20.吸血鬼イェレミアス・フォン・ブラッドヴァール
ため息が聞こえる。
身を縮こまらせて、審判のような彼の言葉を待った。
「……色々と言いたいことはある。勝手に滞在したこともそうだし、部屋や厨房、浴室まで使っていたと聞いている」
言い訳のしようもない。
ルディ、アイン、トレーズが良いと言ったのだけれど、主でないものの許可に何の意味があるのかと今更考えてしまう。
「元々ルディが引き留めたのだろうし、使い魔や自動人形の修復を任せたのはアインとトレーズだ。使い魔たちの修復に関してはいずれ手を付けなければいけなかったが、諸事情で放置していた。何もしなかったことは、屋敷の主として褒められたことではない」
レミはルーナを静かに見つめたまま、淡々と言う。ルーナはその視線を受け止めることができない。
ただ、冷たい響きがあるもののルーナを責めるような言葉は少なかった。そのことを不思議に思いつつ、レミの言葉が終わるのを待つ。
「……まぁ、使い魔と自動人形たちの修復に関しては、……感謝する。ありがとう、ルーナ」
ありがとう──。
その言葉がルーナの耳に届き、言葉の意味をきちんと理解するまで時間を要した。
意味を理解するのと同時にこわごわとレミを見上げる。
レミは予想に反して、最初に訪れた時に見せたような──少し気まずそうな子供っぽい表情をしていた。そう言えば、「感謝する」という言葉を言い淀んでたようだったのを思い出す。
第一印象は冷たい印象があり、言い方は悪いが気取った高位貴族のような印象があった。
しかし、今目の前にいるのは年上の普通の青年に見える。容姿に関しては普通ではないが。
まさか「ありがとう」を向けられるとは思わなかったことと印象のギャップで言葉を失ってしまった。
何も言わずに呆然としているせいでレミが居心地悪そうにしているのに気付き、我に返る。
「はっ! い、いえ、そんな……こ、こちらこそ、なんていうか……そのような言葉をいただき、えぇと、身に余る光栄です……! い、イェレミア、ス様のご慈悲に、感謝、しますっ……!」
つっかえながら何とか言葉を発した。
吸血鬼や貴族に対してこんな言い方で良いのかさっぱりわからない。言い終わったところでペコペコとを頭を下げる。
「……オレは何もしてない」
「え……?」
レミの言葉に頭を下げるのをやめると、何故か気まずそうな顔をしていた。
「お前を引き留めたのはルディだし、修復の仕事を与えたのはアインとトレーズだ。まぁ、ジェットは余計なことしかしてないだろうが」
「……ジェット、は……あの、水をお湯に変えてくれたり、あと……か、髪の毛を結ってくれました……」
今は解かれているが、編み込みにしてもらっていた前髪を撫でながら恐る恐る言うと、レミは目を丸くする。
信じられない、と言わんばかりだ。
どうやらジェットがルーナに対して『親切』を働くのが予想外だったらしい。
「……ジェットが? そんなことを? 本当に……?」
ルーナはレミの反応に面食らいつつ、無言でこくこくと頷く。
ジェットが全く信用されてないみたいでちょっとおかしい。怖くて掴みどころのない相手ではあるが、こんな人間を相手にしてくれるのは嬉しいと感じているのは言わないことにする。
すると、レミは腕組みをして体ごと横に向いてしまった。
「……。くそ、そうすると本当に何もしてないのはオレだけじゃないか……」
独り言のような言葉だった。ルーナは首を傾げてしまう。
「あ、あの……わ、私が勝手に居座っていたので──」
「そういう問題じゃない」
レミは横を向いたまま、どこか苛立った様子で言う。苛立ってはいても拗ねているような雰囲気もあるので、ドキッとしてもあまり恐ろしくは感じない。
ジェットが不機嫌になった時の方がよほど怖かった。何するかわからなかったからだ。
レミは大きくため息をつき、視線を外したまま口を開く。
「ジェットもルディも客じゃないが滞在するように言っている。いや、……客として扱う余裕がないというのが正しいが……とにかく、あいつらがお前を気にかけているのに、屋敷の主であるオレが何もしないのはおかしいだろう。成り行きだろうがなんだろうが、お前は屋敷に貢献しているのだから」
「そう、でしょうか……? でも、先ほど感謝の言葉はいただきました、よ……?」
「それはそうだが、……くそ、あいつら楽しんでるな」
端正な顔が歪む。眉間に皺が刻まれ、口が引き結ばれている。
綺麗な顔は歪んでも綺麗だった。
吸血鬼なんて見るのは初めてだが、みんなこのように芸術品のような造形をしているのだろうか。
生まれてこの方、異性に見惚れたことのないルーナだったが──この時、初めて『見惚れる』という体験をしていた。本人は無自覚で、ただただ「綺麗だなぁ」くらいにしか思ってなかったが。
ぼうっとレミを見つめ、思考がぼんやりしていしまう。
「……ルーナ?」
「え。──えっ?! あ、いや、す、すみませッ」
突然視線が自分に向き、心臓が面白いくらいに跳ねた。
どうして心臓が跳ねるのかも理解できず、わたわたと慌ててレミと物理的に距離を取ろうと後ろに下がる。
しかし、下がった先には書架があり、頭を思いっきりぶつけてしまった。
「いっ?!?!」
ガツンと後ろ頭に衝撃が走り、バランスが取れずにふらつく。立っていられない。
しかも頭をぶつけたせいで書架が揺れ、手前に出ていた本がぐらついて落ちてきた。
本が落ちてくる! と腕で頭と顔をガードする。
「ばっ──!!!」
レミが焦った顔をしてルーナに向かって手を伸ばす。
焦っても綺麗な顔なんだぁと呑気に現実逃避をしかけたところで、レミがルーナを庇うように抱き締めた。本の落下地点よりも奥に向かうような形で抱きつかれ、後ろに倒れていった。
どさり、と二人揃って床に倒れ込む。
バサバサと本が落ちて、いくらか床に散らばった。
眼前に美しい顔がある。
目を見開いて、レミの顔に魅入ってしまった。
「……おい、大丈夫か?」
レミに押し倒されたような格好になっていることに気付き、言葉を失う。
赤くなればいいのか青くなれば良いのかもわからず、とにかく大丈夫だと伝えるために何度か首を縦に振った。
「そうか。なら、良かった。……オレだけ何もせずにただ怪我をさせたとなれば、……アインやトレーズには小言を言われるし、あいつらには笑われるに決まっているからな……」
そう言い、安堵した様子を見せるレミ。
レミはゆっくりと起き上がると、倒れたままのルーナの手を引いた。ルーナはされるがままに立ち上がり、足元に散らばっている本を慌てて集めた。
「お前、本が好きなのか?」
「多分好き、だと思います。これまで読む機会があまりなかったので、はっきりとは言えないんですが……今はこの量に圧倒されています。あの、アインには良いと言われたのですが……ここにある本を読んでもいいでしょうか?」
「ああ、構わない。……文字はちゃんと読めるのか?」
「は、はい。童話や児童書くらいなら……ただ、難しい単語とかは、ちょっとわからなくて……」
「……なるほどな」
納得したように頷き、レミが本棚を眺めた。
ルーナは拾った本を戻しながら、レミを横目で観察する。童話や児童書なんて読みそうにないのに、と思っているとルーナが戻そうとした本を見て、不意に腕を掴んだ。
「え?!」
「その児童書はかなり古いが、史実をベースに書かれたもので、当時は人間の間で話題になった本だ。良かったら読んでみろ。オレも読んだが、児童書だからと馬鹿にできない内容だった」
「は、はい……! あ、りとうがとうございます。本を選ぶのも一苦労だったので、嬉しいです」
そう言うとレミが手を離した。
本棚に戻すのをやめ、そっと自分の腕の中に本を抱き込む。
何か選ぶことがこれまでほとんどなくて、選ぶことがあっても誰もルーナにアドバイスをくれなかった。誰かに何かを勧められることもなかったので、レミの何気ない言葉が嬉しくて表情が緩んだ。
笑みを浮かべて礼を言うと、今度はレミが変な顔をした。
彼の視線が左手の薬指に注がれている。
「……お前、結婚しているのか……?」
「えっ?! あ、ち、ちが、ちがい、ます! そのぅ、お守りだって渡されて……でも、他の指だとちゃんと嵌められなくて……しょ、しょうがなくこの指に付けてるだけです……」
指輪のことを聞かれ、あたふたと答えた。やっぱり目立つよなぁと思うが、外せないし外したくないのだからしょうがない。
「そうか」
一応、レミはルーナの言い分に納得したようだった。レミは変な顔のまま、ふいっと顔を背ける。
「──ルーナ、オレの立場でこんなことを言うのはおかしいと思うかもしれないが……ジェットにもルディにも気を付けろ。あいつらはお前ら人間とは違う常識で生きている」
「……え?」
「以上だ。……ああ、言い忘れていたが、屋敷に留まることを許可する。アインやトレーズと上手くやってくれればいい」
それだけ言うと、レミは踵を返して図書室を出ていってしまった。
留まることを許可する──。
その言葉に、ようやく心からホッとできたのだった。