25.悪魔のささやき②
「で、髪の毛のやり方だっけ」
それまでの妙な雰囲気を壊すようにジェットが言う。
手はルーナの頭に乗ったままだったが、その手がゆっくりと三つ編みとリボンに移動してくる。そっと自分で結った三つ編みに触れていた。
「つってもさぁ、教えるって言っても……見て覚えるしかないだろ、こんなん」
ジェットは呆れたように言う。
なんだかんだ言って、結局教えるのを面倒に思っているのが伝わってきた。しかし、ルーナとしてはこのままやってもらいっぱなしでいるのは嫌だった。自分の髪の毛くらい、自分でどうにかしたい。
それにジェットが言うようなお姫様気分とやらにはなりそうにない。
「み、見たくても、前髪なので見えないんですっ……!」
「それもそうか。じゃあ、明日からは鏡持って来いよ」
そう言ってジェットの手が離れていった。触れる手はいつもひんやりしていてやけに緊張する。
というのも、きっと度々ジェットが普通では考えられないような言動をするからだろう。それがジェット固有のものなのか、悪魔だからそういう言動になるのかわからなかった。
「わ、かりました。……お、お願いします」
ほっとしながらお礼を言い、頭を下げた。
ジェットがどんな顔をしているのかわからなかったが、どんな顔をしていてもきっとその内側にある感情は読み取れないと思う。こちらの考えは簡単に見透かされてしまうのに、圧倒的な『差』というものを感じる。村で周囲の人間たちに感じていた『壁』とは違う、種族の『差』。
ジェットが何も言わなかったのが気になり、そっと顔を上げる。
ルーナの予想を裏切り、既にジェットの姿はなかった。
「……もう。ぜんぜんわかんない……」
人間が悪魔を理解しようなんて、きっとだいそれたことなのだろう。
けれど、さっきジェットの言動にむっとしたように、ジェットに仕返しをしてやりたいという気持ちが僅かにあった。
麻痺していた自分の感情が動き出すのを感じる。
とは言え、良くない感情ばかりだなとちょっと笑ってしまった。
「ルーナ! います?!」
「は、はい! います!」
トレーズが慌ただしく厨房に入ってきた。手には何か持っている。
驚いて返事をすると、トレーズがすぐにルーナを見つけて近付いてきた。
「この間、イェレミアス様に本をオススメされたと言ってましたわね?」
「え? は、はい、……歴史を元にした児童書だと……とても面白くて、毎日読んでます」
おずおずと答えると、トレーズが満足気に笑う。
「良かったですわ! そして、そんなルーナに朗報です! こちら、イェレミアス様が選んだ次なる珠玉の一冊!」
トレーズは嬉しそうに「じゃーん!」と言って手に持っていた何かを顔の横に掲げた。
本だった。
先日勧めて貰った本とはまた趣が違う。やや分厚い。
「え。……ええっ?!」
流石に驚く。レミが? ルーナのために? 選んだ?
パニックになるルーナを見てトレーズが得意げに笑った。
「フフフ、いい反応でしてよ」
「だっ、て……えっ?! ど、どうしてですか?!」
「元々イェレミアス様は読書家なのです。吸血鬼の皆さまが本を書かれることはあまりないので、読むのはもっぱら人間の本ですけれど……面白いんですって。今は普段読まれるような重厚な本は読む気にならないらしく、かと言って他にすることもなく……児童書なら軽く読めるし、丁度いいんだそうです。これまであまり読まれなかったジャンルでもありますし」
話はわかったが、だからと言ってわざわざお勧めの本を教えてくれるとは思わない。自分が読んで終わりではないのだろうか。
戸惑うルーナをよそに、トレーズがにこにこと笑って本を差し出した。
本とトレーズを見比べる。断る理由はない。
ゆっくりとその本を受け取り、胸の中に抱き込んだ。
「あ、りがとう、ございます……」
「いえいえ、アタクシはただの運び屋ですので」
「……あの。イェレミアス様にお礼を、言いたいのですが……」
「んまあっ! いい心がけですわ! 図書室で会えるかもしれませんわよ!」
トレーズは両手を胸の前でぱちんと合わせてから、目をきらきらさせた。
しかし、すぐにちょっと気まずそうに顔を背ける。
「……ま、まぁ、必ずとは言えませんし、イェレミアス様が図書室に行かれるのはルーナより遅い時間ですが……」
図書室に行けば会えるかもしれない、という情報だけで十分だった。
流石に部屋を訪ねろと言われたらちょっと尻込みしてしまう。
「わかりました。図書室に通ってみます」
「アタクシからもイェレミアス様にお伝えしますわ」
「ありがとうございます、トレーズ。……じゃあ、本を部屋に置いてから、工房に行きますね」
「ええ。今日も頑張りましょう!」
「はい!」
トレーズの笑顔を見て、ルーナも笑顔になる。
以前よりずっと明るい表情をしていることに、ルーナは気付かない。
工房に行くと作業台の上でミミが座って待っていた。「おまたせ」と言うと、ミミは嬉しそうに立ち上がって破れた手を振り「ここだよ、ここ!」と言う。
その手を撫でてから、その日一番最初に縫って直してあげたのだった。
◆ ◆ ◆
「今の、マジ?」
ルーナが厨房を出ていったところで、ジェットはトレーズの背後に立った。
トレーズが入ってきたあたりで戻ってきて、影からずっと話を聞いていたのだ。
「盗み聞きなんて感心しませんわよ!」
「出ていくタイミングがなかっただけだよ。で? マジなの?」
んもう。とトレーズが怒ったような顔をする。けれど、これはただのポーズだ。ジェットに対してトレーズは簡単に怒りを向けないし、向ける理由もない。
さっきのトレーズの反応を見る限り、レミが児童書を読んだのは間違いない。しかし、それを本当にルーナのために読んだのか、というところまでは読み取れなかった。
「本当ですわ。何もすることがないからと、児童書を一気に十冊ずつ使い魔に運ばせて……ベッドでお読みになってました。たまにご自身で図書室に行くこともあって……その後、これをルーナに、と……」
「……。……あいつ、実は結構ルーナのこと気に入ってる?」
訝しげになりながら聞いてみる。興味なさそうだったのに一気に傾いた気がする。
「嫌いなタイプの人間ではないことは確かですわ」
「……素直な人間、好きだよな。あいつ。……ちょっとロリ──」
ロリコンという言葉を言いかけたところでトレーズがものすごい形相でジェットを睨んだ。流石に変態チックなイメージを口にするのもまずいかと思い、それ以上は言わないで置いた。それにルーナは同年代と比べれば小柄だが、人間の年齢であれば結婚していてもおかしくない年頃だろう。
百年以上生きる吸血鬼や悪魔が十代の人間を相手にすれば誰だってロリコンになるが、意味合いが色々と違う。
口を閉ざしたジェットを見て、トレーズが小さくため息をついた。
そして、なんとも複雑そうな顔をする。
「……ジェット様こそ、さきほどちょっと見ていましたけれど……随分優しくするのですね? 何だか意外でしたわ」
優しい、という言葉を聞いて吹き出しそうになった。
そう見えていたなら良かった、と。
「恋する人間の血は甘くて美味しいんだとさ」
「え?」
「フリーデリーケが言ってた」
恋、というものが人間どう作用するのか知らないわけではない。
満ち足りた幸せそうな顔を見せることもあれば、病んだり狂ったり絶望に落ちることもある。どちらかと言えば後者を多く見てきたし、幸せを壊したこともあった。
恋する人間の血、肉、魂──それらを好む魔物は一定数いる。
レミの祖母であるフリーデリーケもそうだった。無論、フリーデリーケな人間が好きな穏健派なのでそういった人間から無理やり血を奪うような真似は一切しない。むしろそういう輩を牽制する側だった。
「食べ物はお前とルディがやってるだろ。あと、レミは知識を与えてやってるみたいだし?」
「……ジェット様は恋をさせようと?」
「自尊心が低いから簡単そうに見えるんだよ。さっきのが優しく見えてるんならよかった」
軽い調子で言うと、トレーズがジト目でジェットを見つめた。
「……悪魔ですわね」
「悪魔だからな」
トレーズが呆れ顔で深くため息をつく。聞くんじゃなかったと言わんばかりの表情とため息だった。
しかし、ルディと言いトレーズと言い、悪魔であるジェットに対して「悪魔」と言って何をしたいのだろうか。人間に向かって「人間!」と言うようなものである。
「ですが、ジェット様……アタクシに話し過ぎでは? イェレミアス様に報告しますわよ?」
「あいつに後で『聞いてない』とか言われるのは面倒なんだよ。……ここはあいつの領域だしな」
トレーズはなるほどと言いたげに頷いた。
別にトレーズがレミに伝えるのは全く構わない。むしろわざわざ言いに行くのが面倒なのでトレーズなりアインから適当に伝えさせたくてこうして喋っているのだ。
例えば、ルーナを落とすならレミの方が適役だろう、なんてことは直接伝えた方が楽しそうなのでトレーズには言わないでいるのだ。
ルーナのことをレミが気に入っているのなら焚き付けてみるのも良いかもしれないと思った。




