133-不調
願い事の手紙の投函は疎らで、暇な日が数日続くことは珍しくない。
誰も訪れない静かな石造りの小さな街の中で、誰も来ない古物店にだけ今日も明かりが灯っている。
獏は店内に立つ置棚に押し込んでいる瓦落多の位置を変え、配置を見直す。動物面を被った顔を少し離して腕を組み、わかった風にうんと頷く。
監視役の灰色海月は台所に籠もってひたすら菓子を焼いている。菓子の焼ける匂いというのは何故こうも幸福感を湧かせてくれるのだろうか。
「ん?」
静かな店内に何かがぶつかる音が聞こえ、獏は棚の間から動物面の顔を出した。音は小さかったが、ドアの向こうから聞こえた。
確認する前にドアが開き、入店した者と目が合う。獏の顔は動物面で隠れて見えないので、本当に合っているかはわからない。
「失礼します」
頭を下げて入ってきた至極色の青年に、獏はぱっと笑顔を作った。
「スミレさん! 久し振りだね。元気だった?」
よく知る至極色の青年――黒葉菫は、人の姿を与えられて十年以上経つ、頼りになる無色の変転人だ。獏の監視役代理も務めたことがあり、落ち着いた性格で信用がある。
「はい。お久し振りです。用があって来たんですが。出入口、少し低くなりましたか?」
彼は大きな木箱を抱え、その中で何かが音を立てた。箱が動いて落としそうになり、慌てて抱え直す。
「え……その箱、何……?」
黒葉菫は武器を操ることができる無色の変転人ではあるが、少々怖がりな性格でもある。彼が怖がるような物は入っていないだろうが、動く木箱は不気味だ。
後ろ手にドアを閉め、黒葉菫は木箱を店の奥へ運ぶ。獏は不思議そうに棚の間から覗き、彼の背を目で追った。
獏の警戒を余所に、黒葉菫は木箱を机上に置いて徐ろに蓋を開ける。間髪容れずに中から勢い良く黒い塊が飛び出した。獏は反射的に構えたが、着地したものを見て警戒を解く。それは蜃の創った街で飼っていた黒猫だった。やっと出られたとでも言っているかのように一つ鳴き、机の陰に身を潜ませた。
「宵街の病院で預かってましたが、面倒を見るのは難しいと言われました。それで暫くは俺が家で面倒を見てたんですが、黒豆がどうしても懐かなくて……餌をあまり食べてくれないんです。俺が留守の間に食べてはいるようなんですが……。新しい牢もできたので、前みたいにここで飼うことはできませんか?」
木箱から出て来ない白黒の子猫も抱き上げて机に下ろす。子猫は少し大きくなったようだ。黒色海栗が名付けた黒豆と言う名の黒猫の方は相変わらず、元が有毒生物である無色の変転人を避けている。毒物への警戒は解けないようだ。
「もう悪夢の危険は無いし、そういうことなら飼うよ。ふふ。いなくてちょっと寂しかったからね。子猫の方はスミレさんを怖がらないね。世話してくれた人をわかってるのかな?」
「わかってるでしょうか……? 個体差では? 花豆は鈍感なのかもしれません」
「花豆?」
「あ……すみません。ウニが子猫に付けた名前です。貴方が付けた名前があれば、それを使います」
「子猫にも名前を付けたんだね。名前を付けると愛着が湧くものだから……僕は付けないかな。好きに呼んでくれていいよ」
立ち話をしていると黒猫はいつの間にやら机の陰から出て来て獏の足に擦り寄っていた。赤子には泣かれるが、猫には懐かれている。視線が時折金魚を見詰めるが、食べ物だと思っていないことを祈る。
「わかりました」
名前を付けないのは変転人に対しても同じだ。妙な愛着が湧くことを避け、獣は誰も変転人に名を与えない。元の生物の名をそのまま呼ぶ。名前が長い場合は省略して呼ぶが、それは愛称というわけではない。ただ長いから呼び易く縮めているだけだ。
「名前と言えば、金魚の名前もウニさんが付けたよ」
「金魚? ……ああ、魚ですね。金魚も飼い始めたんですか」
台所の前に置かれている硝子の鉢に、気持ち良さそうに二匹の金魚が泳いでいる。宵街では生きている魚を見る機会は無く、黒葉菫は珍しそうに鉢を覗いた。
「蒲牢から貰ったんだよ。ウニさんは、ジョロキアとキャロライナって名前を付けてたよ」
「強そう……」
「ふふっ、強い子に育ってくれそうだよね。辛そうだけど」
楽しそうに笑う獏にぎこちなく微笑を向け、黒葉菫は空の木箱の蓋を閉めて部屋の隅に置いた。
「木箱は元々ここにあった物なので、置いて行きます。用はこれだけなので、宵街に戻ります」
「えっ、もう帰るの? ゆっくりしていけばいいのに……」
「少し頼まれてることがあるので、もう行かないと」
「そうなの? じゃあ仕方ないね」
「それと伝言なんですが。花街の王……と言う獣が来たんですよね? それについてなんですが、花街から旅行に来た変転人に遭遇することがあれば、話をしたいので宵街に連れて来てほしいと狴犴が言ってます。善行中に見掛ける機会があるかもしれないので、意識していてほしいです」
「うん、わかったよ。でも何かあったの?」
「いえ。花街の王は友好的で、雰囲気は良かったと聞いてます。花街から旅行に来た変転人がいるなら、万一にも問題に巻き込まれないように配慮するそうです。旅行の目的などを訊くみたいですね」
「へえ。狴犴って普段何してるか知らないけど、統治者っぽいことも遣ってるんだね」
「それは……まあ……統治者なので……」
具体的に何をしているのか黒葉菫も詳細は知らないが、統治者に適当なことは言えない。罪人の調子に合わせられない。
獏の笑い声を聞き付けて台所から顔を出していた灰色海月は、宵街に戻ると聞いて慌てて黒葉菫を呼び止めた。
「スミレさん、折角なので持って行ってください」
渡す予定は無かったが丁度良いタイミングに遣って来たので、灰色海月は台所から彼に紙袋を差し出した。
「ウニさんも御一緒に」
「何だ?」
「ブラウニーです。作りました」
「ブラウニー? そう言えば最近一緒に善行したって言ってたな。わかった。渡しておく」
「ブラウニーはチョコレートケーキです」
受け取った紙袋は、ずしりと重かった。随分と質量がある。黒色海栗も喜ぶだろう。
「それでは失礼します」
黒葉菫は獏に頭を下げ、店を後にする。獏はにこやかに手を振って見送った。時間があればチェスの相手を頼もうと思ったが残念だ。
灰色海月は適当な大きさに切ったブラウニーを獏の前に出し、いつものように獏のために紅茶を淹れる。
獏は棚から適当に古書を一冊抜き取って席についた。またいつもの古物店に戻ってしまった。
湯気の立つ紅茶を一口飲み、フォークでブラウニーを突き刺し口に放り込む。チョコレートそのもののような、濃縮された甘くほろ苦い味が口の中に広がった。罪人がこんな贅沢をしていて良いのだろうか。
「手紙の投函があったので、回収に行ってきます」
「はーい。いってらっしゃい」
灰色海月は頭を下げ、動き方を定められた機械のように店を出る。
暇なので獏は本を読もうと思っていたが、その時間は無さそうだ。ブラウニーを食べながら待つことにする。
(このブラウニー、チョコレート以外にも何か入ってるよね……? 何だろ、この味)
正解を見つけるためにブラウニーの欠片をほいほいと口に放り込む。いつも通り美味しいが、食べ慣れない味が気になった。
台所に答えがあるだろうかと椅子を下げて覗く。よく見えなかったので立ち上がろうとし、異変に気付いた。
「あれ……?」
妙だ。そう思った瞬間に脚から力が抜け、獏は糸が切れた人形のように床に落ちた。棚に頭をぶつけ、衝撃で動物面が転がる。音に驚いた黒猫と子猫が、倒れた獏を見詰めていた。
手紙の束を抱えて戻った灰色海月は手探りでドアを開け、足で閉める。こんなにたくさんの手紙を一度に受け取ったのは初めてだ。
「戻りました。少し確認したんですが、同一人物が大量にポストに入れたみたいです。全部は確認してませんが……」
顔を上げて通路の先を見、灰色海月は首を傾げた。先程までそこに座っていた獏の姿が無い。
「?」
棚の間に入っているのだろうかと棚を覗き込みつつ机の前まで行き、床に黒い塊が落ちていることに気付く。怪訝に机を覗き込み、抱えていた手紙がばさりと落ちた。
「きゃああああ!?」
落とした手紙を跨ぎ、倒れている獏の傍らへ膝を突く。動物面も床に転がっていた。露わになった人形のような獏の顔色は悪く、頬が微かに赤い。
「な、何が……」
灰色海月が留守にしたのはほんの数分だ。その僅かな時間に何があったのか、頬を軽く叩くが反応が無い。
「意識が無い……」
見る見る灰色海月は蒼白になり、手が震えた。
「私がいない間に何が……」
焦燥を呑み込み、棚を支えに立ち上がる。仕舞ったばかりの灰色の傘を掌から引き抜き、店の外へ飛び出した。意識を失う程の怪我や病気なら灰色海月ではどうにもできないので、宵街に助けを求めるしかない。
(早く……早くしないと……!)
傘を開いて回すが、先刻転送で戻って来たばかりだ。次に転送できるようになるまでまだ時間が掛かる。呑み込んだ焦燥が再び迫り上がってくる。
「死んだらどうするんですか! 早く! 病院に……!」
傘に言っても無駄なことだが、悪夢に貫かれ倒れた時の獏の姿が脳裏を過ぎる。あの時は目を覚ましたが、かなりの時間が掛かった。灰色海月は泣きそうな顔で開いた傘を振り回す。どうすれば早く転送できるようになるのか、柄を握り締める手が震える。
「早く……っ」
「いっ」
振り回していた傘が何かに当たった。焦る顔を上げ、灰色の傘をそろりと視界から下げる。
「スミレ……さん?」
そこに立っていたのは、先程ここを出たはずの黒葉菫だった。頬を押さえて呆然としている。
「あっ……すみません! 当たりましたか……?」
「用が残ってたのを思い出して戻って来たんだが……転送位置が悪かったか?」
手を退けると、頬に一筋の赤が走っていた。
「ぁ……すみません……すみません!」
「掠っただけだからそんなに……。とにかく落ち着け。クラゲも転送しようとしてたのか? 搗ち合ってごめん」
「あ、あの……あ……ば、獏が……」
「獏?」
灰色の傘を地面に力無く落とし、縋るように震える手で黒葉菫の服を掴む。泣きそうな顔で必死に訴える彼女に、徒事ではないと黒葉菫も眉根を寄せた。
「何かあったんだな?」
灰色の傘を拾って彼女に手渡し、黒葉菫は古物店に走った。灰色海月も転送できない傘を一旦畳んで彼を追う。
獏の異変に黒猫が覗いていたが、黒葉菫と灰色海月が戻って来ると素速く棚の陰へ逃げ込んだ。
「……!」
倒れる獏を見つけ、黒葉菫も灰色海月の狼狽ぶりに納得する。
「何で倒れたんだ?」
「わかりません……私は手紙の回収に出掛けて、戻って来たらこうなってました……」
膝を突く黒葉菫の体越しに、灰色海月も不安そうに見下ろす。先程見た時と同じで、獏は顔色が悪く頬が赤い。
黒葉菫はぐったりと動かない獏の体を確認し、辺りを見回す。
「外傷は無いみたいだ。お面は倒れた時に外れたんだと思う」
意識の無い顔に自分の顔を近付け、息があることを確認する。
「……この匂い……」
「匂い? ブラウニーか紅茶ですか? 獏に出した物ですが、紅茶はいつも飲んでる茶葉で……チョコレートも食べられるはずです」
「酒を入れたか?」
「え? ……あ。レシピに書かれてたので入れてみましたが……。大人のブラウニーだとか……」
「俺が貰ったブラウニーにも入ってるのか?」
「い、いえ! 植物の変転人はお酒に弱いと聞いたので、入れてない物を渡しました」
「獏は酒が飲めるのか?」
「え?」
「獣は基本的に飲めるらしいが、個人差はあるんじゃないか?」
「以前、少し飲んでました……」
「顔が赤くて、少し体温が高い気がする。単純に熱が出ただけかもしれないが、それなら倒れる前から顔が赤かったはずだ」
「お面で殆ど隠れてましたが、見える範囲では赤くなかったです……いつもと同じで……」
「酒の影響だったらとりあえずベッドに寝かせて、起きたら水を飲んでもらおう」
黒葉菫は獏の頭部に触れ、傷が無いことを確認して抱き上げる。倒れた拍子に頭を打ったかと心配したが、瘤も無かった。
「わかりました……」
「もしかしたら酒の種類によって苦手な物があるとか、量が多いと飲めないとかかもしれないな」
「…………」
階段を上がる黒葉菫に続き、灰色海月もしゅんと俯きながら動物面を抱えて上がる。獏が酒に弱いなど聞いたことがなかった。もし本当に弱いならそれは弱点となり、他人に話すべきではないだろう。酒は以前に一口飲んでいたので、平気なのだと思ってしまった。
ベッドに寝かせた獏は眉間に皺を寄せて苦しそうだったが、酒を飲んで眠っているだけならば命の心配はないだろう。灰色海月は動物面をベッド脇の机に置いて下がる。知らなかったとは言え大変なことをしてしまった。
「私は監視役失格です……」
「それは獏が起きてから訊いてみよう」
獏に布団を掛け、黒葉菫は落ち込む灰色海月を振り返る。彼女は獏のことになると相変わらず取り乱してしまうようだ。それは感情が生まれた変転人の成長とでも言うものだが、こうも感情に振り回されては気の毒だ。通常ならば宵街でもう少し他の変転人と交流を持って感情を学ぶものなのだが、灰色海月は獏の許で監視をする毎日だ。あまり人と係わらない弊害だ。
「スミレさんが監視役の方が……」
「クラゲ。お前も少し休め。俺も暫くここにいるから」
「頼まれてることがあるのでは……?」
「それはいい。雑用だから、少し待ってもらう」
「はい……」
不安な顔を上げた灰色海月の視線が、黒葉菫の頭を越えた向こうへ注がれる。見えるはずのないものが見えた。
「スミレさん……あの…………あれは何ですか?」
「?」
黒葉菫は訝しげに振り向き、顔が強張る。獏の頭部から黒い靄の塊が吐き出されていた。それには見覚えがあった。
「不味い……」
黒い靄は悪夢だ。通常の靄は獏にしか視認することができないが、獏以外にも見えるなら、それは悪夢が成長した証拠だ。成長した悪夢は獰猛で人を襲う。
「悪夢だ!」
黒い靄は細い触手を縒り上げ、ばらりと四方八方へ飛び散った。
それを見届ける前に黒葉菫は灰色海月の腕を掴んで部屋を飛び出す。階段を駆け下りながら、口を使って掌から黒い傘を抜き取った。頭上に傘を持ち上げ、一階奥の机の上でくるりと回し転送する。
灰色海月だけなら、悪夢を見てもただ立ち尽くすだけだっただろう。黒葉菫の判断は早く、その先を見ていた。
宵街の下層へ現れた黒葉菫は灰色海月の腕を離し、黒い傘を閉じて石段を駆け上がる。灰色海月も灰色のスカートを持ち上げ、急ぐ彼を追った。
「ど……何処に行くんですか!?」
「科刑所だ! 俺とクラゲが相手をしても時間稼ぎにすらならない! あの悪夢は今まで見た奴と比べると小さい。獏が耐えてくれる間にマキを連れて戻る! ……あんまり危険なことはさせたくないが……」
白花苧環は獏の力を吸収しており、悪夢に触れることができる。悪夢は本来、獏にしか触れることができないが、彼だけは例外である。悪夢を処理することは彼にもできないが、触れられるなら、あれを獏から切って離すことができる。弱っている状態の獏に悪夢の接近は許せない。悪夢に弄ばれ殺されてしまう。異常を吐く獏を助けられるのは彼だけだ。
赤い酸漿提灯の並ぶ石段を駆け上がり、重苦しくそそり立つ科刑所へ飛び込む。罪人を裁き地下に収容するそこはあまり行きたくはない場所だが、白花苧環の居場所の心当たりが狴犴の部屋しかない。彼はよく狴犴の仕事を手伝っている。
薄暗い廊下に重厚な扉が見え、一度素早く深呼吸をしてからノックをした。この扉の向こうに宵街の統治者――最高権力者の獣、狴犴がいる。
少しの間があり、返事ではなく扉が開いた。扉を開けた花貌は訝しげに首を傾げる。
「良かった……マキ、すぐに来てほしい」
「何ですか? 唐突ですね」
理由は不明だが、酷く焦っていることは白花苧環にも伝わった。黒葉菫の頬に真新しい傷もあり、何かに襲われたのではと推測する。白花苧環は背後を振り返り、奥に座る狴犴へ断りを入れた。
「休憩を貰ってもいいですか?」
狴犴は顔を上げ、扉の向こうを確認する。
「構わない。……灰色海月もいるな? 獏に何かあったか?」
「後で報告書を出します」
灰色海月が口を開く前に白花苧環が口を挟み、狴犴が声を出す前に扉を閉めた。相変わらず彼は行動が早い。同時に掌から白い傘も抜く。
「クラゲがいると言うことは、獏の所に行くんですよね? 説明の時間も惜しいように見えますが」
「俺達もよくわからないんだが、獏から悪夢が漏れてるんだ」
「! それでオレを……。わかりました。事情は後で獏から聞きます」
白い傘を開き、くるりと回す。悪夢が現れたなら、とにかく急いだ方が良いと判断した。転瞬の間に小さな街へと降り立つ。
白い傘を仕舞って両手に素速く白い紡錘を握り、白花苧環は明かりの点いている建物へ一直線に駆け出した。二人も慌てて素速い彼を追い、黒葉菫もフリントロック式の拳銃を取り出す。黒葉菫でも援護くらいはできる。
「二人は下がっていてください」
「わかった」
「はい」
ドアを開けるが異常が無かったので、二階だろうと白花苧環は床を蹴る。半獣である彼は普通の人間に近い変転人よりも機敏だ。二人は追い掛けるだけで精一杯だ。
階段を数段飛ばして駆け上がり、ドアが開いたままの部屋へ飛び込む。同時に黒い触手が襲い、白花苧環は紡錘で切り裂いた。もう片手で、階段を上がる二人を制する。
「獏の意識は無いんですか?」
襲う触手を切断しながら部屋を観察する。ベッドの上に獏が横たわっている。面が剥がれた目は閉ざされていた。
「無い。倒れたんだ」
「倒れた? 一階の机にティーカップと黒い……何かが載った皿がありましたが、罪人なのに良い御身分でティータイムでもしてたんですか? 喉を詰まらせましたか?」
「もしかしたら、酒で……」
「酒? 酒は獣にとっては娯楽の一種ですよね? 罪人なのに? 何処まで自由なんですか」
「私が悪いんです……私がうっかり……」
「クラゲは悪くないですよ。悪いのは罪人です」
向かって来る触手を切り、白花苧環は蠢く触手を潜って素速くベッドに到達する。以前見た悪夢よりも小さいからか、触手が細く数も少ない。白花苧環だけでも充分遇える。獏から漏れる黒い触手の根元を纏めて切断し、腕を引いて体を抱えた。
「良かった、無事ですね」
獏に怪我が無かったことに安堵を呟く。借りはもう無くなったが、獏が白花苧環を庇った事実は消えない。罪人と言えど死なれると後味が悪い。
「酒と言いましたね? 水を掛けて起こします。外へ」
「えっ」
窓を開け放ち、白花苧環は外へ飛び降りた。半獣の彼ならば簡単に二階から飛び降りることができる。階段を経由すると黒葉菫と灰色海月が悪夢の触手に襲われてしまうかもしれないので、窓から出るしかなかった。
白花苧環は狭い路地に降り立ち、開けた表通りへ出る。
「全く……手間の掛かる獣ですね」
「……ん……」
「起きるんですか? 起きないと頭から水を掛けますよ」
「……あと五分……」
「二度寝しないでください。落としますよ」
言うや否や白花苧環は獏を石畳に放り投げた。
「酷い……」
石畳を転がった獏は俯せで伸びた。どうやら体に力が入らないようだ。
もう黒い物を吐き出さない獏は無視し、白花苧環は二階の窓を見る。黒い触手が窓硝子に張り付いて隙間から外に出て来るが、すぐに黒い靄となった。徐々に霧散していく。
(獏と繋がっていないと存在できない悪夢……? だから獏を攻撃しなかったんでしょうか?)
やはり悪夢と言うものは不可解だ。
「あの悪夢は貴方から引き離せば消えるんですか?」
「…………」
返事が無いので、白花苧環は獏を軽く蹴った。
「寝ないでください。また悪夢が出て来るかもしれません」
「酷い……」
「立てますか?」
「体が重い……頭がフラフラする……熱い……眠い……」
「寝ないでください」
灰色海月と黒葉菫も店から出て白花苧環と獏へ駆け寄る。灰色海月は抱えていた水の入ったバケツを構え、躊躇なく勢い良く獏に引っ繰り返した。
「…………」
辛うじて目を開けていた獏は頭から水を被り、石畳に伸びたまま髪から水を滴らせて小さくくしゃみをした。
「これで大丈夫ですか? 起きると悪夢は消えますか?」
「……良しとしましょう」
「良しじゃないよ! 起きてたよ!」
もう一つくしゃみをし、獏は石畳に貼り付いた。黒葉菫は上着を掛けるべきか迷ったが、獣はこの程度では風邪をひかない。はずだ。
「酔いは醒めましたか?」
「酔い……? 心当たりが無いんだけど……何なの……。只ちょっと重くて熱くて眠いだけなのに……」
「獣も酒で酔うんですね。狴犴に報告しておきましょう」
「え……? 狴犴に報告するの!? 何がどうなってこうなったか僕にもわからないのに!? 嫌だよこんな様を知られるの……」
「オレにもよくわかりませんが。貴方は酔うと悪夢を出すんですか? それとも眠って悪夢を見たんですか?」
「獏は夢を見ない……」
「では酔うと悪夢を出すんですか? 今まで体調が悪い時に悪夢を出したことは?」
「わからない……」
「わからない? 悪夢を出す時は意識が無い時なんですか?」
「知らない……」
「…………」
これでは話にならない。白花苧環は溜息を吐き、一先ず濡れ鼠の獏を地面から剥がした。熱いと言いながらくしゃみを繰り返している。
「拭く物を持って来てもらえますか? オレは二階を見に行って来ます。悪夢が消えていれば、ラクタヴィージャを呼んで来ます」
「それなら宵街に獏を連れて行った方が……」
「罪人をあまり牢から出すものではないです。不測の事態ですが、牢の中にいる罪人を監視するのが監視役の仕事ですよ」
「……はい」
今は灰色海月より白花苧環の方が年下ではあるが、彼には以前と変わらない貫禄がある。生まれ変わっても顔が変わっていない所為もあるだろう。白花苧環が店へ入るので、灰色海月も俯きながらタオルを取りに付いて行く。二階へ行った白花苧環は、悪夢がいないことを確認してそのまま宵街へ向かった。
残された黒葉菫は銃を仕舞い、くしゃみを続ける獏に上着を貸すことにした。こんなことで風邪をひかないとは思うが、くしゃみが出るなら寒さを感じているはずだ。
「具合はどうですか?」
「体が重い……熱い……眠い……寒気もする」
「風邪じゃないですか」
風邪をひくにも早い気がするが、もう脱いで掛けられる物も無いので見守るしかなかった。シャツを脱げば黒葉菫は裸になってしまう。それでは彼が風邪をひく。
「ごめんね……何か迷惑掛けちゃったみたいで……悪夢が出てたの? 誰も怪我してない? 前に食べた奴が消化不良を起こしたのかな……」
「……あまり鬱がない方がいいのでは? 悪夢は負の感情なんですよね?」
「うん……そうだね」
困ったように笑い、少しでも身を温めるために獏は膝を抱いて寄せた。
タオルを抱えて戻って来た灰色海月に濡れた髪を掻き回され、獏はか細い声を上げた。
「もし風邪だとしたら移すといけないから、近付かない方がいいよ。獣の風邪なんてしつこそうだし」
「でもお酒を入れたのは私なので……」
「あの味ってお酒なの? 種類によって味が違うんだね」
「大人ならお酒を入れた方がいいのかと……」
「獣には子供とか大人とかないからね。お酒が好きな獣もいると思うけど」
その言い方で、獏はあまり酒を好まないのだと灰色海月は察した。先に確認しておくべきだった。灰色海月の頭の中は後悔と反省で一杯だ。
双方落ち込んでいると、白花苧環がラクタヴィージャを連れて戻って来た。緩い白衣を纏い、浅黒い肌に長い赤紫色の髪を束ねている少女だ。トランクを提げたラクタヴィージャは早速獏へ駆け寄り、杖を召喚する。青年の姿の分身体を作り出し、獏を抱えた。
「事情は簡単に苧環から聞いたわ。ベッドに運ぶわね」
白花苧環は頷き、落ち込む灰色海月と立ち尽くす黒葉菫を促す。
二階で暴れていた悪夢は、獏から切り離すと全て黒い靄となり消えてしまった。獏がまた靄を吐き出すことがなければもう脅威は無いだろう。
獏をベッドに寝かせ、ラクタヴィージャは一旦変転人達を部屋の外へ出す。診察中は獣も無防備な姿を晒すことになる。罪人と言えど配慮はする。
三人は廊下で立ったまま暫し待ち、その間に口を開く者は無かった。
どれほど時間が経過したかはわからないがドアが開いた時、ラクタヴィージャは何か言いたそうに笑っていた。
「獏が食べたって言う酒入り菓子がまだあれば持って来てほしいんだけど」
「あります。持って来ます」
灰色海月は急ぎ階段を駆け下り、黒葉菫と白花苧環は様子を窺いつつ部屋の中へ入る。分身体はもう用が済んだらしく見当たらなかった。
ベッド脇の机に黄色の花弁が浮かぶ薬水が入った瓶が置かれている。ラクタヴィージャはそれをコップに注ぎ、獏を座らせて飲ませた。
「悪夢のことは私にはわからないけど、体が誤作動を起こしたみたいね」
「誤作動……? 不具合が生じたんですか?」
「まあそんな感じ」
人の体を機械のように……と獏は思うが、言葉は平易だった。
早足で戻って来た灰色海月からブラウニーを受け取り、ラクタヴィージャは躊躇無く頬張る。彼女は酒が平気なのか三人は心配したが、容姿は少女でも中身までそうではない。ラクタヴィージャは美味しそうに味わって飲み込み、納得したように頷いた。
「確かにお酒の量が多いわね。一般的な人間だとこれ一個で微酔いになれるかも……」
一般的な人間に例えられても変転人の三人には理解し難かったが、人間の方が変転人より酒に強いはずだ。それで微酔いになるのなら、変転人には危険物だ。
「植物系の変転人は勿論食べては駄目だし、海月も駄目よ。元々脳が無い生物は、人の姿になっても脳に馴れるのに時間が掛かる。お酒なんて急に入れたらパニックを起こすわ」
「……獏も脳が無いんですか?」
獏も同じように脳が無い頃があったのだろうかと灰色海月が呟くと、ラクタヴィージャは可笑しそうに吹き出した。
「獣にはちゃんと脳があるわよ。獣に毒は中々効かないけど、薬は効いてもらわないと困る。だから体に影響を与えるもの全てを遮断するわけじゃない。アルコールも多量に摂取すれば影響が出る。酔うって言うのは脳が麻痺する状態なんだけど、その感覚が面白くてお酒を飲む獣はいるわ。でも効果が顕著で理性が飛び過ぎる獣もいる。そういう人は飲もうとしない。すぐ吸収してすぐ酔う人もいるから。だから酔った獣を見る機会なんて殆ど無くて、変転人は、獣は酔わないなんて思うみたいね」
言われてみればそうだ。酒に弱いなど変転人や他人には知られたくないはずだ。隠すのが普通だ。
「悪夢……夢は脳で見るものでしょ? お酒で脳が麻痺して、獏自身の悪い物を吐き出したのかも。今後お酒を飲む時は気を付けて」
「わかった……言われてみると頭が少しすっきりしたような……。お酒なんて苦いから飲むことはないと思ってたんだけど」
「すみません! 以前少し飲んでたので、平気なのかと……」
申し訳無さそうに薬水を飲む獏に、灰色海月は勢い良く頭を下げた。酒が苦い物だとは知らなかった。獏は珈琲も苦いと言って避けるのだ。好んで苦い物を飲むはずがない。
「以前……ああ、あれかな。マキさんを眠らせたホットミルク。あれはほんの少し飲んだだけだったからかな。クラゲさんはお酒が美味しい物だと思ったんだね。だから美味しい物を作ってくれたんでしょ? 僕もまさかこんなことになるとは思わなかったし、ちゃんと確認しておかなかった僕にも非がある」
灰色海月は頭を下げるばかりだったが、白花苧環は呆れたように息を吐いた。今の白花苧環にはホットミルクで眠らされた記憶は無いが、罪人が言うことなので無視しておいた。
「全くです」
これには獏も苦笑いだ。返す言葉が無い。
「ラクタはあのブラウニーを食べても平気そうだけど、酔わないの?」
「あの程度じゃ酔わないわよ」
「へえ、凄いね。麻痺しないの?」
「してるとは思うけど。獏は烙印の所為もあるかもしれないわね。――そうだ、一つ教えておいてあげる」
「何?」
「お酒を嗜む獣は理性を飛ばさない。脳が麻痺してようが正常に力を使えるの。つまりわかりやすく言うと、凄く強い。お酒の強さと能力の高さは比例してると言ってもいい。平気でお酒を飲む獣には間違っても手を出さない方がいいわよ。例えば、贔屓と鴟吻はお酒を飲むわ」
少年の姿をしている贔屓と年端も行かない幼い少女の姿をしている鴟吻が酒を飲む姿は違和感があるが、獣とはそういうものだ。他者に抵抗できない程の加重を行う贔屓と、全てを見通せる千里眼を持つ鴟吻は確かに強い。酒などに翻弄されることはないのだ。
「昔ね……自分の限界を知っておきたいとか言って、派手に酒盛りをしたことがあるのよね、あの二人……」
「贔屓が統治してた頃? そんな面白いこと遣ってたんだ」
「若かったのよ、あの二人も」
「狴犴もお酒が飲めるの?」
「狴犴は知らないわ。食事を楽しむなんて感覚も持ち合わせてないから、飲めるとしても飲まないだろうし」
「物凄く納得する答えだった」
狴犴は多忙なこともあり味気無い栄養食ばかり食べ、如何わしい薬にも手を出すような獣だ。食事に無関心過ぎるのだ。
「話を戻すわね。獏は脳の麻痺と体温の上昇に水まで被って、風邪だと錯覚を起こしてるみたい。でも少し休めば体調は良くなるわ。眠いかもしれないけど、また悪夢が出て来たら困るから、念のため我慢して」
大事は無いとラクタヴィージャはトランクを閉める。
「それじゃ、御大事に」
ひらひらと手を振り、ラクタヴィージャは宵街へ帰って行った。薬水は置いて行ったが薬は出さないので、つまり放っておいても大丈夫だと言うことだ。変転人三人は頭を下げ、白花苧環ももう一度獏へ頭を下げて店を後にした。
「また悪夢が出て来たら呼んでください」
「ありがとう、マキ。助かった」
「力になれたなら良かったです」
華やかな花貌で微笑んで去る白花苧環を見送り、もうあんなに感情を顔に出せるようになったのかと感心する。やはり彼の成長速度は異常だ。死ぬ前の彼ですらあんな風に笑ってはいなかった。
「俺はもう少しここにいます。体調が安定するまで、クラゲも心配なので」
他の用を頼まれていたが、弱った獏と灰色海月だけを残して宵街へ戻ることはできなかった。仕事は後で急げば解決する。
「うん。すぐ良くなるね。一眠りして」
「それは駄目です」
黒葉菫は横になろうとする獏の肩を慌てて掴む。横になったらすぐに目を閉じてしまいそうだ。寝たらまたあの悪夢が飛び出すかもしれない。宵街に帰ったばかりの白花苧環を呼び戻さねばならなくなる。
「寝たら平手で打ちます」
「えぇ……」
灰色海月が手を構えるので獏は困惑した。獏は自分の状態を冷静に分析し、酒が抜けるまでまだ時間が掛かりそうだと項垂れる。力が増幅し多少は強くなった獏だが、体は弱いまま変わっていないのだろう。




