103.足りなくて、余計で②
暗示にかかったのを確認してから、静かにルーナを観察した。
昼間、村人たちにかけたような暗示ではないので第三者から見て何か変化があるわけではない。村人たちにかけたのは暗示というよりは洗脳や思考を奪うような形だったが、今ルーナにかけたのは毛色が違う。
ルーナはジェットに頬を撫でられたままぼうっとしている。
ジェットに見惚れていると思っても仕方ない表情で、頬が赤くなっていた。
そっと手を離すとルーナが名残惜しそうにする。
「どうかした?」
「ど、どう、って……別に、何でもない、よ」
挙動不審とも言える様子だった。普段と少し違う反応だ。
落ち着かない顔をしてジェットを見たり視線を外したりしている。
じっとルーナを観察しながら次の行動を待ってみた。
「……あの、ジェット?」
「うん?」
「どうして、月を見ようって誘ってくれたの? 前は興味ない感じだったのに……」
どこか期待するような眼差しと声。何か特別な答えを期待しているのは間違いない。
ルーナの中にある感情を発芽させただけである。
それでルーナの言動や態度がどう変わるのか見てみたかった。
だが、どうしてこんなことをしようと思ってしまったのか自分でもよくわからない。隠していることを暴くよりも気になってしまったのだから、やはりルーナ自身に興味があるのは間違いなかった。
真っ直ぐに見つめ返すと、ルーナは恥ずかしそうにする。
「お前がここから見る月を随分気に入ったみたいだったから?」
「……なんで疑問形……」
「しょうがねぇじゃん。ただの思いつきなんだから」
「……そっか」
残念そうな顔をするのがおかしい。
そっと手を伸ばして髪の毛に触れると、ルーナがびくっと肩を揺らしてジェットをまじまじと見る。
「二人きりで見たかった、って言ったらどうする?」
気紛れに、この言葉に対する反応が見たくて聞いてみた。
すると、ルーナはかーーーっと顔を赤くする。誰がどう見ても赤く、照れて恥ずかしくなっているのが明白で笑いそうになるくらいだった。
ルーナはぎゅう、とコートを掴んで、何か言いたそうに口をパクパクと動かす。そして、赤い顔のまま俯いてしまった。
「……どうもしない、けど……嬉しい、って思う、よ」
虫の鳴くようなか細い声だったがジェットにはしっかり聞こえていた。
その言葉にほくそ笑みながら髪の毛を指先に絡ませながら弄ぶ。ボサボサだった髪の毛はすっかり綺麗で、毎日櫛を通していることもあって指通りも良かった。もっと長くても良いんじゃないかと思いながらゆっくりと一房持ち上げて、そっとキスをしてみる。
ルーナがその光景を見て、顔を真っ赤にしていた。
羞恥。戸惑い。困惑。そして、嬉しさと喜び。
それらが表情から伝わってくる。
(案外だだ漏れになるんだな……まぁ、これまで恋すらしたことねーって話だったし、当たり前か……)
ジェットがルーナに与えた感情は恋愛感情。
その感情はジェットだけに向けられている。
元々無いものを植え付けているので感情自体への戸惑いもあるだろうし、相手が目の前にいて隠すこともできずにいる。無理やり与えたにも関わらず、案外すんなり植え付けることができたのでルーナは暗示にかかりやすい部類なのだろう。魔力への抵抗力はほぼ皆無なのだから当たり前と言えば当たり前だ。
ルーナの赤い顔を見ると、不思議と満足感がある。
意識の全てが自分に向いていることにある種の喜びを感じる。
結論づけるにはまだ早いと言い聞かせながら、ゆっくりと髪の毛から手を離した。
「……ぁ」
ルーナが名残惜しそうな顔をする。その顔があまりにもしょんぼりしていたので、ふっと笑ってしまった。
「そんなに俺に触ってて欲しい?」
「ッ、そ、そういうわけじゃ……なくて……!」
「なくて?」
「……。……い、いじわる……!」
そう言ってルーナはぷいっと顔を背けた。
何とも言えない反応である。楽しいと思う自分と、これ以上はやめろと言う自分がいる。
これ以上は悪魔の『常識』から外れるのだ。ルーナどうこうと言うより、自分だけの問題だった。
ルーナがもじもじしながらジェットを見つめようとしてはやめて、何か伝えたそうに口を動かす、というのを繰り返している。やがて、意を決したように潤んだ瞳でジェットを熱く見つめた。
「……ジェット」
「うん?」
「……私、ジェットに触られるの嫌じゃないからね」
「知ってるよ」
「髪の毛、結ってくれる時はいつも優しいし、口は悪いけど……月を見るために誘ってくれたし、コートも貸してくれて、今日はすごくいい日だなって思ったんだよ」
あせあせと焦りながら言葉を重ねてくるルーナ。突然芽生えた恋愛感情ゆえに戸惑っているのが手に取るようにわかった。
これ以上は本人にとっても良くないだろう。混乱を招き、精神が危うくなってしまう。
興味本位とは言え、妙な真似をしてしまったとこっそり自嘲した。普段、こんなことで心を痛めることなんてないのに。
「だ、だからね、私……私は、ジェットのことが──」
ルーナが混乱しているせいで話が妙な方向に行きそうだった。目の焦点も合ってない。
その先にある言葉を、ルーナが心から自分だけに向けたらきっと気持ちが良いんだろうなと思う。
だが、無性につまらなかった。
(……違うんだよなぁ)
面白くない。楽しくない。何の高揚感もない。
悪魔として、自分には何かしら欠陥があるのだろう。認めたくはなかったが、認めざるを得なかった。結論なんてもっと先送りするつもりで、何ならずっと答えなんて出さないつもりだったのに。
ルーナがその先の言葉を言ってしまう前に、口に手を置いて無理やり言葉を封じてしまった。
突然のことにルーナが目を白黒させている。
「《もういい》」
暗示を解くのと同時にルーナを眠らせた。ルーナはすっと目を閉じ、眠りに落ちる。
体から力が抜けて、どさっとジェットの腕の中に落ちてきた。
すう。と安らかな寝息を溢すルーナを見下ろして、深くため息をついた。
何やってんだかともう一度自嘲する。
気付くと、背後にレミが立っていた。呆れた表情でジェットを見下ろしている。
「……気は済んだか?」
「……まぁ、一応?」
いつからいたのか謎だが、どうやらジェットがルーナに暗示をかけたのを知ってこの反応らしい。悪魔が人間で遊ぶために恋愛感情を植え付けて自分に溺れさせるなんてことはよくある話であっても、面倒くさがりなジェットはそんなことに楽しみを見出さなかった。サキュバスやインキュバスがそれを至上として楽しくやっているのは知っているが何せ系譜が違う。
ルーナの体を抱えて、ゆっくりと立ち上がる。
「お前もやる? てか、お前はフェロモンひとつでどうにでもなるだろ」
「無理やり感情を書き換えるような真似は好きじゃない。……知っているだろう」
「知ってるけどさ。俺のやり方と、お前のフェロモンだとちょっと性質が違うだろ?」
ジェットのやり方は完全に感情の書き換え、もしくは操作である。レミの放つフェロモンは言ってしまえば魅力の一つだ。
「そうは言っても嫌なものは嫌だ」
「我儘過ぎね? 人間だって香水つけるんだから別に変なもんじゃねーだろ。
てか、お前が来るのは意外だったわ。ルディが血相変えて飛んでくるかと思ってたのに」
「……ルディに様子を見てきてくれと頼まれてきたんだ。自分が行くと喧嘩になりそうだから、と」
ルディではなくレミが来た理由を聞いたところで驚いてしまった。レミがおかしそうに笑いながら肩を竦める。
「マジ? あいつこの短期間で変わりすぎじゃね?」
「良い傾向じゃないか。自分を客観視できているんだから」
これまでだったら絶対にルディ自身が姿を現していたから、わざわざレミに様子を見るように頼むのは本当に意外だった。
レミの言う通り、決して悪い変化ではない。
ルディの一族がどの程度寿命があるのかは明らかにされておらず、ジェットも当然知らない。まだまだ成長の余地がある段階なのだと思えば、自身の寿命と人間であるルーナの寿命を考えて憂うのは当然かも知れなかった。
レミが何か言いたげだったので、先を促すように視線を向ける。
「……ジェット、『もういい』とは、どういう意味だったんだ?」
まさかそんなことを聞かれるとは思わなかったので一瞬驚き、すぐに笑った。ルーナが落ちたりしないように抱え直しながら目を細める。
「つまんなかったから『もういい』って言っただけだよ」
「つまらない……?」
「そう、つまんねーの。さっきのは俺の欲しいもんじゃねーな、って」
レミが不可解そうな顔をして眉間に皺を寄せている。もっとはっきりと言うことも可能だったが、あまり詳しくも言いたくなかったので濁しただけだ。
ルーナがジェットだけの恋愛感情を持つのも悪くはなかった。
だが、それでは物足りなさを感じる。
それだけのことだった。
腕の中ですうすうと眠るルーナを見つめ、ゆっくりと顔を近づける。
無防備な額に触れるだけのキスをしてからレミを見た。
「嫉妬した?」
「……してない」
どう考えても口先だけの言葉を笑い、「じゃぁな」と言ってルーナを寝かせるべく部屋に戻るのだった。




