ちないでね~」
あたふたと答える。実際、結婚はおろか好きな相手だっていない。好意を持たれたことすらない。なのに左手の薬指に指輪をしているなんておかしなことなのは重々理解している。とは言え、他の指だと細かったり太かったりしてちゃんと嵌らないのは事実だった。
ルディはあまり興味なさそうに布団の中に潜り込んできて、ルーナの隣で横になってしまう。ご丁寧に布団から頭を出して、ふーっと息を吐き出した
突然のことに硬直していると、ルディがちらりとルーナを見る。
「僕も今日はここで寝るね。一人じゃ怖いでしょ?」
「……あ、りがとう、ございます……?」
「明日の朝は林檎と……魚か兎獲ってきてあげるね。確か厨房も手入れされてるから使えるはず……パンとかはないけど、それはそのうち──」
「そ、そこまでしていただくわけには……!」
「いーのいーの。僕がしたいだけだから。──今日はもう寝た方がいいね。おやすみ、ルーナ」
そう言ってルディは目を閉じてしまった。
この魔獣はどうしてこんなにも親切にしてくれるのだろう。
もし何か裏があるとしても、ルーナは胸がいっぱいだった。両親が亡くなってから、誰にも大切にされずに過ごしてきたのだ。同情だろうと気紛れだろうと何だろうと、ただただ嬉しい。
一人じゃ怖いだろうからと一緒に寝てくれて、明日の朝ご飯の話をして、「おやすみ」と言ってくれる。
自然と涙が溢れてきた。ぐすんと鼻を鳴らしてしまう。
ルディが目を閉じたまま、ピクッと耳を動かした。
「……水もいるね。水分、大事だもんね」
「……。……あ、りが、とう、ございます……」
「えへへ~。じゃあ、今度こそおやすみ」
「はい、おやすみなさい……」
そう言って目を閉じる。本当ならルディを抱きしめて眠りたかった。けれど、それは流石に迷惑だろうし、ルーナにそんな勇気もない。
触れ合った箇所から感じるルディの温かさに安心しながらゆっくりと眠りにつくのだった。