145.触れもせずに
どくん。と心臓が大きく脈打つ。
まるで金槌のような鈍器で胸を叩かれたかのような大きな痛みと衝撃があった。
パウラは日課の日記をつけている最中だったが、ぶるぶると手が震えて握っていたペンが指先から滑り落ちる。そして、耐えきれずに「ガハッ」と血を吐いてしまった。パウラが綴っていた文字の上に血が飛び散る。
はっ、はっ。と短く呼吸をしながら胸を押さえ、テーブルの上に突っ伏した。
(……こ、れは……呪詛返し……!?)
パウラは呪詛返しの可能性など少しも考えてなかった。何の魔力も持たない少女が呪詛返しをするなんて予想するわけがない。だから、対策らしい対策などしていなかった。
あるのは首からかけている護符だけで、これはあくまでもお守りだ。呪詛返しに対して大した効果はない。
(な、なんで……なんで?! あの子にそんな知識も魔力もなかった! 呪詛返しなんてできるはずが、な、い……。
イェレミアス様が……? いいえ、それはないわ。呪詛返しができるほど魔力は回復するはずないし、そもそも呪術には明るくなかったはず……! なら、ジェットかルディ? いいえ、もっとないわ……!
じゃあ、どうして……?!)
パウラは混乱しながら自分自身に術をかける。『呪い』の効果を軽減する術だ。何の準備もなく『呪い』の解除や浄化などできないので、ひとまずその場しのぎだ。
口から流れる血を拭いながらゆっくりと顔を上げる。
少しずつではあるが落ち着いてきた。とにかくまずは『呪い』の一時的に抑えてからだ。翌日準備をして解呪を行う。現状では解呪に必要なものが足りない。
自身の血で汚れてしまった日記帳を見て、小さく舌打ちをする。
綺麗に大切にしてきたのに、まさか自分の血で汚れるとは思わなかった。この日記帳にはパウラの日々だけでなく、イェレミアスへの想いも綴られているのだ。時には詩にしたりして、イェレミアスと自分が結ばれる時のことを考えるのがパウラの趣味であり日課だった。
──パウラ。
不意に誰かに呼ばれて、ガタンと椅子を倒して立ち上がった。
その声は、間違いなくパウラの記憶の中にあるイェレミアスのもの──。
パウラは呪詛返しのことも忘れて、口元に笑みを浮かべる。その笑みは妄執に取り憑かれた人間のそれだった。
「ふ、ふふ」
邪悪な笑みを浮かべながら、ふらふらと窓へと向かう。
窓を開けて、軽い身のこなしで窓の外へと出た。寝間着のまま声のした方へと走り出す。
(遂にあの方があたくしを呼んでくれた! さっきの呪詛返しはあたくしへの何らかのメッセージに違いない! ふふふ、ふふふふふ! 今行きますわ! イェレミアス様!)
時間は夜である。
まだ起きている家庭もあるが、そろそろ眠りにつく時間だ。外の様子など気に留める人間などいない。パウラは周囲の様子など気にすることなく、村の外に出て森の中へと向かっていった。
その間もパウラを呼ぶ声は彼女に届き続けている。
髪を振り乱して走る様子は令嬢時代からは考えられない姿だった。
しかし、パウラはこの瞬間確かに幸福だったし、ようやく願いが叶ったと信じ切っていた。
◆ ◆ ◆
「本当に呼ぶだけで来るんですか? 呪術師の方は」
「来る。まぁ、待ってろ」
村から少し離れた森の中。開けた場所にレミとクリスはいた。
レミは先程他の人間には聞こえないように魔力を伴った声でパウラの名前を何度か呼んだ。クリスはその様子を見ながら不思議そうにしていた。
やがて、村の方から足音が聞こえてくる。
「ほら」
「うーん、本当に貴方のことが好きなんですね」
「らしいな。こっちは心の底からごめんだが」
足音がどんどん近付いてくる。草木を蹴散らす乱暴なものだった。
森の中から人影が見える。
月明かりに照らされて姿を表したのは、間違いなくパウラ・サザーランド。
「イェレミアス様ぁっ!」
悲鳴にも似た声でレミの名を呼ぶパウラ。その表情は鬼気迫るものがある。
乱れた金の髪、森の中を走ってきたために汚れた寝間着、そして口元についた血と爛々と光る青い目。どこをどう見てもまともには見えなかった。
「ああっ! イェレミアス様、ようやくお会いできた──っ……!」
パウラが目を潤ませて近付いてくる。
「それ以上近付くな」
しかし、レミは汚いものでも見るような視線を送り、ゆっくりと右手を翳した。
周囲の温度が急激に下がって冷気が発生する。既に冬の気温だったため、更に寒くなった。
彼女がレミの近付こうと踏み出した足が氷に覆われて地面に繋ぎ止められる。その氷は膝まで達し、両足を完全に覆ってしまった。
「なッ……イ、イェレミアス様?! な、なに、を」
「何をしたかは自分が一番良くわかっているだろう? どうしてオレがいい意味でお前に会いに来たなんて思うんだ?」
「あ、あたくしは呪詛返しに耐えましてよ!? アレに耐えたらあたくしを認めてくださるのではなくて!? あたくしはあなたに見合うだけの知識と魔力を──」
「はぁ……どうしてそうなるんだ。お前の妄想にはうんざりする」
レミは手を下ろしてゆるゆると首を振った。
──夜会ではっきりと拒絶したまではよかったが、以降はパウラに執着されていた。会う頻度こそ少なかったもののありとあらゆるものを自分とレミに繋げて良いように解釈しては持論を展開するのに本当にうんざりしている。妄想としか呼べない勝手な想像の数々はどれも荒唐無稽なもので、聞くだけでも頭痛がしそうなものばかりだ。
パウラをこんな風にしてしまったことに多少の罪悪感がある。しかし、もういいだろう。
レミはゆっくりとパウラに近付いていく。パウラは何を勘違いしたのか目を輝かせた。
ふわりと冷気がパウラを覆い、両足だけでなく、両手の自由も奪ってしまう。
「イ、イェレミアス様……?」
パウラの目の前に立ち、少しだけ笑った。
再度パウラが目を輝かせる。本当に彼女の脳内はどうなっているのか。
「今日、わざわざお前に会いに来たのは礼を言うためだ」
「礼? あ、あらあらあらあら! イェレミアス様があたくしにお礼だなんて。いやですわ、一体何を」
「ルーナを選んでくれてありがとう。お前のしたことは許せないが、ルーナをオレの元に送り込んでくれたことには感謝する」
パウラの表情が凍りつく。視界の端でクリスがやれやれと首を振っていた。
「は……? そ、それ、は、ど、どどど、どういう」
「オレはルーナが可愛くて仕方がない。お前のおかげでルーナに会えたとも言えるから、その点だけは感謝する。──お前がオレにしたこともルーナにしたことも許さないが」
にこりと笑って言えば、彼女の顔が青褪める。氷で体の自由を奪われているからではないのは明白だ。
彼女の顔はゆっくりと怒りに染まっていった。わなわなと震え、額には血管を浮かび上がらせている。
「はあああああああああああああああ!? あ、あのっ、小汚いガキのどこが良いんですの!? ただの陰気なブスですわ、あんなガキ! そ、それが、可愛いですって!? ど、ど、どういう──!!!」
途中でパウラが激しく咳き込んだ。口からは血と血の混じった泡が飛ぶ。やはり呪詛返しを食らったダメージはあるらしく、げほげほと咳き込んで血を吐いていた。
その咳が収まったところで、パウラはヒュウと音を立てて空気を吸い込む。
ゆうらりと顔を上げ、虚ろな目でレミを見た。
「ふ、ふふ、ふふふふふ……いやですわ、イェレミアス様ったら……そんなふうにあたくしの嫉妬を煽らなくてもよろしいのに。パウラの身も心も、永遠に貴方のものですわよ……? ……うふふふ……ねぇ、ほら、そろそろ素直になってくださいません……?」
その顔はどこからどう見ても正気でなかった。確かに煽るつもりでルーナのことを告げたのだが、こうまでまともさを失うとは思わなかったのだ。
レミは小さくため息をつく。
「お前を欲しいと思ったことはただの一度もない。今オレが欲しいのはルーナだけだ」
「っ……ま、またそんなことを言って。あ、あんな汚らしいガキが貴方の隣に並ぶだなんて……!」
パウラが怒りに震える。問答をしても無駄なのは火を見るより明らかだ。
「イェレミアスさん? そろそろよろしいですか?」
「ああ、もういい。好きにしてくれ」
「ふふ、ありがとうございます。──初めまして。えぇとパウラさん?」
クリスが前に出て、レミがパウラに背を向けた。パウラは見知らぬ人間の姿に動揺していた。
普段通りにこやかに笑うクリス。胸に手を当ててパウラを見つめた。
「だ、誰ですの……!?」
「クリストファー・ラーゲルフェルトと申します。貴女は非常に優秀で、呪術の知識をかなり高い水準で有していると聞いています」
「な、なに? 何なの!? ねぇっ、イェレミアス様!?」
背を向けてしまったレミを呼ぶパウラ。その声には恐怖が混ざっている。
「貴女にとっては残念なことですが、イェレミアスさんは貴女に手も下したくないんだそうです。確かに手に掛けられることすら幸福に感じてしまいそうですしね、貴女は。イェレミアスさんが私に貴方の処理を頼んだのも納得です」
「処理……?」
にこり。と、クリスは笑う。パウラの目に恐怖が宿った。
クリスは身動きが取れないパウラに手を伸ばす。パウラはその手を躱そうとするが氷によって動けない状態では、少し首を振るだけに終わってしまった。
クリスの手がパウラの頭に触れる。その手からは禍々しい魔力が漏れ出ていた。
「何?! 何をするの!?」
「貴女の知識を全て頂くだけですよ。まぁ、その後廃人になってしまいますけど」
「いや、やめて……! こ、殺すならイェレミアス様! あなたが──っ!!!」
「断る」
レミは振り向きもせずに冷たく言った。パウラが目を見開き、一筋だけ涙を零す。
「クリス、終わったら教えてくれ」
「わかりました」
「いや、いやよ! そんな、こんな、の」
パウラの叫び声は口元を覆っていく氷によって遮られた。その氷は口を覆っているが呼吸までは妨げない。ただ声を封じているだけだ。
レミは自分の手でパウラの命を終わらせることすらしなかった。
それによってパウラが幸福を感じることがどうしても許せなかったからだ。
その後、その場に残ったのは抜け殻になった体だけ。
彼女は虚ろな目で地面に伏している。このまま捨て置けば獣に喰われて死ぬだろう。
「イェレミアスさん、終わりましたよ。相変わらず美しい氷結術ですね、コントロールも完璧でした」
「……ああ」
「おや? ちょっと後悔してます?」
「するわけがない」
ため息混じりに言う。後悔はしてないが、少しだけ気が咎めた。
パウラとまともに話ができたとは思えないが、パウラを正気に戻す方法があったのではないかと考えてしまうのだ。しかし、そうするとルーナが自分の元に来ることはなくて──そんな風に考え出したところで軽く首を振って余計な考えを追い出してしまう。
「イェレミアスさん、お願いがあります。転移用の魔法陣をですね、作りたいんですが」
クリスを振り返ると今さっき人間一人を廃人にしたとは思えない穏やかさで笑っていた。レミは彼を横目で見ながら「庭園に作るなら良い」と素っ気なく答えるのだった。




