21.魔物たちの夜
やや急ぎ足に図書室を出る。
人間と接したのは久々だったので妙に緊張したし、やはり人間を目の前にすると血を飲みたい欲求が沸き上がる。ただ、それは本能的なもので、精神的な拒否感の方が大きいのが現状だった。
そのまま部屋に戻らず、一度外に出て空を飛び、屋根の上に降り立つ。
「……庭も掃除や修繕が進んでいるのか」
屋根から庭園を見下ろす。
雑草が生え放題だったのに、今は少しずつ整理が進んでいるらしい。
中央にある噴水、等間隔に作られた外灯、花壇にトピアリー、ガゼボ。以前は綺麗に維持されていたが、今ではその影もない。徐々に修繕をされているのはわかるが、まだまだ使い魔と自動人形の数が足りないのだ。
肝心な数を充足させるために、人間の手が必要であるのは重々承知している。
背後に気配を感じ、意識だけをそちらに向けた。
「ジェット、何か用か?」
「血も魔力も足りてねぇはずなのによく気付いたな」
「気付かせたんだろう、お前が」
忌々し気に言い、緩く首を振った。ジェットが何も言わずに笑う。
もっと気配を抑えることができただろうに、まるで試すようなことをされて少しだけ気分を害した。
「そう言えば、ジェット」
「うん?」
「お前が自分から人間の髪を結ってやるなんて初めて聞いた。どういう風の吹き回しだ?」
「別に。暇だっただけ」
屋根の上を歩き、自分の隣まで来たジェットを見て問う。しかし、はぐらかすような返事があるだけだった。
ジェットが答えをはぐらかすのはいつものことで、こちらの質問にちゃんと答えないのは珍しいことではない。だからと言ってムカつかないわけではなかった。
わざとらしくため息をついて見せるとジェットが笑う。
「てか、お前さぁ。何なんだよ、俺とルディに気を付けろって」
「聞いていたのか」
しれっと答えると今度はジェットが溜息をついた。
屋敷全体には魔法がかかっている。盗聴などを防止する魔法だ。同じ室内ならまだしも、廊下や別の部屋から会話を聞こうとしても簡単には聞けない。魔法を使って突破することは可能だが、単純な耳の良さではどうにもならない。
ルディが「外の音は聞こえるのに、屋敷の中の声は聞こえなくて変な感じ~」と言っていたのを思い出す。
が、ジェットはそういう類の魔法を簡単に看破する。
「お前、ルディに好きにしろって言ってただろ?」
「言った」
「なんで邪魔するようなこと言うんだよ」
「邪魔をするつもりはない」
嘘つけ。と言いたげな視線が向けられるが無視をする。
「生贄です」なんて元気よくやってきたくせに、あまりに普通の人間の少女過ぎて拍子抜けしたのだ。最初にルーナが屋敷を訪れた時は「怪しい」と思ってしまっていたのに、さっきのように目の前にしてしまったら怪しさなんて感じなかった。トレーズが言うように普通の少女だ。
そんな彼女が何も知らないうちに悪魔や魔獣の食い物にされるのを見るのは、いささか気が咎めた。
それをジェットに伝えることはないけれど。
「レミ。いい加減血を飲めよ」
「……気分じゃない」
幾度となく言われた言葉を、また言われて拗ねたような気持ちになる。
血を飲まなければいけないのは、他の誰よりもレミ自身がよくわかっているのだ。
「ガキじゃねぇんだからさぁ……」
「そのうち飲む」
「お前、ルーナをどうにかして血を飲もうとか思わねぇの?」
「思わない」
「可愛がってるとそのうち愛着が湧いて血が美味そうに見えるかもしれないだろ」
年齢や性別など、吸血鬼の好みは多岐にわたる。
確かに人間を自分好みに育てて血を飲むという行為をする吸血鬼は一定数いるし、その行為を否定はしない。それに自分に好意を持っている人間や、自分が好感を持っている人間の血が自分の口に合うのは吸血鬼の間では常識だ。
だからこそ、人間が自分に好意を抱くよう、吸血鬼の容姿は美しいのだ。
それ以外にもその人間が持つ感情の強さによって味わいが変わる。特に恋する人間の血は、その相手が血を吸う吸血鬼自身でなくとも蜜のように甘い──という吸血鬼の間でも嘘か本当かわからないような話もあった。
とは言え、ジェットの言い分は少々違和感を持つ。
「人間は可愛がっている犬や猫を食べようなんて思わないぞ。それと同じだ」
「……今、お前の目に映ってるルーナが人間にとっての犬猫レベルなのはわかった」
ジェットの呆れ声に対して、「失礼な」と言いかけてやめる。否定できないと思ったからだ。
「逆に、お前の目に映るルーナはそれ以下だろう」
「バレた?」
「どうしてバレないと思うんだ……?」
今度はレミが呆れる番だった。
当たり前と言えば当たり前だが、ジェットは罪悪感というものが薄い。悪魔は人間の魂を好んでいるのでそれを得るためにいちいち罪悪感など覚えるはずがないのだ。
吸血鬼との決定的な違いは、人間が死ぬかどうか。
魂を取られれば人間は死ぬ。けれど、血を吸われても吸血鬼側にその意志がなければ貧血で済む。
人間の間では『吸血鬼に血を飲まれた人間は死に、吸血鬼にされてしまう』というような伝承がかなり信じられているようだがそんな事実はない。
ジェットからは何の返答もなく、会話が途切れたタイミングでルディが屋根まで上がってきた。
ゆったりとした足取りで、レミの横に座り込む。
「レミ、おはよ~。ちょっとはよくなった?」
「……まぁ、多少」
「ルーナの血が飲みたくなったら言ってね。僕が食べる前に分けてあげるから」
ルディは魔獣の姿のまま、呑気に言っている。
彼が人間の姿を取ることはあまりなくて、ルーナの前でも獣の姿のままでいるようだ。
「別に要らない。好きにしろ」
「またまた~。本当はちょっと血が欲しいでしょ? 今、僕が美味しくなるようにしてる最中だから待っててね」
「いや、だから──」
「美味しくなぁれって思いながら毎晩一緒に寝てるし」
無邪気に言うルディ。
レミもだが、ジェットも呆れたような顔をしてルディを見つめている。思っているだけなまだしも、それをルーナに直接伝えてないだろうな? という疑念もあった。
「それ、ルーナに言ってねぇだろうな?」
「言うわけないよ。思ってるだけ。でも、そうやって愛情を持って接すると美味しくなるって言ってたし」
つまり、ルディにとってのルーナは養豚場の豚か、牧場の牛くらいの認識なわけだ。
ジェットもルディもルーナの世話を焼いているようだが、それらが全て『食うため』と知ったらルーナはどんな反応をするのだろうか。
人間だって食べるために豚や牛、鶏を育てているわけだし、その対象が人間になったからと言っておかしいことではない。
ただ、レミの倫理観に照らし合わせると釈然としないだけだ。
「愛情、ねぇ……ルディ、口だけは滑らすなよ」
「あはは、わかってるって!」
あっけらかんというルディ。不安は消えないが、こう見えてルディは結構分別があるので言うほど心配はしてなかった。
ジェットの視線がレミに戻る。
「そういや、お前も気を付けろよ。さっきフェロモンだだ漏れだったぜ」
「は?!」
「魔力が足りなくてコントロール効かなくなってんだよ、レミは。ブラッドヴァールの血筋が他の吸血鬼連中よりも人間を惹きつけるってこと、忘れんなよ」
指摘されて動揺してしまった。だだ漏れだった、というのは間違いなく図書室にいた時のことだろう。
ルーナと一緒に倒れてしまった後、やけにルーナがぼんやりしている気がしたが──まさかレミのフェロモンにあてられているとは思わなかった。気をつけていたつもりだったのに無自覚だったということはやはり魔力が足りてないのだ。
ジェットの言葉にルディの耳がピンとなった。
「ええー?! 駄目じゃんレミ!」
「べ、別にそういうつもりじゃ、」
「なんか変な味になるんだよ! 他の相手に好意を寄せてると!」
レミとジェットは顔を見合わせて軽く肩を竦めてしまう。
「……ルディ、食うことばっかりだな」
「え? だってそのためにルーナと一緒にいるんだし?」
何がおかしいのかわからないと言わんばかりだった。
ジェットはそれ以上何か言うのをたやめて口を閉ざす。
レミは自分からはもう何も言うまいと思い、ルーナのことを頭から追い払うのだった。




