189-惨劇の連鎖
一面の白が視界を覆い尽くす。雲に覆われた空も雪に埋もれた土も白に染まり、吐く息も白い。
遥か昔、ある男が人間の喧騒から離れて山上で暮らしていた。
男は木の生えない雪景色にぽつんと立つ小さな石造りの家へ帰る。男の髪は世界を映したように白く、その頭にはシャモアの角が生えていた。
男は暖炉で火を焚くが、人間ほど寒さを感じるわけではない。男は自分のためではなく、共に暮らしている三人の女のために火を焚いている。
人間と接触しないよう山の上に棲んでいるのだが、それも時間の問題で、人間は何れ山上にも踏み込んで来るだろう。人間は何処へでも行こうとする。その内、獣のように空も飛びそうだ。
人間から距離を置いているのは、人間の争いに巻き込まれたくないからだ。この時代の人間は鎧を着用し、剣を抜いて殺し合う。人間の全てがそうではないが、物騒だ。人間が暴れていても獣にとっては取るに足りないことだが、変転人には危険である。男は身の周りの掃除や食事の用意など家事をしてもらうために変転人を傍に置いている。そのために人間から離れて暮らしていた。
男は机上に大きな籠を置き、中から食料を取り出す。作物やパンなど、人間の所から窃盗ねてきた物だ。
暖かな家の中で編み物をしていた女達はそれを置き、ぱたぱたと机上を覗きに遣って来る。
「お帰りなさいませ、ロク様」
三人の女は声を揃えて述べ、各々表情を浮かべる。ゲンチアナは穏やかに微笑み、アルペンローゼは人懐こく笑い、エーデルワイスは控え目に口元に笑みを湛えた。
「外は寒いですか? 羽織る物を編みました」
三人は家に籠って各々編んでいた三枚を繋ぎ合わせ、大きな一枚の布となったそれを男の背に掛ける。獣は気温など気にしない者が多いが、変転人にはそれがどの程度なのか想像できない。空気が冷え、冷たい雪の積もる外はとても寒そうだ。一人で食料を集める男へ、労いも込めて贈る。少し歪で目の数が不揃いだが、何とか四角い形になっている。
男は彼女達と暮らしているが、一人で山を下り食料を集めている。下山は転送で一瞬なのだが、帰りは徒歩で登山をしているため、人間に近い変転人を連れて行くと時間が掛かる上に危険なのだ。雪が積もる季節は足元が悪く、最悪の場合、足を滑らせて崖の下へ転落するかもしれない。男が一人で食料を集める方が余計な心配をせずに済む。
「冷気は感じるが、気にする程じゃない。道中で何匹か動物を仕留めた。捌くから、羽織るのは後だ」
布に包んだ物を籠から取り出し、男は素っ気無くドアへ戻る。折角拵えた羽織物に血が付着すると台無しだ。三人は慌てて彼の背から羽織物を剥ぐ。
男はいつも淡々としていて、感情をあまり見せない。だが冷酷なわけではない。三人はそれを知っている。
「今日は豆のスープと、肉を焼きましょう」
「食料、台所に運んでおきますね」
「肉を捌くの手伝います」
それぞれに得意な家事があり、ゲンチアナは料理、アルペンローゼは掃除、エーデルワイスは狩猟の手伝いが得意だった。三人は有毒の無色の変転人なので身体能力に自信はあるが、エーデルワイスが最も狩猟を得意としていた。雪のある内は男が一人で動物を狩っているが、雪が溶ければ彼女も共に狩りに出る。
防寒具を装備し、エーデルワイスは角の生えた男――ズラトロクを追って雪の中へ出る。吐く息が白い。白い雪を赤く染める狐と二匹の栗鼠にナイフを向けた。
「冬の間はあまり体が動かせないが、家に籠ってばかりでは退屈か?」
仕留めた狐に刃を入れ皮を剥ぎながら、ズラトロクはエーデルワイスに尋ねる。エーデルワイスは白い息を吐きながら栗鼠の皮を剥ぎ、怪訝な顔を上げる。
「毎日楽しいですよ。一人だと少し寂しいかもしれませんが、アナとアルもいるので。誰が一番に綺麗に編み終わるか競争してるんです」
「三人は本当に編み物が好きだな。編んだ物も増えてきた。専用の倉庫でも建てた方がいいか?」
「迷惑ですか?」
「いや。だが置き場が無いと汚してしまうかもしれないだろ?」
「編むことが目的なので、編めればそれでいいんですが。ロク様はどんな色が好きですか?」
「好きな色……考えたことが無いな。君には好きな色があるのか?」
「それは……私もすぐには思い付きませんが、目が覚めるような鮮やかな糸で編んでみたいですね」
「鮮やかか。意識しておく」
話しながら捌いていると視線を感じた。ドアに隙間を作り、二人分の目が覗いていた。
「私もロク様と御話したいです」
「ロク様は偶によく御喋りしますが、家の中で発揮してください」
外は寒いため家から出ることを躊躇うゲンチアナとアルペンローゼは、白い息を吐いて震えながら訴える。
「君達が顔を合わせていれば、君達が互いに話すだろ」
「いつでも会話に入っていいんですよ」
「そうです。山の下で何を見たかを話すだけでも私は嬉しいです」
「……取り敢えずドアを閉めていろ。変転人でも病を患うかもしれない」
エーデルワイスのように防寒具を着用していれば問題無いが、薄着で雪の中に出ると体調を悪くするかもしれない。ズラトロクの気遣いを汲み取り、ゲンチアナとアルペンローゼは小動物が翻るように頭を引っ込めてドアを閉めた。
山の下で見た物など、変わり映えしない物ばかりだ。石造りの建物が並び、人間が行き交う。ズラトロクの角は目立つので、街の奥までは入らない。人間の目に触れないよう歩いているため、人間の生活も詳しくは知らない。それで一体何を聞きたいと言うのか。ズラトロクは首を捻りながら肉を捌いた。
「……すみません。皮を剥ぐのを失敗しました」
一枚の毛皮にすれば使い道を色々と考えられるのに、半端な位置で切れてしまった。
「ああ、後は遣っておく。栗鼠はもう一匹見つけたかったんだがな。君達は栗鼠肉の方が好きだろ?」
「狐も悪くないですよ」
失敗をしても彼は怒らない。それを優しいとは思うが、最初から期待なんてされていない気がして少し寂しいとエーデルワイスは思う。だが彼は優しいから怒らないだけだ。
そこまで考えてエーデルワイスはいつも無意識に笑みを零してしまう。ゲンチアナとアルペンローゼも含め、三人は彼を慕っていた。どんな些細な話でも、声を聞くだけで幸せだった。
山上は険しく厳しいが、四人は穏やかに暮らしていた。ズラトロクも獣にしては争いを好まず、人間から離れて暮らすこの生活を気に入っていた。
この生活が終わることなど誰も考えたことがなく、終わりも望んでいなかった。
雪が溶け、山にも春が芽吹く頃、それは起こった。
ズラトロクはいつものように数日に一度の下山をし、大きな籠に一杯の食料を窃盗ねていた。
(……この糸、良い色だな)
人間の小さな街の隅に糸を売っている店があった。編まれた完成品も売られているが、彼はその鮮やかな緑色の糸が気になった。芽吹いた山よりも深い緑は誰の目も惹き付けるだろう。家で待つ三人もきっと気に入る。自然と口元が綻んだ。ズラトロクは食料と共にその糸も窃盗ねた。
(次に下山する時はこの店に連れて来てやるか)
その日は穏やかな空が頭上に広がっていた。とても良い天気だった。
道中で小動物を狩り、厚い布に包んで持ち帰る。そこまではいつもと同じだった。
――山上が騒がしい。いつも静かで、聞こえる声と言えば動物の声だけの山上で、耳障りな声が聞こえた。気の所為ではない。確かに家の方角から聞こえた。
(何だ……? 男の声?)
女の声ならば、三人の声だと思っただろう。だが聞こえた声は男のように低い声だった。あの家に男はズラトロクしかいないというのに。
怪訝に思いながら足を速め、その姿を捉えると駆け足になった。食料が入った重い籠を投げ捨て、狩った獲物を声の主に投げ付けた。
「うわああ!?」
「なっ、何だ!?」
そこにいるはずのない人間の男達が、ズラトロク達の小さな家に群がっていた。三、四……いや五人だ。それぞれ血に濡れた剣や斧を持っている。
何の血か? それを確かめる前にズラトロクは一見ただの木の棒にしか見えない杖を召喚し、先に付いている透明な石が光る。一振りで男の首を撥ねた。
「な!? こいつが親玉か!?」
「こいつを殺せば終わりだ! 人間の意地を見せろ!」
「人間を脅かす化け物め! 覚悟しろ!」
身に覚えの無いことを叫ばれて眉根を寄せるが、問い質すことはせず杖を振る。首を飛ばしたその向こう、開け放たれたドアの中に血痕が見えた。
床に広がる血溜まりに、それを踏んだ赤い足跡、そして動かない白い指先が見えた。
「…………」
ズラトロクは微かに目を見開き、残りの人間の首を纏めて切断した。
地に転がった頭はもう何も吠えず、数秒は眼球が揺れていたがすぐに微動だにしなくなった。地面に血が広がり、土と草をじわじわと濡らしていく。
物静かなズラトロクがこれほど感情を動かしたことは初めてだった。最悪の気分だった。自分の角を折りたいと思う程に。
開け放たれた家の前に立ち、呆然と血溜まりを見下ろす。咽せ返る鉄錆の臭いに眉を顰めた。
赤く濡れた床には三人の女の死体と、編んでいる最中の布と編み針が落ちていた。全て赤く染まっている。
こんな高い山の上には人間が来ないと油断していた。彼女達が共に下山して人間に接近する際、もし襲われることがあれば、ズラトロクが相手をすれば良い。そう思い、彼女達に戦い方を教えなかった。三人はきっと何も抵抗ができなかった。
床にはナイフが一つ落ちていた。おそらくエーデルワイスだ。彼女だけは狩りのためにナイフの握り方を知っている。それでも武器を持った人間との戦い方は知らない。彼女は前に立ったが、最初に叩き切られて殺された。ゲンチアナとアルペンローゼは衣服が乱れ、辱めを受けた後に殺された。ゲンチアナの頬には涙の跡があった。
人間は街の何処かでズラトロクの角を見たのだろう。人目に付かない場所を選んで歩いていたのだが、見つけた人間がいたようだ。角の生えた男が化け物に見えた人間達は、その棲み家である山に登った。人間に危害を加えると思い込んだのだろう。危害を加えたことなど無いと言うのに。なのに化け物は悪としか見てもらえないようだ。
人間が険しい山の上まで登って来るのは、ずっと先のことだと思い込んでいた。もっと標高の高い場所に家を建てるべきだった。
「……居てやれなくて……悪かった……」
ズラトロクは片手で顔を覆う。こんな姿になってしまった彼女達を見ないようになのか、合わせる顔が無いのか、涙を堪えようとしているのか――何も考えられなかった。
彼女達はもう目覚めることが無い。もう朝を迎えることも、家で待っていることも、笑うことも編み物をすることも無い。この暮らしに終わりが来るなど、想像しなかった。
「君達を弔ってやりたいが、まずは愚陋な人間だ……先に捨ててくる。少し待っていてくれ」
ズラトロクは死体となった人間の男達を無造作に掴み、引き摺って崖へ捨てに行く。本当は人間の街まで運んで脅しとしておきたかったが、そんな気力は無かった。
人間を処理し、彼は小さな家に戻る。冷たくなってしまった三人が迎えてくれた。
「……弔う……とは言ったが、何をすればいいかもわからない俺に、君達は呆れるだろうな。……もう少し傍に居てもいいだろうか?」
彼女達の作った羽織物はたくさんある。毎日飽きもせずに編んでいたからだ。血溜まりから彼女達を掬い上げ、血痕の無い床に寝かせた。温かい羽織物を一枚ずつ掛けてやる。
「傍にいると言っても、放っておけば人間なら一年も経たずに骨になる。君達もそうだろう」
長くて半年ほどだろうか。そう思いながら彼は名残惜しく何十日も彼女達の傍に居たが、人間や獣では有り得ない変化が起こった。彼女達から小さな芽が生えてきたのだ。
きっと新しい生へ向かおうとしている。ズラトロクには知識が無かったが、そう解釈した。自分だけがここに留まっているのだと。いつまでも抜け殻の傍に居ては、彼女達も心配してしまうだろう。
留まる間、そこに人間の男は何度か来たが、ズラトロクは全て殺して処理した。山上に到達する前に半数以上が滑落や落石などで死んでいるようだが、それはどうでも良い。
(俺がこんなに未練がましい奴だとは思わなかったな)
人間に知られてしまった居心地の良い居場所を捨て、ズラトロクは山を下りた。人間の街には寄り付かず、彼は人間のいない森へ向かった。
獣の長い生の中で、それは一瞬の平穏と喪失だった。
だが生涯、あの三人を忘れることは無いだろう。
* * *
穏やかな木漏れ日が降る鬱蒼とした深い森の奥で、美しい女が眠っていた。鳥達の囀りが遠く聴こえ、穏やかな小川が心地良い音を奏でる。
こんな平穏の中でうっかり転た寝などしない者はいないだろう。女は二つの目と、額の三つ目の目を閉じ、徐々に音が遠くなる。うっかり眠ってしまっても、こんな所に人間など来ない。森に入れば人間は忽ち方向を見失い、迷子になるからだ。家に帰れずに骨となる人間は少なくない。
動物は人間を襲うことはあっても、獣を襲うことはない。弱い獣なら舐められるかもしれないが、三つ目の女は弱くない。動物はどちらが強いかわかっている。知能では動物は人間に劣るかもしれないが、野生に於て動物は賢い。
柔らかい草と苔のベッドで女は穏やかに眠りこけ、見下ろされていることに気付かなかった。覗き込む者は無防備な女に首を傾げ、辺りを見渡す。ちょろちょろと流れる細い小川の近くに泉があり、きらりと光る物が見えた。傍に行って見ると、それは水を固めたような、球体の美しい宝石だった。小枝を組んで流されないよう固定されたそれは只の球ではなく、まるで繊細なカットが施されているかのように光を乱反射している。木漏れ日を思わせる光だ。
所々に金色が混じる長い黒髪を一つに縛った長身の青年は、躊躇い無くそれを拾った。石が長年水流で削られると角が取れて丸くなるが、ここまでの球体になるには相当な時間を要するだろう。丁度眼球ほどの大きさだ。硬そうに見えるが、持った感触は脆くも思える。ひたりと冷たく、不思議な感触だった。
「ぁ……」
宝石を凝視するその背後で、小さく声が上がる。眠っていた女が体を起こし、二つの目を見開いて震えていた。
青年も振り返り、目が合う。女の額の目は閉じられたままだった。
「そ……それ……」
「この宝石か?」
「か、返して……!」
「返す? これはオレが拾ったんだ」
「私がそこに置いてたの!」
「…………」
青年は眉を寄せ、背後の鰐のような黒い尾を一振りする。青年は女がこの宝石を置く所を見ていない。横取りする気ではないかと考える。
「あっ、貴方の手、よく見たら血が付いてるじゃない! 汚れた手で触らないで!」
「ああそうだ、血を洗い流しに来たんだ。人間を引き千切って遊んでいたからな」
「だったら洗って何処かへ行って! 勿論、その目は置いて行ってよ!」
「目? ……確かに言われてみれば眼球にも見えるな。この辺りは瞳孔のように深い色をしている」
「だから早く離して!」
丸い宝石をくるくると回して見る内、青年は手が滑ってそれを落としてしまった。手に付着していた血で滑ったのだ。宝石は剥き出しの岩に当たり、硬い音が鳴って転がる。
「あっ、ちょっと……!」
青年は転がるそれを捕まえるため、うっかり力を入れてしまった。
林檎を握り潰すように宝石に罅が入り、呆気無く潰れる。林檎より脆く、青年の握力の方が上だったようだ。
「や、あああああ!!」
砕けて残念だと思う間も無く、女から悲鳴のような悲痛な声が上がった。青年は眉を顰めて振り返り、額を押さえる女を見る。額の閉じた眼窩から赤い涙のように血が溢れていた。
女は必死に顔を上げ、砕け散った宝石を視界に収める。その顔に浮かぶのは只一つ、絶望だけだった。その顔は青年を喜ばせるに充分だった。人間の絶望とはまた違う、滅多に見ることができない獣の絶望は青年を高揚させた。
「手で顔を隠すな。もっと見せろ」
「や……いや……ごめんなさい……ごめんなさい!」
女は必死に首を振り、二つの目からは無色透明な涙が零れる。あまりの痛みに女は額から手が離せず、杖を召喚する余裕も無い。泣き噦る彼女に青年は砕けた宝石を踏んで接近する。
「やああああ! やめて……!」
砕けても尚、岩と靴底に擦られる痛みが伝わる。痛覚が切れるまでもう暫く時間が掛かる。
その丸い宝石は女の言う通り、彼女の物だった。彼女の額にある三つ目の目だった。額の目を潰された痛みは尋常ではなく、二つの目を潰されるよりも痛い。彼女の額の目は特別なのだ。絶対に他人に触らせてはいけない物だった。
興奮を隠し切れず腕を伸ばす青年に、女は怯えてしまった。抵抗よりも逃げることを選んでしまった。
絡れそうな足を引き摺り、女は踵を返して脱兎の如く逃亡した。
「……逃げるのか。オレと同じ龍属だと思ったのに、背を向けて逃げるんだな」
女の背に生えた小さな蝙蝠のような翼を見詰め、青年は彼女を追うか暫し迷った。
女は一心不乱に走ったが、激痛と恐怖で動かしていた脚もやがて力尽きてしまう。
額の痛みはほんの少し和らいだが、声と涙は止まらない。血もまだ流れている。声を出していればすぐに居場所が知られてしまうだろう。なのに止めることができなかった。女は地面に座り込み、俯いた顔から涙と血が落ちていく。
そこに前方から土を踏む音が聞こえ、女は混乱しながらも顔を上げた。恐怖と困惑が貼り付いた双眸に、怪訝そうに立つ男が映る。この男には先程の青年のような尾は生えておらず、代わりに頭に二本のシャモアの角が生えていた。髪も黒くはなく、白髪だった。
「けたたましく鳴く人間がいるのかと思ったが……獣か?」
男は驚くが、近寄って宥めることはせず、その場から動かなかった。不用意に接近しないことで、女の中に少しの信用が生まれた。
「たっ、たす……うぅ……」
助けを求めようとしたが、できなかった。獣が助けを求めるなど笑い話だ。しかも彼女は誇り高きドラゴンだ。ドラゴンが他の獣に助けを求めるなど、最大の屈辱だ。
「……状況が全くわからないが、血が止まらないのか? 止血ならしてやってもいいが」
「ううぅ……違う……違うの……失った目はまた生えるから……」
「目を失くしたのか? 獣でも中々無い落とし物だな」
「つ、潰されたから……潰した奴が、追って来るの!」
「…………」
角の生えた男は、女の背後へ目を遣る。そこには鬱蒼と茂る森が広がるだけで、獣の気配は感じなかった。
「距離があるのか、気配は感じないな」
「どうしよう……私……大変なこと……した……」
「大変なことをしたのは向こうじゃないのか? 目を潰されたんだろ?」
「私……花街の王なの……。こんな無様に敗北して、もう王なんてできない……あいつが王になるんだわ……」
獣は単純だ。そして動物に近い思考を持つ。群れを持つ動物はその群れの中で最も強い者でなくてはならない。強者こそが皆を纏め、上に立つことができる。
「花街は耳にしたことがあるが、王とは……。数奇な出会いをしてしまったな。ここは静かな森だと思ったんだが」
「私も……静かな森が好きだった。私……これからどうしたらいいの……?」
「敗北を感じたことを隠して王を続けることはできないのか?」
「無理よ……あの黒い龍を見ると震えてしまうんだもの。あいつだけじゃなくて、今後もうどの龍を見てもまともに立っていられないかもしれない……」
「重症だな」
「……あ、あの……私と一緒に、あの粗暴な龍を抑えてくれない!?」
唐突な要求に男は渋い顔をする。食事の誘いなら受けても良いが、王の側近とは荷が重い。
「いや……そこまでは」
するつもりはない。そう断ろうとしたが、言葉が全て出る前に不穏な気配を感じた。
「…………」
森の奥から、金色混じりの長い黒髪を一つに束ねた青年が歩いて来た。背には黒い鰐のような尾が揺れている。女の言っていた黒い龍だ。
「……ん? 一人増えたな。あの顔をもっと見ようと、砕けた眼球を繋ぎ合わせようと思ったんだが、生憎オレは不器用みたいだ。壊す方は得意なんだが」
「!」
女も背後に気付き、縋るように白髪の男へ這い寄った。
「無様で滑稽な姿だな。オレは蟻を潰すのが趣味なんだが、獣を甚振るのも存外面白そうだ」
青年はくつくつと不敵に笑い、吟味するように女を見下ろす。女はもう立てない程に怯えていた。
厄介なことに巻き込まれたと思いながら、角の生えた男は改めて黒い龍を見る。ドラゴンと言えば余りに有名で、その強さ故に能力もある程度知られている。空を飛ぶ獣の殆どは杖に乗って飛ぶが、ドラゴンは背に目立つ翼を生やし、それを誇示して飛ぶ。つまり木々が視界を覆う森の中で飛ぶことはできない。そして火を扱う獣だ。こんな所で火を出せば森が大火事だ。もしこの森を気に入っているのなら、彼が火を放つことは無いだろう。気を付けるべきは、その他の能力を持っている場合だ。それはドラゴンによって異なる。
角の生えた男は怯える女を見下ろし、心中で溜息を吐いた。そんなに怯えた顔で縋られて、助けないわけにはいかない。嘗て助けられなかった三人が脳裏に浮かぶからだ。目の前で助けを求められることも叶わなかった、その遣る瀬無さは消えない。
「……君は、随分と血の気が多いんだな」
「何だ? お前は」
「お楽しみのところ悪いが、君に朗報がある」
「朗報?」
突然現れた男に青年は訝しげな顔をするが、良い報せと言われると聞きたくなるものだ。
「君はこの度、晴れて花街の王になることになった」
「は?」
当然の反応だろう。何の前触れも脈絡も無く王になるなどと。時代が違えば、『当選おめでとうございます』と突然メッセージが届く詐欺のようだ。
「彼女は花街の王らしい。君に王の座を譲りたいそうだ」
「…………」
青年もさすがに手放しで喜ばない。言葉の意味を理解しようと努めるが、やはり何を言っているのかわからなかった。
「……まず、花街とは何だ?」
「そこからか」
花街は人間の街とは別の空間にあり、獣や変転人が棲む場所だが、彼のように知らない獣もいる。花街で生まれる獣はいないからだ。風の噂か誰かに教えてもらわない限り、花街を知ることはない。青年の疑問は、今まで彼が独りだったことを教えてくれた。
「花街は獣と変転人が棲む街なんだが、人間はいない。活動の拠点にしている獣も多数いるらしい」
「人間がいない……? そんな場所があるのか。だが面白く無さそうな街だな。蟻の断末魔を聞くんじゃなく、獣を甚振れってことか?」
「平穏を望んでいる街で暴れようとするな。君も人間のいないこの森に来るんだから、人間から離れたい時もあるんだろ? 花街では絶対に人間に出会すことがない」
青年は大人しく耳を傾けた。青年とて常に人間を襲い、姿を晒しているわけではない。どんな強者でも休息は必要だ。絶対に人間に出会すことのない休憩所があるなら、それは安心して眠ることができる場所なのではないだろうか。
「言いたいことはわかったが、その王と言うのは何だ?」
「花街で一番偉い奴だ」
「一番偉い……」
偉ぶっているだけでなく遣ることはあると女は訴えたかったが、口を挟んで黒い龍の矛先が再び彼女を向くことは避けたい。
青年はよく咀嚼するように黙考し、首を傾ぐ。今まで力で捩じ伏せてきた青年には『偉い』という漠然とした言葉が示す意味が理解できなかった。
「……つまり、生かすも殺すもオレ次第……ってことか?」
そんな野蛮なことはしていないと女は訴えたかったが、男は頷いてしまった。助けを求める相手が悪かったのだと女は後悔した。だが今更立ち上がって抵抗もできない。花街は乗っ取られて終わりだ。
「だが現時点ではまだ王じゃない。戴冠後に王になるんだ。そんなに時間が掛かることではないから安心しろ。戴冠までは大人しく辛抱するんだ」
「オレは焦らされるのは嫌いだが、待つことで旨みが増すことは理解できる。さっき蟻の巣を壊滅させた所だからな。少し休もうと思ってた所だ」
「それはいい。じゃあこっちも急がないとな。戴冠の準備をする」
男は座り込む女の腕を取り、立ち上がらせて穏やかに青年から距離を取った。転送するには杖を召喚する必要があるため、青年の気に障らないよう徒歩でその場から離れる。
青年の姿が完全に見えなくなり、気配も感じられないほど遠くまで歩いた頃、歩みは止めずに男はハンカチを取り出した。
「私もハンカチくらい……持ってるわ……」
「血で染める必要は無いだろ? これを使え」
「…………」
目前に差し出され、女は渋りながらも受け取った。額の血はもう殆ど止まっている。
「あの……感謝はしたいけど、あいつを王にしたら大変なことに……」
「そうだな。あいつを王にはするが、好き勝手にさせるつもりは無い。首輪を付けて管理し、君が引き続き実権を握るんだ」
「! そんなこと、できるの……?」
「俺一人では無理だが、君が手伝ってくれるならできる」
「も、もし本当にできるなら……私、貴方に頭が上がらないわ……」
「君が男なら黙って立ち去る所だが、女性だからな。放っておけなかった」
「……?」
可笑しなことを言う獣だ。女はそう思いながら顔にハンカチを当てて血と涙を拭った。
「まだ名前を言ってなかったわ。私はヴイーヴル。えっと……面倒に巻き込まれたと思ってほしくないけど、手伝ってもらうんだから正直に言うわ。私は天使に頼まれて花街の王を始めたの」
「天使? 生憎天使は知らないな」
「天使は滅多に姿を現すことがないし、私も最初に頼まれてからは会ってないわ。棲む場所が違うから……。天使は白い変転人だけ欲しいみたいで、他の色の子達の面倒を見てもらうために花街を創ったらしいの。因みに私の前の王は面倒臭くなって逃げたとか」
あまりに正直に話すので、男は呆気に取られた後に思わず失笑してしまった。勿論声を抑える努力はしたが、ヴイーヴルはきょとんと小首を傾いでしまう。男は久し振りに笑ったと心の中で苦笑した。
「なら君は随分と面倒見がいいんだな。――俺はズラトロクだ。俺も花街……と言う場所をあまり知らないんだが、さっきの俺の説明が間違っていたら訂正してくれ」
「大体合ってるわ」
「首輪の管理にはもう少し獣を増やさないといけないかもしれないが、いいか?」
「たくさん棲める大きな城があるから大丈夫よ。でもあんまり大人数は嫌ね。大人数は把握が大変だから。少人数だと無能がいても目立つからすぐに捨てることができるけど」
戴冠の準備と言って待たせている間、二人は青年のことを調べた。どうやらヴイーヴルが手を焼いていた獣らしいことが発覚した。黒い龍は何度も人間の町や村を焼き、数え切れない程の人間を殺していた。人間を滅ぼそうとするかの勢いで殺し回るため、処罰が必要だと考えていたのだ。だが現場から去るのが早く、中々捕まえられなかった。
罪人なら心苦しいことは無い。戴冠は冠を戴くことだとばかり思っているだろう彼に、冠ではなく首輪を与える。
手強い獣なので上手く行く保証は無かったが、意外とあっさりと二人で彼に首輪を掛けることができた。きっと油断していたのだろう。
首輪はそれを付けた者を抑制し、鎮めるためのものだ。粗暴な気性を鎮め、力を抑え込んだ。封印したと言い換えても良い。
だが彼の力は存外大きく厄介なものだった。通常なら恒久的に封じることが可能なのだが、彼の場合は約五十年で綻びが出てしまう。それに気付いたのは首輪を掛けて何年も経った後だった。首輪が壊れてしまうと、戴冠だと欺いたことに彼は怒り狂うだろう。何としても維持するしかなかった。
想定外の事態に、首輪を掛けるだけの知識しか無かったズラトロクは、維持の問題を解決するために誰かを頼るしかなかった。相談した相手が悪かったのかもしれない。だが他に遣り方を発意できなかった。ズラトロクの記憶に遺るゲンチアナの花で再び変転人を作り出し、それを死地に送らなければならなくなった。ズラトロクは悩んだが、黒い龍――フェルニゲシュが暴走する方が危険だ。
一人の犠牲で済むなら、それに縋るしかなかった。
感情を殺すために、弔わないことを規則とした。
そうして何人ものゲンチアナを殺した。
何人殺しても、代わりの方法など見つからなかった。
地獄を繰り返すことしかできなかった。




