185-不実な真実
壁の彼方此方に大穴が空く古城を抜け出し、エーデルワイスとアルペンローゼ、そして獏は花街から離脱した。
白い壁に挟まれ、足元に石畳が伸びる誰もいない人間の街の薄暗い路地へ降り立つ。
「……あれ? 空が暗い? 花街は明るかったのに……」
片手には小さな羽毛を、もう片方の人差し指と親指で作った輪を下ろし、獏は細い空を見上げる。花街では薄青い空が広がっていたが、人間の街は夕刻のようだ。
「人間の街とは別の空間に存在するのは御存知ですよね。宵街も同じはずです。人間の街の日の入や日の出は季節によって異なるので、合わせるのは大変です。なので独自に夜の時間を設定してるんです」
話せないエーデルワイスの代わりにアルペンローゼが丁寧に説明をする。花街が存在するのは人間が住む世界ではなく、全く別の空間だ。人間の街の太陽には干渉されない。
「成程……宵街は昼とか夜とか無いから、考えたことなかったよ」
納得して足が止まっていると、エーデルワイスが灰色の傘で強く脚を突く。
「ご、ごめん。すぐ捜すよ」
何も言わずとも、早くゲンチアナを捜せと急かされていることがわかる。
大公より先にゲンチアナを見つけて保護する。それが花街を出た目的だ。ゲンチアナの身がどのように危険なのかは知らないが、アルペンローゼは何も疑っていないようなので獏も従う。指の輪で周囲を覗き、ここで思念を辿ることができるか、真剣な目を誰もいない路地の奥へ向ける。
「……この辺りにはいないかも。ちょっと離れてる気がする」
「別の国ですか?」
「うーん……そこまでは……いたっ、痛いよ……傘で突かないで」
声が出ない代わりにエーデルワイスはひたすら傘の先で獏を突く。転送の方向を指定したのは獏だ。何となくこの辺りだろう、という漠然とした勘でここ――イタリアに来た。
「国じゃなくて、街……かな? 国の広さがわからないけど、そんなに離れてる感じはしないんだよね」
「方向はわかりますか? 僕が転送します」
「もし隠れてるなら、人間に見つからないような場所だと思うんだけど」
「見つからない場所……郊外でしょうか?」
二人の遣り取りに、獏を突いていたエーデルワイスははっとした。アルペンローゼの胸倉を掴んで引き寄せる。ごち、と少し痛そうな音がして二人の額がぶつかった。
「……ワイス、もう少し丁寧に……」
転送先の共有をしたエーデルワイスはすぐに離れ、アルペンローゼは額を摩る。負傷した耳にも響いた。これでは頭突きだ。額が少し赤くなった。
エーデルワイスに急かされ、アルペンローゼは掌から黒い傘を引き抜く。彼女に示された場所へ転送した。
人工的な明かりが無い木立が周囲に現れ、一同は周辺を見渡す。壁も石畳も無くなった。土と草が地面を覆っている。深閑としていて、人間は来そうにない。
「……街からはかなり離れてますね。公園ではないようです。森でしょうか?」
「手入れされてなさそうだもんね」
獏は指の輪でぐるりと見回す。先程よりも気配が近い。
「方向は……こっちか……わっ」
進もうと足を出す前にエーデルワイスに服を強く引っ張られた。彼女は木々の奥の暗がりを指差している。
陽が落ち、空からはもう殆どの色が消えた。夜目の利かない二人に離れないよう言い、獏は彼女の指す方向へ進む。
エーデルワイスの示す通り、思念の気配はそちらから感じる。最初は心当たりが無いと彼女は言っていたが、今は何かあるようだ。
土や草を踏む三人分の足音以外は何も聞こえず、暫く歩くと古い小さな教会がぽつりと現れた。
「この中かも」
「こんな所があったんですね。隠れるには良い場所です」
「……まさかまたここに来るとは思わなかったけど」
「来たことがあるんですか?」
「うん。僕は見てないけど、ここでユニコーンが死んでたんだって」
「!?」
いつも冷静で表情を変えないアルペンローゼが珍しく目を瞠った。思わず手を出そうとして、相手は獣だと寸前で我に返る。
「驚くよね。僕もそうだよ。たくさん助けてもらったもんね」
「そう……ですね。そうなんですが……」
アルペンローゼの歯切れが悪い。獏は指の輪から彼に目を移し、動物面の小首を傾ぐ。
「もしかしたら何か関係があるのかも……」
「関係?」
「これはワイスに話していることなので」
アルペンローゼは獏を一瞥し、エーデルワイスに向き直る。彼女に話すと言っても、すぐ近くに獏もいるのだから全て聞こえる。前置きをしたのは、獏に聞かれると不味いことだからなのかもしれない。獏は言わんとすることを汲み取り、空気を読むことにした。また規則とやらが絡んでいるのかもしれない。聞くなとは言われなかったので、こっそり聞いていても良いはずだ。
「ユニコーンはフェル様が宵街に派遣した密偵だ。だが、急にフェル様と連絡が取れなくなったと言って、ユニコーンは花街に戻った。その後どうなったのか僕は知らないが……まさかそんなことになっていたとは……」
やはりユニコーンは花街の指示で動いていたようだ。獏は然程驚かなかったが、それを最初から知っていたとしてもユニコーンを責めなかっただろう。宵街を虫から救ってくれたのは彼女なのだから。
エーデルワイスは無言でアルペンローゼの腕を掴み、小さな教会へ足を踏み入れる。獏は逡巡したが、二人を追った。
小さな教会の中は最後に見た時と変わらず、荒れた姿でそこにあった。外はもう暗くなり漏れ射す明かりは無く、エーデルワイスとアルペンローゼは常夜燈を取り出す。エーデルワイスはそれを腕に掛け、紙切れに文字を書き殴った。
「…………」
紙切れをアルペンローゼに見せ、彼は目を丸くする。獏もこそこそと彼の背後へ回り込み、何が書かれているのか覗いた。エーデルワイスの眼球が獏を追っているが咎めない。それなら見ても構わない。
『フェルニゲシュは監禁されてる。だから外部と連絡なんて取れない。怒って首輪の制御が効かないから。だから攻撃があちこちに飛ぶ』
「……。あの攻撃は危険だ。だが、監禁されてるのに外へ打ち出せるのか?」
『最初は監禁で事足りてた。でも足りなくなった。攻撃を打ち出せるのはその所為。だから獣が直接抑えるしかない。それでも駄目なら、アナを使うしかない』
「さっきも言ってたな。アナを使うって、何なんだ?」
『フェルニゲシュの首輪は、代々ゲンチアナの犠牲が結んできた物』
「……!?」
『フェルニゲシュの感情に起伏が無いままだったとしても、約五十年で首輪に綻びが出る。ゲンチアナは代々、生まれて五十年前後で供物として殺されてる』
「そんな……」
アルペンローゼはまだ三十年ほどしか生きていない。ゲンチアナも同い年だ。そんな過去のことなど知らなかった。規則で耳に入らないよう定められていた。
ゲンチアナは代々王の秘書で、フェルニゲシュの傍に仕えるのが仕事だ。そう定められているから、それに疑問を抱かず働いてきた。もし首輪が外れそうになればその身を以て首を絞めるために準備されていた供物だったとは知らなかった。
『ゲンチアナには犠牲となる直前に供物となることを打ち明けるらしい。今のアナはまだ何も知らない』
「ワイスは何故……それを知ってるんだ? 知らないのはアナと僕だけなのか?」
エーデルワイスは首を振り、次の紙を見せる。
『本来は大公しか知らないこと。フェルニゲシュも知らない』
「フェル様も?」
『大公が勝手に遣ってることだから。アナを殺す時、フェルニゲシュは理性が飛んでるから覚えてないらしい。わたしはズラトロクから聞いた。喉を裂かれた時に』
「! ロク様から……」
それはズラトロクが規則違反を犯したことを意味する。
『前回のアナの死、その時にアルとわたしはアナを助けようとした。でも駄目だった。アナは殺され、アルも殺された。わたしだけ駆け付けるのが遅かったから、ズラトロクに捕まって、生かされた』
「…………」
生かす代償として、声を奪われた。その時の憎悪と虚無、喪失感は今でも鮮明に脳と喉に刻まれている。エーデルワイスは欠けそうなほど奥歯を噛み、表情を歪める。それ以来、新しいゲンチアナとアルペンローゼを護るために規則を守り、そしてズラトロクの傍にいた。憎い相手と過ごさなければならない屈辱の日々を送った。それでもそれに耐えれば、五十年程度は平穏なのだと信じていた。
『今のアナはまだ三十代。五十歳なんてまだ遠い。フェルニゲシュがこんなに感情を乱すのは初めて。想定外の何かがあったんだと思う。でも何があってもアナは渡せない。もう殺させない』
アルペンローゼには何処か遠い話のように聞こえた。彼はまだ誰の死も見ていない。本当に五十年でゲンチアナが殺されるのか確証が無い。だがエーデルワイスの表情は、嘘を言っているようには見えない。そして喉の傷も嘘ではない。
「……アナを見つけたら、そのことを話すのか?」
『それはまだ迷ってる。アナの状態による』
「そう……だな」
エーデルワイスは紙を下げ、アルペンローゼの背後で覗き見ている獏へ目を遣った。話は終わりだから早くゲンチアナを見つけろと訴えているようだった。
獏は衝撃的な話に瞬きを忘れて見入っていたが、自分に与えられた仕事を思い出す。そんな話を見せられては、ゲンチアナの保護に賛成するしかない。城の獣に見つかれば殺されてしまう運命ならば。
「……えっと、気配は……下の方から感じるんだよね」
「下? 埋め……いえ、地下があるんですか?」
「わからないけど、地下に行ける道がないか探してみよう」
「承知しました。不審な物や不自然な継ぎ目がないか探します」
アルペンローゼとエーデルワイスは頷き、左右に分かれて隅から目を凝らしていった。獏も蹲んで長椅子の下を覗き、不自然な所がないか床を叩く。下に空洞があれば音が変わるはずだ。
小さな教会なので、三人で探すと夜が明けない内に怪しい所を見つけることができた。教会の一番奥にある段差が不自然だった。出入口からは祭壇の陰になって完全に隠れている。階段にしては段差が高く、その周囲の砂埃は最近何かが擦ったように拭われていた。
「怪しい……けど、本当に地下の入口かな……?」
「小さいですね……」
三人は顔を見合わせ、自分の体を見下ろす。幸い、体の大きな者はここにはいない。少年体と少女体だけだ。エーデルワイスは率先してアルペンローゼに自分の常夜燈を押し付け、膝を突いて剥がれそうな段差に指を掛けた。
何かが壊れるような嫌な音がしたが、段差は蓋のように剥がすことができた。どうやら蓋を固定していた留具が無茶な引っ張り方で折れたようだ。横に引くのが正解だった。
蓋を横へ置き、ぽかりと口を開けた穴の中を見る。中にも明かりは無く、完全な闇で何も見えない。アルペンローゼは常夜燈を持った手を中に入れるが、近い位置に地面があることしかわからなかった。
「地面が見えるので、落ちて怪我をすることは無さそうです。他に怪しい所も無いので、僕が先に入ってみます」
「えっ、凄い度胸だね……」
「僕が一番肩幅が広いと思うので、僕が通ることができれば、皆通れるはずです」
「うん……肩幅……そんなに差は無い気がするけど」
一目見て明らかに異なる屈強な肩幅はここにはいない。
アルペンローゼは一つ咳払いをし、床に一旦二つの常夜燈を置いて躊躇い無く穴に両足を突っ込んだ。
「何かが掴んできたり、噛み付いてきたら引っ張り上げてあげるからね」
三人の中で唯一の獣である獏だけがはらはらと心配していた。不安そうに、穴に吸い込まれるアルペンローゼを見守る。
最後はすぽりと頭が穴の中に落ちるように吸い込まれ、獏は慌てて覗き込む。とんと地面に足が着く音がした。
「少し高さがありますね。天井に頭をぶつけないように、でしょうね」
アルペンローゼは穴を見上げながら手を上げ、獏は常夜燈を一つ下ろした。
「少し進まないと奥が見えません」
「僕も下りるよ」
一人で奥に歩いて行ってしまいそうなアルペンローゼを制止し、獏も両足を穴に突っ込む。アルペンローゼは一歩下がり、常夜燈を頭上へ掲げた。
「……あっ、鼻が」
マレーバクの面の鼻が穴に引っ掛かった。象ほどではないが少し長く、前に突き出た鼻は引っ掛かり易い。
面を地上に残したまま細身の獏はするりと小さな穴を通り、とんと地面に飛び降りる。
地面や壁、天井はやや不揃いな石が積まれて固められていた。エーデルワイスが穴にマレーバクの面を落とし、獏は大事に受け取る。
「上の教会もだけど、相当古そうだね」
「歴史的価値があるなら人間が管理しているはずなので、重要な物では無さそうですが」
「何と言うか、空っぽな教会だよね。御神体っぽいのも見当たらないし」
教会について話していると、上から頭を思い切り蹴られて思考が吹き飛んだ。
エーデルワイスも穴に足を突っ込んだようだ。獏は穴の下から退避し、落ちた時のために両手を浮かせて待機した。アルペンローゼも落下を考慮して構えておく。
「……ワイス? どうしたんだ?」
エーデルワイスは黙々と穴を潜っていたが、途中で停止して動かなくなってしまった。
腰の上辺りまで穴に入れた所でぴたりと止まり、足を振る。
エーデルワイスは地上で焦燥を漏らしながら、どうすべきか焦っていた。胸が穴を通らず支えていた。
「まさか上に誰か来たとか? 大丈夫? ワイスさん」
「誰かいるなら危険じゃないですか。引っ張りましょう」
地上の様子など見えない二人はエーデルワイスの腰や脚を掴み、思い切り引っ張った。
「……!」
エーデルワイスは目を見開く。声が出せないことがこんなに悔しいことは初めてかもしれない。
狭い穴に無理矢理胸を擦って引き摺り込まれ、エーデルワイスは穴に落ちることになった。そして心配そうな顔をしている獏の頬を拳で殴った。
「え……何で……」
「変な所を触ってしまったのでは?」
続いてアルペンローゼも耳を負傷していない方の頬を平手で殴られた。
「ワイス……?」
『支えただけ。痛かった』
「ごめん……」
「すみません……」
地上には誰も現れていなかったようだ。早とちりだった。
エーデルワイスは不満げに不貞腐れ、常夜燈を翳して奥へ進む。獏とアルペンローゼは気不味く頬を摩り、静かに後に続いた。
先の見えない細い通路は時折曲がり、奥に古そうな扉が現れる。
「この奥から気配がする」
獏は指の輪をドアに向ける。中から気配を一つ感じた。エーデルワイスの推測は当たりのようだ。
「アナですか?」
「だと思う」
「他には誰かいますか?」
「いないと思う。余程気配を消すのが上手い人じゃない限りは」
エーデルワイスは獏とアルペンローゼを後ろへ下げ、常夜燈を仕舞った。代わりに彼女は自分の武器、メイスを生成する。
間髪を容れずにエーデルワイスは勢い良くドアを開け放ち、中に居た白い少女は武器を持って現れた同僚に目を丸くして唖然とした。
エーデルワイスは狭い部屋の中を見渡し、少女の他には何もいないことを確認してメイスを仕舞う。
「わ……ワイス……?」
石積みの壁の隅には古そうな小さな机と椅子があり、その一つに捜していた白い少女が座っていた。何故こんな所に知り合いが遣って来るのか、不思議で堪らないといった顔をしている。
エーデルワイスは話せないため、アルペンローゼと獏も部屋に入ってゲンチアナの姿を確認する。大公より先に見つけ出せたようだ。
「アル、と……」
「獏だよ」
にこやかに名乗られ、ゲンチアナは目を瞬いた。覚えていないわけではなく、何故ここに宵街の獣がいるのか理解できなかったのだ。
「な、何でここに……? 二人も何で……」
「君を捜しに、だよ」
「私を……? あっ、城に戻らないから、心配させてしまったんでしょうか? でも戻るなと言われたので……」
三人は各々転がっていた椅子を起こし、ゲンチアナの前へ座った。ゲンチアナにも事情があるようだ。
「アナ、誰に戻るなと言われたんだ?」
真剣な顔で話を聞く体勢になってしまった三人に、ゲンチアナは途惑ってしまった。今から怒られるような雰囲気だ。こういう空気を何度も感じたことがある。
「……アルと別れた後、街には戻ったよ。寄り道もしてない。城に帰る途中でアイト様に会って、殺されるから暫く隠れてろって言われたの。フェル様はもう私を許してくれないんだと思う……」
「アイト様が……?」
エーデルワイスから聞いた話と違う。アルペンローゼと獏はエーデルワイスの方を見、彼女は紙にペンを走らせた。
『大公は敵。そのはず』
「でもアイト様は……。もしかしたら味方なのでは? 普段は他の大公に取り入り、実はアナを守ろうとしてくれてるんじゃないか?」
『そんなこと、ズラトロクから聞いてない』
「ワイスはロク様を信用するんだな。どちらを信用するか、難しいが……」
『獣なんか信用してない。変なこと言わないで。アルはいつも変だけど』
「何か変なことしたか……?」
『変じゃないアルはアルじゃない』
「……意味がわからない」
エーデルワイスは死んだアルペンローゼを今の彼に重ねて見ている。それを知らない彼にはエーデルワイスの言葉は理解できない。
アルペンローゼは困り果てるが、ゲンチアナは言い合う二人を見て次第に可笑しくなってしまった。いつまでこんな所に一人で居れば良いかもわからず待ち続け、知らぬ内に極限の状態だったのだろう。
堪えながらも小さく笑い出してしまったゲンチアナに、アルペンローゼとエーデルワイスは怪訝な顔をする。
「……あ、ごめん。三人でこうして話すのって初めてだと思ったの。ずっと同じ城に棲んでるけど、皆忙しくて休憩時間も合わないし……」
エーデルワイスは故意に避けていたのだが、そう言われれば三人が揃う機会は無かった。先にアルペンローゼが変転人となりエーデルワイスが仕事を教えたが、ゲンチアナが遣って来た時はアルペンローゼが教育の全てを任されていた。
「……あ、えっと、それで、皆は何でここに? フェル様が……許してくれるとか?」
二人はぴたりと口と手を止め、顔を見合わせて話を戻す。
「アイト様がアナに言ったように、まだ……危険だ」
「そう……やっぱり許してもらえないんだね」
アルペンローゼはエーデルワイスを一瞥する。何故殺されるのか、本当のことを話すのか視線で尋ねる。エーデルワイスもアルペンローゼを一瞥し、小さく首を振る。机の下で書いた紙を彼に見えるよう角度を付ける。
『アナは今、落ち込んでる。もう少し落ち着いてからがいい』
畳み掛けるように絶望を与えたら、心が壊れてしまうかもしれない。供物にされて殺されてしまうなど簡単には言い出せない。もう少し心の準備が必要だ。
それにアイトワラスの立ち位置がわからない。何故ゲンチアナを逃がしたのか、思惑が見えない。
「アイト様は他に何か言っていたか?」
「何も言ってないよ。ここに隠れてろって言われただけ」
「情報が少ないな……」
「待って。アイトワラスはここを指定したの?」
「はい。そうです」
会話を遮った獏を、ゲンチアナは気に留めず頷く。何か変なことを言っただろうかと小首を傾ぎながら。
「それって、いつ……? ここには死骸があったんだよね?」
「死骸……?」
ゲンチアナは何も知らないようにただ言葉を繰り返す。
獏はどう伝えようかと一旦口を閉じ、その瞬間にエーデルワイスに張り倒された。
「!?」
獏の首に勢い良く腕を掛け、背中から地面に叩き付けた。椅子が大きな音を立てて地面を打ち、獏は出そうになった声を呑み込んで身を捩る。
ゲンチアナは突然の攻撃に動揺するが、アルペンローゼには二度目の光景だ。手当てのために休憩室に入った時のことを思い出す。あの時もエーデルワイスが獏を下敷きにして押さえ込んでいた。
エーデルワイスは素速く文字を書き上げ、唖然とする獏の顔に紙を突き付ける。
『死骸を知ってるの? まさかさっき言ってたユニコーンって奴が、あの死骸……』
獏はこくこくと頷き、次の紙を見せられる。
『わたしは殺してない』
どうやら彼女の方も複雑なようだ。獏は緊張を滲ませながら再度こくこくと頷く。彼女の中で教会の死骸がユニコーンとやらに結び付く。彼女はユニコーンという名を知らなかった。
「ワイス……? どうしたの?」
「……二人は仲良くなった。スキンシップと言う奴だ」
「そうなんだ……?」
途惑うゲンチアナにアルペンローゼも困惑しながら機転を利かせて補足する。実際に仲良く見えるかはわからないが。
エーデルワイスはペンを仕舞い、獏を解放して椅子に座り直す。獏も身を起こし、倒れた椅子を起こして腰を戻した。
窮奇と饕餮が見たユニコーンの死骸は、獏達が訪れた時には無くなっていた。掃除屋に処理されたのだろうと蒲牢は推測した。
エーデルワイスはユニコーンの死骸を見ている。窮奇と饕餮が死骸を見た後に彼女はこの荒れた教会を訪れていた。そして今その死骸が無くなっていることに、彼女も不審に思っていた所だ。
「皆もここで待機するの?」
「暫くは共に避難するが、その後は……」
アルペンローゼはエーデルワイスを一瞥する。ゲンチアナを発見したが、その後のことを考えていない。この何も無い地下に籠城し続けることはできない。いつまで彼女を保護すれば安全になるのか。エーデルワイスは再びペンを取り出し、紙に走らせる。
「……私の所為で、ごめんね。皆まで城から離れないといけない程、フェル様が怒って……」
「…………」
怒りの所為でフェルニゲシュは監禁されているのか、正確な情報は無い。アルペンローゼはただ首輪の状態が悪いとだけヴイーヴルから聞かされていた。ゲンチアナは彼女に対する怒りの所為だと考えているようだが、直接本人に聞かない限りわからない。
彼女の心が落ち着くまで、アルペンローゼは取り敢えず相槌を打って話を合わせておく。
「私が至らないから……」
「アナがフェル様を殴っている所を見たことはあるが、それでも怒らないのに……自分よりアナが傷付くことで首輪が綻ぶんだな」
「アルが殴っていいって言ったから……」
「僕はワイスに……」
『言うことを聞かない獣は殴れってアルに教えたのはわたし』
変転人になったばかりの頃、アルペンローゼはエーデルワイスの言うことを全て鵜呑みにしていたが、今になって無茶なことを言っていたのだと気付いた。エーデルワイスに教えられたことをゲンチアナにそのまま伝えてしまった。
「もしかしたら、日頃の鬱憤も溜まって……」
直接フェルニゲシュから話を聞かない限り、想像が嫌な方へ膨らむ一方だ。ゲンチアナは肩を落として俯く。同僚にも心配され、余所の獣にも迷惑を掛けている。王の秘書失格だ。こんな騒ぎになってしまい、城に戻る勇気ももう無い。
重い空気が流れる中、堪え兼ねたのか突然エーデルワイスが立ち上がった。
手にメイスを生成したことで空気が変わった。彼女の握っていたペンが地面に落ち、小さく音を立てて跳ねる。
ドアの向こうから何かが来る気配を感じた。
背後を振り向き、アルペンローゼも手を構える。武器はまだ出さないが、いつでも生成できるよう掌に指を添える。
「――歓迎、してくれないのか?」
唐突に気配も無く、背後に金髪の青年が立っていた。
「アイト様……」
ぽつりと呟いたアルペンローゼに目を遣り、アイトワラスは碧眼を細めて笑む。杖は手にしておらず、転送で回り込んだわけではない。
「何でそんなに警戒するんだ? アナちゃんを保護してあげたのはオレなのに」
「アイト様は、何故ここに? フェル様はどうしたんですか?」
アイトワラスは城でヴイーヴル達と共にフェルニゲシュを抑えていたはずだ。徒でさえ手が足りないのに彼が抜けるのは不味い。
「ああ、そのことか。まあ……一応、首輪を維持させることはできたかな。後はフェル自身が気を鎮めてくれれば」
「ではアイト様はアナを迎えに来たんですか?」
「んー……アナちゃんは、もう少しここにいてほしいな。あんた達が城に見当たらなかったから、もしかしたらと思って来たんだけど、当たりだった。オレもあんた達と同じ、アナちゃんが死んでほしくない一人だ」
アイトワラスは明言しないが、ゲンチアナが王の供物だと言うことに触れていた。
エーデルワイスは武器を構えたままでは会話をすることができない。アルペンローゼ一人でアイトワラスの相手をするのは困難だろう。部外者ではあるが、獏も立ち上がって手を挙げた。
「僕も質問していい?」
「……。誰だっけ?」
「初対面だから、知らなくて当然だね。僕は獏だよ」
「獏……? 宵街側の獣か?」
「そうだよ。もう君達にたくさん巻き込まれてね、渦中にいると言っても過言じゃないよ」
「それは過言じゃないか?」
困ったように肩を竦めるアイトワラスに、獏は少し頬を膨らせて腰に両手を当てる。ここまで来て渦中でないはずがない。
「それで、質問って? 答えられることなら答えてあげるよ。こんな所で争いたくないからな」
「じゃあ簡単な質問。君、ここにどうやって入って来たの? 僕達でもギリギリだったのに」
アイトワラスの肩幅はアルペンローゼよりも明らかに広い。入口の穴に支えそうなのに、彼は衣服の乱れ一つ無くここに立っている。
「そんなことか。でもどうしようかな? 言うとあんたは引っ繰り返るほど驚くかもしれない」
「勿体振るね。そんな前置きをされたら驚かなくなるよ」
「じゃあ賭けるか? あんたが驚いたら、オレの言うことを何でも一つ聞く、とか」
「随分な自信だね……それともはったり? 命を取るとか誰かに怪我をさせるとか、そういうことじゃなかったら賭けてもいいよ」
「驚かないって言う癖に、予防線を張るんだな」
「君が負けたら、僕の言うことを一つ聞いてよね」
「いいよ。オレは別に殺しでもいい」
随分な自信である。きっと余程の常軌を逸した方法でここに来たのだ。
(別の大きな入口があるっていう拍子抜けの理由でも、関節を外して軟体動物みたいに滑り込んで来たんだとしても、音を立てずに穴を破壊して入口を広げた、とかでも驚かないからね!)
驚くと先に言われて驚く者はいないだろう。驚きそうになっても、警戒していれば耐えられる。
「じゃあ種明かしだ」
勝利を確信したアイトワラスは不敵に微笑み、くるりとその場で翻って見せた。とんと次に地面に降りたのは、金色のふてぶてしい目をした黒い猫だった。
「!?」
引っ繰り返りはしなかったが、獏は目を大きく見開き大層驚いた。耐えられなかった。
「えっ……初めて花街に行った時に付いて来た猫……羊羹!?」
「ほら驚いた。そう言えば名前を付けてたな」
「うわ、猫からアイトワラスの声がする……」
「そんな嫌そうな顔をするなよ」
だが納得した。猫の大きさならば狭い穴でも苦労せず入って来られる。
「ちょ、ちょっと待って……僕達が城に侵入したこと、最初から見て……?」
「見てたよ」
アイトワラスは満足そうにくるりと人型へ戻る。変身する獣など獏は初めて見た。贔屓も姿を変えることができるが、あれは殻を被っているだけなので変身ではない。
城に従事する変転人の三人は既知なので驚かないが、初めて彼の変身を見た時のことを思い出す。やはり獏と同様に驚いたものだ。体積の異なるものに化けるのだから。
「初対面って言ったのに……」
「獏が気付いてないなら初対面でいいだろ? 引っ繰り返らなかったのは残念だけど、思ったより驚いた顔が面白かったから気に入った」
アイトワラスはけらけらと笑う。お面を被っているので顔は見えないはずだが、無意識に驚いた仕種をしてしまっていたのだろう。
「……猫になって見張ってたってことだよね? クッキー一つで去ったのは何でなの? 本当にクッキーが欲しかったの?」
「ああ……あれか。放っておいても問題無いと思ったんだけど。あの後ロクに会ったんだろ? オレは詳しく……と言うかロクから何も聞いてないけど、問題無かったからロクはあんた達を黙って帰したんだろ?」
「そうだね。ズラトロクは何も教えてくれなかった。口が堅いんだね」
「それは良かった。ペラペラ喋って帰してたら処罰ものだからな。ロクの場合は喋らなさ過ぎる問題もあるけど……一時的に宵街圏への旅行を禁止にした、なんて聞いてないだろ?」
「何それ? 虫の対策だよね?」
「そ。ただ長期旅行の人とは連絡できないから、まだそっちに残ってるかもな。全員が戻って来たら宵街に言うつもりだったんじゃないか? 話が長くなるから結果だけ言おうって所があるから、あいつ」
「そうなんだ……でも旅行を止めてくれたなら朗報だね。それは僕がちゃんと宵街に伝えるよ」
「それで――」
軽い世間話はここまでだとアイトワラスは笑みを抑える。賭けに勝ったのはアイトワラスだ。何でも一つ、獏は言うことを聞かねばならない。死や怪我は避けたが、まさか見世物になれと言われやしないかと徐々に不安が襲う。花街の獣が獏の過去を知っているはずがないとは言え、油断はできない。
「そんなに怯えないでよ。あんたの命を取ったりはしないんだから。獏に言い聞かせたいのは――オレの言うことを今後も聞くこと、だ」
「……最悪」
何気無い軽い賭けのつもりだったのに、一の要求を無限にされた。
「ま、そんな暗い顔しなくても、いきなり死ねなんて言うつもりは無いよ。まずは、アナちゃんをフェルに会わせないように、護ってあげてよ。ワイスちゃんとアルと一緒にさ」
彼はへらへらと笑っているが、獏は釈然としない。いつ何処で無理難題を突き付けられるかわかったものではない。
(……でもまあ、正直に言うことを聞く必要は無いよね。契約じゃないんだし、嫌なことは無視しておけばいいね。利害が一致した時だけ従えば)
一度は愕然としたが、獏は強かだった。そして今後はふてぶてしい黒猫に気を付けよう、そう決心した。
二人の遣り取りにただ一人、納得が行かない者がいた。エーデルワイスは獏の肩を掴んで後ろに下げる。獏に狙いを定めて連れて来たのはエーデルワイスだ。後から来た奴に買収されたくない。二人が話している間に素早く書き殴った紙をアイトワラスの顔面に突き付ける。
「……んん?」
さすがに近過ぎたので、アイトワラスは一歩下がって紙を見た。
『何故アナをフェルニゲシュから遠ざける? 暴走するフェルニゲシュを止められるのはアナだけなんでしょ。獣共はフェルニゲシュを抑え付けたいんでしょ』
こうなった以上、隠し切ることはできない。エーデルワイスは一人で規則違反の罰を受けることを決意した。声を出さなければ、他の者にこの言葉は見えない。この決意を知られることはない。
アイトワラスは明らかにおかしい。大公ならゲンチアナが供物だということを知っているのに、この状況で王から彼女を引き離す理由がわからない。
アイトワラスは紙を黙読し、口元に手を遣りエーデルワイスを観察する。アイトワラスにも漸くこの場に集まる彼女達の関係が見えてきた。
口元から手を離し、微かに笑みを浮かべて彼女の差し出す紙を指差す。正確には、そこに書かれている文字だ。『フェルニゲシュ』『暴走』『抑え付けたい』、そしてアイトワラスは静かに首を振った。
紙の内容は獏達からは見えず、何をしているのかと三人は首を捻り警戒しながら見守る。
エーデルワイスは眉を顰め、思考が読めないアイトワラスの上辺だけの笑みを睨み付けた。彼を睨みながら、エーデルワイスはもう一枚紙を出す。
『そんなことをしてどうする気? フェルニゲシュはどうなるの?』
アイトワラスは今度は考えるようにわざとらしく天井を仰ぎ、首を傾けた。
「……さあ?」
もう何も教えることはない。アイトワラスはくるりと黒猫の姿に変身し、部屋の外へ駆け出した。
「じゃあ後は任せたよ、獏」
エーデルワイスは黒猫を追おうとしたが、ゲンチアナとアルペンローゼから離れることができず、その動けない一瞬の内に彼は姿を消してしまった。
もう戻って来ないことを暫し待って確かめ、エーデルワイスは獏に詰め寄った。無感動な顔だが、機嫌の悪い空気が出ている。
『アイトワラスの手下はいらない。裏切り者』
「あの場は素直に言うことを呑んだ方が、無駄な争いをしなくて済むと思ったんだけど……。君達の味方はするし、利害が一致した時だけ従うんだよ。君達を護るっていうのは悪くないことだと思うんだけど」
護るという一点に於ては確かにその通りである。エーデルワイスは獏を睨みながら黙考し、納得したかは定かではないが渋々メイスを仕舞った。
『アイトワラスは卵が好きだから。クッキーにも卵が入ってる。それにプレゼントを渡すと喜んで大人しくなる』
「それ、僕に言っちゃって大丈夫?」
獏を従わせるためにエーデルワイスは情報を一つ提供した。信用できないアイトワラスの情報など黙っている必要も無い。
『わたしは獣共を殺すために弱点を探ってるだけだから大丈夫』
「ワイス……」
アルペンローゼは呆れながらも苦言を呈さずに留めた。城に従事する変転人が軽々しく獣の弱点を暴露するものではない。だがもう規則違反を幾つも犯している手前、強く言うこともできなかった。
『わたしは城を偵察してくる。情報も仕入れてくる。皆はここで待ってて』
「ワイス一人で行くのか?」
ゲンチアナはまだ現状を理解できていないが、アルペンローゼはある程度は汲み取れた。
エーデルワイスは獣にも気配を悟られない程の偵察に向いた性質を持つが、一人であのフェルニゲシュの攻撃が乱れ飛ぶ城に戻るのは危険だ。アイトワラスはフェルニゲシュを抑えたと言っていたが、本当に抑え付けられたのか確証が無い。アイトワラスは信用できない。
『心配しないで。わたし一人の方が動き易い』
エーデルワイスは紙を見せた後、徐ろにアルペンローゼを抱き締めた。
「!」
次にゲンチアナも抱き締める。植物の体では味わえない、温かい熱を感じる。
手を離し、エーデルワイスは最後に獏の前に立つ。獏も抱き締められるのかと黙って待つが、新しい紙を見せられた。
『獏も何か欲しい情報があれば、一つくらいなら見て来てあげる。だから裏切らないで』
「……いやそんな急に……あっ」
急に言われても、と遠慮しようとしたが、一つ気になっていることがあった。
「……じゃあ、もし危険じゃなかったら、蒲牢達がどうなったか……見てくれる?」
獏がエーデルワイスに攫われた後、蒲牢は片腕を失った。それを見た窮奇と饕餮は黙っていないだろう。
「それと、これ……もし蒲牢達に会えたら、渡してくれるかな? 僕が急にいなくなって、困ってるかもしれないから」
大事に仕舞っていた小瓶を取り出し、エーデルワイスに託す。彼女は大切な人達を獏に預けて行くのだから、獏も大切な物を預けることにした。宵街を出発する時に蒲牢に手渡された水抽花の入った小瓶だ。これが無かった所為で蒲牢は片腕を失うことになってしまったのではないかと、獏の頭からそれが離れなかった。
エーデルワイスはそれが何なのか知らないが、液体と小さな花が入った小瓶を受け取る。感情が全て顔に現れる獏を見るに、大事な物らしい。お面を被っていても表情が透けて見えるわかりやすい獣だ。
エーデルワイスは頷き、踵を返して走り出す。期待と不安を背負い、皆に見送られて彼女は一人で飛び出した。
だがその直後にアルペンローゼと獏は、彼女が入口に支えていたことを思い出して慌てて追い掛けた。




