132.微熱の向こうに見えた小さな春①
次、目を覚ますと何故か体がだるかった。体が熱くて頭はぼーっとする。
目の前にはぼんやりとした天井が見え、やけに視界が悪く感じるので目を擦ってしまった。
その時に額に何か置かれているのに気付く。どうやら濡れタオルのようだ。
「ルーナさん、お加減はいかがですか?」
「……ぇ」
クリスが穏やかに微笑んでこちらを覗き込んでいる、ように見えた。自分を覗き込んでいるクリスの顔はまるで水の中にいるかのようにぼやけているのだ。目を細めてみたりするが、どうしても視界がはっきりしなかった。
目の前にいるクリスが指を一本揺らす。
「何本かわかりますか?」
「……い、一本」
「これは?」
「三本……」
「……ふむ」
クリスはルーナの目の前で人差し指を立てたり、中指と薬指を立てたりしていた。ぼんやりしているが指の本数くらいはわかる。
その後、クリスは何か少し考えこんだ後、手のひら大のメモ用紙に何か書いて目の前に揺らした。
「では、この紙に書いてある文字は読めますか?」
じーーーっと文字を見つめるが、何と書いてあるのかはわからない。
何か書いてあるのかわかるのだが、その文字はまるでインクが滲んだようにぼやけているせいで読み取れなかった。目を擦ったりもしてみるのだが、視界がクリアにならない。
「何か書いてあるのは、わかりますが……ぼんやりしていて、読めません……」
「そうですか」
「おい、クリス。多少熱が出る程度じゃなかったのか」
声をした方を見ると、ベッドを挟んだ反対側にレミがいる。怒った顔をしているのがわかった。
よくよく周囲を観察してみると、部屋は昼間だというのにカーテンがきっちり閉められていてランプの明かりで照らされているだけだ。レミが日光に当たらないようにしているのだろう。
「ええ、そういう想定だったんですけどね……ルーナさん、失礼します。目を見せてくださいね」
言うが早いか、クリスがルーナの顔に触れた。
目をぐいっと開けられて、眼球をしげしげと眺めている。左右ともに見られた。目を大きく開けられても視界が変わることはなく、クリスの顔はぼんやりしたままだ。
「充血していますが、それ以外に異常は見られません。視界が悪いのは『薬』の効果なので一時的なものですよ。今日一日安静にしていれば明日には戻ります」
そう言って手を離し、頭を優しく撫でていく。
「……本当だな?」
「ええ、本当ですよ。ただ、事前の説明が足りてなかったのは本当に申し訳ありませんでした」
「謝る相手はオレじゃない」
二人の表情はぼんやりとしかわからない。怒ったように言うレミに対して、クリスは少しだけ驚いたように見えた。
クリスは軽く頷くと、もう一度ルーナの顔を覗き込む。
「ルーナさん。不安な気持ちにさせて申し訳ありませんでした。明日にはよくなりますので安心してください」
「……は、い」
喉も掠れたままだ。
しかし、どうしてレミとクリスの二人がいるのだろうか。
目を閉じたり開いたりを繰り返しながら二人の様子を窺う。視界がぼんやりしているせいで分かりづらいが二人ともルーナの看病してくれている、ように見えた。
「あの、……どうして、二人が……?」
「ルーナの容態が悪化したとアインが慌てて駆け込んできてな。クリスが診ると言ったが、信用できないのでオレも一緒にいるんだ」
「診察以外何もしないって言ってるんですけどね。どうも信用いただけないようで」
「当たり前だ」
レミがムスッとしているのは見なくても声だけで分かった。クリスは苦笑しているように見えた。
「ルーナさんの好感度は上げておきたいので彼女には変なことはしませんよ」
「もうしただろう」
「あれは不可抗力です」
しれっと言うクリス。
不意にレミの手が伸びてきて額に乗せられている濡れタオルが取り去られた。そしてすぐに代わりの濡れタオルが置かれる。
ひんやりとして気持ちよくて、そうっと目を閉じた。
「冷たくて気持ちがいい……」
「そうか、よかった」
「最初、凍ったタオルを乗せたのには驚きましたけどね」
「黙れ」
凍ったタオル──。
記憶はないが、レミがそんなことをしていたと知り、思わず笑ってしまった。口元に笑みが浮かぶ程度で、声を出して笑ったりはしなかったけど。
食事は凝ったものじゃなくていいとか品数も少なくていいとか、貴族然とした見た目と振る舞いなのにちぐはぐなのがおかしい。それでいて他人の看病の仕方を知らないのはある意味想像通りであり、何だか一層おかしかった。
「ルーナ、何か食べられそうか?」
「……あんまり食欲ない、けど……」
「食べられるなら食べた方がいいですよ。今、ジェットさんとルディさんが何か作ってますし」
「ジェットとルディが……? じゃあ、食べ、ます……」
あの二人が何か作ってくれているなら食べたいと思い、控えめに頷いた。クリスが微笑ましげに笑っている。
こうして見ていると本当に普通の人間にしか見えない。
だが、ふとした時にルーナの血を飲んで苦しむクリスの姿が脳裏にちらついた。彼はどうして不老不死などになってしまったのだろうか。わざわざ呪われた血を飲んでまで死にたがっているのだから、自分から望んでそうなったようには見えない。
そのことを聞いてみたくて、微かに唇を動かすが躊躇いがあって声にならなかった。
おいそれと聞いて良いことじゃないことくらいルーナにだってわかる。
クリスが笑顔のままルーナを見つめて首を傾げる。
「何か聞きたいことが?」
「い、いえ……なんでも、ないです……」
熱のせいで聞いてしまいそうになった。流石に駄目だと自分に言い聞かせて口を閉ざす。
が、クリスは誘うような声を向けてきた。
「私の存在が不思議なのは当たり前でしょう。答えられることであれば答えますよ。今この場にはイェレミアスさんしかいませんしね」
レミにしか聞かれないので問題がないとでも言いたげだった。レミはクリスのことを色々知っているようだったので聞かれて困ることなどないか、ルーナがするような質問は既にレミがしているのかもしれない。
ちらりとレミの様子を見ているとまるで安心させるように頭を撫でてくる。気になるなら気にせずに聞けばいいと言わんばかりだ。
クリスへと視線を向けて、躊躇いがちに口を開く。
「……クリスさん、は……」
「はい」
「どうして……不老、不死に……?」
すぐに答えはなかった。
クリスは軽く横を向いてしまって、どんな顔をしているのかもわからない。
「……覚えてないんですよね。今のルーナさんよりももっと酷く朦朧としている時に色々されたみたいなんですよ。なので、どうやって不老不死になったのかはわかりません。何をされたのか分かればいいんですが、もう真相は闇の中です。困ったことにね」
「そうですか……変なことを聞いてしまって、ごめんなさい」
答えたくない質問というわけではなかったようで安心したが、申し訳ない気持ちも芽生えた。
やはり本人の意志とは無関係に不老不死となってしまったのだ。自暴自棄であっても『呪い』を受け入れいたルーナとは違う。そんな相手がルーナの解呪のために動いてくれるのは何だか申し訳ない気分になった。
目を伏せるとクリスが小さく笑う声が聞こえる。
「ふふ。不老不死に興味がおありですか? もしくは長く生きることに」
「おい」
「聞くくらい良いでしょう?」
レミが咎めるがクリスの声音は変わらない。どこか楽しそうなままだ。
不老不死。長く生きること。
一年後には死んでいるのだとばかり思っていたルーナにとってはあまり遠い話だった。
「……わかりません。私は来年にはいなくて、あとは死ぬだけって思ってたのに……この先も生きられるかもしれないというだけで、何だか夢みたいなので……。生きたいけど、未来のこととかうまく考えられなくて……」
素直な気持ちだった。
アインに「未来のことを考えましょう」と言われて考えているものの自分のことはうまく考えられない。
「お父さんもお母さんも、もういなくて……この先どうして過ごしていけばいいか……」
「そう言えば……ルーナ、誕生日はいつだ?」
「……ぇ。は、春……三月の終わり……」
「そうか。なら手始めにお前の誕生日を祝おう。それまでは元気に生きていてくれ」
そう言ってレミが頭を撫でる。
その手があまりに優しくて、「元気に生きていて」という言葉が切なく響いて──どうしてだかものすごく泣きたくなってしまった。




