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透明街の人喰い獏 (2)  作者: 葉里ノイ


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183-闇


 あんな強烈な光を、アルペンローゼは見たことがなかった。炎のように熱く陽炎のように揺らぎ、なのに潮が引くように一瞬で消えた。目が眩むことも、周囲に火が広がることも無かった。まるで釦を押している間だけ燃える不思議な火炎放射のようだった。

 欠けた耳を押さえ、アルペンローゼは休憩室へ駆け足で向かう。傷に振動が伝わり表情が歪む。幾ら治癒能力が高くても痛みは変わらない。それに一瞬で元通りになるわけでもない。

 花街(はなまち)には大きな病院は無く、小さな診療所が点在しているだけだ。城下町にある診療所は変転人が開いており、あまり大きな怪我の治療はできない。森の奥に腕の良い獣が開いている診療所はあるが、古城からは距離がある。城の休憩室には病院のような設備は無いが、応急処置ができる道具は揃っている。

 誰もいない廊下を走り、休憩室のドアをもどかしく開く。中に一歩入った所で、アルペンローゼが変転人になるより前からある古い木の机上に乗った尻が目に入った。

「…………」

 仰向けに組み敷かれて捥く脚を、上に跨った者が押さえ付けている。状況が全くわからない。

「――あ、アルさん!? 丁度良かった! この人、何がしたいの!?」

 それはこちらが聞きたい。……とは言えなかった。言葉がわからない。耳が欠けた時に翻訳機も吹き飛ばされた。

 アルペンローゼは足早に奥の棚の引出しを開け、治療道具を取り出す。組み敷かれているのは(ばく)で、跨っているのはエーデルワイスだ。同僚が優勢の形なので、自分の治療を優先する。

「アルさん、怪我してる!? じゃあ手当てが先だね……。この人、僕を攫ってここに連れ込んで、何も言わないんだよ。話せないのは知ってるけど……」

「…………」

「さっき大きな音が聞こえたけど、何かあったの? 蒲牢(ほろう)は大丈夫かな……」

 何を言っているかはわからないが、獏は口を閉じない。何かを訴えていることはわかるが、アルペンローゼはそれ所ではない。獏も翻訳機を耳に装着しているが、エーデルワイスに乱暴に扱われたのだろう。故障なのか機能が欠損しているようだ。通常なら翻訳機を通せば相手に理解できる言語を話せる。花街の翻訳機は、本人の無意識の内に脳に刺激を与えて言語を操る物である。脳を操ると言うと危険な代物のようだが、翻訳以外には使えない物だ。

 欠けた耳に手当てを施して大きなガーゼを当て、手を洗い血を流す。

 ハンカチで手を拭き、別の引出しからメモ用紙を何枚か掴んでエーデルワイスに差し出した。彼女は代わりにアルペンローゼに予備の翻訳機を渡す。彼が無事な耳に翻訳機を付ける間、エーデルワイスは目配せした。

「……わかった。獏さんはそのままでお願いします」

「そのまま? 寝たままってこと?」

 抵抗を止め、獏は仰向けのまま大人しく動物面の顔でエーデルワイスを見上げる。エーデルワイスは身を起こし、ペンを取り出して紙に書き込む。どうやら獏と話をしたいが紙を所持していなかったようだ。手を離すと話す前に獏が逃げてしまうかもしれず、動けなかった。

 エーデルワイスは先ずアルペンローゼに書いた紙を向けた。獏も頭を傾けて紙を覗き込む。

『耳、どうしたの?』

「城の中から突然攻撃された。っ……誰を狙ったかはわからない……宵街(よいまち)から来た一人が腕を失った」

「え!? だ、誰が……?」

 大人しくしているつもりだったが、そうも言っていられなかった。エーデルワイスとアルペンローゼは獏を一瞥し、話を続ける。

「白い獣です。あれは避けられない……」

「蒲牢だ……」

 獏は愕然とするが、エーデルワイスは構わず紙を出す。

『アルが無事なら良かった』

「ロク様が様子を見に行った。僕には避難しろと言った。ワイスも避難しよう」

『規則違反する気はある?』

「規則違反……?」

 藪から棒に何を言い出すのかとアルペンローゼは疑問を繰り返す。避難が規則違反になるはずがない。

『アルを巻き込むつもりはなかった。でもわたし一人では限界がある』

「ワイスは規則違反をしてるのか……?」

 エーデルワイスは少し躊躇うが、ゆっくりと頷いた。隠して生きるのももう限界だった。

 アルペンローゼも躊躇ったが、エーデルワイスには覚悟が見えた。冗談や悪戯ではなく、本気だ。彼女の目には焦りも見える。返答にあまり時間は掛けられないようだ。

「……近くには誰もいない。獏さんが口を閉じていてくれるなら、規則違反が外に漏れることはない」

 最近は彼女と会話をする機会があまり無かったが、同僚のことは信用している。彼女の決心を頭ごなしに否定することはできなかった。痛みの所為で頭があまり働かないからかもしれない。

 部外者だが獏も頷く。話が見えないが、黙っていろと言うなら他言はしない。

『アルが望むなら、こいつを殺して口を封じるから大丈夫』

「え……?」

 獏は動揺した。

 その動揺を掻き消すように、遠くでまた石壁が崩れる大きな音が響く。

「早く避難した方が良さそうだ。規則違反は後で……」

『こっちも時間が無い。先に聞いて』

「……わかった」

『この音、アルが見た攻撃はフェルニゲシュの仕業』

「フェル様が……?」

『首輪で力が抑制できなくなってる。獣共が抑えることができるのは一時的にだけ。完全に抑制するにはアナが必要』

「…………」

『でもそれは阻止しないといけない。わたし達は獣共より先にアナを見つけて保護する』

「阻止……。でもそれだと、フェル様は……? 力が抑制できないなら、さっきみたいな攻撃が続くんじゃないか?」

『必要なことは話した。ここからは後で話す。時間が無い。わたしはアナを助けたい』

「助けたい……? アナに何かあるのか?」

 煮え切らないアルペンローゼに、エーデルワイスは自分の服の襟を力任せに下ろした。隠されていた喉に痛々しい古傷が覗く。アルペンローゼと獏は目を瞠り息を呑んだ。

『これはズラトロクに遣られた。声を奪われた。獣はこういう生き物』

 アルペンローゼは彼女の声が出ないのは生まれ付きだと思っていた。初めて会った時から声が無く、それが当たり前で、尋ねもしなかった。

『獏も協力してもらう。破れた本のこと、教えてあげたでしょ?』

「それはまあ……。蒲牢のこともあるし、城の獣の味方はできないけど……」

『捜す人数は多い方がいい。でも多過ぎるとわたしの目が行き届かない。三人でアナを捜す』

「アナは僕より先に城に戻ったんだ。それが見当たらない。アナが仕事を放棄するはずがない」

『わたしにも心当たりは無い』

 だから協力者が欲しかった。当ても無く一人で捜すのは困難だ。

 完全に理解できたわけではないが、切実だということは獏にもわかった。書庫の破れた絵本に書かれていたことをエーデルワイスが教えてくれたのも事実だ。

「蒲牢は心配だけど……窮奇(きゅうき)饕餮(とうてつ)は無事なんだよね?」

「後ろにいた二人でしょうか? 僕が去る時には無事でした」

 二人が無事なら、蒲牢を助けることはできるだろう。獏は少しの安堵を抱く。

「……わかった。じゃあ協力してあげる。アナさんを見つけるのは簡単だよ」

『簡単? 獣だと簡単に居場所がわかる?』

「寧ろ獣の方が難しいよ。変転人は思念……あ……あれって僕宛ての手紙だけだっけ……? じゃあ、やっぱり僕が思念を辿ってあげる」

 怪訝な顔をする二人に断り、獏は漸く体を起こせた。獏は少しだけ思念を感じ取ることができる。悪夢と言う感情の塊を食べるので敏感なのだ。

「思念……? 転送先の共有で使用する感覚のことですか? それでアナの居場所がわかるんですか?」

「漠然とだけどね。アナさんの持ち物があれば、それでかなり近い所まで行けるよ。日頃、身に付けてる物ほど精度が上がる」

「持ち物はアナの部屋に行けばありますが、身に付けているとなると今も身に付けているはずなので、確実に身に触れる物なら……ベッドでしょうか?」

「それは大きいね……。持ち歩きながら辿るから、小さい物がいい」

「アナはあまり物を買わないので、適した物があるかわかりませんが、部屋は近くなので案内します」

 話している内にガーゼに血が滲み、彼は新しいガーゼに交換する。その間にエーデルワイスは焜炉に火を点け、筆談に使った紙を燃やして処分した。規則違反が書かれた証拠を持っているわけにはいかない。

 ゲンチアナだけでなく、アルペンローゼとエーデルワイスの部屋も休憩室の近くにある。休憩室にはベッドが無いので、横になりたい時のために自室が近くにある。

 緊急事態のため無断で入ったゲンチアナの部屋は広いとは言えなかったが、それでもあまりに物が無く殺風景だった。机と椅子、そしてベッドしかない。棚も空っぽだ。生活感がまるで無かった。

「本当にアナさんの部屋? 引っ越すから片付けたとかじゃなく? 服も無いみたいだけど……」

「服なら洗濯所にありますよ。シャワー室が近いこともあり、多忙なので自室に運ぶ手間を惜しんで……僕もよくしてしまうので、横着が露呈すると恥ずかしいんですが」

 有能とは言え時間は有限だ。アルペンローゼも多くの仕事を熟すために何処かで短縮しなければならない。獣に見えない所で自分の時間を削っている。

「そっか……」

 手間と言うのだから洗濯所は遠い。避難を求められるほど切迫している今、あまり時間は掛けられない。洗濯所に行っている時間は無い。

 だが机の引出しを開けてみても何も入っていなかった。筆記具はいつも持ち歩いているのだろう。これでは一番小さな物が引出しになってしまう。引き出しを抱えて歩き回るのは目立つし、意外と重い。

「アルさんの部屋もこんな感じなの?」

「僕は……」

『アルの部屋は変な物が一杯』

「あれは僕が来る前からあるだけで……捨てるなと言ったのはワイスだ」

『捨てるな』

「だから置いてるんです……」

 前任の変転人の持ち物だ。アルペンローゼは知らないが、長く生きているエーデルワイスは勿論その人を知っている。思い出の品もある。だからアルペンローゼは捨てずに部屋を占拠されている。夜中に動き出してベッドに群がってきそうな、空虚な目をした人型の玩具や動物の置物などが多い。変転人となった直後にその部屋に案内されたアルペンローゼは視線を感じる気がして落ち着かなかったが、今では気にせず熟睡できている。

「アルさんの部屋も見てみたくなってきたな……」

「僕の部屋は関係無いですよね? アナの私物なんてありませんよ」

 寄り道をしている暇は無い。エーデルワイスは引出しを戻す獏の肩を叩き、腕を掴んだ。

「言ってみただけだから、急いでないわけじゃ……」

 愛想を浮かべる獏の腕を力強く引き抜こうとするかのような勢いで引きながら、エーデルワイスはアルペンローゼの腕も掴んで唐突に跳び退いた。

「!?」

 何度も聞いた遠くの音が、今度は一瞬で大きくなった。一秒よりも短く、少し前まで立っていた場所に光線が走り、巨大な鉛玉が通過したような破壊音と共に、壁も床も家具も刹那に抉り取った。

「なっ、何!?」

 体勢が悪かったため床に倒れ込む。一瞬でも遅れていれば脚が無くなっていた。壁と床に大穴が空き、ベッドが半分無くなり、机と椅子が粉々になった。部屋が半分無くなった。こんなものを一度でも喰らえば存在が消し飛んでしまう。

「……僕が見た攻撃です」

「フェルが遣ったってこと!? こんなのが君と蒲牢に当たったの!?」

「あの獣も反応はしてました。だから腕一本で済んだ。……それより、持ち運びに良さそうな小さな物が見つかりましたよ」

 頭上に舞っていた羽根がふわりと落ちて来る。弾けて舞い上がった布団の中身だ。アルペンローゼの視線を追い、獏は床に落ちたそれを拾う。一度攻撃を見たアルペンローゼはもう動じていない。エーデルワイスもだ。獣なのに獏だけが動揺していて恥ずかしくなってきた。腕を引かれた時、脱臼させられるのかと思ったとは言えない。

『獣とは言え、こんな強力な攻撃を無限に撃ち出せるはずがない。すぐガス欠になる』

「ガス欠になれば大公にも余裕が生まれて動き出すかもしれない。早くアナを捜しましょう」

「逞しいね……」

 そして頼もしい限りだ。

 一片の羽根を手に、獏は目を閉じて集中する。ゲンチアナは暫く花街を離れていたため、思念が薄くなっている。それでも微かな思念の糸の気配を追い、その端を指先に掴んだ。

「……花街にはいないと思う。人間の街の方……だね」


     * * *


 獏達が花街へ出発した一方、宵街の下層では新たに建設される施設の話で持ち切りだった。避難所としての用途以外にはまだ何も決まっていないため、有色の変転人は図書園やカフェに集まって意見を出し合っていた。ある程度意見を纏めた方が、科刑所の負担が減るだろうと考えたのだ。

 図書園では新人の無色達が講義を受けているが、場所を空けて有色の溜まり場ともなった。図書園には本がある。参考にできる物は多い。管理人の黒色蛍が入院していて本を持ち出すことはできないため、今までで最も図書園の中に人が集まっていた。

「喧しくなったわね……」

「こういう雑音の中で集中してこそ武器が生成できるんだろ」

(マムシ)さんは前向きなのか後ろ向きなのかわからないね」

「…………」

 散漫になっている花韮(ハナニラ)はペンを弄び、野襤褸菊(ノボロギク)は感心しながら蝮草(マムシグサ)を見る。燈台草(トウダイグサ)は本に集中し、これでもかと顔を近付けている。

 図書園は賑やかになり、少し離れたカフェの方も盛況だ。(ナズナ)の営むカフェは満席である。元々席数は多くないので、近隣から椅子を借りて座る者もいる。図書園は飲食禁止だが、カフェなら飲食付きで話し合える。

 偶然カフェに立ち寄った客は盛況振りに驚かされた。

「新しい施設を作るって話は聞いたけど、ここまで盛り上がってるとは」

「集まってくれている方が見回りの手間は省ける。僕達も休憩ができる」

 下層の見回りをしていた浅葱斑(アサギマダラ)と黒色蟹は、有色の集まるカフェで休憩しようと考えた。まさか席が無いほど盛況だとは思わなかった。

「すみません、満席で……」

「飲むだけだからいい。珈琲をミルク追加で頼む」

「ボクは蜂蜜レモネード! 蜂蜜増し増しで」

「はい。すぐに用意しますね。空いてる壁の前に座ってもいいですよ」

 珈琲と蜂蜜レモネードのコップを受け取り、店の脇の壁を背に二人は地面に腰を下ろした。長時間歩き回っていたので、座るのは久し振りだ。

「平和な見回りって散歩みたいなものだと思ってたけど、思ったより疲れるな」

「真面目に見回ってる証拠だ。気を張り詰めるからな」

 二人は賑やかな有色達と、注文の品を忙しそうにくるくると運ぶ紅花(ベニバナ)、最初は客だったが忙しそうな薺と紅花を見ている内に手伝い始めた大犬陰嚢(オオイヌノフグリ)を見ながらゆっくりと飲み物を啜った。

「アサギは髪が青いのに、どうやって無色判定を貰ったんだ?」

 唐突な質問だったが、無色は誰もが無彩色の髪色になるものだ。多少は色付くこともあるが、無彩色に近い色だ。浅葱斑の青い髪は誰もが有色の変転人だと判断するだろう。黒色蟹はそれが気になっていた。

「んー? 爪だな。爪が色付く変転人は無色だけだから。こんな鮮やかな髪は初めてだって言われたけど」

「そう言えば有色の爪は人間に似てるな。僕は一目見て無色判定された。爪は黒だ」

埋扇蟹(ウモレオウギガニ)はどう転んでも無色だと思う……。ボクは弱い毒だから判定が難しかったと思うけど」

「爪は灰色だな。だから灰所属か」

「どうせなら青い爪が良かったけどな。そこまで色付くのは獣だって言われた」

「ああ……確かに。爪なんて気にしてなかったな」

 穏やかな空気に気を抜きながら、黒色蟹は空を見上げる。薄暗い宵の空は今日も静かに見下ろしている。

「……?」

 空がいつもより暗い。微かな違いに目を細める。その直後、空が一層暗く、石段に並ぶ酸漿提灯を含む宵街の全ての明かりがぷつりと消えた。

「!?」

「え、何?」

「停電?」

「何も見えないよ!」

 全てが闇に呑み込まれ、黒く塗り潰されて物の輪郭さえ見えなくなった。途惑う有色達の声が小さな広場に広がる。

「いたっ! 誰か足踏んだ!?」

「あっ、コップ落としたかも! すみません!」

 動揺の声と音を聞きながら、浅葱斑は手探りで、隣に座っている黒色蟹の服を掴んだ。自分以外の全ての存在が消えてしまったのかと不安になったが、見えないだけで存在が消えたわけではないようだ。

 黒色蟹は全く見えない辺りを見渡す。宵街に設置されている酸漿提灯や壁のランタンを管理しているのは地霊だが、壊されるわけでもなく一斉に全てが消えたのは初めてだ。少なくとも黒色蟹が宵街に来てからは初めてだ。それに幾ら明かりが消えようと、空の色まで変わることはない。何も見えない漆黒の空なんて初めて見た。

(人為的……?)

 これは獣の仕業かもしれない。原因がわからない内は最悪を疑った方が良いだろう。楽観的に考えて最悪の事態になった場合、見回りをしていた意味が無い。

「皆、静かに!」

 小さな広場の端まで聞こえるよう、だが声量は落として静かに叫ぶ。黒色蟹の一声に、混乱していた有色達は反射的に口を閉じた。皆と一緒に途惑うわけではなく、何かを伝えようとしている。そう感じて有色達は不安ながらも言葉を待った。

「その場から動くな。立っている人はその場に座れ。暫く待てば目が慣れてくるはずだ」

「あ、常夜燈(じょうやとう)なら」

「待て。皆も明かりを出すな。僕は無色だ。状況を確認するまで余計なことをせず待機しろ」

 無色がいるならと有色の間に徐々に安堵が流れる。さすが最年長の無色は頼もしい。浅葱斑も彼の服を掴んだまま安心感を得る。

「アサギ、隣にいるな?」

「震える手でレオの服を掴んでるのがボクだよ」

 得意気に言うことではないが、その手を伝って黒色蟹は浅葱斑に近付く。彼の頭の高さを思い出しながら、耳のある辺りで囁く。

「僕はこれを獣の仕業と仮定して行動する。空の色を変えられるのは獣くらいだ。暗闇で光は目立つ。もし敵なら、光を目掛けて攻撃するかもしれない。物音もできるだけ立てずに。アサギは暗闇で動けるか?」

「え? え? 獣の……!?」

 思わず大声を出しそうになり、黒色蟹の大きな掌が浅葱斑の顔面を勢い良く打った。黒色蟹は口を狙ったつもりだったが、少し高かったようだ。

「鼻……鼻打った……」

「悪い。耳元に伝えたつもりだった。頭だったか」

「そっちじゃなくて鼻……」

「アサギは暗闇で動けるか?」

 最初の質問に戻って来た。浅葱斑は鼻を摩りつつ答える。

「普通くらいだと思うけど……夜は寝るからあんまり動いたことないし」

「目は見えてきたか?」

「うーん……全く光が無さそうなんだけど、全く光が無いと何も見えないままなんじゃないか?」

「僕もそれは考えた。でも暗闇を作った本人まで見えないのでは意味が無い。敵は余程耳がいいか、暗視ができるんだろう」

「そ、それ、喋ってるとバレる!?」

「何も反応が無いなら、暗視の方かもな。或いは様子を窺って――」

 声を潜めて疑問をぶつけていると、腹に響く爆発音が聞こえた。有色の動揺が広がるが、聞き覚えのあるそれは空高く打ち上がり、暗闇に花開いた。鮮やかな光を放射状に開く、新年に打ち上げられる花火だ。

 突如襲った暗闇に不安を覚え、誰かが光を打ち上げたようだ。花火は一瞬だが、その一瞬でカフェの周辺は見ることができた。黒色蟹は指示に従い座ったまま動かず空を見上げる有色達の位置を確認した。

 音の正体が花火だとわかると再び安堵が流れたが、直後に悲鳴が響いた。花火が打ち上がった方向だ。

「静かに」

 騒ぎ出す前に釘を打ち、黒色蟹は耳を澄ませる。悲鳴は一度だけだった。うっかり転んで上げるような声ではなかった。危機に際して上げる断末魔のようだった。まるで襲われたかのような声だ。その場合、悲鳴が一度だけなら、気絶させられたか殺されたと見る。広場の有色はまだそこまで頭が回っていない。何が起こっているのか想像が及んでいない。

「アサギの武器は何だ?」

「ば、爆弾だけど……こ、小型だよ、小型……規模が小さい奴」

「物騒な武器を持ってるんだな」

「たぶん、レオが想像してる爆弾じゃないよ。火は出ないし」

「それなら暗闇でも目立たないな。音の大きさはわからないが。もし敵が現れて危険だと判断したら、僕が常夜燈を出して囮になる。もし敵が複数いて僕が逃がしてしまったら、アサギはここにいる皆を守れ」

「え、ええっ!? ボク一人で?」

「図書園に応援を呼びに行けるならいいが、向こうもこっちに有色が集まってることは把握してる。待っていれば来てくれるかもしれない」

「う、うぅ……掴まる服がいないと心細い……」

「これで耐えろ」

 黒色蟹は服の代わりに、浅葱斑の手に自分のコップを持たせた。こんな物で心細さが消滅するはずがない。浅葱斑は弱音を吐きそうな口を何とか噤み、震える手でコップを握り締めた。

「僕の武器は大きな刃物だから、近付くと危ない。一人で戦う方がいい」

 視界は暗闇のままで、一向に何も見えてこない。月の無い空は完全な闇を作り出している。これでは音を頼るしかない。

「皆、音を頼りに行動するから、物音や声はなるべく出すな。僕の他にもここに無色がいるから、何かあったら指示を出す」

 返事をして良いのか迷ったが、有色達は小声で口々に「はい」と呟いた。浅葱斑は震えていた。指示なんて思い付かない。

「アサギ、敵が現れたらと言ったが、石段の方に様子を見て来る」

「えっ、行くのか……?」

「誰にも遭遇しなくても、病院に行く」

「そ、そっか……ラクタに助けを求めるんだな。その作戦は賛成……」

 もう少し引き留めたかったが、黒色蟹の足音は早々に静かに遠ざかり、すぐに聞こえなくなってしまった。物音も声も出すなと言われたので、付近にいる変転人は誰も喋らない。何も見えない暗闇で、世界でたった一人になってしまったかのような気持ちになり、浅葱斑の心臓は大きな鐘のように頭に響く。

(ど、どうしよう……実は皆こっそりこの場から離脱してて、ボクだけ取り残され……あっ! いざって時は転送すればいいんだ! ……あ……駄目だ……有色は転送なんてできないから……見捨てることになる……)

 ここにいる全員を一度に転送できる力は無く、順に離脱させるなら宵街に戻った時は石段の位置だ。この暗闇の中ではカフェに辿り着くことが難しく、敵に遭遇する可能性もある。カフェに辿り着けたとしても何処に誰がいるのかわからない。無闇に動くのは得策ではない。黒色蟹もきっとそう考えて病院に向かったのだ。一度でも転送してしまうと宵街の状況と自分の位置がわからなくなる。一人で逃げるわけではないなら、留まるしかない。

 浅葱斑も腹を括り、コップを地面に置いた。何が起こっても対処できるように、掌から小型爆弾を生成する。浅葱斑はこれを鱗粉爆弾と名付けているが、実際に鱗粉が入っているわけではない。鱗粉の形状をした細かい破片が勢い良く飛び散る仕様だ。どういった物質の破片なのかは彼にもわからない。想像で補えるのが無色の武器の凄い所だ。

 浅葱斑は恐怖を両手の爆弾の中に封じ込めて握り締める。震えは止まらないが、これは無色として生まれた義務だ。


     * * *


 宵街の中腹に聳える病院で平素の通り受付に座っていた姫女苑(ヒメジョオン)は、突然視界が暗転したことに大層驚いた。

「わ……な、何ですか!? 貧血!? 失明!? 眼球紛失!?」

 普段はどんな怪我人が運ばれて来ても然程動じないが、自分の身に異変が起こったとなれば動揺する。医者のラクタヴィージャに毎日見守られ、自分は健康だと思っているからだ。

「落ち着いて、ヒメ。原因はわからないけど、宵街が真っ暗になったみたい」

「その声はラクタヴィージャ様……」

 何も見えない黒い闇だが、聞き慣れた声を聞いて姫女苑は安心した。獣が近くにいてくれると言うだけで心強い。

「ヒメ、そこから動かないでね。ちょっと頭に触れるわよ」

「は、はい。私の頭がおかしくなったんですか……?」

 受付に座りながら待ち、病院で働く者の証である帽子が脱がされた。頭に手と、手ではない硬い物が触れる。頭だけでなく、顔にもその硬い物が触れ、両目を覆われた。最後にかちりと小さな音がし、黒く塗り潰されていた視界にぼんやりと輪郭が浮かび上がった。

「どう? 見える?」

「見えてきましたが、何ですか? これは……」

「病院は患者を預かるから、万一に備えて色々あるのよ。これは暗視ゴーグル。光の無い暗闇でも物の輪郭を捉えることができる。狻猊(さんげい)が作ってくれたの」

「ラクタヴィージャ様が見えます。同じ物を付けてますね」

 色までは見えないが、暗視ゴーグルを装着している長い髪を束ねた少女の姿がぼんやりと見える。機械の眼鏡のような厳つい物が両目を覆い、頭に被るように固定されていた。頭の左右と中央にベルトのような物が見える。

 安心した所で視線を受付カウンターの向こうに戻し、姫女苑はあまりに驚いて息が止まってしまった。

「!?」

 受付の前に人が立っていた。()()は何も見えていないのだろう、目は合っていない。

「悲鳴を上げなかったことは褒めてあげられるわね」

 悲鳴を上げるなら手で塞ごうと構えていたラクタヴィージャは微笑を浮かべる。

 驚き過ぎると声が出なくなるのかもしれない。姫女苑は抜けそうになった腰を正した。

「き、金瘡小草(キランソウ)さん……」

「その声は……姫女苑? ラクタヴィージャもいますよね?」

 彼女は入院していたが、両脚は無傷だ。手探りで受付まで来たようだ。白の最年長は行動力がある。

「ラクタヴィージャもいるわよ。これから迎えに行こうと思ってたんだけど。疑問はたくさんあると思うけど、先に他の患者を迎えに行くわね。混乱してると思うから」

「はい。勿論、他の患者を優先してください」

「まずは苧環(オダマキ)ね。すぐに動き出しそうだから」

 傷が癒えていないのに金瘡小草は一人で歩こうとするが、暗闇の中では何に躓くかわからず危険だ。姫女苑は彼女を支え、三人は足元を確認しつつ階段を駆け上がる。金瘡小草を除けば、現在入院している患者は二人だ。

 緊急事態なのでノックをせずに白花苧環の病室のドアを開ける。彼は体を起こしていたが、ベッドから降りてはいなかった。

「落ち着いてるわね、苧環。ベッドから降りてなくて感心」

「誰ですか……?」

 暗闇の中でドアの開く音と声だけが聞こえ、白花苧環は警戒する。膝を立てて動こうとするので、ラクタヴィージャは急いで名乗った。

「ラクタヴィージャよ。ヒメとキランもいるわ」

 名前を聞き、白花苧環は警戒を解く。

「停電ですか? 窓の外も見えないんですが」

「まだわからないけど、空まで闇になる停電は無いわ。ここじゃ落ち着かないから、話の前に廊下に出るわよ。動ける?」

「はい」

「支えますね」

 白花苧環は一人でベッドから降りようとするが、手探りでベッドの端を見つけようとする姿を見て姫女苑が手を貸す。彼は手足を動かせるほど回復してはいるが、ベッドから落ちたら大変だ。それに寝た切りなので体が鈍っている。

「三人には見えてるんですか?」

「私とヒメは暗視ゴーグルを付けてるから見えてるわよ」

「オレにもそれは……」

「病院の関係者の分しか無いのよね……」

「そうですか……わかりました」

「廊下に出たら明かりを出せるから、もう少し辛抱して」

 病室では出せない明かりとは何なのだろうと白花苧環と姫女苑は首を捻るが、まずは廊下へ出るラクタヴィージャに続いて黒色蛍の病室へ向かった。

 金瘡小草と白花苧環は手を繋いだ姫女苑の誘導で廊下を歩き、先程と同じように黒色蛍の病室に入る。黒色蛍は体を起こすこともせず、言い付けを守って動かずベッドに横になっていた。

「蛍、起きてる?」

「……起きてます。暗いんですが、明かりを出すことは動くことに含まれますか?」

「待っててくれたのね、ありがとう。廊下に出て話すから、少し動かすわよ。車椅子に乗せるから、痛かったら言って」

「はい。わかりました」

 ラクタヴィージャは金瘡小草と白花苧環と姫女苑を先に廊下に出し、部屋の隅に置いていた折り畳み式の車椅子を開く。そして杖を召喚し、青年の姿の分身体を出力する。分身体の分の暗視ゴーグルは無いため、本体が指示を出して協力して車椅子に黒色蛍を座らせた。何も見えず身動きの取れない分身体は用が終わればすぐに消す。

 全員が廊下に出たことを確認し、ドアを隙間無くきちりと閉める。壁の前へ移動し、ラクタヴィージャは姫女苑に暗視ゴーグルを外させた。自身も暗視ゴーグルを外し、常夜燈を取り出す。仄かな光に照らされた皆の顔が見え、四人は胸を撫で下ろした。名乗ってはいたが、知らない顔がいるのではという不安があったからだ。

「……さて。原因は何もわからないけど、全員が暗闇を体験したことから、個人を対象にされたわけじゃないってことはわかった」

 変転人の四人にも状況が全くわからなかったが、長命な獣であるラクタヴィージャはさすがに落ち着いている。

「病院の中だけでなく空も真っ黒だから、まずは獣の仕業を疑うわね。その場合、無闇に光を出すと相手に場所を知らせることになる。悪意があってこんなことをしてるなら、あまり知らせたくないわよね。だから窓のある病室では明かりは出さない。廊下は窓が無いから、外に光は漏れない」

「成程……病室でランタンを出さなくて良かったです」

 自分の武器であるランタンを生成しようかと黒色蛍は何度も考え悩んでいたが、動かなくて正解だった。

「外で花火が上がったことには気付いた?」

「はい。下層の方ですよね」

「俺も少し見ました」

「花火は……新年に空に光っていたあれですか?」

「苧環は今年が初めての年越しだったわね。そうよ、空に上がってた光の花のこと」

 彼はまだ花火を見慣れない。金瘡小草と黒色蛍のように断言ができなかった。

「二発目の花火が上がらなかったことから、悪い方に考えた方が良さそう。花火で一瞬でも明るくなれば安心するから、それを見て花火を上げる人が他に現れてもいいのに、それが無い。もし花火の光を頼りに暗闇の犯人が襲ったのなら悲鳴が上がる。ここからじゃ距離があるけど、下層にいたら聞こえるはず。それで変転人が怯えたか、無色が有色を制止したか」

 獣に関する仕事や戦い方などに慣れていない姫女苑と黒色蛍がいるため、ラクタヴィージャは丁寧に説明をした。

 四人の変転人はごくりと唾を呑む。それぞれ脳裏には渾沌(こんとん)の襲撃が浮かんでいた。外はまだ静かだが、これから最悪なことが起こるのではないかと緊張が滲む。

「とにかくわからないことだらけだから、分身体に外を調べさせる。地上と屋上からね」

 ラクタヴィージャは状況がわからないと言いつつも冷静に杖を振る。幼い少女の分身体を二体出力し、まるで双子のような少女達にそれぞれ暗視ゴーグルを預けた。

「それじゃ、任せたわ」

 幼い少女達は真剣な顔で頷き、上下に分かれて階段を駆けて行った。

「何か見つけたら分身体から報告が入るから、皆は大人しく待つのよ。怪我人なんだから」

「はい。でも人手が必要ならいつでも」

「オレもいつでも行けます」

「……俺も……」

「一番動いちゃいけない蛍が気を遣うから、キランと苧環は大人しくしてて。蛍の腕がすっぽ抜けたら責任持てる?」

「それは……持てないです」

「すっぽ抜けるんですか?」

 黒色蛍の千切れた腕はもう繋がっているのですっぽ抜けはしないが、金瘡小草と白花苧環には彼の状態がわからない。緊張と焦りを見せる二人に、黒色蛍は俯いて少し痛むような顔をしておいた。足を引っ張っているのではないかと黒色蛍は自分を責めようとしたが、ラクタヴィージャは二人に行動させないために彼の腕を利用したのだと気付いた。

「あの……ラクタヴィージャ先生。偵察中にすみません」

「うん? どうしたの?」

「俺は動けませんが、武器は出せるので、必要なら使ってください」

「変転人の武器は体に影響を与えるんだから、あまり他人に貸し出す物じゃないのよ」

 白の二人が動こうとするので、やはり黒色蛍も気を遣ってしまう。彼女はそう察して苦笑した。

「俺の武器はランタンです。攻撃することはできませんが、自由に光を操れます。光の届く範囲も任意で調整できるんです。それはつまり……何も遮る物が無かったとしても、範囲外から見れば光は見えなくなるんです」

「珍しい……かなり凝った武器を作ったのね。獣の能力みたい」

「そんな大それた物ではなくて……獣ではなく、本を読んで、空を見て考えたんです。星の光は強く見える物と弱く見える物がありますよね。そしてあまりに遠いと見えない。光速度を調節することで、狭い範囲でも何とかそれと同じことを実現できました。闇夜の灯火となれるように」

 仕事を頼まれないからと図書園に入り浸っていたことは無駄にはなっていない。いつか仕事を依頼された時のために、だが身体能力に自信が無かったため、後方で支援できるような武器を考えた。暗闇を照らすなら今ではないかと黒色蛍は饒舌に語った。

「わかったわ。頭に入れておく」

 攻撃をする矛でなくとも役に立つことができる。その機会が来たのだと黒色蛍は内心では浮き足立っていた。体が弱いと言われて獣から仕事を依頼されない汚名を遂に返上できるかもしれない。

 変転人は自身の体内で武器を作ることができる。と言われれば皆興味を示して早く武器をと焦ってしまう。矛を持ちたい者は特にだ。だが上手くいかない者もいる。

 時間が経てば経つほど人の姿で生きる時間が長くなり、知識も増える。その知識で強化した武器を作れる。遅いことは悪ではない。遅くても役に立てる。

 口を閉じると静寂で耳が痛くなりそうだったが、花火以後に外で音はしない。まるで病院が孤立してしまったかのようだ。

「……報告、来たわ。屋上の方から」

 変転人達に緊張が走る。分身体が何かを見つけたようだ。

「空中に浮遊する人影が二つ。十中八九、獣ね。距離があるから顔は見えない……科刑所に近いことが気になるけど、あそこには睚眦(がいさい)(みずち)もいるし心配ないかな」

「科刑所……」

 白である金瘡小草は狴犴(へいかん)に恩を感じている。白花苧環は少々複雑だが、科刑所は自分の仕事場だ。二人は落ち着かずに睫毛を伏せる。

「地上の方からは報告が無いけど――、んっ」

 廊下は薄暗くとも、微かに彼女が眉を寄せたのがわかった。ラクタヴィージャは目を細め、廊下の向こうを見る。

「……地上の分身体が殺された」

「!?」

「浮遊する獣にですか?」

「上の獣は動いてないみたい。下にも何か居るってこと……こっちは病院に近いから、耳を澄ませば何か聞こえないかな?」

 他にも聞きたいことはあったが、声で耳を塞ぐわけにはいかない。金瘡小草と白花苧環は口を噤み、彼女の指示に従って距離を詰めた。腕がまだ満足に動かせない黒色蛍と、武器の無い有色の姫女苑を守ること。それが今の二人に求められることだ。

「暗視ゴーグルは無いけど、戦える分身体を作るわ。病院の入口で殺されたら、戦う覚悟をしないと」

「わかりました。全力を尽くします」

「武器はもう生成していいですか?」

「二人が戦うのは一番最後よ。私が遣られたら、身を守るために武器を持ちなさい。私が遣られると思うなら、今から武器を持っててもいいけど?」

 獣が遣られるなど、そんな失礼なことは口が裂けても言えない。乾いた笑みを浮かべて煽るラクタヴィージャから二人は目を逸らす。医者には逆らえない。

 ラクタヴィージャは幼い少女の分身体を四体出力し、それらは廊下を駆けて暗闇の中へ消える。病院はラクタヴィージャの家のような物だ。何も見えなくても壁や階段の位置はわかる。何百年もここに居るのだから。

 分身体はまだまだ出すことができるが、殺される度に本体は消耗する。普段出力している分身体は戦う必要が無いため、戦う能力を省いて消耗を減らしている。戦闘に使用する時のみ戦闘能力を付加するのだ。分身体は本体より劣るが、無色に比べると断然強い。

 問題は暗闇で戦うことになるため目に頼れないことだが、耳や気配を頼ればある程度の戦闘は可能である。変転人に心配されるほど分身体は弱くない。

「ん……?」

 分身体を配置して幾らもしない内に闇の中から何かが飛び出し、病院に駆け込んできた。明かりが無いため、気配だけを感じる。分身体の警戒を擦り抜け、階段を駆け上がる。戦闘を避けて逃げるように擦り抜けた。まるで分身体の位置を正確に把握しているようだった。

「……何か来ますね?」

 経験豊富な金瘡小草は階段から気配を感じ、警戒を強めた。ラクタヴィージャの分身体を振り切ったのだから、武器を出しても良いはずだ。手に指を掛け、階段を注視する。それを見た白花苧環も武器を出す体勢になる。

「待って、二人共。分身体は遣られてないから」

 分身体はそれを追おうとしてやめた。

 階段の方へ集中していると今度は常夜燈の光が揺らぎ、蝋燭の火を吹き消すように消えた。

「!?」

 動揺が支配する前に、黒色蛍は負傷した掌からランタンを引き抜く。光量を常夜燈と同等に小さく絞る。

 階段から飛び出したそれは両手に武器を構え、光を見つけて駆け寄った。

鉄線蓮(テッセンレン)!」

 白い少女は急いで停止する。両手に円い鉄扇を構えた彼女は病院の主の姿を見て安堵した。

「急に暗くなったので、異常事態かと……。変な物が彷徨いていて、有色が襲われてたので敵だと判断して殺したんですが。でも殺して良かったのかわからなくなって不安になって、尋ねに来ました」

「無事で何よりだけど、この暗闇でよく来られたわね。明かりを出したの?」

「いえ。私は暗い場所や夜に行動することが多かったので、暗所は慣れてるんです」

 渾沌と檮杌(とうごつ)に従っていた頃を思い出し、鉄線蓮は目を伏せる。助けを求めていたあの頃のことが役に立ったなど考えたくなかった。

「顔に泥が付いてる。来てくれて良かったわ。変転人に殺せるなら、敵は弱いのね。正当防衛なら咎められることはないわよ」

 ハンカチを取り出し、ラクタヴィージャは鉄線蓮の頬に付着している泥を拭う。

「それなら安心しました。敵は泥の塊みたいでした。殺したと言いましたが、生物ではないかもしれません。血が出ず、崩れてしまったので」

「泥? 獣が操ってるの……? 弱い物体を徘徊させて、一体何が目的なの……?」

「病院は怪我人が多いので、私も力になれれば」

「ありがとう。すぐに武器を出そうとする患者ばかりだから助かったわ」

「御世話になった病院の役に立てるなら光栄です」

 従っていた獣達の残像を振り払い、鉄線蓮は頭を下げる。過去の嫌なことでも役に立つなら利用する。転んで俯くばかりでなく、只では起き上がらず前を向く。

 鉄線蓮は鉄扇を構え、階段の脇へ身を潜める。階下からでも階上からでも、何人たりともここを通さない。


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