119.狂気と微笑み
目の前で血を飲むクリスのことが信じられなかった。
汚れることも気にせず血を啜る姿は、それこそ吸血鬼のようで恐ろしい。
あまりの出来事に硬直してしまい、血を飲むクリスを呆然と見つめる。
やがて、血をいくらか飲み終わったクリスはルーナの腕を開放し、口を離した。
ルーナ自身、もしかしたら何も起こらないのかもしれない、ひょっとしたらクリスは『呪い』の影響などないと知って飲んだのかもしれない──そんな風に思った。
だが、そんな淡い期待はあっさりと打ち砕かれてしまう。
「……う、ぐッ……?!」
クリスが苦し気に呻き、喉と胸を掻きむしり出したのだ。
呪われた血だと知って飲んだクリス。当然、本当なら無事で済むわけがない。
目の前で苦しむクリスを見て震えながら手を伸ばした。
「く、くりす、さ」
「ルーナ、離れろ!」
ルーナ脳の腕を掴もうとしてか、レミが魔法陣の中に向かって右手を伸ばす。
が、ジュッと何かが焼けるような音がした。すぐにレミが右手を引いて、左手でその右手を押さえた。
「言うたやろ、最悪破裂するって。まぁ流石に嘘っちゅーか言い過ぎやったけど、君らに影響ないわけやないから気ぃつけてや」
フェイが魔法陣と三人の前に割って入る。
まるで彼はクリスがこうなることをわかっていたような態度だった。
クリスはその場に倒れこみ、不規則な呼吸を繰り返している。時折苦しそうに喉を押さえ、咳き込んでいた。
「魔法陣から出たらまた『呪い』が周囲に影響するから……ちょっとごめんな。我慢して」
言うが早いか、フェイはルーナの目元を手で覆い隠した。もう片方の手でポケットの中を探っている。
クリスの姿を見ないように、という配慮なのだろうが──指の隙間から見えてしまった。
倒れこんだクリスが大きく咳き込んだ瞬間、口の中から真っ黒な血と妙な塊を吐きだしたのを。血ではなかったかもしれないが、口から吐き出されるものとしてはあまりにグロテスクだった。
自分のせいで、という気持ちと恐怖に責め立てられて、咄嗟に振り返ってフェイに抱き着いてしまった。何やら声が聞こえてくるがそれはルーナに上手く届かず、ただのノイズにしかならない。
とにかく目の前で起きていることを見たくない一心だった。
フェイはルーナをぎゅっと抱きしめて、頭を優しく撫でる。
「怖い思いさせてほんまにごめんな。やらかすかもって予想はしとったんやけど……」
苦しそうなクリスの呻きと何かを吐く音が断続的に聞こえてくる。
ぎゅうっと目を閉じて耳を塞ぐ。そっと切られた腕を撫でられ、左手に触れられたかと思えば、それまで外していた指輪が嵌められる感触があった。ふわりと体が浮き、フェイがルーナを抱えて魔法陣の外に出る。
気が付くと、レミの腕の中にいた。
怖くてクリスを振り返る気になれず、レミの胸に顔を埋めてしまう。レミが庇うようにルーナを抱きしめた。
「フェイ!」
「いや、自分に文句言われてもな。簡単に止められるもんちゃうし」
レミの苛立った声とフェイの呆れ声が聞こえる。ルーナは何も言えず、ただ震えていた。
「お前さぁ、少しくらい我慢させろよ」
「できたら苦労せん。しゃーないやろ、こういう奴なんやから……自分が傍におって見張っとるだけでも褒めて欲しいくらいやわ」
「見張ってるだけ何もしないじゃん!」
「クリスが何を望んどるか知っとったらできることなんかないわ」
何を望んでいるか──?
ルーナにそれを考える余裕などなく、「自分の血を飲んだ相手が苦しんでいる」という事実にただ恐怖していた。こんなことになると知っていたら、血をもらってもいいかという問い掛けにはきっと頷かなかっただろう。だが、全て後の祭りだ。
フェイはこうなることを知っていたようだったし、レミたちも可能性としては考えていたようだった。
震える手でレミの服をぎゅっと掴む。
「……ルーナ、一度外に出よう」
「ん? ああ、いや──終わったみたいやで」
フェイの気楽そうな声が聞こえてきた。
恐ろしさのあまり顔を上げることができないままでいると、背後に気配を感じた。
「すみません、お見苦しいものをお見せしました。あはは、残念ながら死ねませんでした。かなり苦しかったんですけどね」
血を飲む前と変わらぬクリスの声が聞こえる。
穏やかで落ち着いた声。
さっきまで苦しんでいた人間と同じものだとは思えないまま、怖々と顔を上げてそっと振り返った。
魔法陣の中にクリスが立っている。
倒れて血を吐く前と変わらぬ態度と雰囲気で、ニコニコと笑ってこちらを見ていた。
その様子はあまりに普通で、さっきのことなどなかったかのようで──酷く不気味である。
口の端についた黒いもの、足元に広がる夥しい量の黒い血痕と謎の塊が、ついさっきまでクリスが苦しんでいたことを物語っている。
恐ろしさは衰えるどころか更に増してしまい、レミから離れられなかった。そんな恐怖を察したレミはルーナの体をしっかりと抱きしめ、じろりとクリスを睨んだ。
「そんなに睨まないでください。我慢ができなくて申し訳ないとは思ってるんですよ」
「……クリスさぁ! 本当に真面目にキミが死んでたらどうする気だったわけ?! ルーナの『呪い』が解けなくなるじゃん!」
怒って前に出たのはルディだった。クリスは困ったように笑う。
「私が死んでもフェイがちゃんとやってくれたはずですよ。どこにどんな『呪い』があるかはちゃんと確認しましたから、後はフェイだけでも大丈夫です」
「てゆーか、クリスが死のうがどうしようがどうでもいいけど──ルーナの前で変なことしないでよね! 舐めたりとか!」
「ええ、それは本当に申し訳なく……」
殊勝な態度である。申し訳ないと思っているのは本当らしい。
だが、だとしてもさっきの行動は全く理解ができなかった。いや、したいとも思わない。
やがて言い合いを収めるべく、フェイが間に割って入る。さっきから彼は仲裁ばかりしている気がする。
「ごめん、って……ルーナちゃんに怖い思いさせたんはほんまに悪かったわ。でも、《『呪い』はちゃんと解くし、体調には配慮する。》せやから、見逃してや」
そう言ってフェイはその場にいる相手を順番に見ていった。
最後にルーナと目が合う。その目は真剣そのものだった。
クリスとフェイ、二人並ぶとどう見てもクリスの方が年上に見えるのに、今ばかりはフェイの方が年上に見える。それくらいに落ち着き払った態度で、なおかつ目には見えない年齢差のようなものを感じた。
「……まぁでも、ルーナちゃんがその調子やと今日はもうこのくらいにしといた方がええかな。さっきもらった血の解析もあるし、解呪の方法はもうちょい精査してから改めて説明させてもらうわ。
ルーナちゃん、ほんまにごめんな。傷は治しといたけど、血が出たり痛むようなら教えてや」
言われて、思い出したようにナイフで切られた腕を見た。
確かに傷つけられて血が出ていたのに、もう傷がないし血も見当たらない。どこを切られたのかわからないほど綺麗に治療されていた。
レミの腕の中に収まったまま、おずおずと口を開く。
「あ、ありがとう」
「どういたしましてー」
「お礼言う筋合いなくない? 切られたんだし……」
ルディがルーナとフェイを見比べて口を尖らせる。フェイは肩を竦めていた。
「床も汚したし綺麗にしとくわ。──クリスが汚したんやから責任持って綺麗にしぃや」
「ええ、もちろんそのつもりです」
それまで黙っていたクリスが静かに頷く。
やはり態度は変わらずで、不気味な印象が拭えない。「悪い相手には見えない」と感じていたのが嘘のようにひっくり返されてしまった。クリスはもちろんだが、フェイもだ。クリスの奇行とも呼べる所業を見て平然としている上に、それが当然とばかりに受け入れている。
少し感じていた底の知れなさの片鱗を感じ、三人が彼らを警戒する理由もわかった気がした。
やはり三人が感じることは正しいのだという気持ちが強くなる。
レミに連れられて客間を出る。クリスとフェイがにこやかに手を振っているが、それを長く見ていることができなかった。




