178-特別な運
常夜の小さな街は静寂を守り、橙色の明かりが灯る古物店の奥で獏は金魚達に餌を遣っていた。宵街に要望を出し、人間の街で調達してもらった餌だ。二匹の金魚は水面に漂う小さな餌を目掛けてぱくぱくと忙しなく口を動かしている。
「ふふ……たくさん食べるんだよ」
「大きくして食べるんですか?」
「食べないよ!?」
台所から覗いてぼそりと不穏なことを言う灰色海月に、獏は思わず声が裏返ってしまった。人間はペットなどと言って動物を愛玩するが、彼女はまだ愛玩が理解できないようだ。猫は食肉ではないのでここで飼っている二匹の猫を食べようなどとは言わないが、金魚は魚屋に並ぶ魚との違いがまだわからない。
「でも確かに、金魚ってどのくらい大きくなるんだろうね。大きくなったら宵街に水槽を買ってもらわなくちゃ」
「水族館ができますね」
「水族館は……難しいかなぁ。クラゲさんは水族館を見たことがあるの?」
「実物は見たことがないですが、図書園に水族館の本があります。水槽がたくさんあって、芸を仕込まれた生物が餌を対価に労働してるんですよね?」
「労働……。間違ってはいないんだろうけど……」
「いつか仲間の姿を見られたらいいと思ってます」
人の姿を与えられた灰色海月は人の姿にももう慣れたが、海が恋しいのかもしれない。海の中で仲間を探すのは困難だが、水族館なら行けば会えるだろう。
「僕が連れて行ってあげられればいいけど、そういう善行がないと僕は動けないな。クラゲさんだけなら行けると思うけど。休暇が欲しいって言えば、監視役の代理が来てくれるよね? 代理は何度も来てるし」
「一人では行きません」
「そう?」
金魚の腹を満たしていると足元に黒猫と子猫も遣って来る。自分達の餌はまだかと強請りに来た。この街の中では腹が減ることはないのだが、餌を見ると食べたくなるようだ。動物の本能かもしれない。
店の棚にある脚の生えた古い硝子の氷コップにそれぞれ餌を入れて足元に置く。二匹は待ってましたとばかりに餌に顔を突っ込んで食べ始めた。氷コップは氷菓専用のコップだが、餌を遣るにも丁度良い。
「都合良く水族館に行く願い事を待ちます」
「あればいいねぇ。動物園はあったけど」
「! ありましたか?」
「マキさんに出会ってすぐの頃にね。マキさんと行ったんだよ」
「う……」
羨ましい、と言いそうになったが、寸前で呑み込んだ。罪人の善行を羨ましがる監視役など監視役失格だ。
「……マレーバクはいましたか?」
「いたよ」
「何を話しましたか?」
「会話はできないよ。想像より大きな体だよね」
「う……」
灰色海月は言葉を呑み込んだ。マレーバクは図書園の図鑑で見たことがあるだけだ。獏の監視役を任命された時、図鑑のあれだと思った。任命させるより前に面識もあったが、罪人だと聞かされても怖いと思わなかったのは図鑑の御陰もある。いつか四つ脚で歩く方のマレーバクも見たいと思っている。
「!」
悔しさを呑み込みながら、灰色海月ははっとした。
「手紙の投函があったみたいです。行ってきます」
「都合のいい願い事が来るかなぁ。いってらっしゃい」
餌を食べ終えた黒猫と子猫は満足し、獏の足元を走って置棚の間に滑り込んだ。灰色海月が戻って来る前に氷コップを洗って棚に戻しておく。
革張りの古い椅子に腰掛け、獏は穏やかに彼女の帰りを待った。そう都合良く水族館に行く願い事は来ないだろう。
あまり時間を待たずして、草臥れた黒い鞄を提げた小太りの男を連れた灰色海月が戻って来る。不満そうな顔をしている彼女に獏は察した。
対照的に小太りの男は人の良さそうな笑顔を貼り付け、妖しい動物面を被る獏の姿を見つけて擦り寄るように接近する。
「こちらが獏さん……でしょうか?」
「はい」
不満そうな顔ではあるが、監視役の仕事は忘れない。灰色海月は返事をし、台所へ入って行く。
小太りの男は出された椅子に座り、にこにこと笑っている。ここに来る者は暗い顔をしていることが多いが、笑う者もいないわけではない。だが笑う人間は大抵、獏を見下している。ここまで笑顔が眩しい者は初めてかもしれない。動物面の奥で目を細め、獏は椅子を少し下げて脚を組んだ。
「早速、君の願い事を確認するね」
「はい。宜しくお願いします」
男は深々と頭を下げ、にこにこと笑う顔を上げる。何がそんなに面白いのか、獏には不気味に見える。
獏は灰色海月が机に置いた手紙を開き、じっくりと読んで小首を傾いだ。前後に長ったらしく無駄な言葉が飾られているが、要は『商品の宣伝をしてほしい』ということらしい。
「これは……どういうこと? 宣伝って、人間に対してだよね?」
「はい。おっしゃる通りです! 獏さんには商品の良さを伝えていただく広告塔になっていただきたいのです。そして売り上げをバンバン伸ばしていただきたいんです!」
「広告塔……?」
商品の開発は願われたことがあるが、宣伝は初めてだ。何をするのか全く想像ができない。
「えっと……テレビに出るのは嫌だよ」
「いえ! テレビではありません。現代の宣伝で重要になっているのはインターネットです。ポスターも作ろうかと思ってるんですが。獏さんが推奨してくだされば話題になること間違い無しです。写真と、宜しければ動画も……」
「嫌なんだけど」
「え?」
「絶対、やだ」
きっぱりと断り、小太りの男は面食らった。笑顔を貼り付けたまま固まってしまう。手紙を書いてポストに入れ、迎えに連れられここまで来れば、後は叶えてもらうだけだと思っていた。断られることがあるなんて考えもしなかった。
「願い事を……何でも叶えてくださるんですよね……?」
「そうだよ。僕が遣るって言ったらね」
「…………」
小太りの男は笑顔のまま黙考した。ここで断られるのは想定外だ。数少ない社員に向かって成功を約束し、意気揚々と出て来たというのに。
「噂と違うのでは……? それだと嘘を吐いたことになりませんか……?」
「そう? 噂が全てを語ってるわけじゃないよ。君もあるでしょ? 敢えて言わずに黙ってることが」
「いやいやいや……話が違うじゃないですか。……あっ、宣伝していただく商品は、勿論差し上げますよ!」
男は引き下がらず、額に汗を浮かべながら食い下がる。笑顔に焦燥が滲む。
「そう言えば、商品ってどんな物なの?」
「おっ! 興味が湧いてきましたか!」
「いや別に。焦らすんだったら言わなくていいよ」
「いえいえ、とんでもないです。言わせてください!」
面倒臭い人間だな、と思いながらも、攻撃してきたわけではないので獏は会話の相手をする。わかりやすく敵意を見せて攻撃してくればすぐに追い返すことができるのだが、現時点では獏が一方的に嫌がっているだけだ。不利益な噂を流されないためにも、断る正当な理由が欲しい所だ。
男は足元に置いていた草臥れた鞄を開け、金色のポーチを取り出す。誇張でも比喩でもなく、キラキラと輝く金色である。その中から金色や透明の丸い石や金属の飾りが付いた腕輪が出て来た。
「こちらは大変御利益のある腕輪です」
「…………」
「デザインを一新し、洗練し、より強運を招く御利益があるよう魂を込めて制作した物です」
「……僕の所に来るくらいだから、変な物が出て来ると思ったよ」
「ハハハ! こんな素敵なアクセサリーが出て来るとは思わなかったでしょう! お褒めの言葉をいただき、感謝します。獏さん絶賛! と言葉を添えさせていただきますね」
獏の目元がひくりと引き攣った。話を聞かないと言うより、都合良く解釈をする男だ。はっきりと突き放しても無駄かもしれないと獏は腕も組む。
(僕は腕輪を変な物って言ったつもりだけど、見事に推測だと思われちゃったな……絶賛してないんだけど)
洗練したと言うが、引き算を知らないくらいに盛り付けられていてギラギラとしている。好きな物を全部盛り付けた丼なら心がときめくが、御利益とやらを盛り付けた腕輪に人間はときめくものなのだろうか。人間ではない獏にはわからない。
「老若男女、誰でもどんなファッションにも合いますよ」
「ファッションのことはよくわからないけど」
「格好良いスタイルでも、獏さんのように可愛らしい方にもお似合いですよ」
「可愛らしい?」
「お声が優しげで可愛らしいですよね」
獏は脚と腕を組んだまま、動物面の奥で目を細める。小柄で大きな瞳の可愛らしい少女の容姿を持つ蜃が以前『可愛い』という言葉を嫌がっていたことを思い出した。
「僕はそういうのあんまり気にしないけど、他の獣にはあんまり言わない方がいいね。碌に知りもしない人の『可愛い』って、自分より格下に対して言う言葉だから。動物だってそうでしょ? 小動物は特にだけど、檻の中に入れられて人間に危険が及ばない時は『可愛い』って言う。野生の動物が隣にいて襲ってきたら『怖い』でしょ? 人間に舐められたって怒る獣は多いよ。獣はどちらかと言うと、恐れられたいからね」
落ち着いているが抑揚が無く静かに嗜める言葉に、男は笑顔のまま硬直する。男が獏の噂を知ったのは単なる偶然だった。仕事仲間が何気無く呟いたことを聞いていただけだ。
この得体の知れない小さな街に一瞬で移動した時、本物だと思った。言葉が通じるのか不安になった。だがそれは杞憂だった。もっと気難しく怖いものだと予想していたが、獏は人語を話し、柔和な態度と声色で、そこらの人間よりもずっと優しい印象を受けた。そしてすっかり図に乗ってしまった。『あんまり気にしない』は『多少は気にする』と言うことだ。
「こ……これは申し訳ないです」
男は冷汗を浮かべて笑顔を苦笑いに、へこへこと頭を下げた。
「君がこれを作ったんなら、既に暫くこれを傍に置いてたんだよね? 何か良いことはあった?」
「い、良いこと……あっ、も、勿論、貴方にこうして出会えたことですよ! この素晴らしい特別な縁に感謝ですね!」
「ふぅん……」
詰まらなさそうに返事をする獏に、男も空気が良くないことを察して焦る。
それを台所の陰から見守る灰色海月は空のティーカップに湯を注いで温めるが、紅茶を淹れるかは迷っていた。願い事に対して獏が乗り気ではない。獏の噂を流しているのは宵街だが、獣の顔写真を散撒かれるのは宵街としても良いことではない。顔写真なんて出回ってしまうと、噂が一気に広まって制御できなくなる。徒でさえ、何処で情報を掴んだのか獣のことを知って体の部位を求める物好きな蒐集家が稀に現れるのに、顔写真なんていう獣の証拠が出回れば収拾がつかなくなる。罪人の善行である人間の願い事は何でも叶えるべきだが、宵街を危険に晒すことはできない。叶えられる願い事かどうか見極めてから契約の刻印の紅茶を出すのだ。
「……そ、そうだ! 一度手に取って見ていただけませんか? 持った瞬間に力を感じられるはずですよ。力がじわじわと湧いてくる感じが」
「ふーん」
獏はもうすっかり興味が無い。だが持つくらいなら構わないだろう。写真を撮られるよりずっと良い。
(信じ易い人なら、言葉に乗せられてそういう気分になるんだろうな。占いみたいなものだよね。占いは一対一ならともかく、不特定多数に向ける言葉は不特定多数に当て嵌まるように曖昧にせざるを得ない。皆に全く同じことが起こるなんて無いんだから。占いは解釈次第。この腕輪も、持つ人の解釈次第だね)
机に置かれた腕輪に手を伸ばし、笑顔から冷汗を掻く男の前でそれに触れた。
「っ!?」
ばちりと電気が走るような音と衝撃が指先に爆ぜ、獏は反射的に手を引いた。音は男と灰色海月の耳にも届く程の大きさだった。
「あっ、だ、大丈夫ですか? 静電気ですか……?」
(え……何? 反発した……? 子供騙しの玩具だと思ってたけど、本当に何かある……?)
もし静電気なら今の一撃で放電したはずだ。獏は少し考え、もう一度腕輪に触れることにした。先程よりもゆっくりと手を近付け、ちょいと素速く指先を当てる。
「っ!」
先程と同じくらいの音と衝撃が走った。これは静電気ではない。走る痛みは静電気のようだが、ここまでの音が鳴るなら電気が目に見えるはずだ。だが指先に稲妻は走っていない。
「……ねぇ、これ、どうやって作ったの?」
手を机の下に引っ込めて指先を摩る。確認のために二度痛い思いをしたが、一度で充分だ。涙が出そうだ。
「作り方は企業秘密でして」
「君が作ったの?」
「いえ、職人が一つ一つ真心を込めて手作りしています」
「その職人に会わせて」
「え? 職人にですか? それは……いや、それだけ真摯に願いを叶えようとしてくださってるってことですね!?」
「もう好きに解釈しなよ」
「ハハハ。職人は凄いですよ。ある日、体に衝撃が走ったそうです。それから不思議な力に目覚めたとかで」
「本人に聞くから、すぐ案内して」
「今すぐ……ですか? ではまず確認を……あ、ここ圏外ですね?」
人間の街とは別の空間にあるこの街に人間の作る電波が通っているはずがない。男に腕輪を仕舞わせ、灰色海月に転送してもらう。
重い首輪を嵌められた獏はまだ死角で手を摩りながら、夜を迎えた人間の街へ姿を現す。
雑居ビルの間の路地に転送された男は辺りを見渡しながら職人に電話を掛けた。その間、獏は路地から黒い動物面を出し、人影を確認する。雑居ビルが立ち並んでいるが、明かりの点っている窓は少ない。人通りも殆ど無い。寂れた場所なのか、もう就業時間なのだろう。ビルの隙間に少し欠けた月が覗いている。
「――獏さん、連絡が取れました。今から行ってもいいようです」
「良かった。ここから徒歩で行ける距離?」
「ここは事務所の近くですね。職人は自宅で制作してますので、電車に乗らないと」
「じゃあクラゲさんに転送してもらうよ」
「はあ……便利なんですね」
どんな距離でも電車や車を使わず一瞬で移動できてしまうのだから、男は思わず感嘆が漏れる。人間も何れそういう便利な移動手段が発明されるよう切に願うばかりだ。
「……あっ。その転送と言うのを私も使えるように……っていう願い事はいけませんかね?」
「人間の能力を遥かに超える願い事は、身の丈に合わないって言うんだよ。願い事の代価は願う人の柔らかい部分をほんの少し戴く程度だけど、能力を超えちゃうと支払う『身』が無くなっちゃうよ」
「え、えっと……?」
「わかりやすく言うと、死ぬかもね、ってこと」
「!」
獏は面白そうにくすくすと笑うが、男の背筋にはぞわりと冷たいものが走った。きっと願ってはいけないものなのだ。男は素直にそう解釈した。唾を呑み、男は口を噤むしかなかった。
ただ転送をタクシーのように使用したいと言うなら安い願い事なのだが、獏はそんな提案はしない。面倒だからだ。獏自身は烙印があるため自力の転送はできないので、灰色海月や他の者に手伝ってもらうことになるが、専属のタクシーのように何度も利用されては疲弊してしまう。願い事は善行として仕方無く叶えているが、人間に利用されるのは不快だ。
灰色海月の灰色の傘の休息が終わり、少々顔色の悪い小太りの男から思念を読み取ってくるりと傘を回す。
古そうなマンションの前の茂みに現れた三人はそれを見上げ、男はやはり転送は便利だと思う。
「このマンションで合ってる?」
「はい、合ってます。……こ、こちらです」
『死ぬ』の言葉が効いているようだ。男は引き攣った笑顔を浮かべながらマンションへ入って行く。
窮屈なエレベーターで五階へ上がり、職人の部屋を目指す。エレベーター内には目立つ防犯カメラがあり、写りたくない獏は男を盾にした。
何の変哲も無い安っぽいマンションだ。詐欺紛いの商品を売って大儲けしているわけではないらしい。幾らで売り付けているのか聞いていないが、被害者は少ないに越したことはない。それともこれから被害者が増えるのだろうか。
小太りの男がインターフォンを鳴らすとすぐに若い男が顔を出し、妖しい動物面を被る獏と灰色の女に気付いて慌てたように目を逸らした。
「……納品……はまだですよね? 進捗の確認……なら電話で済みますよね」
「納品日は明日だ。邪魔をしてすまんな。こちらの獏さんは、新商品のイメージキャラクターを務めてくださるんだ。獏さんが職人に会いたいと言ってな」
「獏さん……?」
イメージキャラクターになどなったつもりはないが、獏は聞かなかったことにして職人の若い男に向かってにこやかに手を上げた。
「少し作業を見させてもらってもいいかな?」
「は、はあ……じゃあ、どうぞ……」
そのお面は何なんだという言葉は呑み込み、若い男は獏達を招き入れた。雇い主には逆らえない。だがイメージキャラクターが不気味だと商品にも不気味なイメージが付くのではないかと疑問だ。そんなことを考えていたので、獏と灰色海月が土足で部屋に上がっていることにも気付かなかった。
一人暮らしの若い男は一つしかない殺風景な部屋に案内し、机上に広げた丸い石のビーズやよくわからない形の金属の飾りを手で示す。
「あそこにある材料を糸で繋いで……輪にします。……神聖なパワーを込めて」
言わされているのだろう。若い男はちらちらと小太りの男へ目を向けている。
獏も小太りの男へ目を遣り、邪魔だなと思う。
「君はもう帰っていいよ。後はこの職人さんと話すから」
「えっ? で、では願い事は……?」
「今日はもう遅いし、後日ね。さっきの腕輪はここに置いて行って」
「で、ですが……」
「帰らないの?」
不機嫌な声を出すと、小太りの男の顔は凍り付いた。何か言いたそうな雰囲気があったが、何も言わずそそくさと出て行った。『死ぬ』の言葉がよく効いている。死にたくないようだ。
「さて。邪魔な人はいなくなったから、これで自由に話せるよ」
声色を元に戻し、柔和な雰囲気を出す。得体の知れない人達しかいなくなってしまった部屋で、若い男は逃げ出したい気持ちで一杯だった。
「話せるって……イメージキャラクターの方が何を聞きたいんですか?」
「イメージキャラクターは忘れて。引き受けてないから」
「じゃあ貴方も強引に頼まれたんですか?」
「君は強引に頼まれたの?」
「……まあ……これ裏でチクったりします?」
「密告なんてしないよ。僕はそんな陰湿じゃないし」
「はあ……」
若い男は納得していない顔をするが、獏はそれ以上弁明するつもりはなかった。
「君は獏って知ってる?」
「獏は……夢を食べる奴ですよね。確か」
「うん。僕がその獏だよ。だから人間じゃない。それを前提に、」
小太りの男が置いていった腕輪にもう一度触れる。ばちりと大きな音を立てて反発し、獏は素速く手を引いた。それを見て若い男は驚いて目を瞠った。
「この腕輪に触れると電気が走るみたいな衝撃がある。只の人間は触れても何とも無いんでしょ? あの男は何とも無いみたいだし。こうなる理由が知りたいんだけど、心当たりはある?」
「心当たりと言われても……」
雇い主である小太りの男が触れても何とも無かった腕輪が、獏とか言う人間ではない者が触れると衝撃が走るらしい。俄には信じ難いが、目の前で見せられては信じるしかない。
「……心当たりと言うか、この腕輪を作り始めたのは、急に運が良くなったからなんです」
「運が? 最初に運が良いって感じたのはどんな出来事だったの?」
「朝起きたら、喧嘩してた友達から仲直りしようってメッセージが来てて。あいつ頑固なんですけど、オレも謝るのは苦手なので、あいつから言い出してくれないかなと思ってたんです。そしたらですよ。メッセージが来てて」
「それが運が良いこと?」
「あいつ、とにかく頑固なんですよ! 自分から謝るなんて絶対しない奴で! それから……その他には、財布を拾ったら気前のいい人で高い寿司を奢ってもらったり、宝クジが当たったり、彼女もできたんですよ!」
開運商品を購入して感想を述べる広告のようなことを言う。獏は人差し指と親指で作った輪で彼を覗いてみるが、どうやら言わされているわけではなく真実のようだ。
「宝籤って、等級があるよね? まさか一番下の金額が当たった……なんて言わないよね?」
「一等ですよ! 一等! ……ですがまあ……その場で結果がわかる安い奴なんで、一等でも五十万円なんですが」
「へえ、一等は凄いね。最初の仲直りは運が良いのかよくわからなかったけど、宝籤は確かに運が良いね」
「それでそのことをネットに書き込んだら、その……さっきのあの人から仕事の依頼が来て……」
「それで腕輪を作ってるの?」
「はい……」
「変な人に目を着けられちゃったねぇ。ああいうのは無視しておけばいいんだよ。もう一つ聞きたいんだけど、運が良くなった前日とか、何かあった?」
「前日? 何か……あ、寧ろ運の悪いことがありました。仕事の帰りにスーパーに寄って晩メシを買ったんですけど、歩いてたら急に袋の紐が切れたんです。メシが落ちて気付いたんですけど、オレの手から血が出てて、何処かにぶつけたのかと周りを見てみたら……全身真っ黒の人が刃物を持って走り去って行ったんです! 通り魔って奴ですかね……」
「全身真っ黒……」
「そうなんですよ。顔は見えませんでしたが、手以外は全身一色です」
「……。クラゲさん、ちょっと」
背後に控えていた灰色海月を呼び、耳元に囁く。彼女はこくりと頭を下げ、携帯端末を取り出して距離を取った。
「チクるんですか……?」
「違うよ。さっきの人に電話をするんじゃないよ」
不安な顔をする若い男を椅子に座らせ、獏は安心させるように優しく言う。灰色海月の持つ端末は人間には繋がらない。
全身真っ黒な人は変転人かもしれない。獣や人間である可能性も否定できないが、真っ先に思い付くのは変転人だ。無色の変転人の殆どは所属する色の服を着ている。
灰色海月には白花苧環に確認を取ってもらう。科刑所なら変転人を把握しているだろう。もし宵街の変転人の仕業なら、科刑所で狴犴を手伝う彼なら何か心当たりがあるはずだ。
人間の耳に入らないよう距離を取って灰色海月は通話し、幾らか言葉を交わした後に端末を差し出しながら獏の許へ戻って来た。
「……あの、代わってほしいそうです」
「上手く伝わらなかったのかな?」
端末を受け取り、獏は嬉しそうに耳に当てる。日頃羨ましいと眺めている携帯端末にまた触らせてもらえた。端末が欲しい気持ちが顔と声に出る。
「――代わったよ、マキさん」
『苧環ではないが』
想像よりも低い声だった。聞き覚えがある。この嫌な声は狴犴だ。獏は冷水を浴びせられたように跳ね上がった。
「! 間違い電話だよ」
『巫山戯るなら地下牢に送るが』
「何で君がいるの……」
狴犴が出て来るなんて聞いていない。獏は不満が全て顔に出た。動物面で隠れているので口元しか見えていないが。
白花苧環は宵街の病院で入院している。医者のラクタヴィージャにまだ動くなと言われているので外出はしていないはずだ。つまり運が悪いことに、狴犴が彼の見舞いに来ているのだ。
『運が良くなったと言う内容を詳しく聞きたい。灰色海月は簡潔に述べてくれたが、言葉を理解していない』
「? 簡潔に言わない方がいいの? えっとね……頑固な友達と仲直りすることができたり、財布を拾ったら高い御寿司を奢ってもらえたり、宝籤の一等が当たったり彼女ができたり。だってさ」
『宝籤と言うのは、富籤のことか?』
先程の狴犴の言葉を獏は漸く理解した。灰色海月は宝籤を知らないのだ。宝籤は予め番号の書かれた紙や自分で番号を選択する物、スクラッチカードなど種類はあるが、当選すると等級に従って金が手に入る夢のような籤のことだ。
「富籤なんて言う人、今はあんまりいないんじゃない? 籤の売り場にも『宝くじ』って書いてあるよ」
『そうなのか』
「あんまり昔のことは僕も知らないから、それ以上は訊かないでよ。富籤の始まりって江戸時代でしょ? 僕はまだ生まれてないんだから」
『生きていても知らない例はある』
「君は宵街から出なさ過ぎ」
呆れて溜息が出る。
『富……宝籤のことは理解した。一等はつまり、最上級だな』
「そうだよ。五十万円当たったんだって」
『その人間は負傷したそうだが、傷はまだあるか?』
「傷? 待って、確認する」
若い男は手に傷があったと言っていた。彼に断って手を確認するが、右手の甲にあったのは、もう塞がってしまった傷痕だった。
「……完全に塞がってるよ。痕は残ってるけど」
『そうか。では今からお前の所へラクタヴィージャを派遣する。獣である可能性も否定できないが、その人間を襲った者が発作を起こした変転人だった場合、人間にどのような影響があるか検査をする』
「……もしかして、人間が寄生者に傷付けられたら運が良くなるの……?」
『以前少し話したが、呪いの類かもしれない。お前の所に届いた不幸になる手紙も、寄生者絡みかもしれないな』
「え……その手紙、結構前だよ?」
『私達が気付いていないだけで、人間の中に寄生者の被害に遭った者がいてもおかしくはない。人間は監視していないからな』
「何か面倒なことになってきた気がする……」
『私もそう思っていた所だ。贔屓が人間の街を巡視しているが、虫の発生報告が数件ある。何れも変転人の死体は見つかっていない。その出所が人間だとすれば……』
「この人間にも警戒しろってことだよね……」
『そうだ。報告は後で聞く。ラクタヴィージャに協力しろ』
返事を待たずに狴犴は通話を切った。押し付けられた獏はもう一言も漏らさない携帯端末を見下ろし、灰色海月に返却した。
虫は獣に寄生しないことは確認済みだ。なので変転人にしか寄生しないと思っていた。人間のことなど全く頭に無かった。
然程待たずに部屋にインターフォンが鳴り響き、若い男を制して獏が玄関へ向かう。獏が開けてやると、浅黒い肌に白衣を羽織る少女がトランクを提げて立っていた。
「こんにちは、獏。人間の街に出張して人間の検査をする日が来るなんてね……」
「いらっしゃい、ラクタ。大人しい人間だから従ってくれるよ」
ラクタヴィージャも土足で部屋に上がり、若い男は顔を強張らせる。また知らない怪しい人が増えた、という顔である。だが新しく現れた彼女は彼よりも年下の少女だ。恐れることはない、と自分に言い聞かせる。生きている年数はラクタヴィージャの方が何倍も長いが、そんなことは見た目ではわからない。
「じゃあ人間、そっちのベッドに移って、リラックスして。採血するわ」
「え?」
「私は医者だから。人間を診る機会は無いけど、安心して。人間は脆いってわかってるから」
「どっ、どう安心なんですか!」
「暴れないでね。すぐ終わるから」
「暴れるなら眠らせてあげる」
ラクタヴィージャと獏は安心させるためににこりと笑うが、若い男は不安しか感じなかった。今から体を改造されて知らない星に連れて行かれるに違いない。抵抗しようとしたが、獏が頭部に折り畳み式の杖を翳すと男の意識は溶けるように闇に呑まれてしまった。
――どれくらい眠っていただろう。男が目覚めた時、楽しそうな声が聞こえた。声の方に顔を向けると、動物面と浅黒い肌の少女が楽しそうに笑っていた。一連の出来事は夢ではなかったらしい。残念だ。
「……あの……何してるんですか?」
「おっと、目が覚めたみたいだね。君の作った腕輪を一つ残らず破壊してるんだよ」
「そうですか……腕輪を一つ残らず破壊……破壊!? 明日納品ですよ!?」
「うん」
正確には破壊を行なっているのはラクタヴィージャである。獏は腕輪に触れると痛みが走るため、ラクタヴィージャが代わりに机上にあった鋏で全ての糸を切っている。
「ラクタは腕輪に触れるみたいだから、壊してもらってるんだ」
「獏が触れないのはたぶん烙印の所為よ。私が触ると力が湧いてくるような感じがあるから、烙印が変な力を体に取り込まないよう止めてるんだと思う。この腕輪には間違い無く変な力が宿ってる。でも運が良くなるとは思えない。人間にどんな作用があるかわからないの。だから人間のためにも、散撒かない方がいい。出た芽は仕方が無いけど、刈り取らないと」
「納品間に合わないじゃないですか!」
「どんな作用があるかわからないって聞こえなかった? 最悪死に至ったらどうする? 僕は構わないけど。納品が心配なら雇い主の記憶を食べてあげるよ。君のことを忘れさせてあげる」
「ひっ、化物!」
ベッドの上で後退し、男はできる限り距離を取る。この狭い部屋では充分な距離が取れない。
「――はい、最後の一つ切った」
支える糸を失った玉や飾りがバラバラと落ち、腕輪を入れていた段ボール箱の中で跳ねる。腕輪だった物は皆、元のバラバラの材料になった。
「終わった……」
男は顔を蒼白に、頭を抱えて固まった。
「人間。貴重な例をありがとう」
鋏を置き、ラクタヴィージャはトランクを持って立ち上がる。
「人間の体じゃ虫は育たないみたいね。代わりに行き場の無い虫の力が変に作用して、人間に変な力を与えるみたい。運が良いとか呪いを与えられるとか」
だが人間の中には元から力を持った稀有な存在もいる。変転人だけでなく、人間の体から寄生虫が飛び出すこともありそうだ。
「獏はもう行っていいわよ」
「ん? ラクタは?」
「もう少し、後始末をしておく」
そう言った彼女の表情からは感情が消えていた。明るい色を失った双眸が項垂れる男を見詰める。男は今までの運の良さを清算するように、不運へ落ちることになる。
「……じゃあ行くね」
虫を体内から出して殺せないなら、宿主ごと殺すしかないだろう。男の結末を察する。
「既に寄生された僅かな人間を探して処置に奔走するなんて現実的じゃない。今後そういう人間を増やさないよう贔屓にも報せないと……」
感情が消えたのは一瞬だけで、ラクタヴィージャは頭の中で整理をする。殺すにしても、後片付けが楽なように殺したい。
「……さてと。さっき提案しちゃったし、僕も記憶を食べに行かないとね。あの男の願い事はもう叶えられないけど、僕を動かした代価として少し戴こうかな」
項垂れていた男は慌てて顔を上げて縋るように手を伸ばしたが、獏と灰色海月は灰色の傘をくるりと回して忽然と消えた。残された男はそれ以上足掻くこともできず、バラバラになった腕輪を呆然と見下ろすことしかできなかった。
* * *
薄青い空に、浮かぶ丸いランタン。草花が広がる平坦な野原の向こうに古城の尖塔が見える。
少し離れていただけだったが、こんなに長く花街から離れていたことは今まで無かった。随分と長い時間、遠くにいた気がする。
前を向き、ゲンチアナは歩き出す。城に戻るのはまだ不安だが、フェルニゲシュはもう怒っていないと言う。本当に怒っていないのか、ゲンチアナにはわからない。三十年以上彼の傍で仕えていても、何もわからない。
(頑張らなくちゃ……)
アルペンローゼのように有能ではないゲンチアナは、何倍も頑張らなくては王の秘書など務まらない。
「――アナちゃん!?」
歩き出してすぐに、駆け寄って来る人影があった。疎らに立つ家の陰からよく知った金髪碧眼の青年が手を上げている。
「アイト様……?」
「びっくりしたな……まさか戻って来るなんて」
「まさか……御迎えですか? すみません、私が至らないばかりに……」
「ああ違う違う。そうじゃなくて。……いや、そうか? とにかくタイミングが最悪なんだ!」
「え……もしやフェル様の機嫌がまだ……」
「このまま城に戻るとアナちゃんは殺されるよ! だから暫く身を隠しておいて」
「こ、殺される……!?」
「こっちに来て!」
腕を掴むアイトワラスに引かれるままに、ゲンチアナも駆け出す。フェルニゲシュはやはりまだ怒っているのだ。アイトワラスはゲンチアナを心配して迎えに来たようだ。王の秘書なのに世話を掛けてしまいゲンチアナは自分の未熟さに俯くが、殺されては挽回もできない。これは機会を与えられたのだ。
アルペンローゼのように有能でなくても、せめて世話が掛からない秘書になりたかった。




