153.さようなら。お元気で。
結局、自分の気持ちを整理するためにかなり夜遅くまで机に向かっていた。
「もうちょっとだけ」を繰り返すルーナに痺れを切らしたアインたちによって強制的に文机から引き離されてベッドに押し込まれたが、実際のところよく眠れていない。
夜の間、ずーっと同じことを考えていたのだ。
というか、何をどう言い繕っても三人に対する気持ちは一つだけ。
たったの数文字で表せてしまう。
好き。
一緒にいたい。
それだけのことだ。
そのことに気付いたまでは良かったのだが、果たしてそれを本当に伝えてもいいのかということで悩んでしまった。フェイは「伝えなあかん」と言っていたし、レミたちも「待ってる」と言っていたので、伝えない理由はない。
しかし、何故か言う勇気がない。
何故だろうと考えながら、ベッドの上でぼーっとしてしまった。
アインたちはぼんやりしているルーナを不思議そうに見つめている。
コンコン。
不意に窓が叩かれた。
その音で眠気が吹っ飛び、慌ててベッドから降りて窓の方へと向かう。またジェットだったりしたらどうしようと焦りながら窓を開けて外を見る。
「おはようございます」
「ク、リス……さん……?」
窓の外に立っていたのはクリスだった。しかも一人だけだ。キョロキョロと周囲を見回してみるがフェイもいなければ、レミもルディもジェットもいない。これまで常に誰かと一緒だったので意外だった。
ルーナの心境が伝わったのか、クリスは困ったように笑う。
「驚きましたよね、朝から私一人だなんて」
「え、えっと……」
「どうしても最後に二人で話がしたくて」
「……最後?」
クリスは目を細めて穏やかに微笑んでいる。
ルーナの部屋の方が少し高い位置にあるので必然的に外にいるクリスよりも目線が高くなり、見下ろすような格好になる。窓の桟に手をかけて、クリスの顔をまじまじと見つめ返した。
視線を受けたクリスはそっと顔を伏せる。
「私は自分の死ぬ方法を探してあちこち旅をしています。今回はルーナさん『呪い』の気配を感じ取ってこちらに伺っただけなので、また元の旅に戻るんです。だからお別れの挨拶に来ました。流石に部屋に入れてもらうのは申し訳ないのでこんな形ですが」
話し方は淡々としていた後、クリスは何か吹っ切れたように明るい表情でルーナを見上げる。
何か言いたいのに言えなくて、浅く呼吸を繰り返すだけになった。ぐ、と手に力が入る。
「貴女にね、『苦しんで欲しくない』と言われた時……びっくりしたんです。それでいて、とても嬉しかった。
これまで試してきたどの方法も痛いか苦しいかのどちらかでした。眠るように死ねる薬なんてものもありましたが、私には効かなかったんです。
貴女にとって普通の感情で、普通の言葉だったとしても、私には特別でした」
視線が刺さる。その視線は優しくて穏やかなのに熱くて、見つめられているだけで照れくさくなるものだった。
耐えきれずに俯くと、右手にクリスの左手がそっと触れる。びく、と全身が震えてしまった。クリスが顔を覗き込んでくるが、顔を見る勇気が出ない。
「──好きです」
熱っぽく、そっと囁かれた。
弾かれたように窓から離れ、胸元を押さえた。
「なんて、私が言うとすごく嘘くさく聞こえるんでしょうね。自分でもそれは自覚しています。ですが、言わないとスタートラインにも立てませんので……ルーナさん?」
不思議そうに呼ばれるが、平然としているクリスが信じられなかった。
ルーナは「好き」というたった二文字を口にすることすら難しくて困っているというのに、クリスはあっさりと口にできてしまうのだ。そんなに簡単なことなのかとひたすら動揺していた。
「……ど、どうして……」
「? どうかしましたか?」
「か、簡単に、好きだなんて──」
そう言うとクリスは驚いたように目を見開いてから、困ったように笑って肩を落とした。
「簡単じゃありませんよ」
「え?」
「今、この時だってドキドキしています。今日だってこうして会いに来るかどうかずっと悩んでました。
信じてもらえなかったり、拒絶されたらと思うと二の足を踏んでしまって……。
ですが、次いつ会えるかわからないですし、伝えずにいると後悔するだろうと思いました。何よりルーナさんが他人の気持ちを無下にすることはないと思ったので……勇気を出して会いに来たんです。
……信じてもらえませんか?」
ルーナを見つめるクリスの瞳はどこか淋しげだった。
それは「結婚してください」と言われた後、レミたちと一緒に部屋を出る時に見た淋しげな笑みと重なる。
「……ご、ごめんなさい。勝手に、簡単だなんて言って……」
「自分でも嘘くさいと思うので仕方ないですよ。でも、ルーナさんには信じてもらいたいんです」
おずおずとクリスのところに戻り、ゆっくりと深呼吸をする。
「し、信じ、ます……」
「ふふ、良かった」
嬉しそうに笑うクリス。それを見て居心地が悪くなった。
好きだと言われても、結婚してくださいと言われても、全くピンと来ないというのに。彼がどうやら本気らしいということだけが伝わってきた。
何か言わねばと思っていると、クリスがおかしそうに笑う。
「無理して何か言おうとしなくても大丈夫ですよ。信じてもらえただけで十分ですから。
今思えば、流石に結婚は行き過ぎでした。死ぬことを何より望む私が、誰かの人生に寄り添うのは難しい。
──でも、」
クリスの手がそっと伸びてきて、ルーナの頬に触れる。
伝わる温度と指先の感触。
彼は間違いなく人間だった。
「もし、いつか貴女が生きている間だけでも貴女と生きたいと思う時が来たら、もう一度プロポーズさせてくださいね」
顔が熱を持つ。かーっと赤くなっていくのが自分でもわかった。あの時はいまいち現実感がなかった「結婚してください」が自分の頭の中にリアルに響いている。
顔を真っ赤にしているとクリスが再度おかしそうに笑う。頬から手を離し、ルーナの唇に人差し指を置く。
「その時はここにキスができればいんですが、叶うかどうかもわからない話ですね。
ああ、四番目でも五番目でも構わないので心の片隅に私のことを置いておいてください」
キスという単語に更に顔が熱くなった。唇に触れられたことで一層動揺する。
「う」とか「あ」とか言葉にならない声を出しているとクリスが目を細めて顔を近づけてきた。
クリスの唇が頬に触れそうになった瞬間。
「そこまでだ。流石にそれ以上は許してない」
レミがルーナの後ろから現れ、ルーナとクリスの間に本を差し込んでいた。
クリスは本にキスをすることになり、がっかりした顔で顔を離す。ルーナを守るようにして後ろから手を回しているレミを鬱陶しげに見つめた。
「駄目ですか?」
「当たり前だ」
「それって自分がしてないからですか?」
「うるさい。最後に挨拶がしたいというから二人きりを許してやっただけなのだ。調子に乗るな」
目を白黒させながらレミとクリスを見比べる。どうやらクリスがルーナに会いに来ること自体、事前にレミたちに許可を得ていたらしい。そう言えばアインたちは何も言わなかったし、どこかのタイミングで話が通じていたのだろう。
クリスは残念そうに肩を落とし、一歩後ろに下がった。
「ルーナさん、残念ながらここまでのようです。でも、最後に話ができてよかったですよ。
死ねなくても、また貴女に会えると思ったら少し希望が持てそうです」
にこりと笑うクリス。そんなクリスに何と声をかけたらいいかわからなかった。
「さようなら、ルーナさん」
感傷じみたものは感じさせず、クリスは穏やかな表情のまま告げる。
それは今生の別れのようでもあり、「また明日」に近い響きでもあった。しかし、さっき彼が言った通り、もう二度と会えないかもしれないのは事実だ。
──クリスが本当に死ぬ方法を見つけたら会えないのだから。
望みを叶えて欲しいと思う反面、ルーナにとっての『死』はどうしても受け入れがたいネガティブなものだった。だから同じように「さようなら」とは言えなかった。
「あ、の!」
「はい?」
「……お、お元気で」
何とかそれだけを絞り出すと、クリスが目を丸くした。そしてどこか照れくさそうに微笑む。
「ありがとうございます。ルーナさんもお元気で」
クリスはどこか晴れやかに言い、ゆっくりと離れていく。
少し離れた場所で待機していたフェイが、こちらに向かってひらひらと手を振っている。「次来る時はお土産持ってくるわ~」と呑気に言い、クリスとともに屋敷を後にするのだった。




