125.気は進まないけれど②
クリスは最初に説明した通りコートと布の間に手を差し込んできた。胸の真ん中にある骨にそうっと触れてくる。
普段決して他人に触れられる場所ではないため、緊張と妙なくすぐったさのせいで、ビクッと震えてしまった。一瞬だけクリスの手が止まるものの、ルーナの様子を見て大丈夫だと判断したらしく、そのまま掌を胸の間に押し付けた。ぴたりと押し当てるだけで妙な動きは一切ない。
「っ……!」
クリスの手は温かい。人間らしい体温が感じられる。
触れられているだけのはずだが、微かに痺れるような肌触りがあった。クリスが掌から何かを発しているのだと思われるが、ルーナにはよくわからない。
やがて、クリスがルーナの顔を見つめる。
「ルーナさん、何か感じますか?」
「え? えっと、何だか、ビ、ビリビリ? するような感じが、あります……」
「なるほど……もう少しそれが強くなっても大丈夫でしょうか?」
現段階では何か感じるのと少しくすぐったいと言う感覚の間くらいだった。少しくらいなら大丈夫だろうと思い、こくりと頷いた。
「痛みを感じたらすぐ教えてくださいね。フェイ、紙をください」
クリスの言葉に再度頷く。フェイがクリスの指示に従って紙を持って魔法陣の中に入ってきた。
気を逸らすこともできず、クリスが触れているところに集中してしまう。
やがて、痺れるような感覚が強くなった。
痛くはない。
痛くはないが、これは――。
「ひゃっ、……う、っく……!」
くすぐったい。
我慢しようにも声が漏れるし、身を捩って逃げ出したくなる。どうにか堪えようと試みるが、どうしても我慢ができなかった。思わず身を捩ってクリスの手から逃げようとしたところで、後ろからフェイに両肩をガシッと押さえられてしまった。
「動かんといてなー」
「むっ、むり、く、くすぐった……あはははっ! ふぁ、はははっ……!」
「はいはい、我慢我慢ー。痛くないんやったら我慢してや」
「むりむり! だめ、くすぐったい! あはははは!」
笑いながら逃げようとするがフェイが逃げさせてくれない。クリスは大真面目な顔をして胸の間に掌を当てたままだ。それが余計におかしくなってきてしまって、ルーナはひたすら笑っていた。
レミ、ジェット、ルディの三人が何とも言えずに変な顔をしていたが、気にする余裕もなかった。
僅かにくすぐったさが収まったところで、ルーナの胸、そしてクリスの手をすり抜けて文字が浮かび上がる。
くすぐったいのも忘れて自分の体から出てくる文字を凝視ししてしまった。
インクで書いたような黒い文字が浮かび上がり、まるで生き物のように宙を舞う。
だが、ルーナにはその文字が読めなかった。単純に知らない文字だったのだ。
文字がぐるりとルーナの周りを回ったかと思いきや、フェイが用意していた紙にぺたりと張り付いた。まるで元々その紙に書かれた文字であるかのようで、ついさっきルーナから出てきたとは思えない。
文字が紙に張り付いたのを見たクリスが、ゆっくりと手を離す。
「はい、ありがとうございました」
「こ、これで終わりですか……?」
「いえ、まだ何箇所かあります。その前に写し取った文字を少し確認させてください」
そう言えば頭や背中も触られたなと思い出す。頭や背中であれば今ほどくすぐったいということもないだろう。そう考えてほっとした。
クリスは今しがた文字を張り付けた紙を見つめる。
その表情は真剣そのもので、非常に声をかけづらい雰囲気があった。
「……何とかなりそうなのか?」
紙を見つめるクリスにレミが声をかける。クリスは紙を見つめたまま、すぐには答えなかった。
数秒後、まるでレミの声に気付かなかったと言わんばかりに顔を上げてレミを見る。
「失礼しました。解呪自体は大丈夫ですよ。全て写し取った後で改めてご説明します」
クリスはにこやかに返事をして、手にしていた紙をフェイに手渡した。
レミたちはその様子を何とも言えない顔で見つめている。「本当か?」とでも聞きたそうな雰囲気だ。
そんな三人の視線をものともせず、クリスは両手を伸ばしてルーナの頭にそっと触れる。
「胸骨よりはくすぐったくないと思います」
「は、はい」
その調子で頭、背中から文字を写し取っていった。頭を触られている間はどちらかと言うと心地よいくらいで、クリスの言う通り三箇所のうち胸が一番くすぐったかった。背中も多少くすぐったかったが大笑いするほどではない。
背中から文字を写し取り終わったところで、クリスの動きが止まる。
「クリスさん……?」
前を隠して、背中を全て見せている状態である。可能ならさっさとコートを羽織らせて欲しかったのだが、クリスが背中に触れたまま手を離そうとしない。
落ち着かない気持ちで振り返るとクリスが少し困ったように笑う。
「実はですね、もう一箇所ありまして」
「どこですか?」
「骨盤です」
思わず黙ってしまった。骨盤というと背中の下、足の付根の少し上である。
際どい場所なので触れるにしてもどうやって触れるのかが気がかりだ。いくら布で裸を隠しているとしても、かなり抵抗感が強い場所だった。
「今あるものだけでも大丈夫なので無理にとは言いませんよ。……正直、くすぐったいという感覚だけで済むような気もしませんし」
ルーナは思わず生唾を飲み込んだ。ぎゅっと布とコートを握りしめる。
「かなり痛いってことですか……?」
紙をまとめていたフェイがクリスの後ろでガクッとバランスを崩して振り返る。信じられないようなものを見る目でルーナを凝視した。
「田舎娘ってこんなもん……? 初心すぎへん……? いや、そのせいで碌でもない魔物三人に捕まるんか……」
「ちょっと! 碌でもない堕天使に言われたくないんだけど!
てゆーかクリス。くすぐったいどころじゃなくて、痛いわけでもない、って……えぇと、」
ルディがしきりにルーナを気にしながら言葉を紡ぐ。ルーナには「くすぐったいわけではなく、痛いわけでもない感覚」が全く想像つかないので首を傾げるばかりだ。
レミもジェットもルーナを気にする一方でその先を知りたがっているように見えた。
クリスは小さくため息をつく。
「まぁ、本人がよくわかってないようなので伝わらないと思ってぶっちゃけますけど……要は感じてしまうのではないか、と言う懸念を話しています。貴方がたよりも先に私がその感覚を与えてしまっていいのかと」
「黙れ」
「うるせぇ」
申し訳なさそうなクリスに対して、レミとジェットが即座にツッコミを入れた。
自分のことなのに話題にさっぱりついていけない。村にいる同世代の少女たちであればこの話題をきちんと理解した上で判断できたのかと考えてしまう。
ルディが魔法陣に近づいてきてルーナを心配そうに見つめる。
「ル、ルーナ。今回はもうこれでやめとこ? 三箇所で大丈夫ってクリスも言ってたし、ね? そう言うのは、なんていうか、もっとこう、大事にした方がいいと思うし!」
「自分がやりたい〜くらいの本音言うたらええのに」
「うるさいなぁっ! いいの! そう言うのは!」
ルーナは頭上に「?」を浮かべたままルディを見つめる。どこか必死そうだ。
レミ、ジェットを見てみても視線が雄弁に「ここまでにしておけ」と言っている。
顔色を窺っているわけではなく、明確に三人からの頼みであればしょうがないのだろうと思った。それこそ未知の感覚というものはルーナだって恐ろしいし、避けられるのであれば避けたい。解呪への影響もなさそうだ。
目の前にいるクリスに向き直った。
「あの、じゃあ、ここまでで……」
「わかりました。私も余計な嫉妬や恨みは買いたくありませんので」
嫉妬や恨みとはどういうことなのだろう。「着替えてきてくださって結構ですよ」と言われたので、コートを羽織直してから隣の部屋で元のワンピースに着替えてきた。
客間に戻ったところで、フェイが例の青い薬を二つ持って近づいてくる。
「これ残りの分な。明後日検査するからよろしゅう」
「わかりました」
「そんじゃ今日はこれで終わりや。お疲れさん」
「はい、ありがとうございました。……クリスさんも」
フェイに向かって頭を下げてから、クリスにも頭を下げる。二人ともにこやかにルーナの様子を見守っていた。
部屋を出ようとしたところでクリスが魔法陣の効果を消しながら顔を上げる。
「イェレミアスさん、ジェットさん、ルディさんは少し残って下さい。お話があります」
言いながら立ち上がり、隅に寄せられているテーブルと椅子を示した。
三人は顔を見合わせる。レミがやや不機嫌そうな顔をして口を開いた。
「ルーナも一緒だとまずいのか?」
「ええ。できれば、三人にお話したいのです。聞いて損はないと思いますよ」
三人とも嫌そうな顔をしていたが、聞かずに済ますのは部が悪いと感じたらしい。レミとジェットに頭を撫でられ、ルディには手をぎゅっと握られてしまった。
口々に「おやすみ」「また明日」「ゆっくり休んでね」と言うものだから、三人を気にしながら「おやすみなさい」と言って部屋を出る。
話って何だろうなと思いながら廊下を歩いていると、アインたちが迎えにきてくれた。アインたちと一緒に部屋に戻り、フェイからもらった薬を飲んでから眠りについたのだった。




