129.狂おしき盲執の女
「サザーランド様、お食事をお持ちしました」
「ありがとう」
パウラは優しく微笑んだ。
このド田舎の村に身を潜めてもう二ヶ月ほどになるだろうか。何もかも不便で貧乏くさくて耐え難いと思うことも多々あったが、これも全てイェレミアス・フォン・ブラッドヴァールを手に入れるためである。
そのためであれば粗末な食事も馬小屋のような狭い部屋にも耐えられた。
テーブルに置かれた用意された食事を見下ろす。硬いパン、野菜が沢山入ったスープ、魚を煮たもの。これでも村人はかなり気を遣ってくれているらしい。パウラがこれまで口にして来た噛めば甘みを感じるパン、素材の旨味を感じるスープ、ほろりと崩れる肉や魚、最後に出てくるデザートなどに比べれば質素ではあるが、文句を言ってもしょうがない。
質素な食事にも慣れてしまった。
パウラ・サザーランドはとある国の侯爵家の末娘である。
上に兄と姉がいるおかげで跡継ぎの話には一切関わらなかったし、興味もなかった。パウラは家族の中でも美しかったので蝶よ花よと育てられ、望めば何でも与えられてきた。煌めく金髪、青い目、しなやかな四肢。パウラ自身も自分の美貌に自信があった。
婚約者も好きに選べばいいと言われ、顔や家の釣り合いなどを気にして選ぶつもりだった。
しかし、出会ってしまったのだ。
六年前──ある夜会で、美しい吸血鬼に。
その夜のことは今でも忘れない。
つまらなさそうな顔をして壁にもたれ掛かり、腕組みをしているその横顔。
ため息が出るほどに美しく、まるで絵画のようだった。
一目で恋に落ちてしまった。
自分に見合うのはこの人しかいないと思った。そしてこの人の隣に立てるのは自分だけだと。
「ごきげんよう。イェレミアス・フォン・ブラッドヴァール様でいらっしゃいますか?」
「ん? ……ああ、そうだが。何か用だろうか」
滅多に夜会には顔を出さないと聞いていた。
昨今、吸血鬼は人間に対して有効的で、平和的な関係を望んでいるという。人間からの招待に応じることもままあった。婚姻ともなれば子供のことがあるのでおいそれと話は進められないが、同盟という形で家と家が結びつくこともあるそうだ。
必死に考えを巡らせる。夜会嫌いの彼の興味を引く会話にせねば、と。
「いえ、用は特に……ご挨拶をしたかっただけですわ。パウラ・サザーランドと申します」
「そうか」
「夜会はお好きでないと聞いておりましたのに、つい声をかけてしまいました。お一人のところをお邪魔をしてしまい、申し訳ございません」
他の令嬢のようにがっつくのは得策ではない。名を告げられただけでも良しとしよう。
そう考え、礼をして背中を向ける。
もっと綿密に計画を建てよう。彼の興味と関心を引くような──。
視線を感じた。
背中に、イェレミアスの視線が向けられている。
すぐに立ち去って正解だった。他のミーハーな令嬢とは違うと少しでも思ってもらえたに違いない。そんな確信があった。
ゾクゾクとこれまでに感じたことがないような快感が駆け巡る。
あの美しい吸血鬼の視線が! 自分に!
全身が高揚感に包まれる。
この視線を永遠に独り占めしたいと強く願った。
一度だけ立ち止まり、何でもないような顔を作って肩越しに振り返る。すると、やはりイェレミアスはパウラを見ていた。にこりと微笑みを向けて、再度真っ直ぐに前を見て歩き出す。
口元が緩むのを押さえきれず、口を押さえて声を殺して笑い、その場を去った。
「ふ、ふふ、ふふふふ……」
薄いスープをゆっくりとかき混ぜながら、恍惚とした表情で笑う。
パウラはあの視線を思い出す度に身悶えしていた。
あの夜、確かにパウラの存在はイェレミアスの中に「他の令嬢とは少し違う」と刻み込まれたのは確かだった。幸運にもその半年後の夜会にもイェレミアスは参加していた。半年間の間にできる限りの情報収集をしたところ、どうも両親に夜会に参加せよとしつこく言われているらしい。吸血鬼一族の中でも力ある家門であるため人間との接点を作ろうという噂はあった。
彼の両親は彼が悪魔と魔獣とつるんでいることが気に入らないようで、引き剥がすためでもあったようだ。
美しい彼に悪魔も魔獣も似合わないのはパウラも同意するところだったがそれを馬鹿正直に伝えるようなことはしない。自分に惚れてもらって、それから離れてもらえばいいのだ。
パウラは内に潜む劣情を押さえ、巧妙にイェレミアスに近付いていった。
数ヶ月に一度の夜会で偶然を装ってイェレミアスに会い、短く挨拶をしては離れ、少しずつ自分の存在を彼に刻み込んでいく。気の長い話ではあったが、確実な方法だったと自負している。
二年ほど経ち、会えば嫌がらずに挨拶と少しの雑談を交わすようになった頃のことだった。
「イェレミアス様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、サザーランド嬢」
「またお会いするなんて奇遇ですわね」
「ああ、本当に──」
微かに笑うイェレミアス。ゾクゾクと快感が走った。
確実、少しずつ、彼はパウラに心を開いている。そんな確信があり、笑いを堪えるのが大変だった。
が、すぐ傍にいたジェットとか言う悪魔がイェレミアスの脇を肘でつつく。そして何やら目配せをしたところで、イェレミアスが不愉快そうに眉を寄せ、その表情のままパウラを見た。
その視線と表情は氷のように冷たく、パウラの表情は凍りついた。
「……貴女とここ最近良く会うのは、本当に偶然か?」
「え? え、ええ、もちろんですわ。あたくしは──」
怜悧な声がパウラを刺す。ドクンドクンと心臓が波打つのを感じながら当然のような顔をして頷いた。
「嘘つけ」
「その子ここ最近ずっとレミのこと嗅ぎ回ってるよね。何が目的?」
ジェットが笑い、その横から魔獣であるルディが顔を出す。
ふつふつと血が沸くような感覚が駆け巡った。しかし、それをどうにかこうにか抑え込み、普段通り優雅に微笑んだ。
「い、嫌ですわ。一体なんのことだが……」
「レミが好きって正直に言えばまだ可愛げがあるのにな」
「ほんとにね~。嘘はダメだよ~」
(この悪魔と魔獣風情が!! あたくしの完璧な計画を駄目にするつもりですの?! イェレミアス様に不信感を与えないようにゆっくりじっくり距離を詰めてるだけですのに! こいつら! こいつらのせいで……!)
口元とこめかみがひくつく。
あと二年も頑張ればかなり親密な関係になれる予定だったのに、悪魔と魔獣に邪魔されるとは思わなかった。彼の両親がこの二人を煙たがるのも当然で、さっさとこの二人を引き剥がしてくれれば自分に大いにチャンスがあったのにという悔しさ、そして自分の気持ちを勝手に暴露された屈辱で頭がどうにかなりそうだった。
それでも微笑みを崩さなかったのはパウラの意地だった。
しかし──。
「サザーランド嬢。貴女には下心がないと思っていたのに残念だ」
「そ、そんな、誤解ですわ! あたくし、そんなつもりはありません! ただ偶然お会いできたことが嬉しくて、」
「偶然じゃないんだろう? 気持ちは嬉しいが、そういう相手にうんざりしているんだ」
そういう相手?
キャアキャアと姦しく騒いで嫌そうな顔をするイェレミアスに群がる女どもと同じだと?
抑え込んでいた怒りが一気に爆発した。
「あたくしをその他大勢と一緒にするなんてどういう量見ですの!? あなたがそういうのを嫌がっているのを知っているから、慎重に慎重を期して行動してましたのよ! あたくしが! このあたくしが! 二年もかけて!! 実際あなただってあたくしを嫌がってなかったしょう!? 今更そんなことが何だって言いますの?!」
ジェットとルディが「二年?」「うわ引く~」と苦笑している。こいつらにパウラの何がわかるというのだろう。苛立ちと怒り、そして悔しさが募り、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「美しいあなたに見合うのはあたくししかいませんし、あたくしの美貌に見合うのもまたあなたしかいませんわ!
ねぇ、イェレミアス様! あなたはあたくしの気持ちを、二年を、踏みにじったりしませんわよね?! あたくしはあなたのことをずっとずっとずーーーーっと想ってましたのよ!?!?」
イェレミアスは嫌そうな顔をして軽く首を振る。
その嫌そうな顔は、彼に群がる令嬢たちに向けるものと同じで、パウラの心に罅が入った。
「悪いが、オレは貴女の気持ちには応えられない」
そう言って彼は姿を消してしまった。
その時の悔しさたるや、気が狂うかと思ったほどある。家に帰るなり絶叫して部屋の中を荒らし回り、家族に「パウラがおかしくなった」と怯えられた。
そこでスッキリすればよかったが、パウラのイェレミアスへの好意は盲目的な執着に変わった。
元々家督に関係のないパウラは身一つで家を出て、彼の足取りを追いかけた。その間、どうやって彼を手に入れるかを考え続けた。正攻法では無理だと悟り、吸血鬼にも効果のある魅了魔法をはじめとするあらゆる魔術を習得した。果ては呪術にまで手を出した。並々ならぬ執着心と、パウラの地頭の良さと魔力の高さが習得を助けた。
イェレミアスに近付くためにありとあらゆる場所に顔を出した。
少なくとも夜会に出席していたペースで彼の顔を見ないとおかしくなりそうだったで、警戒されない程度の距離で彼のことを見続けたのだ。横顔も後ろ姿もため息が漏れるほどに美しい吸血鬼。周囲から美しいと褒め称えられたパウラに見合う存在は彼しかいないと盲目的になっていた。
人間と吸血鬼の橋渡しをし、誰もが羨む存在になるのだと。
いずれ彼が手に入ると信じていた。
チャンスが訪れたのはつい半年前。
吸血鬼であるイェレミアスは定期的に血を飲まなければ生存できない。ブラッドヴァール家にいると吸血鬼に血を捧げる人間が城に通うそうだが、あちこちふらふらしているイェレミアスは現地調達だ。人間に好意的な魔物と人間とを繋ぐ団体や施設はいくつもあり、ブラッドヴァール家はそのほとんどに寄付をしている。
名を変え、姿を変え、自分の言葉が真実となる呪具を身に着け、吸血鬼に憧れを抱く少女として彼の前に立った。
彼の鋭い牙が肌を裂く感覚。吸血による酩酊感。
全てが快楽に変わり、パウラは幸福に包まれていた。
イェレミアスは血を一口飲んだ直後、パウラの体を突き飛ばした。しかし、一口でも飲んでくれればこちらのものである。
「アハッ、飲んだァ! あたくしの血を! 飲んでくれた!! ああ、嬉しい!」
「き、さま……パウラ!」
「ああっ! あたくしのことを、あたくしの名前を! 覚えていてくださったのね! やっぱりあなたもあたくしのこと忘れられないんだわ! どうかしら? あたくしの血の味は──! 芳醇で、甘くて、美味しいでしょう? だってあなたにずっと恋をしているんだもの!」
げほげほとイェレミアスが咳き込む。飲んだ血を吐き出そうとしているようだ。
「あなたに会えない間、あなたに飲んでもらうための血をずっと研究していたのよ。あなたの力を奪い、もう二度とあたくし以外の血を飲めないようにあたくしの血だけを求めて忘れられなくなるような──ふふ、ふふふ、とても楽しみだわ。いつでもあたくしを呼んで頂戴。いつでもあなたの元に駆け付けるわ──」
パウラの血がイェレミアスを蝕むには時間が必要だった。もしかしたら、イェレミアスの力の方が勝つかもしれない。そんな懸念もあった。
だから、イェレミアスが逃げ込んだ古い屋敷に『生贄』と称して少女を送り込んだ。
村人たちが吸血鬼の存在を恐れていたのは好都合だったし、ルーナとか言う少女が疎まれている上に生娘なのも好都合だった。仮にいつも一緒にいるジェットやルディがルーナを食べても邪魔者を消すことができるので、ルーナがどうなってもパウラには得しかない。
第一、あの二人なら弱ったイェレミアスにルーナの血を飲むように言うだろう。『呪い』のことがバレてルーナを殺すようなことがあっても殺害の際に広がる血が周囲を蝕んでいく。
途中まではパウラの思惑通りだった。
まさかイェレミアスがルーナのことを好きになるなんて考えもしなかったし、ルーナにかけた『呪い』を解ける人間が駆けつけようとも夢にも思わなかったのだ。
──その誤算にパウラは気付いてない。気付くはずもなかった。




