104.記憶の隙間に落ちた灰①
ルーナをベッドに寝かせて寝顔を眺める。
ルディに言われたからというのもあるが、自分自身ルーナに対してどう接していくべきかを図りかねていた。ルーナが訪れてすぐの頃は「惚れさせてやろう」なんて考えていたけれど、今となってはそんな気持ちもあやふやになっている。
もうルディがルーナを食べるなんてこともなさそうなので、二人で話をしていた「はんぶんこ」はなかったことにされているだろう。わざわざ確認する気にもならないくらいに。
そう言えば、ルディはルーナのベッドで一緒に寝るのをやめたらしい。
これまでただの『食料』として見ていた相手が『ともだち?』に変化して、更には『好きな相手』になってしまえば、姿かたちに関わらず一緒に寝るなんて無理だろう。ルーナが無防備なので余計に。
その辺りの判断も含めてルディには良い変化があったと思う。
悪魔であるジェットは自分自身の変化などは別に望まないし、望むとしたらもっと強大な力が欲しいとかそんなレベルである。が、力があっても面倒臭いことになるのも理解しているのでほどほどで良かった。悪魔の中では力がある方でもある。
──ジェットがこの先、人間に興味を持つことってあるのかしら?
また同じ言葉を思い出してしまった。ルーナとルディに話した契約の話だ。ただの子守で、割のいい契約だと思って気楽に引き受けたら想像と違って苦労した、という話。
レミと出会った後、ルディとは会う前の話である。
特別昔でもないが、特別新しい記憶でもない。
ただ、ジェットの中からは一生消えないであろう記憶。
脳裏にもういない人間の声が響く。
懐かしさなどという感慨はなく、ただ「ああそんな人間いたな」と思う程度なのに忘れることができない。
戦争が起こる前、もう三百年ほど前の記憶だ。
◆ ◆ ◆
その夜。
ジェットを喚び出して『契約』を結んだ魔術師、バルドメロ・カルデロンに話があると呼ばれた。
バルドメロこと、バルドの年齢は既に八十歳。この世界では高齢な部類だ。若い頃は帝国の宮廷魔術師として魔術の研究や実験に明け暮れていたらしい。何を思ったのか宮廷魔術師の職を辞して、田舎町から少し離れた山の麓で孫と二人暮らしをしていた変人である。
バルドはこれまでにないくらい沈鬱な表情でジェットを見つめた。
「ジェット、今まであの子の我儘を聞いてくれてありがとう」
「なんだよ、急に」
「どうやら我々の存在が帝国に気付かれたらしい。……契約通り、明日私とあの子を殺してくれ」
「……わかった」
ようやく『契約』が終わるのかと目を細める。
バルドは古びた安楽椅子に腰掛けて、疲れたように項垂れた。
「思いの外早く見つかってしまったな……案外、このまま見つからずに契約であるニ年間を平和に過ごせるのではないかと期待してしまったが──ままならないものだ。ジェットにとっては良いことだろうね。契約通り、私とマルタの魂も、ここにある研究全ても好きにしてくれていい」
「そのつもりだよ」
軽い調子で答えると、バルドは疲れた表情のまま笑う。
白髪に白い髭、やや濁った青い目。皺だらけの顔に古ぼけた眼鏡。どこにでもいそうな好々爺だ。
だが、この小さな家にある蔵書の数々や地下にある実験器具を見れば、ただの爺ではないことがよくわかる。宮廷魔術師だった頃はかなり苛烈な性格で周囲から煙たがられていたのだと本人が笑っていた。
老いたとは言え、彼の持つ魔力量は凄まじい。それが魂ごと手に入るのは大分美味しい契約だった。
そして彼の孫娘、マルタ・カルデロン。
彼女もまた規格外の魔力を持っており、ジェットが彼の持ちかけた『契約』に受けたのは二人の魔力量ゆえだった。
契約の終わりが明日だと知らされたこのタイミングで、契約時のことを思い出していた。
一年と少し前の話だ。
呼び出した魔術師の魔力の高さに気付き、呼び出しに応じた。バルドを見るなりつまらさそうな話だと思い、契約は断るつもりだった。
バルドは最初にこう言った。
「対価は私と孫娘の魂だ。全て君の好きにして良い。……この部屋でも感じるだろう? 孫の魔力を」
喚び出されたのは深夜の地下室。悪魔を喚び出すのは深夜と相場が決まっている。
どうやら上の階で彼の孫娘とやらが眠っているらしい。その魔力の大きさを感じ取ることができた。彼女を巡って争いが起きてもおかしくないレベルである。
「ふーん。悪くない話だな。……けど、自分だけじゃなくて孫まで対価に差し出すのかよ。頭おかしいんじゃねぇの」
とは言え、条件も聞かずに契約など以ての外だ。しかも身内の魂まで差し出してくる人間が普通とも思えなかったので当然警戒する。
彼は目を細め、ゆっくりと話しだした。
「孫は特異体質でね、魔力の成長スピードが普通の人間よりも速い上に、魔力量が規格外だ。数年もしないうちに通常では考えられないほどの魔力を保有するだろう。人体の容量を無視して、爆発寸前の爆弾のように……」
「まぁ、そうなったら体の方が耐えきれずに爆ぜるか……あんだけ魔力があるなら自らの体を作り変えていくだろうな。魔力を溜め込むのに人間の体じゃ限界があるし、あれ以上の魔力を保有するのに人間の体は向いてない。……要は化け物になる。変化に耐えきれず死ぬ人間がほとんどだけど」
簡単に言えば食べ物を多く摂ることで太っていくようなもの──。
しかし、実際そんな簡単な話ではない。食べる量はコントロールできるが、魔力の成長はそうではない。通常人間に見合った容量や本人の資質に合わせて成長していくものだが、彼の孫娘は既に人間の容量を超えつつある。普通の人間ならばありえないのだから、彼が言っているように『特異体質』としか言いようがない。
知り合いの悪魔が面白がって人間に魔力をどんどん注入した時、あっという間に醜い化け物になってしまったと笑っていた。恐らくそれと同じ現象が起こる。
そんな実験したことはないが、体に対して魔力が多すぎる人間や元々魔力の容量が少ない人間が自身の魔力量に耐えられず、体に変調を来すか、体を作り変える過程で死んでいったのを見たことはあった。死なずとも人間の形を保てないのだから人間としては死んだも同然だろう。
彼は続ける。
「……魔力の成長を止める方法を研究し続けてきたが、いくらか緩やかになっただけで止められはしなかった。あの子が見つかれば無尽蔵の魔力貯蔵庫として使われ、人間としての扱いは受けられないだろう。それだけはどうしても避けたい。あの子には人間らしい人生を送って欲しかった……だが、私ももう老いてしまって、これ以上あの子の面倒は見られない……」
「で?」
「最大二年だ。二年間、あの子の言うことを聞いて、全て叶えてあげて欲しい。そして、二年後か、その前に誰かに、いや帝国に見つかったら、私とあの子を殺してくれ。その時には魂もここにある研究全ても君にあげよう。好きにしてくれて構わない」
帝国。あちこちの国と小競り合いを続けており、他国への侵略や武力制圧を是とする国だ。先代皇帝から今代皇帝に代わってもその方針は変わらず、このまま侵略を繰り返していくだろう。そんな帝国が魔力兵器の研究と開発に熱心なのは誰でも知っていた。
たったニ年。
その年数で魔術師数百人分にも匹敵する人間二人の魂を手に入れられるのは美味しい話だ。
しかも孫の言うことを「はいはい」と聞いて過ごすだけ──断る理由などないように思えた。
「孫娘はマルタという。これまで我儘など滅多に言わなかった。いい子だから手も掛からないだろう。差し当たって、君の仕事はあの子の我儘をどれだけ聞き出すかになるのかな……」
この言葉が決め手だった。
子守をするだけの楽な『契約』、そう思って受けたのだ。
が、しかし。
マルタを前にして、バルドの言っていたことは嘘だったのが発覚した。
契約をした翌朝、バルドに「この子が孫のマルタだ。可愛いだろう? よろしく頼むよ」と言ってマルタを押し付け、自分は書斎に引っ込んでしまった。
白に近い金髪にを腰まで伸ばしいる。やや釣り気味の青い目を持つ勝ち気そうな少女だった。
「あなたがジェットね! おじいちゃんが喚び出した悪魔!」
「そう、だけど。お前いくつ?」
「十一歳よ! もう立派なレディなんだし執事の一人や二人欲しいって、最近ずっとおじいちゃんに言っていたの。早速叶えてくれるなんて流石おじいちゃんだわ! まさか悪魔とは思わなかったけど……悪魔の執事ってステキよね! 人間よりもずーっとできることが多そう! いーい? ジェット、今日からあなたはあたしの執事よ! あたしのことはお姫様のように扱ってちょうだい!」
ガンガン喋るマルタを前にして心の中で「おいおい」と思っていた。
話が違うとバルドに苦情を言いたかったが、張本人は既にいない。
「……マジかよー……」
「ちょっとぉ! 何よその反応! もうおじいちゃんと契約したんでしょ!? じゃあ、あたしの言うことは絶対よね!」
「くっそ……」
「早速命令よ! 毎朝あたしのことを優しく揺り起こして、髪の毛は可愛く結って!」
当時のジェットは髪結いなどやったことがなかった。自分の髪の毛は結う必要のない長さであったし、誰かの髪を結うことなどなかった。
その日からマルタに付きっきりの日々が始まったのだった。




