184-パニック・ナイト
「皆、警戒心が強いね。さてどうやって巣から出て来てもらおうか」
「折角遊びに来たのにね。――あ、花火だ。歓迎してくれたのかな? 殺したらもっと巣から出て来るかも」
二人は何も見えない黒く塗り潰された闇の中でくすくすと笑う。一人は杖を振り、花火の下で誰かの最期の声が上がった。
「おやおや。殺すのが早かったかな? もっと花火を打ち上げてもらえば良かったかも」
「あらあら。我慢できなかったの。やっと一匹見つけたんだから」
二人の目には、眼下に広がる宵街の形が全て見えている。だが建物の陰に潜まれると見えない。透視はできない。
宵街は狭いが、全てが一度に見渡せるほど狭くはない。それに細い路地が蔓延り、死角が多い。
光か大きな物音か、どちらを出しても良いのにどちらも無い。宵街の住人はよく訓練をされ、警戒心が強いようだ。
「詰まらないなあ。急に何も見えなくなったらもっと慌てふためくと思ったのに。少し脅かしてみようか」
「賛成。慌てふためいてパニックにさせちゃおう!」
* * *
酸漿提灯の明かりが消え、足元すら見えない完全な闇の中、黒色蟹は彼の武器である大きな鋏の片割れを手に石段を上がっていた。長年歩いて来た石段はその一段の高さも幅も頭に入っている。何処にでも生える蔦はよく伸びて位置が変わるため記憶は当てにならないが、爪先で少し探れば、引っ掛かって無様に転ぶことはない。
目が慣れればすぐに視界が開けるだろう。そう思いたかったが、あまりに時間が掛かっている。これはもう目が慣れることは期待しない方が良さそうだ。
(有色が歩いていれば保護するつもりだったが……いないな。さすがに動けないか)
石段を上がるが、どの位置まで上がったかは不明だ。一段の高さや幅を覚えていても、何段で病院に着くかは覚えていない。掛かる時間で何となく距離は把握できるが、正確ではない。
(……ん?)
黒色蟹は立ち止まり、耳を澄ませる。音が聞こえた。カフェから出て初めての自分以外の音だ。何かを引き摺るような、泥濘を動くような音だ。
(何だ……? 昨日夕食に使った味噌を掬うような音……味噌を引き摺る……? そんなわけないだろう……だが自ら選択肢を狭めてしまうのは、未知に対してあまりに理解が無い……)
音は徐々に接近し、石段を降りて来ていると推測する。ぬちゃりぐちゃりと纏わり付くような音だ。
(足音なのか? 聞いたことがない足音だ。変転人じゃない……。もし獣だったら半端な攻撃をすれば避けるか受け止められるだろう。敵であり更に獣なら、正体不明のあれを――切る)
耳を澄ませながら石段を駆け上がり、片刃の鋏を横に薙ぐように振る。
何も見えていないが、黒色蟹の首筋に生温かく泥のような感触がひたりと触れた。
「――っうわ、ああ!」
「!」
微かな弾力と粘土に刃を入れたような固くも柔らかくもある感触の後に、石のように硬い物が刃に当たった。同時に上がった悲鳴は黒色蟹のものではない。
「……誰だ?」
「だ、誰? こっちの台詞だ……いきなり攻撃してきて……」
「……? 悪い。切ったか? 人を切ったような感触ではない気がするが……」
「俺まで切ったら化けて出てやるからな……君が切ったのはたぶん泥人形だ」
「見えてるのか?」
「見えてない……けど……説明が面倒だな。泥人形は殺したのか?」
「見えないんだが」
「……。近くの横道に入るぞ、このまま。それ以上俺に武器を押し付けるなよ」
「ああ」
片割れの鋏は硬い物に触れたまま、横歩きで足元を探り、近くに茂みと細い横道を見つける。
見えない誰かは武器を動かさないよう念を押し、鋏から硬い物を離して仄かな光を出した。
随分と久し振りに物の形を見た気がする。茸の笠のような大きな白い盾を頭上に掲げ、その下で両目が隠れるほど前髪が長い白髪の青年が常夜燈を揺らしていた。狭い路地で頭上に漏れる光を防げば、明かりを隠すことができる。真上から覗かなければ建物の陰で完全に隠れる。
そして漸く見ることができた。黒色蟹が何を切ったのか。石段にも微かに光が届き、地面を汚す泥が見える。味噌が脳裏を過ぎったことも強ち間違いではなかった。
「泥人形って死ぬとそうなるのか……」
「見ない顔だな。僕は黒色蟹だが、君は?」
「白鱗鶴茸……。嫌になるほど冷静だな……」
「君はこの泥のことを知ってるのか? これは何だ? この暗闇と関係あるのか?」
「暗闇は知らない。こいつは泥人形だ。今は泥の山みたいになってるけど、俺が最初に見た時は人型だった。こいつが誰かを襲ってて……でも襲われた奴は見当たらない。わけがわからないからこっそり後を付けてたんだ。もしかしたらこいつに喰われたのかも……それと、襲ってた所でこれを見つけた」
常夜燈を腕に掛け、片手で二つのレンズが付いた無骨な物を取り出して見せる。襲われた者が身に付けていた物に違いない。
「暗視ゴーグルか? これがあれば暗闇でも物が見える」
「そんなに凄い物だったのか? ……よし。俺が拾ったから俺が使う」
「君は上から来たようだが、何処から来たんだ?」
どうやって装着するのかと暗視ゴーグルを見回しながら、白鱗鶴茸は答える。
「仕事帰りだ。科刑所の買物の。人手不足だから、科刑所の仕事も手伝ってほしいとかで」
「科刑所は無事なのか?」
「無事? あそこが落とされたら宵街は終わりだろ。地下牢から罪人がうじゃうじゃ出て来る。……俺は科刑所からもう離れてたからな。科刑所のことは知らない」
「科刑所の様子も見に行った方がいいか……」
「真面目だな……」
「君は病院に行って、ラクタヴィージャを連れて下層に行ってくれるか? 下層の図書園とカフェに有色が集まっている」
「え……? 病院?」
「暗視ゴーグルがあれば簡単だろ?」
白鱗鶴茸は頭に装着しようとしていた手を止め、心底面倒臭そうな顔をして黒色蟹を見た。病院はもう通過してしまった。
「それってもしかして、俺に仕事を押し付けてる? 俺は危険な仕事は……」
「しっ、明かりを消せ」
唐突に周囲を警戒し始めた黒色蟹に、白鱗鶴茸も肝が冷えた。言われた通りに常夜燈を仕舞い、盾を下ろす。
遠くからあの泥人形が歩く音が聞こえた。しかも今度は複数だ。具体的な数は残念ながら聞き分けられないが、黒色蟹は石段の方へ向けて刃を構えた。
黒色蟹が前に出てくれるなら白鱗鶴茸は安心だ。盾で殴って攻撃はできるが、泥を殴っても効く気がしない。戦ってくれる矛がいるなら、背後で大人しく待っている。
「あ、そうだ。一つ教えてやる。泥人形はたぶん目が見えない。俺が光を出しても反応無かった。けど音には反応してた」
「情報感謝する」
暗視ゴーグルを貸してくれればもっと感謝するのだが、白鱗鶴茸はそれを手離さなかった。
泥人形に下へ行かれるとカフェや図書園で待機している変転人に被害が出てしまう。何としてもここで始末しておきたい。
耳を澄ませて泥が地面を踏む音を聞き、石段へ飛び出して先程泥人形を切ったタイミングをなぞる。粘土に刃を入れたように徐々に重くなるが、速度を上げれば叩き切ることができる。
泥に呑まれた刃は手応えが薄く、地面にぐちゃりと落ちる音で切れたことを認識する。どうやら骨となる芯も無いらしい。泥だけでできた人形のようだ。こんな人形を作り出して動かすことができるのは獣くらいだ。
数は居るが、殺すことは容易い。人形を切ることを殺すと言うかは疑問だが、白鱗鶴茸に倣う。
これなら獣を呼ぶまでもなく無色の変転人でも簡単に始末ができる。
まだ安心はできないが気持ちは少し軽くなる。そう思いながら泥人形の足音を捉えるため澄ませた耳に、油断するなと言うように微かに声が聞こえた。黒色蟹は一度身を引く。
(何だ……? 悲鳴? アサギか? 下にも何か居るのか……。声を出せば泥人形を寄せ付けてしまう)
「おい、蟹。君の足元を小さい泥人形が駆け下りて行く」
「?」
「大きい泥人形を切ったら、そこから小さいのに分かれた」
暗視ゴーグルを装着した白鱗鶴茸は大きな盾の陰から覗いて指摘する。掌二つ分ほどの小型の泥人形が幾つも足元を動いている。
「鱗! 暗視ゴーグルを貸せ!」
「このゴーグルは俺のだ」
どうせ黒色蟹は白鱗鶴茸のことが見えていない。そう高を括っていた白鱗鶴茸だったが、彼に顔面を掴まれた。
「え」
「声を出せば位置がわかる。これだけ近ければ尚更な。声が出るのは口だ。顔に触れるのは簡単だ」
抵抗も虚しく、暗視ゴーグルは黒色蟹に毟られてしまった。再び何も見えなくなった白鱗鶴茸に不安が戻り、おろおろと辺りを見回す。
「君なら一人でも大丈夫だ」
言うや否や、石段を下って遠ざかる音が微かに聞こえた。
「え? 嘘だろ……暗視ゴーグルを見つけたのも泥人形の情報を教えてやったのも俺なのに、俺を置いて行った……?」
待てどももう暗闇から声も音もしない。本当に置いて行かれたようだ。白鱗鶴茸は盾を地面に立て、立ち尽くした。
「そもそもな……俺が盾を持ってなければ泥人形ごと叩き切られてたんだからな……巫山戯るなよ……何の蟹だか知らないけど、あいつなんか高級な蟹じゃない……絶対、カニカマだ」
ぶつぶつと毒突くが、反論の声は無い。本当の本当に置いて行かれた。白鱗鶴茸は髪に隠れた目元をぴくりと痙攣させ、突然現れて取る物を取って去って行った蟹蒲鉾を呪った。
* * *
宵街の図書園には窓が無い。宵街は元々薄暗く太陽も無いが、人工的に作られた空間なので太陽が無くとも光を感じることができる。宵街は丸ごと巨大な室内だとでも考えれば平易だろう。
窓が無いことは今、都合が良かった。新人の教育を行っていた無色達は常夜燈を取り出し、有色達を地下へ誘導する。突然何も見えない程の闇が襲ったことに有色達は不安に駆られたが、幸い無色も集まっていたため恐怖は然程大きくならなかった。
宵街に来て日の浅い新人四人はまだこの異変に危機感を抱いていないが、地下に避難し、洋種山牛蒡と黒葉菫が状況の不可解さを語ると深刻な空気になった。十年以上宵街に棲み、このような停電が起こったのは初めてだ。
「まずは様子を見る。状況を見極める。こういう時は無闇に動かず、助けが来るのを待つ。新人の四人も丁度いいから、体で覚えていくのよ」
前に立った洋種山牛蒡の言葉に、有色と新人無色は真剣に頷く。
「空まで黒くなったから、やっぱり獣が何かしたんだろうな。只の悪戯か違うのか……」
黒葉菫の言葉には息を呑む。獣の仕業となるとやはり渾沌が暴れた時の恐怖が蘇る。
「俺達は良い方にも悪い方にも考えないといけない。可能性が少しでもあるなら、悪い方を考えてその対策をする。獣が悪いことを企んでると仮定すると、外で光や音を出すのは危険だ。何も見えないなら、この二つを出すと目立つからな。助けを求める時には有効だが、敵もいるかもしれない場合は慎重に」
「スミレ君のありがたい御言葉よ。スミレ君は銃で遠距離を狙うから、そういう細やかな警戒は得意なの。私は近距離攻撃しかできないから、何も考えずに武器を振り回せばいいだけだけど」
自分のことのように黒葉菫を称賛するが、彼はあまり持ち上げるなと居心地悪く座り直す。もっと強くなりたいと思うようになった今、ここで褒められると頭を打たれたように上には行けない気がしてしまう。
「……あの、どれくらい待てばいいんでしょうか……?」
有色の一人が怖ず怖ずと小さく発言をする。図書園は避難所を兼ねると決められた途端にこの異変だ、あまりに落ち着きが無い。
「いい質問ね。それは助けが来なくて外も元に戻らない場合、よね。勿論、ずっと待ち続けることはないわ。ある程度の時間が経過して外に変化が無かったら、私達無色数人で様子を見に行く。ここから一番近くにいる獣は……病院か工房よね。工房の方が近いけど、石段横の病院の方が辿り着ける自信があるから、そこを目指すわ。有色の皆はここに残った無色の指示に従うだけ。簡単でしょ?」
むざむざ殺されに行く盾にはならないが、武器や戦闘の経験を持たない有色を守るのは無色の務めだ。それは無色に生まれた定めである。
「……けどその前にもう一つ。カフェに集まった有色の所にも誰か行かないと。あっちには無色がいないから。誰が行く?」
洋種山牛蒡は無色を振り返る。彼女達は見回りをしていた黒色蟹と浅葱斑がカフェに立ち寄ったことを知らない。有色が一人切りではないとは言え、不安は計り知れないだろうと考える。
新人四人を除けば、この場にいる無色は五人だ。だが新人と共に教育を受けている白実柘榴も経験が乏しいため図書園に留まるべきだろう。本人はわくわくと楽しそうな顔をしているが。お化け屋敷に来た、という程度にしか思っていないようだ。
「スミレ君も怪我してるし、私かキツネちゃんかナガ君が行くべきよね。ここは公平にジャンケンにする?」
状況が一切不明なので、どの戦力が必要かもわからない。考えても決められないならいっそ運に任せてしまえば良い。洋種山牛蒡は拳を振るが、狐剃刀と長実雛罌粟は手を出さなかった。
「あれ!? ジャンケン駄目かな?」
二人は手を出さなかったが、彼女の後ろを指差した。
「え? 何?」
洋種山牛蒡が振り向くと、二人が手を出さなかった理由がわかった。花韮と蝮草が挙手をしている。外に行きたいと意気込んでいる。白実柘榴は負けじと両手を挙げていた。そこに恐る恐る、意を決したように燈台草も小さく手を挙げる。野襤褸菊は仲間を見回すだけで、手は下げている。
「遣る気があるのはいいんだけど……さすがに危険よね……」
花韮と蝮草は威勢良く指先をぴんと伸ばす。
新人達はまだ武器を生成できない。その状態で外へ偵察に行かせることはできなかった。
「宵街にも慣れてないでしょ? 何も見えなくて転びそう」
「……そ、それなら、これはどうですか……?」
声を上げたのは意外にも一番大人しい燈台草だった。彼は机の下の死角から、水中眼鏡のような物を取り出した。
「これは暗い場所でも目が見えるようになる眼鏡です」
「暗視できる眼鏡ってこと……? そんな物どうしたの? 図書園にあった?」
「僕が……生成、しました」
燈台草は少し照れるように顔を伏せる。
「貴方の武器……ってこと!?」
燈台草は頷く。手を挙げていた花韮と蝮草は目を瞠り、野襤褸菊も口元に手を当て驚いた。三人はまだ何も生成できていない。先を越された。特に花韮と蝮草は悔しそうに、ゆっくりと手を下ろした。同じ日に人の姿を与えられ、同じように教育を受けていたのに、何処で差が付いたのか。それすらわからなかった。
「そうです。これで皆さんの役に立てるんじゃないかと……」
「……その場の思い付きで生成したのね……一生使う物だから、その場限りしか使い道が無いような武器は選ばない方がいいのに……」
「だ……駄目でしたか……?」
喜ばれると思っていたのに、想像と違う反応だった。燈台草は早まってしまったのかもしれないと俯いて青褪める。徐々に、大変なことをしてしまったのではないかと心臓の音が大きくなる。
「折角生成できたんだ、まあいいんじゃない?」
彼の心臓が壊れてしまう前に口を添えたのは狐剃刀だった。
「人間の街には夜があるし、明かりの届かない暗闇もある。この先一生使うことが無いってことは無いはず」
「……それはまあ……頻度は少なくても……まずは、おめでとうよね。武器を生成できたんだから」
「だが、他の三人は早まって同じような暗視の装備を作らないように。暗視部隊を作らなくていいから」
花韮と蝮草は掴み掛からんとする勢いで燈台草に飛び付き、口々にどうやって生成したのか問い詰める。質問会をしている場合ではないので、洋種山牛蒡は興奮する二人を宥めた。
「アタシが一番だと思ってたのに……」
「俺も俺が一番だと思ってた」
競争相手がいるからか、生まれたばかりの変転人にしては二人は過剰な自信がある。本気で落胆している。
「別に誰が一番でもいいだろ……武器を生成した瞬間から扱き使われるんだぞ」
何をそんなに急ぐのかと、あまり口を出さない長実雛罌粟は珍しく呟いた。こんなことを言っても、実際に扱き使われないとわからないかもしれない。
「先輩が不貞腐れるな。それとも狴犴に文句が言いたいの?」
白所属の狐剃刀はこういったことに敏感だ。名指しで狴犴に文句を言ったわけではないのに、わざわざ彼の名前を引っ張り出す。
「別に。そう突っ掛かるなよ。……で、誰が偵察に行くんだ?」
「……。私が行こう。燈台草、道を示してくれる?」
「えっ、あ、はい! 僕が行っていいんですか?」
頷いて階段へ向かう狐剃刀の背を、燈台草は暗視眼鏡を手に慌てて追った。
洋種山牛蒡と黒葉菫はやや心配だったが、図書園にはまだ変転人が多くいる。こちらの心配をすべきだ。
「……あ、おい、光が」
長実雛罌粟が何か言い掛けたが、それよりも早く常夜燈が一斉に消えた。再び何も見えない闇に戻ってしまった。
「な、何……?」
「敵が来た?」
「何も見えないよ……」
「皆ここにいる?」
有色達は口々に不安を呟き、洋種山牛蒡は小さく二度手を叩いた。
「皆ここにいるから、落ち着いて。冷静に。その場から動かないで。元は植物なんだから、根を張ってた頃を思い出して。暫く明るかったんだから、近くに誰がいたかわかるわよね? 不安だったら隣の人と手を繋げばいいわ」
狭い隅に纏まっていたので、すぐ隣に誰かがいる。今はもう根を張れないが、繋ぐ手はある。有色は言われた通りに手を繋ぎ、少しの安心を得た。
「さ、スミレ君とナガ君も私の手を掴んでいいわよ」
「悪い、何処かわからない」
「不安なら自分の手を掴め」
両手をそれぞれの方向へ差し出していた洋種山牛蒡は、不満な顔をしながら自分の手を合わせた。無色は距離を取って座っていたので、手を伸ばしただけでは届かない。
花韮は隣にいた野襤褸菊と手を繋ぎ、蝮草は白実柘榴に服を掴まれながら、暗闇の中で待つ。敵らしき気配は近付いてこなかったが、再び明かりが灯ることもなかった。
* * *
「……何も見えない」
工房でミシンを踏んでいたガタイの良い男は、突然消えた明かりに困惑していた。すぐに明かりが点くのではと楽観的に考えていたが、その気配が無い。
「オレの目が急に悪くなったわけじゃないよな?」
ミシンを掛けていた布から手を離し、男は何も見えない闇に向かって声を掛ける。咥えていた煙草の火も見えなくなってしまった。
一拍置いて、冷静な声が返って来る。
「私の目にも何も見えません」
獏が花街へ行ってしまったので、暇になった灰色海月は工房を訪れて狻猊に裁縫を習っていた。端切れを黙々と縫い合わせている所だった。
以前に灰色海月は破れた服を繕う機会があったが、あまり上手く繕えなかった。穴は塞げても、縫い目が揃わず不格好だった。近くで見れば粗がよくわかった。
前回獏が花街に行った時は想定よりも時間が掛かっていた。その時間があるなら、習うこともできるだろうと今度は図書園ではなく工房に足を運んだのだ。
「あまりに声が冷静でオレも思わず冷静になるな」
「海の中も暗いので」
「そうか海月……海月は暗い所が平気か」
だが狻猊は平気ではない。
「……いてっ」
立ち上がって机の脚に足をぶつけながら窓の前へ行って外を覗き、遮光カーテンを閉める。
「外も空も真っ暗だ。煙草の火まで見えないんだから、こりゃ獣絡みだな」
常夜燈を取り出して机に置くと、再び視界に物が映って安堵した。灰色海月はその場から動かず、端切れを手に椅子に座っていた。
狻猊は煙草を硝子の灰皿に押し付け、見えなくなっていた火を消す。見えないが、火は点いていた。煙は変わらず出ていた。
「何かの手違いとか……地霊の手違いならいいんだが、とりあえず中々無い事態だから狴犴に連絡する」
「はい」
「十歳以上の無色が一斉に狴犴に電話を掛けてたら混線してるだろうが……オレみたいにすぐ狴犴に助けを求めない奴が多いことに賭けよう」
「はい。意気地無しが少ないことを祈ります」
「……オレが意気地無しだって言ってないか? それ」
無表情で見上げる灰色海月は小首を傾げる。罪人の所にばかり居る所為で心が捻じ曲がっているのかもしれない。そう思いながら狻猊は椅子に腰掛けつつ携帯端末を耳に当てた。灰色海月が辛辣なのは元々であることを彼は知らない。
数秒待つことになったが、狴犴は電話に出てくれた。丁度電話の切れ目だったのか、意気地無しはいなかったようだ。
『仕事ができない』
「おう、狴犴。開口一番それか。そっちも同じように真っ暗闇みたいだな。で、これは何の騒ぎだ? 無色から電話が鳴り止まない所、悪いな」
『? 電話が掛かってきたのは初めてだが。皆よく考えて行動しているようだ。人為的なこの現象で、無闇に光や音を出さない方がいいと判断したんだろう。私もそれを汲み取り、こちらからは掛けない』
「何か……オレは何も考えてないって言われた気が」
『地霊に確認をしたが、宵街を管理する彼らにも原因がわからないらしい。ただ、外的な要因だろうと地霊は断言している。下級の地霊ではこの現象を覆せないようだ』
「並以上の獣の仕業ってことか。オレが空に火を打ち上げようか?」
『いや。常夜燈の光が不安定だから少し様子を見た方がいい。だがお前が必要だと判断するなら構わない。私はそちらの様子がわからないからな』
「……じゃあオレも様子を見る」
『幸い地霊は夜目が利き、耳も良いから完全な闇でも動ける。足は遅いが、地霊に調査させている所だ』
「そっちは行動が早いな」
『下層の様子はどうだ? 変転人はどうしている?』
「そんな下の方まではわからないが……有色なら、集まって相談会してたはずだ。新しい施設を作るんだってな? 図書園とかカフェで集まってるって聞いたぞ。あと工房には灰色海月がいる。今は海月の様子しか伝えられないが、海月は暗くても平気だそうだ」
自分の話題だと気付き、灰色海月は背筋を伸ばした。ビデオ通話ではないので相手に姿は見えないが。
『そうか。図書園なら無色がいる。避難所として機能するだろう。そして次に考えることはおそらく、カフェに居る変転人の保護、もしくは最も近い獣が居る場所である病院か工房に助けを求める。無論、既に地霊を向かわせている。病院には怪我人もいるからな』
「お前の仕事が早過ぎて……オレが何も考えてないことが浮き彫りになった気がする……」
『外出している変転人の保護が完了し、何も進展が無ければ、狻猊には火を打ち上げてもらう。それで不審な獣の姿も視認できるはずだ』
「……あ。下層の方から花火が上がったな。聞き慣れた音だ。考えたな、確かに花火なら有色でも空を明るくできる」
『あまり感心できない行動だな……。暗闇でも動けるならお前に止めてもらいたい所だが』
「あー、無理無理。全然見えないからな。まあ海月のことは任せとけよ」
『……。地霊から報告があれば連絡する』
「おう、わかった。お前も真っ暗闇で仕事ができない間は休んどけよ」
『この状況で休めと?』
普段の書類を読むだけが仕事ではない。この状況を打破するために仕事をしなければならない。呑気な彼に呆れながら、狴犴は通話を切った。
動けないなら動けるまで休めば良いと狻猊は単純に考えていた。どうやら遣ることは尽きないらしい。自分は統治者に向いていないのだろうと思いながら端末を仕舞い、静かに揺れる常夜燈の仄かな明かりを見る。夜燈石を擦り合わせて発光させる物なのに、風でも吹いているかのように光が揺らいでいる。狴犴も常夜燈の光が不安定だと言っていた。常夜燈を灯せるのもそう長くは無いのだろう。
「海月はオレとここで待機だ。もしかしたらここに変転人が助けを求めに来るかもしれないからな」
「わかりました。人間の街も真っ暗なんでしょうか?」
「えっ。その発想は無かったな……。たぶん宵街だけだと思うが。この常夜燈も消えるかもしれないから、急に消えても狼狽えなくていいぞ」
「はい。私の常夜燈も置いておきます」
「どの常夜燈でも同じだと思うが……まあいいだろ」
灰色海月の取り出した常夜燈も仄かに揺らいでいるが、机に並べて置くと先程よりも明るくなった。
二人で常夜燈の光を眺めている内、工房のドアに何かがぶつかる音がした。
「……お。地霊が来たか?」
外からゆっくりとドアを開けたのは、人型の泥の塊だった。
「……え? 泥遊びでもしてたのか……?」
「! あの、地霊はそんなに痩せてません!」
身長よりも横幅を指摘して立ち上がった灰色海月に触発され、狻猊も杖を召喚した。工房に籠っている狻猊は科刑所を訪れることが少なく、地霊に会うことも滅多に無い。罪人の報告などで科刑所へ行く機会のある灰色海月の方が地霊を見慣れている。地霊はずんぐりとした体型で、長い耳を含めなければ一メートル程だ。工房に現れた泥の塊はそれより痩せていて身長も高く、長い耳も土竜のような大きな爪も無かった。別人だ。
「地霊はもっと丸々と太った……豚のようです!」
「凄い罵倒に聞こえるが……助かる。じゃあこいつは――異物ってことだな!」
輪郭は不鮮明だが、半分溶けたような頭部には目や口のような凹みがある。泥人形は両腕を広げながら襲い掛かってきた。
狻猊は素速く杖を振り、拳ほどの大きさの火の玉を打ち出す。幾つかを泥人形へ発射し、そして幾つかを薄く刃物のように伸ばして叩き付けた。
「ん!?」
火の玉を受けた泥人形は怯まず、突進を止めない。咄嗟に杖で殴り付けるが、まるで粘土を打ったように固い。ある程度は凹むが、そこから先に進まない。
動揺を感じ取り、灰色海月も応戦しなくてはと端切れを捨てて腕輪を生成する。細い触手を幾本も射出し、泥人形を縛り上げた。
「マキさんの糸みたいに何でも切れるわけではないですが……普通の糸だって茹で卵を切れます!」
力を込めると、触手は泥人形に喰い込んだ。そして呆気無く幾つもの塊に切断され、ぐちゃりと床に落ちて泥の山となった。
「や、遣りましたか……?」
「濡れた土は燃えないってことか……。打撃は効かないみたいだが、刃物は効くのか……? オレのは刃物っぽいだけで刃物じゃないからな……それにしてもオレの攻撃は変転人以下か? 変転人の攻撃はザルで、獣の攻撃はよく防ぐとか……?」
「遣りましたか?」
手を前へ伸ばして構えたまま、灰色海月はもう一度尋ねる。生命とは言い難い形なので、判定が欲しかった。
狻猊は杖を泥の山に向けたまま後退し、無言で灰色の頭をがしがしと撫で回した。
「おう、よく遣った。お前がいなかったら危なかったな。これは獣じゃないっぽいが……」
「!」
漸く役に立つことができた。灰色海月は無表情ながら尻尾を振る犬のように目を輝かせた。獏に良い所を見せたいと常々思っているが、獣に褒められたのだから上乗だ。獏にもいつか良い所を見せられるだろう。
狻猊は警戒しながらもう一度、泥山に接近して杖で突く。動いていたとは思えない。只の泥にしか見えない。
「誰かが操ってたのか……うわ」
泥山がもぞもぞと動き出し、泥から湧き出るように幾つも小さな人型となって歩き出した。それらは工房の外に逃げるように飛び出して去ってしまう。
林檎ほどに小さくなったそれを、恐る恐ると一つ踏み潰してみた。今度は打撃でもぐちゃりと潰れた。
幾つかは踏み潰すことができたが、何体かは外へ出て行ってしまった。追い掛けようにも真っ黒で何も見えない。そうこうしている内に机上の常夜燈も闇に呑まれるように消えてしまった。
「……ここまでだな。後は大人しく待とう。海月も座っとけ」
「はい」
狻猊はドアを閉め、自分の椅子へ戻る。暗闇の中で何かにぶつかる音や椅子を蹴る音が聞こえたが、灰色海月も何とか椅子に座ることができた。
外にも大きな泥人形が徘徊しているかもしれないが、狻猊の力では太刀打ちできない。狴犴に泥人形のことを伝えたかったが、携帯端末ももう光を発してくれなかった。
* * *
「……やれやれ」
上層の一角で真っ赤な少女は大袈裟な溜息を吐いた。
何も見えない暗闇は、糸を絡めた手元すら見せてくれない。
「火産霊さん」
茂みを分けて、長い耳が生えずんぐりとした黒い土竜のような姿の地霊が現れる。地霊は暗闇の中でも彼女のことが見えている。
「何じゃ」
「宵街が変になってます」
「見ればわかる」
「元に戻せますか?」
「黒に白を混ぜればどうなる?」
「……。異物混入です」
「灰色になるんじゃ。この闇は誰かの仕業じゃ。そこに妾が力を加えても完全には元に戻らん。もし闇が全く晴れないなら相手の獣が上手じゃ。その時は其方らで何とかせい。妾は役に立たん」
自嘲するように笑い、ひらひらと手を振る。本当に役に立たないとは思っていない。ただ厄介な獣なら相手をしたくないだけだ。
「火産霊さんでも不可能でしたか」
「何を納得しとる。腹立つ奴じゃの。見える程度には明るくしてやれるわ。見ておれ」
下級精霊に煽られると苛立つ。地霊にそんなつもりはないだろうが、火産霊の言うことを何でも素直に鵜呑みにしてしまうため冗談が通じない。火産霊はやれやれと闇の中で赤い杖を召喚した。
「……狴犴に言われたから手を貸すわけではないからな」
訊かれてもいないのに火産霊は闇に向かって弁明した。地霊は鼻をひくつかせ、空を見上げて色が変わるのを待つ。
「汚泥を晴らせ」
杖を頭上に翳し、くるりと回す。徐々に夜が明けるように物の輪郭が浮かび上がり、表情も見えるようになる。だが鮮明にとはいかず、いつもの宵街よりも暗い。手を貸さないと言ったのに簡単に晴らしてしまえば、都合の良い奴だと思われてしまう。この程度の明るさで充分だろう。
「これだけ見えれば誰かが犯人を見つけるじゃろ」
これで手元の糸も見える。そう肩の力を抜いた直後に激しい衝突音が轟いた。石が砕ける音だ。誰かが建物を破壊したらしい。
火産霊は杖を仕舞い、地霊を帰らせる。狴犴はこれで満足だろう。
* * *
暗闇に包まれたカフェで待つ浅葱斑は震えていた。
有色達は大変聞き分けが良く、そして行儀良く一言も話さず、物音も立てなかった。そこに本当にいるのかどうか疑わしくなるほど何も聞こえない。黒色蟹がカフェを出てもう随分と経つが、有色はとても辛抱強かった。音を出すと自分や皆の身が危うい、と理解している有色達は、自分が真っ先に裏切るわけにはいかないと団結していた。
(有色って弱いって言われてるけど、心は強いんじゃ……。でもボクがいるから、安心してたりするのか? ボクはそんなに強くない……苧環とかスミレとか、誰か来てくれないかな……一刻も早く)
どれほどの時間震えていただろうか、首筋に突然ひたりと何かが触れた。冷たくも生温かくも感じる、不快感と不安を煽る感触だった。明らかに人の手ではない。人の手ではないなら、触れてはいけないものだ。その何かに力が籠り、彼の首を絞めようとした。
「ぎゃ――――!?」
得体の知れないものが首に触れる不意打ちに、浅葱斑はこの世の終わりのような絶叫を上げた。反射的に手に持っていた小型爆弾をそれに捩じ込んだ。
ぬちゃりと手が呑み込まれそうになり、慌てて手を引く。突き押されたそれは腕を振り上げて数歩後退し、木端微塵に吹き飛んだ。
「ぎゃああああ!!」
飛び散った肉片が手や顔に貼り付き、浅葱斑は再び叫ぶ。
その直後に突如闇が薄くなったことに誰もが気付いた。闇に慣れた目は僅かな光でもありがたく受け取る。
だが安堵する前に上層で爆発のような音が響いた。絶叫と爆発音に周辺の有色は絶望を顔に浮かべ、助けを求めるように震えながら隣人と抱き合った。
恐怖が引く前に浅葱斑はびくりと反応する。音とは無関係だが、すぐ隣にまだ何かが居た。泥土の腕を振り上げる泥人形が視界に入った。
「わあああああ!!」
浅葱斑はもう一つの小型爆弾を投げ付け、泥人形は小さくなって飛び散る。肉片ではなかった。それは泥だった。
追い討ちを掛けるようにその背後から小さな泥人形がわらわらと幾つも駆けて来たことに、泣きそうになりながら追加の小型爆弾を生成して投げる。小さな泥人形は吹き飛び、幾つもの欠片となった。浅葱斑はちょっと泣いた。
「大丈夫!? 断末魔が聞こえたけど!」
カフェの奥の道から飛び出して来たのは狐剃刀だ。後ろに燈台草も暗視眼鏡を持ち上げながら恐る恐る顔を出す。
「だ、断末魔ほどじゃないけど……何か殺した……」
近距離で爆殺したため全身に泥を被った浅葱斑は、やっと応援が来てくれたと鼻を啜りながら胸を撫で下ろした。
悲鳴に驚いて恐怖で硬直する有色達は何が起こったのか理解できず、散らばった泥を戦きながら見るしかできなかった。
「何か……? ――ああ、これか」
狐剃刀は大きな剃刀を生成し、間髪を容れずに浅葱斑に向かって振った。
「え?」
何故こちらに向かって刃を振るのか。理由がわからず、逃げるために立ち上がる暇も無く、浅葱斑は蒼白になりながら固く目を閉じ、死ぬ――両手で頭を抱えて丸まった。
ぐちゃりと何かが地面に落ちる音がし、顔を上げない浅葱斑の肩にぽんと手が置かれる。
「……?」
肩を触られた感覚がある。音も聞こえる。痛みは無い。
恐る恐る目を開けると、自分の首が落ちていないことがわかった。
「あれ……?」
「切ったのはあっち。お前を襲おうとしてたから」
狐剃刀を見上げ、指差す方へ視線を落とす。泥の塊が地面に落ちていた。
「一時的に明るくなっただけかもしれないから、立てるならお前は有色を連れて急いで図書園に避難して」
「た……立てる」
腰が抜けたわけではない。震えていただけだ。肉片ではなく泥が散っただけなのだと知り、少し気持ちが落ち着いた。顔や服から泥を払い、状況を全く理解できていない有色達に何とかぎこちない笑顔を向ける。恐らく頬が引き攣って酷い顔をしていることだろう。
「皆……避難するから、ボクに付いて来て。その……大きい声出して、ごめん……」
無色ともあろう者が大絶叫を上げてしまった。恥ずかしくなってきた。だが突然急所である首に何かが触れたり目の前に敵が立っていたら、誰でも叫びはしないだろうか。
有色は絶叫については言及せずに顔を見合わせながら立ち上がり、誘導されるまま無言で彼に付いて行った。
「誰か死んだのか……?」
浅葱斑達を見送って幾許も無い内に、鋏の片割れを持った黒色蟹が駆け寄ってきた。勢いを止めることができず、カフェの石壁に手を突いて足を止める。
「さっきの悲鳴のこと?」
大きな剃刀を肩に掛け、狐剃刀は首を傾ける。
「ああ。只事じゃない声だった」
「あれは浅葱斑が泥の塊に驚き過ぎて。本人に怪我は無い。有色を連れて図書園に避難してもらった」
「……死んでないならいい」
「それより、この泥の塊が何処から湧いてるか知ってる? 図書園からこっちに来る時に何体か切ったんだけど」
「知らない。弱いから気にしてないが、武器の無い有色が遭遇すると危険だ。見つけたら殺そう」
「ん。雑魚相手なら無色でも始末できる」
狐剃刀は薄く明るくはなったがまだ輪郭が浮かぶ程度の闇でしかない空を見上げ、科刑所の方へ目を向けた。先程から非日常な音が続いている。獣が交戦しているのだろう。変転人はそこに混ざることはできない。邪魔しないよう雑魚を片付けるだけ、それだけが今、無色にできることだ。
* * *
何も見えない黒い空に、白い星ではなく水を一滴垂らしたら。黒はじわりと滲み、綻んでいく。
科刑所の天辺で小さな鈴の付いた三日月の杖を提げ、蛇のような尾を生やした幼い少女は瞬きも惜しんで下界を見下ろしていた。まるで鷹が獲物を狙うように、漆黒の闇を見詰める。
(何だか見覚えのある闇だわ)
頭上の空に微かに明かりが差した時、その大きな瞳に二人の人影が映った。
(――捉えた)
鵺は幼い少女の体を軽捷に、杖の上に跳び乗ってそれに向かった。
頭に三角の耳を生やした人影が二人、一本の杖に乗っている。一人は杖を翳していた。
獲物を見つけた鳥が滑空するように、鵺は杖を振り上げる。杖に付いた小さな鈴がしゃんと音を奏でると、人影も彼女に気付いた。だが振り向いた所で間に合わない。何も見えない闇では皆何もできないと侮っていた人影は避け切れず、目に見えない力の塊の直撃を受けた。
(一人避けた)
杖を翳していた人影は弾丸のように落下し、眼下の四角い石の屋根を砕いた。上層は殆どが空き家だ。被害を受ける者はいない。
「ハティ!」
飛ぶ杖を操っていたもう一人が眼下に向かって叫ぶが、返事が無い。髪に楕円を半分に割った白い石を付けた少年だ。少年は仲間の落下地点に急降下する。
「ハティ! 返事をして!」
分厚い屋根は地面に落ち、埋もれた瓦礫の中で足が動く。
「……平気」
瓦礫を退かし、頭から血を流した少女が顔を出す。少年と同じように楕円を半分に割った白い石を髪に付けた少女は、追って降りて来る幼い少女を狼のような眼光で睨み、離さなかった杖を振った。
「!」
鵺の背後に巨大な人影がそそり立ち、彼女はその腕に払い飛ばされる。人影は泥人形だったが、攻撃を当てる瞬間、腕を岩のように硬くした。
(こいつ……気配が無い!?)
少女が出力した泥人形は生物では無い。当然、気配なんてものは無い。同じように石の塊に直撃して砕ける様を見、少年に瓦礫から救出された少女は嬉しそうに杖を上げて笑った。
「あはは! ざまあ見ろ! 叩き潰されて死んでしまえ!」
少年に引き上げられ、近くの家の屋根に跳び乗る。四角い箱のような石の家は屋根も平らで立ち易い。足場に適している。
瓦礫に埋もれた鵺は自力で脱出し、舌打ちする。幼い少女の体は軽過ぎる。
「よくも鵺様を虚仮にしたわね……」
「――鵺、一旦退避しろ」
「!?」
彼女の周囲には誰もいないはずだった。現に気配は無い。なのに声だけが何処からか聞こえてきた。その声は日頃よく聞く声だった。
「狴犴……? 何? どういうこと……?」
狴犴は獣の能力とは別に印の使い手でもある。印は通常、弱者を助ける小さな力である。獣の能力ほど強力なものではなく、日常の助けとなるような飽くまで補助的で多少便利なだけの物である。それゆえ獣は印に手を出さない。小さな奇跡など必要無いからだ。自分の能力だけで充分なのだ。だから鵺もまた印のことを詳しく知らない。
だが狴犴は並の印の使い手ではない。自ら新しい印も作り出している。声だけを届ける印があるのかもしれない。どれだけ離れた場所にいても会話をすることができる電話なんていう物があるのだから不思議では無い。
「あまり暴れるな。私が先に話をする」
「話……? 何言ってるの? 私を呼んで待機させたのはお前よ!? と言うか話し合いで乗り切る気!? また頭が緩くなったの!?」
「統治者に口答えするな。いいから退け」
「でもここで退いたら……」
「――鵺、さん!」
「ぶ!?」
困惑する鵺の頬に、ばちんと痛みが走った。背後から手が伸び、左右から頬を挟むように叩かれた。彼女の背後を取ることができる人物はそういない。
手を剥がして背後を見上げると、頭に角を生やしヴェールを被った女が柔和に微笑んでいた。
「螭……まさか今の狴犴の声、お前なの!?」
「え? 私は蒲牢さんのように器用な声帯は持ち合わせてないので、殿方の声は出せませんよ」
「じゃあ狴犴の声は聞こえた? 今、喋ってたわよね?」
「鵺さんはお可愛らしいですね」
螭は緊張感無くにこにこと笑い、杖を召喚する。舞うようにくるりと一周、周囲に水の膜を張った。
「水は屈折させる。光も音も歪める。譬え幻聴だったとしても」
「幻聴……!? 今の声が幻聴? かなり鮮明だったわ……」
水の膜が揺らぐ。外部からの攻撃を遮断しているのだ。巨大な泥人形が水の膜の向こうで腕を振り下ろすが、するりと膜を滑って地面に落ちる。空き家が呆気無く潰された。
「龍の勘ですが、狴犴さんはこんな所で統治者の立場を盾にしないと思います」
「龍……関係ある?」
「敵は御二人いらっしゃるようなので――」
微笑んで水の膜を解き、螭は壊れていない石の家へ跳び乗った。水の膜は外部の攻撃を逸らすことができるが、内側の攻撃も屈折させてしまう。膜を張りながらだと戦えない。
「――御一人は殺してしまいましょう」
笑みの消えた螭は、隠していた牙を出す。普段は炊事係として食事作りに勤しんでいるが、穏やかな彼女もまた科刑所に所属する獣だ。科刑所の近くに敵が現れ、黙って見ていることはできない。
同じ龍である睚眦は地下牢の見張りから外れることができない。罪人から目は離せない。
台所の火が使えなくなった螭の手は空いている。異物を排除するために、杖を振った。
「ちょっと!? お前が遣るの? 私が頼まれたんだけど!」
螭は家々を跳び、巨大な泥人形の攻撃を躱しながら目標へと向かった。
「――見つけました」
四角い家の上にいる二人を見つけ、螭はくるりと杖を振った。二人は迫り来る女に気付き、少女が杖を振る。分厚い石の壁を足元から伸ばし、視界を遮った。
「ばーか! ぼくを認識した時点でオマエは」
何か騒いでいる。だが視界を塞ぐのは悪手だ。鵺を足止めした時点で離脱していれば、死なずに済んだのに。
釘よりも鋭利で鉄よりも硬い雨が石の壁を打ち、無慈悲に砕く。
「脆いですね」
僅か数秒だった。目で追えない程の速さと目に見えない程の数多の雨が針のように降り注ぎ、少女の全身に突き刺さった。少女は避けることができず全身から血を流し、何が起こったのか理解していない双眸を見開いた。雨は容赦無く目にも刺さり、視力が奪われる。
「逃げないでください」
砕けた石の向こうにはいない、逃げ出した少年を水の蔓が追う。走る足を掴み、腰に絡み付き、腕を縛る。
「宵街を混乱に陥れようとした人が、こんなものですか?」
水の蔓を引き、少年を引き摺り戻す。どれだけ足掻いても、螭の水は解けない。
「……蜃さんほど耐えられるのかと思ったんですが、遣り過ぎたかもしれません……」
想定していた激しい戦闘にならなかったことに、螭は首を傾げながら焦るように呟いた。以前、誤解ではあったが蜃に針の雨を降らせたことがある。蜃はこんなに脆くはなかった。
「ハティ……」
引き戻された少年は、剣山を押し付けられたようになってしまった同じ顔の少女を愕然と見下ろす。息をしているようには見えない。
「彼女はハティさんと言うんですか? 大きな人形も消えましたが、彼女の能力でしょうか? あの人形は大小の差はあれど、どれも獣が苦戦するような性質がありますね。攻撃が通り難くて、操っている方を叩く方が早いです」
「…………」
「貴方の名前を教えていただいても?」
「…………」
少年は何も答えない。答えられるはずがなかった。頭が回らない。真っ白だ。この夜の空とは反対に。
「……また少し明るくなったわね。闇と言うか、これなら月のある夜と同じだわ」
結局後方で見ているだけになってしまった鵺も、瓦礫を踏んで螭の許へ跳び降りる。螭は本気を出していない。それでも圧倒的だった。小細工などはせず、単純に力で圧倒する。龍は格が違う。
「ハティ、聞き覚えのある名前です。花街の獣ですよね? 何故、宵街に入れたんでしょう……誰の手引でしょうか? 拷問は得意ではないので、科刑所に引き渡してもいいですか? 鵺さん」
「いいわよ。元々私が遣るはずだったのを、お前が横取りしたんだし」
「あら、横取りなんて。調理中に火を消されることがどれほど苦痛かわかりますか? 具材に火が通り切っていない半生の料理が成す術無く冷めていく……あまりに私は無力です」
螭は震えながら、宵街が闇に呑まれた時のことを思い出し絶望を語った。それが龍の逆鱗に触れることになった。
「そ、そう……私はあんまり料理とかしないから、そこまで深刻に考えたこと無かったわ……」
また火を点ければ良いだけなのではと鵺は思うが、そっとしておくことにした。無知な言葉が火に油を注ぐことになるかもしれない。
少年――スコルは呆然としていた。同じ日に生まれてずっと共にいた、鏡のようなハティが突然いなくなってしまった。
幻視能力を持つハティと幻聴能力を持つスコルは、二人で完璧に騙していた。ハティの幻視は只の幻視ではなく、認識し『本物』と思い込むことで実体となる。初対面で騙せない相手なんていなかった。
騙せていたはずなのに、通用しなかった。
ただ楽しく暮らしたかっただけなのに。
二人はいつでも本気ではなく、悪戯をして遊んでいるだけだった。今回もそうだった。今回の泥人形はあべこべ人形で、警戒心と恐れが強いほど簡単に壊すことができ、逆に舐めていると攻撃が効かなくなるという物だった。
花街の古城に近付いたのは、古城が家になったら楽しいと思ったから。ただそれだけだった。
今回もただ遊ぼうとして、なのに、どうしてこんなことになってしまったのか理解できない。何故、という言葉が頭から離れない。
「――うわああああアア!!」
突然叫びを上げたスコルに、螭と鵺も目を丸くする。
闇に染めるハティの力が消えてしまったことは、夜を下ろすことしかできないスコルには苦しいほど理解できてしまった。ハティの目にはもう光は無い。スコルの慟哭は虚しく響いた。
「アイトワラスゥゥ!!」
それは逆恨みだった。宵街に行くことを提案したのは彼だが、強制したわけではない。だが彼がそんなことを提案しなければ、宵街に行こうなどと思わなかった。
螭と鵺は顔を見合わせ、螭は水の蔓を鞭のように、スコルの脳を揺さぶるように一撃を与えた。スコルはかくりと頭を垂れ、意識を失う。
「それでは、宜しくお願いします」
「……わかったわ。何でこんなことをしたのか聞き出さないと……すぐに目覚めるといいんだけど」
スコルが意識を失ったことで、宵街の空はまた少し明るくなった。いつもの薄暗い宵の空だ。
朗らかに微笑む螭に見送られながら、鵺はぐったりとしたスコルを連れて科刑所へ向かう。螭を怒らせると怖い。
余計なことを、と少しは思うが、鵺だけでは敵の幻聴に騙されていただろう。




