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132-遠い友人


 誰もいない小さな街の古物店によく知る客が来た。

 店の奥に座る黒い動物面を被る(ばく)の前には、大皿と重箱がどんと置かれている。大皿には赤と緑のドレンチェリーがちょんと載せられた一口大の絞り出しクッキーが山となり、重箱には解体された菓子の街が詰まっていた。

 獏はそのクッキーを抓んで紅茶を飲みながら、腕を組んで構える宵街(よいまち)の元統治者、贔屓(ひき)を見上げていた。

「…………」

 贔屓は暫く獏を見詰めた後、徐ろに溜息を吐く。呆れと言うより、諦めている。

「僕もそう何度も来るつもりはないんだが」

「うん。まさか贔屓が来るとは思わなかった」

「こんなに早くまた呼び出されるとは……。狴犴(へいかん)……いや蒲牢(ほろう)の話を聞いたよ。この街へ来てみたら微かに異臭がしたとね。灰色海月(クラゲ)に確認を取ってみたら、一つ心当たりを話してくれた。饕餮(とうてつ)窮奇(きゅうき)が食事をしたと。その食べ滓だろうな、異臭の原因は。どんな状態か変転人には確認させられないと狴犴から連絡があった。頼ってくれるのは嬉しいが、すっかり雑用係だな」

「……あれか。願い事の依頼人が危険だったから、別に食べられてもいいかなって」

「ああ。その依頼人は確かに危険なようだ。灰色海月から聞いたよ。変転人が巻き込まれるかもしれない懸念は理解できる。狴犴も納得していた。だがもう少し早く報告できなかったのか? 随分と日数が経過しているようだが。先程現場を確認したが、すっかり血液がこびり付いて除去が大変そうだ」

「ごめん……すっかり忘れてた。贔屓もこのクッキー食べていいよ。クラゲさんが焼いたんだ。たくさんあるよ」

 贔屓は額に手を当て、呆れて首を振った。

「掃除が終わったら戴くよ。ベッドは新しい物を持って来たから僕が交換する。床掃除は一緒にしよう、獏」

「えっ……」

 食べていたクッキーがぽとりと手から落ちた。

「君が許可を出したんだろ? それに暇そうだからな。暇潰しができていいだろ」

 獏は唇を尖らせながら、紅茶を飲み干すまで待ってもらった。暇は否定しない。

 饕餮と窮奇は既に街から去っており、掃除は手伝ってもらえない。饕餮は人間を喰った後にクッキーもよく食べ、更に袋に入れて持ち去っていた。あの細身の体の何処に収まっているのか、少食の獏には不思議でならない。だが蒲牢の妹だと考えると納得する。

 掃除に行くことを伝えるために、台所にいる灰色海月に声を掛けようと椅子の背に凭れると、彼女の方から姿を現した。

「手紙の投函があったので、行ってきます」

「あ……うん。いってらっしゃい」

 獏と贔屓に頭を下げ、思念の羅針盤を手に忙しなく灰色海月は店を出る。善行をするなら掃除は免除されるはずだ。獏は安堵した。

「差出人が来るまで掃除をしていようか」

「そんな短時間に!?」

 免除されると安心した直後、目は笑っていないが微笑む贔屓に手招かれた。目が笑っていないならそれは冗談ではなく本気だ。贔屓の機嫌を損ねたくはないので、獏も渋々店を出る。彼は言うことを聞かせるためならすぐに手を出す。機嫌を損ねれば床に叩き付けられるだろう。

 店の脇には贔屓が持参した掃除道具が立て掛けられており、少し離れて新しいベッドが置かれていた。石畳に鎮座するベッドと贔屓を交互に見、あれを一人で担いで来たのかと獏は身震いした。やはり彼の機嫌は損ねるべきではない。

 惨殺の後は初めてとなる隣家の二階へ上がり、意を決してドアを開ける。窮奇と饕餮にはベッドの上に骨を集めておいてくれと言ったはずだが、小さな骨が幾つか床に零れていた。

 贔屓が苦言を呈していた通り、飛び散った血飛沫は床や壁に黒くこびり付いていた。まずは食べ滓の付いた骨を袋に詰め、窓から放り出す。次は床掃除だ。獏はモップの長い柄に手を載せ面倒臭そうに顎を置き、贔屓が血に塗れたベッドを破壊する所を眺めた。杖は握らず、素手でベッドを二つに折っている。階段を経由するのは面倒なので、窓から破壊したベッドを投げ捨てる。豪快な処分だ。

 贔屓に目を向けられて、獏も水の入ったバケツにモップを突っ込んだ。

 この街は外界から隔絶された別の空間に存在するのだが、そこで何故電気や水が使えるのか獏は知らない。以前使用していた街は(しん)が創り出した物で、エネルギー系統も蜃の力で賄われていたが、この街に蜃は係わっていない。そんな力は今の蜃には無いのだ。

 宵街の花畑にしろ別の空間なんて物を用意できるのだから、エネルギーを作り出せる獣は珍しくないのかもしれない。

 濡らしたモップを床に擦り付け、だが木目にまで染み込んだ血は取れそうになかった。

「贔屓……床も張り替えた方がいいかも」

「仕方無いな。では薬剤を撒こう」

「薬剤?」

「宵街にも掃除が捗る薬剤がある。争って流血があった時のために、強力な血液吸取(すいとり)剤がある」

「嫌な準備の良さだね……」

 贔屓は透明な液体が入った細長い瓶を取り出し、大粒の霧を撒布した。血痕の上に付着した液剤は見る見る内に赤黒く染まっていく。床に染み込んだ汚れを急速に吸い取っているようだ。

「これを拭き取れば綺麗になるはずだ」

「凄い……人間の街で売れるよ、これ」

「普通の人間には強力過ぎて、誤って付着すれば肌が爛れるかもしれない」

「酸なの?」

「違うと思うが。人間が汚れと見做されなければ使えるかもしれない」

「汚れた人間はたくさんいるからね……そういう意味の汚れなの?」

 どうやら贔屓が作った物ではないようだが、用法に気を付ければ人間の街でも売れそうだ。特に掃除業者に。

「床だけでなく、布に付着した血液も瞬時に除去できる」

「じゃあベッドを捨てなくても良かったんじゃない?」

「除去は可能だが、譬え目に見えなくとも惨殺が繰り広げられたベッドで眠れるか?」

「……確かに」

 モップの水を一旦絞って床を拭き、綺麗に血痕が取れたことに感動した。これからは血痕を放置していても安心だ。

 楽しそうに掃除をする獏を眺めながら、贔屓は灰色海月の帰りが遅いことが気に掛かる。差出人が見つからないのか転送を渋られているのか、人間も面倒な者がいるので少々心配だ。

「贔屓、こっちにも血痕があるよ」

「……ああ。わかった」

 呼ばれて液剤を撒こうとした所で、一階のドアを叩く音が耳に届いた。獏の耳にも聞こえ、何か言いたそうに贔屓を振り向く。

「行っていいよ。それが君に科せられたことだからな」

「ありがと!」

 モップを贔屓へ返し、獏は軽い足取りで階段を駆け下りた。

 残された贔屓は暫し考え、小首を傾ぐ。

(しかし妙な気配だな……?)


 急ぎ店へ戻ってドアを開け、獏も異様な空気を感じた。

 奥の机の前に、金色が混ざった長い黒髪に長い外套を羽織った長身の青年が背を向けて座っている。音に気付いた黒髪はゆっくりと振り向き、灰青色の鋭い目を獏へ向けた。

「え……獣……?」

 静かな気配を纏い、微かだが気を抜くと喰われそうな息苦しさがある。一目見て獣だとわかった。

 黒髪の青年は前方へ顔を戻し、紅茶のカップを置く灰色海月を見る。襟元に輝く青い石のブローチが印象的な青年だ。

 灰色海月に一瞥され、獏は我に返った。足早に自分の椅子に座り、机に置かれていた手紙を開く。

『道案内をたのみたい』

 獏は動物面の顔を上げ、静かに唾を呑みながら青年を見た。つまり――迷子だ。

「読めるか? 日本語は漢字が難しい」

 口を開いて出た彼の声は抑揚が乏しかったが、蒲牢のように感情が冷めているわけではなく、抑えているような印象を受けた。

「日本語がわからない……?」

「急ぎ習得したが、まだ不慣れだ。西洋から来た」

「西洋!?」

 思わず大きな声が出た。そんな遠方からの客は初めてだ。この店の中には地球儀もあるので、人間の国の大凡の位置なら獏も知っている。西洋はとにかく遠い場所だ。

「友人に会いに来たが、正確な場所がわからない。獏に手紙を投げれば、言うことを聞かせられると噂を耳にした」

「何か微妙に引っ掛かる言い方だけど……。友達は東洋出身なの?」

「日本語を話していたから、そうだと思うが。宵街と言う場所に行けばいいと言っていた」

「宵街にいるんだね。それならすぐに連れて行けるよ。クラ……」

 灰色海月に転送を頼もうとし、ふと口を閉じる。西洋なんてそんな遙か遠方の、宵街を知らない獣を招き入れても良いのだろうか。友人に会いに来たと言っているが、それは只の口実で、本当は宵街で大暴れをする予定だとしたら、敵を招き入れた大罪が獏に与えられるかもしれない。そうなれば地下牢行きは免れないだろう。冷汗が出そうだ。

「えっと……ちょっと待っててね。訊いてくるから」

 丁度良いことに、宵街の元統治者が隣家で掃除に勤しんでいる。尋ねる相手に不足は無い。

 だが獏が立ち上がる前にドアが開いた。異質な気配に気付いて来てくれたようだ。奥に座る青年を見ても驚かない。

「……獣か」

 青年は振り返り、横目で贔屓を見上げる。二人は暫し探るように見詰め合った。

「獣からの手紙は禁じていないが、あまり見知らぬ顔が来てほしくはないな」

「獣は手紙を投げてはいけなかったのか? 規則を知らなかったことは謝る」

「獏。この獣の願い事は何だ?」

 話を振られ、獏は浮かせていた腰を下ろした。そして青年の前からカップを引き戻す。獣にうっかり契約の刻印など呑ませれば揉める元だ。灰色海月に目配せし、下げてもらう。

「西洋から来たらしいんだけど、友達に会いに宵街に行きたいんだって。勝手に連れて行っていいかわからないから、贔屓が決めてよ」

「友達? すまないが、君と友達の名前を教えてもらってもいいかい? 確認を取る」

「手続きが必要なのか? 面倒だな……。だが折角ここまで来たんだ、多少の面倒は目を瞑ろう」

 ぼそぼそと呟きながら机に顔を戻し、紅茶のカップが消えていることに彼は怪訝な顔をした。

「オレはフェルニゲシュ。友人の名は浅葱斑(アサギマダラ)だ」

「え!?」

 予想外の名前が飛び出し、獏は思わず立ち上がった。浅葱斑は灰色の変転人であり、獣に対しては少々臆病な性格である。獣と友人、況して遠方から会いに来るような獣がいることに驚いた。

 浅葱斑は獏に会う前は世界を旅していた。その旅先で気の合う者と出会っていても不思議ではないが、獣の友人がいるとは思わなかった。

「知っているか?」

「あ……えっと……。クラゲさん、ちょっと確認して来てくれる?」

「わかりました」

 灰色海月は頭を下げ、掌から灰色の傘を引き抜きつつ店を出る。

 変転人の名が出て来るとは思わず、贔屓も対応に悩む。浅葱斑のことは贔屓も知っている。友人がいても可笑しくはない。問題はそれが獣だと言うことだ。もし浅葱斑が何か厄介なことに巻き込まれている場合、引き合わせるのは不味い。

「これは?」

 カップは無くなってしまったが、目の前にはまだ大皿に山盛りのクッキーがある。確認を待つ間、フェルニゲシュはそちらに興味を移す。

「クッキーだよ。食べてもいいよ」

 赤と緑の鮮やかなドレンチェリーが付いており、どちらの色にするか指先が迷うが、フェルニゲシュは緑を一つ抓んで口に入れる。警戒は無い。譬えどんな毒が盛られていたとしても耐えられる自信があるようだ。もしくは単純に人を疑わない性格なのだろう。

「素朴な良い味だ」

 一つ頷き、今度は赤い方も抓む。

「……同じ味だな」

 獏と贔屓は警戒しながら観察するが、この獣は隙だらけだった。気を許しているわけではないが、気を抜いている。そんな印象だ。

「折角だ。皆にも土産に持って帰ってもいいか?」

「皆? 友達がたくさんいるんだね。そういうことなら袋に詰めるよ」

 殺気も無く穏やかな気配で、最初に感じた冷たい空気はもう感じられず安堵する。最初はこんな所に連れ込まれて警戒していたのだろう。それでもまだ表情は乏しいが、感情が乏しいわけではなくやはり抑えているように見える。

「友人ではないが、勝手に玉座を抜けて来たからな。詫びだ」

「ふふ。内緒で来ちゃ――玉座!?」

 微笑ましく笑っていた獏は突然大声を出した。話の風向きが妙なことになった。贔屓も訝しげに眉を顰める。

「……すまない。聞かなかったことにしてくれ。またアナにどやされる」

「玉座って……偉い人が座る椅子だよね……?」

「…………」

「まさか何処かの統治者……?」

「オレは只の御飾りだ。だから忘れてくれ」

 それはつまり肯定である。何て獣と友達なんだろう浅葱斑は。

「御飾り……只の空気……ふむ、つまり玉座は空気椅子だ」

「それはちょっと意味が違うけど……」

「?」

 恍けているのか不思議そうにしているが、もし彼の言うことが本当なら罪人が応対して良い相手ではない。相手を代わってくれと獏は面で隠れた顔に緊張と困惑を浮かべ、贔屓に無言で訴える。

「……統治者が忽然といなくなれば、君の街は混乱するんじゃないか?」

 背後から話し掛けられ、フェルニゲシュは振り返る。獣が背後に立とうと警戒しない。

「気にするな。オレ一人いなくなった程度で混乱しない。街を回す獣はオレ一人ではない。アナもいるからな」

「アナも獣か? 信頼しているんだな」

「アナは変転人だ。秘書をしている。……少し話し過ぎか? もう黙った方がいいかもしれない」

 狴犴に対する白花苧環(シロバナオダマキ)のようなものだろうか。彼は秘書ではないが。

 御飾りだが秘書は存在するフェルニゲシュの立ち位置がよくわからなかったが、獣や変転人の棲む街がこの広い世界の中で宵街一つと言うことはないだろうと贔屓は平素思っていた。だが実際に他の街があると聞かされたのは初めてだ。他の街が存在することに今はまだ半信半疑である。

 灰色海月の帰りを待つ間、フェルニゲシュはゆっくりとではあるがクッキーを抓み続けた。どうやら気に入ったようだ。

「長旅で腹が減っていた。こんなに食べてすまない」

「転送で一瞬で来たんじゃないの?」

「いや。お前は国を出たことがないのか? 国を跨ぐ転送はできない。境界が転送の邪魔をするんだ。徒歩や密航で辿り着いた」

「そうなの? それは大変そうだね」

「これも何かの縁だろう。願い事の代価はこれでいいか?」

 懐から小瓶を取り出して獏の前に置く。代価は通常その人の心の柔らかい部分を戴くが、迷子を送り届ける程度なら必要ないと獏は考えていた。それに代価を貰う仕組みは人間相手に考えたものだ。獣に口付けたところで食事が可能なのか、獏にもわからない。獣がそんな無防備な状態になるのか、確かめたことがないのだ。

 獏は訝しげに小瓶を見る。中には赤い粉が入っていた。

「唐辛子……?」

 獏は首を傾ぐが、贔屓は中身を察した。

「パプリカじゃないか?」

「これは魔法の粉だが。これを食べ物に掛けると美味しくなる」

「……パプリカだろ?」

「…………」

 どうしても魔法にしたいようで、フェルニゲシュは沈黙した。

「えっと……宵街に送るだけだし、代価はいいよ」

「そうか」

 即座に小瓶を懐に戻すので、本当は渡したくなかったのだろう。彼から威厳を感じることができず、本当に玉座に座っているのか怪しくなってきた。

 疑念が増すばかりで灰色海月が戻り、彼女は灰色の頭を下げて報告する。

「アサギさんに確認を取りました。フェルニゲシュさんは友達で間違いないようです。旅の途中で迷子になっていたフェルニゲシュさんと出会ったと言ってました」

「…………」

 彼はよく道に迷うらしい。

「でも驚いてました。まさか来るとは思わなかったと。アナに怒られるんじゃないか、と心配してました」

 どうにも頼りない印象になってしまったフェルニゲシュを一瞥し、獏と贔屓は顔を見合わせる。

「念のため狴犴さんにも窺ってみましたが、宵街への転送を許可すると言ってました。但し宵街にいる間は宵街の規則を守り、変転人には手を出さないこと。それを念押してました」

「手を出さない。約束する。争いに来たわけじゃないからな」

 フェルニゲシュは頷き、徐ろに立ち上がる。狴犴が許可を出したなら何の問題も無い。獏も立ち、先に頼まれていたクッキーを袋に詰めて渡した。

「これで怒られない」

「え? だといいけど……」

 頼りないから御飾りなのだろうかと心配になる程、フェルニゲシュは威圧感が無い。狴犴や贔屓のような逆らえない雰囲気が無かった。

 それでも統治者という立場であるなら丁重に扱うべきだろう。宵街への転送は贔屓が行い、善行の一環なので獏も付いて行く。

 長身のフェルニゲシュは店の出入口に頭をぶつけたが、無言で頭を下げてドアを潜った。この街の建物は獏の身長に合わせて作られたので、長身の彼には少々低いようだ。

 外の石畳の上には骨を詰めた袋や破壊したベッドがそのまま転がっているが、片付けている時間は無い。見苦しいがそのままで、贔屓は杖を召喚しくるりと回した。

 転瞬の間に、先程よりは幾分明るいがそれでも薄暗い宵街へ転送が完了する。獣の転送位置は中腹よりも少し上になるので、変転人の転送位置である下層で待つ浅葱斑の所まで灰色海月が案内する。

 赤い酸漿提灯が頭上を照らす石段を下り、初めて訪れた石壁と蔦に囲まれた宵街をフェルニゲシュは興味深く見渡した。

 下層に差し掛かると石段の脇から青い頭がひょこりと覗き、よく見えるように手を振った。

「フェル! 久し振り!」

 人懐こい笑顔で石段を駆け上がる少年を見つけ、フェルニゲシュも軽く手を上げた。半信半疑だったが本当に友人らしい。

「まさか一人でここまで来られるなんて思ってなかったよ」

「何とか辿り着いた。獏の御陰だ」

「しかも日本語! 前は……英語だっけ? 何喋ってるかわからなかったのに」

「お前と話すために習得した。オレもお前が何を言っているのかわからなかった」

 互いに何を言っているのかわからなくても友人になれるものなのだなと、獏と贔屓は微笑ましく二人を見守る。二人が友人であることはもう疑いようがない。

「とりあえず座って話す? 近くにカフェがあるんだ。前は最後にアナが翻訳機を出してくれたけど、こうして道具を通さず話せるのは感慨深いな」

「折角だから宵街の見学もしたい。思ったより随分と……暗くて狭い」

「貴方の棲んでる花街(はなまち)に比べると、宵街は暗くて狭いよ。花街はあちこち花が咲いてて綺麗で美味しそうだったな」

「また来るといい。歓迎する」

 浅葱斑は嬉しそうに笑顔だが、対するフェルニゲシュの表情は殆ど変化が無い。口元に微かに笑みは浮かべているが、やはり感情を抑制しているようだ。統治者の立場なら人目を憚らず燥げないのかもしれない。

「獏もありがとう! フェルを連れて来てくれて。獏がいなかったらフェルはまた路上で座り込んでたかもしれないです」

 以前会った時は座り込んでいたようだ。獏は苦笑する。

「僕の善行が役に立ったってことだね。でもアサギさんがその……花街? の統治者と友達なんて、信じられなかったよ」

「……え? 統治……? 聞いてない!」

 きょとんとした後に声を裏返しながら叫び、浅葱斑は血相を変えてフェルニゲシュに勢い良く首を回した。

「統治者とは言っていない。形だけの王だと言った」

「それも聞いてない!」

「アナの翻訳機が無い時に言ったかもしれない」

「そんな……王様……? カピバラみたいな人だと思ってたのに、そんな偉い人だったなんて……」

 浅葱斑は愕然として三歩ほど下がり、地面に膝を突いた。そして両手を添え、額を地面に擦り付けた。

「なっ……何か失礼なことしたんじゃないですか……!? 馴れ馴れしかったですよね!? 全部謝ります! ごめんなさい!」

「……?」

 突如場の空気が一変して土下座をする浅葱斑を不思議そうにフェルニゲシュは見下ろし、獏と贔屓へ助けを求める。これは一体何をしているのかと。

「全力で君に謝罪をしてるんだけど……何か粗相をしたんじゃないかって不安みたい」

「粗相? ……覚えは無いが、オレは友人ができて嬉しかった。街では皆オレを恐れるからな」

「勿体無き御言葉! でもアナは全然恐れてる感じ無かったです!」

「それはそうだろう。今のオレにはこれがある」

「これ……?」

 浅葱斑は恐る恐る上目遣いで長身の彼を見上げ、首を覆う襟を下げる手元に目を瞠った。彼の首にはぐるりと荊が絡み付いたような黒い模様が刻まれていた。過去に狴犴が白花苧環へ施した首輪に酷似している。

 獏と贔屓も目を疑い、フェルニゲシュの表情を窺う。変わらず感情が乏しいのは、そんな物を刻まれている所為なのかもしれない。

 視線を感じるとすぐに襟を元に戻し、フェルニゲシュは片膝を突いて浅葱斑と目線を合わせた。

「座って話すと言っていたな。これでいいか?」

「めっ……滅相も無いです!」

 慌てて立ち上がるが今度は浅葱斑の目線が高くなってしまい、彼はすぐにおろおろと中腰になった。

 浅葱斑の性格で統治者と友達など妙だと獏は思っていたが、知らなかっただけらしい。浅葱斑はカピバラと表現していたが、首輪を付けられた彼の雰囲気には言い得て妙である。確かに害意など無く、身分を除けば穏やかで恍けた親しみ易い獣だ。

「……困らせてしまったなら、オレは帰る。折角お前の言語を習得したんだが、残念だ」

 表情は乏しくとも落ち込む気配は伝わってきた。浅葱斑も次第にばつが悪くなる。突然、実は王だと告白され、更に不穏な首輪を見せられ、理解が追い着かなかった。

「ボクは……困ってないです……。でも、身分が違い過ぎて……ボクは只の変転人なので……」

「そんなことを気にしているのか? オレのいる街では只の変転人も自由だ。アナを見ただろう? あいつはオレが自由にしていると怒る」

「…………」

 それは確かにそうだった。浅葱斑はその時のことを思い出し、腰を伸ばした。フェルニゲシュも立ち上がり、ここぞと懐から小瓶を取り出し差し出す。先程代価にしようとした赤い粉だ。

「友とは喧嘩もするそうだ。そこで仲直りをしてこそ友だ。仲直りの印にこれをやろう」

「お馴染みのパプリカの粉じゃん……何でいつも持ち歩いてるんだこの人……」

「魔法の粉だ」

「……まあいいや。獏がいるなら何かあっても逃げられそうだし、とりあえずカフェ……行きます」

 さりげなく盾にされている獏は浅葱斑を一瞥するが、彼は石段を下りて行ってしまった。

 フェルニゲシュも後に続き、獏達もそれを追う。仲直りできたことは喜ばしいが、フェルニゲシュの立場は謎が深まるばかりだった。彼の首輪の効果が白花苧環に施されていた(いん)と同じかは不明だが、同じだとすれば居場所を把握することができる。そして不信感が募ると首を切り落とす。そんな危険な印を何故王に刻むのか。

 二人からは少し離れて歩く獏達は首を捻る。

「……御飾りってことは、実権を握ってる人が他にいるってことだよね……? 花街を回してるのはフェルニゲシュだけじゃないって言ってたし」

「獏。気になる気持ちはわかるが、あまり詮索するものではないよ」

「わかってるよ。フェルニゲシュは何か違和感があるし……下手に首を突っ込んで敵視でもされたら大変だもんね。触らぬ神に祟り無しだよ」

「ああ。肝に銘じていてくれ」

 横道に入って茂みを抜けると、小さな広場にオープンカフェが現れる。外に置かれた席に有色の変転人の男が一人でのんびりと茶を飲んでいた。

 一人で楽しむ先客とは間を開けて一同は席につく。椅子に座るとフェルニゲシュの長い外套がもぞもぞと動くので獏と贔屓は警戒したが、裾から鰐のような黒い尾が覗くだけだった。人間の街を歩く時は尻尾は目立つ。外套の中に隠していたようだ。

 見知った顔が来店したことにカフェを営む有色の変転人の(ナズナ)が気付き、箱のような四角い石壁にぽかりと空いた穴から注文を取りに出て来た。

「いらっしゃいませ。メニューです」

「任せる」

「えっ」

 机にメニューを置いた瞬間にフェルニゲシュが答え、薺は面喰らった。メニューに見向きもしない。知人ならば好みを把握している場合もあるが、初対面の人から任されるのは初めてだ。薺は緊張した面持ちで連れの皆を見回す。獣相手に間違った選択はできない。

 浅葱斑はまだ恐々と体を縮め、フェルニゲシュを一瞥する。まるで友達になる前に戻ってしまったかのようだった。

「フェル……さん」

「フェルのままでいいが」

「…………フェル。メニューを見なくていいんですか?」

「見て読めたとしても、何かはわからないだろう? お勧めがあるならそれでいい」

「そっか……じゃあ本日のケーキセット……」

 ちらりと獏の方を見ると、獏も頷く。浅葱斑はフェルニゲシュの分は奢るつもりだったが、獏と灰色海月と贔屓の分も奢るのだろうかと机の下で財布の中身を確認する。……足りない気がした。

「僕が奢るから気を遣わなくていい」

 机の下を察した贔屓に制され、浅葱斑は胸を撫で下ろした。

 人数分のケーキセットを注文し、浅葱斑は漸く肩の力を抜いた。王だと言われてから肩に力が入り過ぎて凝るくらいだった。身分一つでここまで怯えることになるとは、浅葱斑自身も想定外だった。

「アサギ。最近は旅をしていないのか? 宵街にもいないのではないかと心配していた」

「あ……うん。最近は宵街にいるよ。色々あって……花守の手伝いとか遣ってる」

「そうなのか。また旅の話が聞ければと思ったんだが。お前の旅の話は面白い。オレの棲んでいる街の変転人もよく旅行には行くが、話を聞いたことはないからな」

「宵街で旅してるのはボクくらいだと思うけど……花街は獣が仕事を頼まないのか?」

「仕事? あるかもしれないが、城の外の話は聞かないな。変転人はよく人間の街に出掛け、旅行に行き、様々な物を見て経験とする。長期間の留守は皆が心配するから報告が必要だが、概ね自由だ」

「へぇ……それは初めて聞いた。花街は仕事しないんだ……いいな」

「全くしないわけではない。城外はよく知らないが、アナのように城に従事していればあまり自由は無くなる。休暇申請は可能だが、アナは申請しない」

「アナは仕事が好きなのかな……」

「オレが城を抜け出すからかもしれない」

「原因わかってんじゃん」

 身分を知ろうと中身は変わらないことに浅葱斑も漸く嚥下することができ、元の調子を取り戻した。身の危険があれば獏と贔屓が何とかしてくれると盾に期待しているが。

 石壁の穴からケーキとティーカップを載せた盆を持った薺と紅花(ベニバナ)が現れ、皆の前にそれらを並べて最後にポットから熱い紅茶を注ぐ。

「本日のセットのキャロットケーキです。ごゆっくりどうぞ」

 薺と紅花は頭を下げ、足早に石壁の中へ戻っていく。普段あまり来店することのない獣が集まっていれば畏縮するものだ。石壁の中から緊張感を含む視線を感じる。

 一同は早速フォークを手に取り、何処から食べようかとキャロットケーキを見下ろす。擂り潰した人参が混ぜ込まれたケーキの上に白い砂糖の衣がとろりと被せられ、兎の形に小さく刳り抜かれた人参がちょこんと並んでいた。

 ここはやはり貴賓からだろうと皆はフェルニゲシュを一瞥する。彼は周囲の目は気にせず、キャロットケーキの端をざっくりと縦に切ってフォークで突いた。他人の目を気にしない所は大物っぽい。

「……人参の味がする。初めて食べたが美味しいものだな。兎が羨ましくなってしまう」

「良かった。ケーキにまでパプリカの粉を掛けなくて」

 ぼそりと安堵を口にした浅葱斑にフェルニゲシュはハッとした顔をしたが、すぐに止められた。

「折角東洋に来たのだから点心か和菓子でも持ち帰ろうと思ったが、これもいいな」

「キャロットケーキは英国の伝統菓子だが……」

「細かいことは気にしない」

 西洋から来たと言う彼に西洋の菓子を持ち帰らせるのはどうなのだろうと贔屓が助言するが、フェルニゲシュは気に入った物を持ち帰ればそれで良いと考えているようだった。

「ならいいが。持ち帰りができるか訊いてみよう」

「オレは歓迎されているか?」

「ん……?」

「それならそろそろ警戒を解いて、名乗っても良さそうなものだと思っただけだ」

「ああ……そうだな。失念していた。僕は贔屓だ」

「お前は宵街の高位か? 威厳のある気配をしている」

 普通に振る舞っているつもりだったが、何かを感じ取ったらしい。殺気は出していないのだが。

「昔のことだ。今は統治に関与していない」

「そうか」

 それ以上は何も言わず、フェルニゲシュはもくもくと口を動かした。再び浅葱斑と雑談を始め、その隙に贔屓は獏へ顔を向けて囁く。

「獏はもう戻っていいよ。後はこちらで見る。あまり街を不在にするのも良くないからな、灰色海月に転送してもらってくれ」

「わかった。ケーキを食べたらね」

「ああ。首輪を装着していないことも、後で僕から狴犴に話しておく。首輪は罪人の証明のような物だからな……そんな物を付けて王に応対するのは躊躇してしまった」

「すっかり忘れてた……首輪のこと」

 あの小さな街から出る時は首の烙印に首輪を掛けることが絶対だ。首輪を装着しない場合、位置が把握されてお仕置きをされる。灰色海月がフェルニゲシュのことを狴犴に窺いに行ったので状況は把握しているだろうが、説明は必要だ。

「贔屓が付いてるし、お仕置きはされないよね?」

「連れ出したのは僕だからな。釈明しておく」

 獏は安心してキャロットケーキをぺろりと平らげ、紅茶を美味しく戴いた。灰色海月も同じ頃に食べ終わり、雑談に花を咲かせる二人に断って牢へと戻った。

 思わぬ美味しい菓子に有り付けて、脅威の無い獣からの願い事は楽で良いものだと獏は御機嫌だ。

 店でゆっくりと休もうとドアに手を掛けようとし、だが落ち着く暇も無く灰色海月はすぐにまた声を上げた。

「手紙の投函があります。少し休んでからお迎えに行きます」

「今日は忙しいね。簡単な願い事だといいなぁ」

 願い事の手紙は無い時は何日も無いのだが、時折こうして集中する。

 空間を一瞬で移動する転送は便利だが、冷却と充填の時間が必要なので連続では行えない。普段はあまり不便ではないが、こうして投函が続くと不便が生じる。休める時間があるのは良いことだと獏は思うが、遣る気が漲る彼女には気を揉む時間だ。

 差出人を連れて来るなら石畳の真ん中に転がっているベッドの残骸が邪魔なので端へ避けようと押すが、石畳の隙間に引っ掛かり動かなかった。半分に破壊されているとは言え、一人で持ち上げられる重さではない。懐から手作りの杖を抜いて残骸を動かせないか試すが、触れずに物を動かす力があると言えど烙印で抑えられているため、重くて動かせなかった。杖の先の変換石が光っているので力の出力はできているはずだが、やはり力が足りない。ベッドが四分の一に破壊されていれば動かせたかもしれないのに。

 獏がベッドの残骸と向き合っている間に灰色海月は街を出て、暫しの後に戻って来る。その背後に今度は、顔に焦燥を貼り付けた白髪の少女を連れていた。

「……あっ、貴方が噂の獏様ですか!? お尋ね……いえ、郷に入ってはですね。願い事を叶えていただきたく、手紙を出させていただきました」

 灰色海月が獏に取り次ぐ前に少女は凜と丁寧に頭を下げた。白い髪の左右に黄色いリボンを結び、赤黒い外套(マント)を羽織って襟元に黒い石のブローチを留め、片耳にカフスを付けている。

「君、もしかして……」

「急いでいるので簡潔に要件……いえ、願い事を述べさせていただきます。フェルニゲシュという黒い獣を捜してます。すぐに見つけていただきたい!」

 どうやらフェルニゲシュの関係者のようだ。

「身長百九十四センチの男型、髪は臀部より長いです。何を考えてるのかわからない、俎板の鯉のような目をしています!」

 あんまりな言い様である。

「じゃあ、君の名前を聞いてもいいかな?」

「私はゲンチアナと言います」

 ゲンチアナは欧羅巴に咲く花の名だ。生薬や漢方として使用されており、とにかく苦い。彼女は無色の変転人だ。

「もしかして、秘書さん?」

 フェルニゲシュは秘書を『アナ』と呼んでいた。彼女のことだろう。花街を抜け出した彼を迎えに来たようだ。行動が迅速で正確で優秀な変転人のようだ。

「! 既に御存知ですか!? さすが獏様です」

 褒められるのも悪くない。獏は気分が良くなった。

「お揃いのブローチなんて、仲が良いんだね。フェルニゲシュは宵街にいるよ」

「宵街……こちらの獣の居住地ですよね。道理で居場所がわからないはずです……。このブローチは権力を持つ者に持たされる物なので、お揃いではありますが、他にも所有者はいます」

「へえ……大事な物なんだね」

「はい。重要な責務を担ってます」

 花街では獣と同等の権力を持つ変転人がいるらしい。宵街とは随分と構造が異なりそうで獏も興味はあったが、今はそれよりも焦燥を見せる彼女の願い事だ。

「それじゃあね、すぐに連れて行けるけど一つだけ約束してね」

「想像がつきますが、聞かせてください」

「宵街で騒ぎを起こさないこと。いきなり怒らないで、フェルニゲシュの話も聞いてあげてね」

「……はい。了解しました。怒るのは帰ってからにしましょう」

 ゲンチアナはもう一度深く頭を下げた。焦燥が徐々に安堵に変わっていく。

「それと、その耳飾りは……」

 獏は気になっていたことを尋ねる。蒲牢と初詣でに行った時、似たカフスを付けている変転人がいた。無関係だとは思えなかった。

「これは自動翻訳機です。私達の街で普及している物です。なので獏様も安心して普段使用している言語を話してください」

 つまり灰色海月に悪戯をした変転人は花街から来た者らしい。

(旅行者だったのか……)

 道理で宵街で有名な黒色蟹を知らないはずだ。旅行者なら狴犴に幾ら注意を促してもらっても解決しない。自衛しなければならないようだ。

 ゲンチアナは焦りを押し込めながら灰色海月の傘の冷却時間を待ち、どうにか焦りを吐き出さない内にくるりと宵街へ移動する。

 宵街の石段へ足を下ろしたゲンチアナは蝋燭の火を消すように焦りが一瞬にして消え、最初にフェルニゲシュがそうしたように酸漿提灯を見上げて辺りを見回した。

「暗いですが、何とも幻想的ですね。私が御世話になっている街にもランタンが其処彼処に浮いてますが、それとはまた趣が異なります」

「楽しそうだねぇ」

 感動するゲンチアナを促して石段を下りると、彼女は少し頬を赤らめた。

「……すみません。浮足立ってしまったようです。観光ではないのに……お恥ずかしいです」

「ついでに観光すればいいんじゃない? フェルニゲシュと一緒になら、心配ないでしょ?」

「フェル様は……存在が心配なので……」

 ゲンチアナは表情を曇らせながら俯き、口を閉じてしまった。無断で玉座を抜け出してこんな遠方まで遣って来るのだから、普段から手を焼いているのだろう。

「君も少しは休んだ方がいいよ。じゃないと何処かの誰かさんみたいに倒れるよ」

「お気遣いありがとうございます。ですがフェル様は街から出てはいけないんです。私がもっと見張れていればいいんですが……フェル様はすぐに人の目を盗むので」

 ゲンチアナは大きく溜息を吐き、慌てて頭を振った。失礼しましたと慌てて頭を下げる。

 狴犴の所には常駐する者はいないが、フェルニゲシュの周囲には多くの者がいるようだ。

「あそこの横道を入った所にあるカフェにいるよ」

 石壁の間の細い道を指差すと、ゲンチアナは表情を引き締めた。白い頭を下げて石段を足早に下りる。その足取りからも心配していることが窺えた。獏と灰色海月も後に続き、茂みと蔦を分ける。

 フェルニゲシュ達はまだのんびりと御茶を楽しみながら雑談に興じていた。贔屓は付き添いだけで殆ど口を挟んでおらず、茂みが揺れたことに気付いて目を向ける。


「フェル様!」


 先に声を上げたゲンチアナは、驚いて振り向くフェルニゲシュの頬に狙いを定め、躊躇無く勢い良く掌を振り抜いた。

「!」

 肌を打つ大きな音が広場に鳴り響き、奥で一人で寛いでいた無関係な変転人も思わず顔を上げて目を丸くした。

「お、怒るのは後でって……」

「これは心配の分です。怒るのはまだです」

「そ、そう……」

 先に釘を刺したつもりだったが、彼女の心配は余程大きかったのだろう。獣――しかも王に手を上げる変転人がいるとは、白花苧環のような怖い者知らずは意外と何処にでもいるようだ。

 フェルニゲシュは赤く染まる頬に手を遣り呆然としている。

「何故また街を……ああ、アサギですか。アサギに会いに来たんですね? 仲良くなったのは喜ばしいことですが、貴方は立場を弁えてください」

「……来るのが早い」

 叱られた子供のように不貞腐れた声で呟く。

「当然です。貴方の居場所はすぐにわかるんですから。懲りない人ですね」

「まだあまり話していない」

「アサギとですか? でも認められません。またアサギが街を訪れることがあれば、その時に存分に話してください」

 少しの融通も利かないらしく、フェルニゲシュの表情は変わらないが落ち込んだ空気が漂う。遙々会いに来るのだから、話したいことはまだあっただろう。

 さすがに気の毒になり、どうにかもう少し留めてやれないか贔屓も思案する。

「すぐ戻らねばならないのは残念だが、宵街の長に会って行くか?」

「長……ですか?」

 ゲンチアナは見知らぬ獣の提案に暫し黙考した。早急に連れ戻さねばならないが、王であるフェルニゲシュが他の街の長に挨拶も無く去るのは失礼なのではないか。

「それは……確かに会わないと失礼に当たるような……」

 虚空に向けて眉間に皺を寄せ唸るゲンチアナに、フェルニゲシュも頬を摩りつつ口を挟む。

「喧嘩を売っていると思われないか?」

「そういう態度を取らなければ喧嘩だと思われませんよ」

「そうか」

「……わかりました。無言で去るのは確かに失礼です。御挨拶に伺いましょう。案内をしてもらえると助かります」

 贔屓は安堵して頷き、浅葱斑も来るよう促す。狴犴に引き留めてもらえればもう少し二人は会話をする時間を得られるだろう。獣と変転人が友人関係になるのは珍しいことだ。双方は対等ではない。だからこそ二人の関係は大切にしてもらいたいと贔屓は思う。浅葱斑の方は狴犴に会うのは躊躇し、快い顔はしなかったが。

「石段を登った先に狴犴はいる。少し距離があるが、雑談でもして楽しんでほしい」

「はい。ありがとうございます」

「獏と灰色海月は持ち場に戻っていいよ。もう駆け込みの手紙もないだろうが」

 獏の噂を聞いて走り書きの手紙を投函したことを思い出し、ゲンチアナは頬を染めて俯いた。我ながら大層な慌て振りだった。

「うん。それじゃあ今度こそ。フェル、アナさん、またね」

 微笑みながら獏が手を振ると、フェルニゲシュは軽く手を上げ、ゲンチアナは丁寧に深く頭を下げた。

 石段を登る四人の背中を見送り、何とか騒ぎにならずに行ってくれたと安堵する。ゲンチアナの平手打ちには驚かされたが、その後の彼女は冷静だった。フェルニゲシュも遣り返すことがなくて良かった。獣が怒って遣り返せば、広場どころか一帯の家々が吹き飛び兼ねない。

 罪人の獏は灰色海月と共に、灰色の傘でくるりと自分の牢へ戻った。


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